<3回に分けて、小生の老世代小論を掲載します>
1. はじめに(「老」についての現状認識)
「老」というものを少しずつ自覚するようになってから、かなり時間が経ちました。この間、ずっと自分が今辿っている「老」とは何なのか、これをどう生きなければならないのか、などということについて考え続けて来ました。個人の立場でも又社会という視点でも「老」というのは、何の思いも持たぬまま自然の成り行きに任せておけばいいのか、という疑問がずっとくすぶり続けて来ました。
今、そしてこれからも、老人の溢れる世の中となりました。65歳以上の高齢者といわれる人口は、すでに3100万人を超え、来る2042年にはピークを迎え、その数は3800万人を超えると推計されています。これは全人口の3分の1を超え、何とその占有率が34%を超えてしまうのです。明治に至るまでの江戸時代のわが国の総人口が3000万人ほどだったことを考えると、この数字は恐るべきものであり、明治以降200年足らずの間にこの国が老人で埋め尽くされてしまうという現象を示しています。
シルバーデモクラシーなどということばが生まれて来ているようですが、果たして今までのデモクラシーの考え方でこの国が成り立つのか、という疑念も生じてきています。老人の一人として、既得のデモクラシーが壊れることのないように願うのは当然なのですが、しかし、そのためにこの国の経営が成り立たなくなり、子や孫の未来に暗雲を投げかけるとしたら、老人の勝手な我欲を満たすだけの願望には問題があると考えざるを得ません。さりとて生産への貢献が閉ざされている老人世代には、既得のデモクラシーへのこだわりを無くすことは困難で、自己保持のためのシルバー民主主義は現存することになりそうです。
シルバー民主主義の問題点は、選挙に絡む政治家の思惑が、老人世代の安定した票を獲得するために、老人世代に媚びる形で老人世代が生み出す社会的コストを扱いかねているところにあるということなのでしょうが、果たしてそのようなことだけなのかどうか、老人を生きる世代の一人として疑問を感じます。その最大のものは、老人が己の社会的責任を自覚しておらず、果たそうとしていないということではないのかと密かに思っています。そして、政治家も社会もそのことを放置して、あるがままの成り行き任せにしているのではないかという問題です。老人の社会的責任を促すようなことをしたならば、票が崩れて政治家が困惑するというような悪循環が、却って国の未来と老人の未来を危うくしているような気がしてなりません。(これは己の首を自らの手で絞めるような発想なのですが、重要なポイントと思えるので思いきって取り上げました)
老人は「老」をどう生きるべきかについて、もっともっと賢くなる必要があると思います。加齢のままに幾つもの病を取り込み、病に為されるがままに医療に依存し、自助努力を忘れている老人の如何に多いことか。最も多いのは、そのことを自覚しながら流れのままに昨日と同じことを繰り返している人の存在です。この現状の根底には、「老」をどう生きるかについての自覚と行動の貧困とそれを許している環境があるように思われてなりません。
この問題は、現代社会とそれを生み出してきた過去の様々な要素が複雑に絡み合っており、突き詰めた個人のあり方の問題だけではないことは承知していますが、それにしても「老」を生きる人間としての責任の欠如は、拭い去れるレベルではないように思います。老人のもたらす社会的コストを減らし、正しいシルバーデモクラシーを醸成するためには、何よりも老を生きる個々人が老人としての社会的責任を果たすことが重要ではないかと考えます。
2. 老人の社会的責任とは何か
老世代の社会的責任などという話を持ち出すと、我々はリタイアするまでの長い間を、家族と世の中のために尽くしたのだから、もう社会的な責任など何も負わされる話ではない。医療などの社会保障制度の恩恵を受けるのは当たり前のことだ、と声を荒げる人が圧倒的に多いのではないかと思います。確かにその通りであり、私自身もそれを否定するつもりはありません。しかし、それに甘んじるだけで本当にいいのでしょうか。老人といえどもれっきとした社会の一員なのですから、何らかの社会的責任というものがある筈です。社会保障制度にすがって生きるだけで本当にいいのでしょうか。
このことについてあれこれと思いを巡らしました。一体、老人の社会的責任とは何なのか。その結果辿り着いたのは、「老人世代は、加齢につれてそれに相応しい健康を確保し、活き活きと生きることにチャレンジしなければならない」ということでした。これは一個人としての理想の姿でもありますが、世の中の老人世代の皆がこれを志向し、その実現に取り組むならば、それは一個人だけのことではなく社会全体のコストを大幅に下げることにつながり、現役や若者世代にも大きく貢献することになります。
例えば、人口の3000万人を占める老人世代が、健康管理に真剣に取り組み、年間の医療費を一人月1千円少なくする努力が実ったとすると、それだけで年間3,600億円の国家予算を若者世代に回すことができるのです。別の言い方をすれば、老人世代が元気で活き活きと暮らす時間を増やすことができれば、その分だけ社会的コストは削減され、世の中に貢献することになるのです。
老人世代にとって、病と死は身近で切実な問題ですが、これを為す術もなく成り行き任せにしているのではなく、しっかりと老計、死計を立て、その実現のために毎日を確実に生きてゆくことがこの世代に課せられた社会的責任なのだと思うのです。老計とは如何に老をつくり上げ、過ごしてゆくかということであり、そして死計とはその結果として、己の人生をどのように終えるかということです。この二つは不即不離の関係にあり、現実としての重要性は、老計の中にあるように思います。老計こそが老人世代の最も重要な課題であり、それを実現・実行することが老人世代の社会的責任を果たすことになるのです。そして、それは前述の「老人世代は、加齢につれてそれに相応しい健康を確保し、活き活きと生きることにチャレンジしなければならない」という生き方につながるのです。私は老人世代の社会的責任をこのように考えています。
3. 「人生五計」のこと
前項で、「死計」とか「老計」ということばを用いていますが、このことについて少し述べます。この人生計画の考え方は、南宋の官吏だった朱新仲という人の唱えたもので、人生をよりよく生きるためには、5つのはかりごと(=計画)が必要だということで、それは次の5つであるとされています。
① 生計
② 身計
③ 家計
④ 老計
⑤ 死計
この五計の解釈にはいろいろあるようですが、私は昭和時代の陽明学者、正岡正篤先生に倣って、次のように理解しています。
生計とは、如何に生きるべきかを考え、為すこと。
身計とは、如何に身を立てる、すなわち社会に対処するかということ。
家計とは、如何に家庭を営むかということ。
老計とは、如何に齢をとるかということ。
死計とは、如何に死すべきかということ。
これらのすべては人の一生に係わる重要なテーマですが、老の世代に於いて特に重要なのは、「老計」と「死計」であることは明白です。そして、私の理解としては、前述のように、老計と死計とは別々のものではなく、これらは不即不離の関係にあり、「老計の中に死計がある」と考えます。すなわち、この二つは同時進行であり、老計をどう考え、どう実践するかが直接どう死ぬかに係わってくるというということなのです。
(以下次回へ)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます