先日、あるところである先生のお話を伺う機会がありました。お話のタイトルは「グローバリゼーションと日本社会の合理性」。そのお話の中で非常に印象に残ったのは、話の導きの糸として紹介された竹中平蔵さんのコメントと、それに対して先生が提示された疑問点でした。竹中さんは雑誌「フィナンシャルジャパン」(08年7月号)のインタビュー記事の中でこう述べているそうです。「日本も今後は、キャリアディベロップメントをしたいという人が増えるでしょう。そういう人たちはメイドさんに家事をしてほしいと思うはずです。しかし、今の日本では雇えません。そのための枠組みをつくる必要があります。」 この竹中発言について示された先生の疑問点は、次のようなものでした。「日本社会の合理性は、竹中さんが言うような道を選んでこなかったのではないか。つまりメイドさんを作らない、あるいはメイドさんを使って自分がキャリアディベロップメントをするような社会を目指さなかった。逆に、メイドさんのような職業や、その職業に就く女性たちを解放してきたのではないか。」 これを聞いた時、私の頭に浮かんだのは、「道徳形而上学原論」でカントが言った「人格は手段ではなく目的だ」という箇所でした。これを読んだ大学の頃以来、「目的とはそれ自体に価値があるように、人もその存在自体に価値がある」と思っています。それからすると、竹中さんの「キャリアディベロップメントのためにはメイドさんをつくる枠組みが必要だ」の立場は、自分の向上のためには人を踏み台にしても構わないと言っているようなもので、それは人を「目的」として扱うカントとは立場を異にするものだろうと思います。しかしながら、メイドさんと奴隷は一緒ではないし、職業形態のひとつであり、メイドさんだってれっきとしたサービス業ではないかとの反論があるかもしれません。でも、竹中さんが推進してきた路線がもたらしたものは、一旦メイドさんになったら最後、もうその人にはキャリアディベロップメントを目指す道は閉ざされてしまう、今の日本の格差社会の現状です。それは、連日新聞やテレビで報じられる派遣労働者に関するニュースを見れば明らかです。人にはそれぞれ能力の差があるだろうとか、努力している人は報われて当然じゃないかとか、競争が無ければ進歩も無いだろうとか、そういった声は充分承知した上で、でもあえて言うならば、そもそもキャリアディベロップメントが許されない人、あるいは澄ました言い方を止めてもっと平たく言うと、ものとして扱われている人、雑巾のような扱いを受けている人、そのような人たちが実際に存在していることを否定しない社会なんて、私には民主的な社会だと思えません。先生がおっしゃる「メイドさんを使って自分がキャリアディベロップメントする社会を目指さなかった」日本社会の合理性にこそ、私はサステナブルな(sustainable:持続可能な)日本の未来があるように思えてなりませんでした。