横浜町には、毎年北海道に向かう時に必ず立ち寄る道の駅があります。菜の花プラザと名づけられたその道の駅には、自分の身体までが黄色っぽくなってしまうのではないかと思うほど、様々な菜の花に関連するアイデア商品が溢れており、この町が如何に菜の花にこだわっているのかを感じさせてくれます。
しかし、今まで肝心の菜の花畑を見たことは一度もありませんでした。時期が遅かったり、早かったりで、何処にその日本一といわれる菜の花畑があるのかさえも良く知りませんでした。今回の旅では、時期も丁度マッチングしましたので、是非とも町自慢の菜の花畑を見物しようと思っていたのでした。
訪ねたその日は、丁度菜の花フェスティバルが開催されており、その会場へ行きますと、1haくらいの菜の花畑に、大きな迷路などが作られておりました。会場の周りには、迷路のある畑と同じくらいの大きさの菜の花畑が幾つか点在しており、少し離れた東の丘の牧場の側には、発電風車が6基、巨大な羽を風に回して立っていて、北海道に良く似た、広大な農場の風景が広がっていました。菜の花畑は密集して作られているのかと思ったのですが、そうではなく広い町の農地のあちらこちらに点在しているのでした。
ボランティァのMさんに、町の主な菜の花畑を案内して頂くことができました。キャンピングカーにナビゲーターとして同乗して頂き、道案内の間に、菜の花の栽培に関する様々な知識や情報を教えて頂きました。町の中の菜の花畑の見物は、直ぐに終わるのだろうと軽く考えていたのですが、横浜町はとんでもない広さでした。面積が127k㎡もあり、これは私の住んでいる守谷市の3.5倍もある広さです。恐らく農地だけの比較なら10倍以上になるのではないかと思います。走り終えて元の場所に戻った時はすっかり日が暮れて、走行距離も40kmを超えていました。
黄金(こがね)色の菜の花を、これほど楽しんだことはありませんでした。Mさんのお話では、前年の9月上旬に種を播き、8ヶ月かかって花を咲かせるということです。ボランティアの皆さんの活躍も相当のもので、地元の子供たちにも参加して貰って、畑作りや種蒔きに汗を流しているとのことでした。菜の花の作付けが年々減少するのは、農家の人たちから見れば、収益性が悪くて赤字が必至の菜種よりも、別の作物を選んだ方がずっと家計の助けになるという背景があり、現在までは補助金などがあって何とかやって来れたけど、これから先はかなり厳しくなるということでした。Mさんたちは、そのような農家を訪ね回って、菜の花の継続植え付けをお願いしておられるのでした。
Mさんたちは、単に菜の花の作付けや生育に関わるだけではなく、収穫後の搾油や販売に至るまで、アイデアを出し合って、今まで培ってきた横浜町の菜の花の存在を、何とか残してゆきたいと考えて頑張っておられるのでした。Mさんは、私どもよりは一回りは若い女性の方ですが、菜の花にかける情熱には胸を打たれるものがありました。この町の菜の花畑の全てを熟知されており、その個々の畑の歴史までもが頭の中に入っているほどなのです。
この地の菜の花は、高級品種で、昔の菜種油に入っていた何とかいう身体に悪い成分は一切含まないものだそうで、それゆえなのか単位当りの収量も少ないため、経営的には厳しいという話でした。そういえば、菜の花の色が、他の土地で見たものとは少し違うようです。黄金色なのですが、透明感があるのです。夕日に輝くその色は何ともいえないものでした。油の方も、Mさんのお世話で1本買わせて頂いたのですが、昔の菜種油をイメージしていたのとは全く違って、サラッとした透明感のあるものでした。これでは天ぷらなどに使ったのでは勿体ないなと思った次第です。家に持ち帰り、サラダなどに滴らして少しずつ大切に味わっています。
私たちは、菜の花を花として鑑賞するだけで、良いとこ取りだけをしているのだなあ、としみじみ思いました。花を育て、花を活かして生きて行くためには、決して表には見えない無数の努力の積み上げがあるのだなと思いました。そのお陰を含めて花の美しさを見て、味わってゆこうと思いました。
明日とあさっての両日ブログを休みます。明後日から待望の北海道への旅に出かけますので、その準備のため、今回の旅の話は、これで終わりとします。旅の間は、ブログの投稿は携帯電話から行ないます。コメント等を頂いても返信などができませんので、悪しからずご了承下さい。