いつものように散歩をしながら、今日は木々たちの芽を覗いてみました。冬の間は、植物たちの全てはその生命の活動を停止しているように見えますが、それは見かけだけであって、生きている証はいろいろなところに示されているように思います。その代表的なものが芽だと思います。
植物というのは、実に不思議な存在で、命がどこに宿っているのかよく解りません。もっとも動物だって生命の証明が何なのかといわれたら、解らないのは同じだと思いますが、例えば、脳だとか心臓だとかを言い当てることが可能だと思うのですが、植物ときたら幹なのか、葉なのか、それとも根なのか、見当もつきません。特に土の中に隠れている根などについては、私にとっては未知の世界です。
その中で明らかなのは、芽の存在です。芽にはどのような植物であっても、生きている証を感じます。芽というのは、考えてみればこれまた不思議なもので、私たちが芽と呼んでいるのは必ずしも種を前提としているものだけではなく、生長を続けている植物の随所にも存在するのです。播いた種から勢い良く芽が生えてくるのを見るのも元気づけられますが、樹木のじっと冬を耐えている枝先に、しっかりと春を待つ生命の証である芽を見るのもなぜか心強いものです。今日はそれらの幾つかを紹介したいと思います。
1.トチの木
トチの木は和名ですが、ヨーロッパではマロニエと呼ばれ、フランスなどでは街路樹として目立つ存在です。日本のトチの木とマロニエとは少し違うようで、20年ほど前ヨーロッパを廻った時、スイスのジュネーブで拾ってきた実を育てたものが、田舎の土地に今も花を咲かせていますが、それは日本のトチの木よりも花が美しいように思います。この写真のものは、守谷市の北守谷地区にある全長約2kmの遊歩道の傍に植えられているもので、今頃の季節はこのような芽を冬の陽光にキラキラ光らせています。
2.コブシの木
守谷にはコブシの木が沢山植えられており、春先の白い花と秋の拳状の実が散歩を楽しませてくれます。冬の前に葉を落とす頃からもう来春のためにこのような花芽を膨らませています。
3.ユズリハの木
ユズリハも守谷の中では結構目に付く木の一つです。ユズリハというのは、譲り葉のことで、古い葉がその使命を終って、新しいと交替する時に、一斉に葉を落とすのでそう呼ばれているとのことですが、実際には必ずしもそうではなく、頑張っている古い葉も目立つのは、どこの世界も同じなのかも知れません。この写真のものは、勿論新しい葉となる芽であり、春になったら、交替をせがむ存在に生長するのでしょう。
4.アラカシの木
樫の木にはアラカシとシラカシがありますが、一般的にはアラカシは関西に多く、関東はシラカシが多いようです。でも守谷の遊歩道脇に植えられているこれは、アラカシでした。シラカシは木の肌が比較的すべすべしていますが、アラカシはごつごつしています。どんぐりもアラカシは小さくシラカシの方が大きめの感じがします。この芽は葉のもので、春になると大きく育って古い葉と入れ替わるのはユズリハと同じようです。
5.泰山木
これも遊歩道脇にある木の一つです。泰山というと中国をイメージしますが、この木はアメリカ合衆国の南部に多いらしく、意外な感じがします。ピカピカの堅い葉っぱに混ざって巨大ともいえる純白の花を咲かせますが、それはそれは見事なものです。その花が見られる季節が待ち遠しいのですが、この写真のは花芽ではなく、新しい葉となるもののようです。木の大きさに比べて、割と小さい芽なのに驚かされます。
6.アシビの花
アシビは馬酔木と書き、馬がこれを食べるとその毒分でふらつくようになるとか。それでこのような命名がされたとのことですが、春先の日溜まりに咲く花はなんともいえない可愛らしさがあり、好きな花の一つです。今はまだ蕾の状態で、温かさの来訪を待ち続けているといった感じです。
7.ついでの写真
最後に哀しい一枚を。街路樹として植えられたため、丸坊主にされたケヤキの木です。恐らく今回が初めてではなく、もう何回かこのような目に合わされているのではないかと思います。街路樹は必要だが、葉っぱは落とすな、枝は繁らせるなというのが人間どもの要望(というよりも強制)であり、樹木にとっては真に受け入れがたい要求だと思います。このような姿はこの木に限ったことではなく、全国どこでも見られる現象なのかもしれません。それが当たり前というところに人間の果てしもない驕りが見られるように思うのですが、これは私のエエカッコなのでしょうか。
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