昨日の朝日新聞朝刊の3面に文春新書の広告が載っていました。「ガンダムと日本人」は今月の新刊の1冊で、書名の横に「永遠の名作アニメと戦後日本の歩み。京大高坂正堯門下生による渾身のガンダム論」と書いてありました。これを見た時、「えっ」と違和感を覚えました。「京大高坂正堯」と言えば、もう故人となられましたが、高名な政治学者です。その門下生がガンダム論を書いたのだなとは分かるのですが、何故広告の中に「高坂正堯門下生」と入れなければならないのか、その理由が全く分からず、また、入れることによる広告的意図が見当もつきませんでした。
先ず、高坂正堯先生とガンダムの間にどんなつながりがあるか、全然想像出来ません。例えば、「野村克也門下生による配球術」と言えば、誰でもすんなり本の内容をイメージ出来ると思いますが、高坂ゼミで学んだこととガンダムとがどこでどうつながるのでしょうか。
次に、単に著者のプロフィールのつもりで「高坂正堯門下生」と入れたのであれば、それはあまり意味がなさそうです。「元キャビン・アテンダントによるおもてなし論」とかであれば、経歴と本の中身の親和性が感じられます。あるいは、「ヤンキーあがりによる教育論」なら 、ヤンキーと教育が真反対なので、何か常識破りの面白いことが書いてあるかもと期待感が持てます。ところが、「高坂正堯門下生によるガンダム論」では、木に竹を接いだと言うか、「ガンダム論」に対して「高坂正堯門下生」が何のスパイスにもなっていません。ひょっとすると、高坂ゼミ出身者には刺さるかもしれませんが、それで部数が飛躍的に伸びるものでもないでしょう。
相当昔のことですが、芥川賞を獲った庄司薫さんは、やはり高名な政治学者である丸山眞男先生の門下生であることが話題になりました。この場合、庄司さんの芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、学生運動が時代背景にある小説で、丸山眞男先生の門下生が、東大紛争のあおりで東大を受けられなくなった受験生の話を書けば、それはかなり興味津々となります。でも、ガンダムは、どちらかと言えば、ガンダムのメカ、メカしたところにファンが惹かれた訳で、政治学的な要素によってではないので、高坂先生の名前が出てきても、読者を刺激するところはほとんどないと思われます。
新聞に広告を出すとなれば、それ相応の掲載料が掛かると思います。その意味では、広告中のほんの1行と言えども、そのスペースにはお金が掛かっています。同じお金を使うのなら、そして本の部数を伸ばしたいと思うのなら、もっと本の内容を訴求する表現にしたら良いのにと思いました。
先ず、高坂正堯先生とガンダムの間にどんなつながりがあるか、全然想像出来ません。例えば、「野村克也門下生による配球術」と言えば、誰でもすんなり本の内容をイメージ出来ると思いますが、高坂ゼミで学んだこととガンダムとがどこでどうつながるのでしょうか。
次に、単に著者のプロフィールのつもりで「高坂正堯門下生」と入れたのであれば、それはあまり意味がなさそうです。「元キャビン・アテンダントによるおもてなし論」とかであれば、経歴と本の中身の親和性が感じられます。あるいは、「ヤンキーあがりによる教育論」なら 、ヤンキーと教育が真反対なので、何か常識破りの面白いことが書いてあるかもと期待感が持てます。ところが、「高坂正堯門下生によるガンダム論」では、木に竹を接いだと言うか、「ガンダム論」に対して「高坂正堯門下生」が何のスパイスにもなっていません。ひょっとすると、高坂ゼミ出身者には刺さるかもしれませんが、それで部数が飛躍的に伸びるものでもないでしょう。
相当昔のことですが、芥川賞を獲った庄司薫さんは、やはり高名な政治学者である丸山眞男先生の門下生であることが話題になりました。この場合、庄司さんの芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」は、学生運動が時代背景にある小説で、丸山眞男先生の門下生が、東大紛争のあおりで東大を受けられなくなった受験生の話を書けば、それはかなり興味津々となります。でも、ガンダムは、どちらかと言えば、ガンダムのメカ、メカしたところにファンが惹かれた訳で、政治学的な要素によってではないので、高坂先生の名前が出てきても、読者を刺激するところはほとんどないと思われます。
新聞に広告を出すとなれば、それ相応の掲載料が掛かると思います。その意味では、広告中のほんの1行と言えども、そのスペースにはお金が掛かっています。同じお金を使うのなら、そして本の部数を伸ばしたいと思うのなら、もっと本の内容を訴求する表現にしたら良いのにと思いました。