花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

物語喪失の時代

2016-08-15 21:46:25 | Weblog
 少し前になりますが8/8の朝日新聞朝刊の文化欄に写真家・星野道夫さんに関する記事が載っていました。アラスカで写真を撮るうち先住民たちに伝わる神話に惹かれていった星野さんが、著書「長い旅の途上」の中で語っている次の言葉が紹介されています。「風景を自分のものとし、その土地に深くかかわってゆくために、人間は神話の力を必要としていたのだ。それは私たちが、近代社会の中で失った力でもある。」
 ここで言う「神話」は「物語」に置き換えても良いかもしれません。アラスカの先住民が環境に溶け込んでいくために神話を必要としたのと同様、私たちも日々の暮らしの中で自分を見失わないために物語が必要なのではないかと思います。もちろん、物語とは全くの作為によるフィクションを指すのではなく、毎日考え行動してきた積み重ねからだんだん形となった自画像を意味しています。
 星野さんが「近代社会の中で失った力でもある」と言ったことは、今の時代にも当てはまります。いや、星野さんの時代以上に力を失っているのかもしれません。それは私たちがかつてない激しい変化にさらされていることに起因しています。目まぐるしい変化に次々と対応しつつ、短期的な結果を求められる現在の社会では、自分自身と自分を取り巻く環境との関係をじっくり練り上げていくことや、時間を掛けて自らを磨き上げていくことが難しくなっていると思います。将棋に例えるなら、追いまくられるように早指しばかり求められ、長考する余裕が与えられない、そんなバランスを欠いた状況が今ではないでしょうか。これまでの人生の積み重ねに糸口を探すことが許されず、間髪いれない迅速な対応、そして常に新しいこと、その内容や意味よりも今までと違っているかどうかの新しさが求められるあまり、ややもすると変わり身の早さのために過去とのつながりを切り捨てることが時代の要請であるかのような観があります。連続性を持たない条件反射的な営みからは、自画像も物語も生まれようはずもありません。人生は断片化されたリアクションとなり、物語が生まれる土壌がなくなっています。うたかただけが肥大し、当然うたかただけに次の瞬間には消え去る、結果として、そんな時代の相の下に生きていることが私たちに捉えようのない不安感をもたらしているような気がします。
 朝日新聞の記事には、星野さんのこんな言葉もありました。「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。」(「旅をする木」から) 時の流れの中でこころの錨を下し、何かに深くかかわり、かけがえのなさを感じることが大切であると星野さんは教えてくれていますが、ではそのためにどうすれば良いかは私たちひとりひとりに与えられた宿題になるかと思います。