山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

抱き返り渓谷のこと

2007-06-26 05:17:34 | くるま旅くらしの話

 今回は、妙な名前の渓谷の入口まで行ったという話です。

 角館から盛岡に向う国道46号線を走っていると、右手に「抱き返り渓谷」という案内板が目に入ります。いつも、ここには寄らずに通過していました。というのも渓谷というからには、道が細くなって、車の離合が難しくなりはしないかという心配があったからでした。しかしその妙な名称は、四国の大歩危・小歩危や越後の親不知などと同じようにある種の興味・関心を惹くものでした。それで、今回は思い切って行ける所まで行ってみようと思い、R46を右折してその渓谷に向ったのでした。

 道路通行の心配は全く無用でした。路線バスも走っており、その終点には広い駐車場、キャンプ場などがあり、そこに車を停めれば渓谷の春夏秋冬を存分に楽しめるようになっていました。訪ねたのは、平日でしたので新緑のシーズンではあっても来訪者はほんの少ししかありませんでした。

駐車場の直ぐ傍を白い泡を吐きながら渓流が流れています。かなりの水量の急流です。今時の東北各地の川は雪解けの水などで、どこも豊かな水量を保って流れているようです。実はこの川が、何という川なのかも知らなかったのでした。否、知ってはいたけど、数日前中仙町(大仙市)の八乙女公園に行く途中に渡った橋の下を流れる玉川だとは気づかなかったのでした。

 玉川は、雄物川の支流で、大曲辺りで合流する川です。その上流は、八幡平の彼の有名な玉川温泉のある辺りらしいです。どうも土地鑑がないため、地図を見ないと現地に見る川は判別ができません。地図を見て初めて目前の川が玉川と知り、なあんだとなった次第でした。

 それにしても何故抱き返りなどという妙な名前がついているのだろうと疑問は消えませんでした。付近を散策すると、幾つかの石碑が建っており、その中の一つに「玉川先賢彰徳碑」というのがあり、その昔玉川は火山から湧出する毒水のために魚が一匹も棲めない川で、農耕灌漑用にも不適の水だったものを、私財を投げ打ってその浄化、利用の実現に貢献した人たちを讃える、大曲・仙北校長会の建てたものでした。明治以降になって初めて安定した活用が可能となった川だったのだということを知りました。同時に最近岩盤浴で有名な玉川温泉というのは、その昔の灼熱の毒水が発生する傍にあるのだということも、そしてそのような毒の力が薬にも転化するのだということを不思議に思いました。

 顕彰碑はこの他にも秋田おばこの開拓・普及者である佐藤貞子という方を讃えるものなどがありました。しかし、これらの顕彰碑が何故この地に建てられているのかはわかりませんでした。ま、そのことは措くことにしましょう。

 少し先に神社のようなものがあり、そこへ行って見ると「抱返神社」とありました。そして、その由緒書をみて、抱き返りの名称の由来が解ったのでした。それによりますと、例の前九年の役で安倍貞任を厨川の柵に攻めようとした源義家が、玉川筋に進軍しようとした時、この地で川の流れの静かなることを願って、持仏を祀って祈願したということです。そして戦に勝利を収めて、再びこの地を訪れた義家は、その持仏を懐から取り出し、堂宇を建ててそれを祀って感謝の念を表したという話があり、懐に抱いていた持仏を持ち還って祀ったという所から、懐き還り神社 → 懐還神社と呼ばれる様になり、明治になって更に抱返神社と改称されたということでした。なるほど、してみると抱き返り渓谷というのは、もともとは八幡太郎義家の伝説に由来しているのでした。

 ところで、肝心の渓谷ですが、散策を始めて直ぐ、現在は遊歩道の補修工事中で、全面交通止めとなっていたのでした。今日の人出が少なかったのは、平日ということだけではなく、この所為でもあったようです。清流が巌を砕き、新緑が渓谷全体を染めて広がり、ハイキングには絶好の場所でしたが、岩石などの崩落の危険があるということなので、今秋の補修完了時までは残念ながら、歩きは諦めなければならない状態となっていたのでした。秋になると、ここでは全山錦秋の景観を楽しむことができるのだと思います。機会を作って、是非再訪してみたいと思っています。 

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