子どもに「読んでみたら」と薦められ大崎善生著「聖の青春」(角川文庫)を読みました。「聖」は西本聖の「たかし」ではなく「さとし」と読みます。この本の主人公である村山聖さんは、幼くしてネフローゼという腎臓の病を得、生涯病気と闘うことになります。作者の表現を借りれば、その村山少年の心の翼となったのが将棋であり、舞い上がるべき大空が名人位でありました。村山少年は入退院を繰り返しながらも将棋の研鑽を積み、青年になった頃には「東に天才羽生善治あらば、西に怪童村山聖あり」と称されるまでになります。ところが、翼を折らんとする病魔は彼のからだを徐々に蝕み、将棋界のトップテンであるA級棋士まで登り上がり、名人への挑戦権が射程内に入ったところで夭逝してしまいます。享年は二十九でした。最後の最後まで将棋への執念を失わず、がんの手術をしてひと月くらいのとき、医師の止めるのも聞かず対局に赴くあたりは、「あしたのジョー」思わせるものがありました。
ひとの一生をみるとき、ふたつの見方があると思います。与えられた天命から毎年ひとつずつ引き算をして、零になった時が死であるという見方。かたや、毎年ひとつずつ足し算をしていき、死んだ時が天命とも考えられます。前者の場合、ひとは土に還り、後者では天に昇ると見ることができるかもしれません。村山さんは、自分がそう長くは生きられないだろうと感じ、「早く名人にならねば」と自分の持ち時間を常に意識しながら将棋に打ち込んでいました。それからすると村山さんは土に還ったと言えるでしょうし、自身も意味は違うかもしれませんが「自分は土に還る」と言っていました。しかし、村山さんが生きた密度の濃い時間を思うと、一年で足し上げる数は普通人の何倍もあり、29年間ではありますがはるかな高みに至ったと考えたくもなります。私は、「天に昇っていった」というイメージが、この本に描かれた村山聖さんの姿にふさわしいと思います。