映画・アバターの人気が盛り上がっていた頃に新聞で読んだのですが、アバター鬱なるものがあるそうです。アバターを観た後、映画の世界とは一転、味気のない現実が嫌になり、鬱状態に陥るアメリカ人がいると書いてありました。アバターを観るのは、何だか竜宮城へでも行くようなものなのかと思わせる記事でした。この記事に興味を覚えて劇場へ足を運び、アバターを観た感想では、「なかなか面白い娯楽映画ではあるけれど、まさか鬱にはならないだろう」、でした。確かに、映像の臨場感は素晴らしかったですが、それだけで映画の世界に没入してしまう訳ではないと思います。つまり、我を忘れるくらい虚構に同化させるには、トータルとしての出来栄えが足らなかったのではないか、ということです。先ず、アバターは火の鳥の黎明編に似ています。叩きつぶそうと思っているグループにスパイとして潜入しているうちに、そのグループの女性と恋愛関係になる点や、神聖なる超自然的なものが人間たちを左右する点(アバターではエイワや魂の木、火の鳥ではもちろん火の鳥)に、映像に目を見張らせられながらも、「こんな筋は他にもあったなぁ」と思いつつ映画を観ることになりました。それから、地球人がパンドラの人たちを武力で圧倒しようとしているところは、アメリカのイラク介入そのままです。また 、傷ついた身体の治療費を得るためにパンドラへやって来る主人公は、堤未果氏の「ルポ 貧困大国アメリカ」(岩波新書)に出てくる大学の学資を稼ぐために軍隊に入る若者の相似形です。話題の3D映像にしても、3D効果が現われやすい画面にしなければならないので、アップもしくはロングの画面のどっちかの繰り返しで、見続けているうちに単調さを感じてしまいました。最新技術を生かすことが、逆に自らを縛っている感がありました。そんなこんなで、夢物語の虜になるということもなく、映像の迫力には驚きはしたものの、割と醒めて観ていたので、映画館を出た時、巷の風景が色あせて見えることはありませんでした。(レイトショーで観たので、有楽町のネオンがキラキラしてたくらいです)