花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

サバイバル登山家

2006-07-08 17:49:40 | Book
 服部文祥著 「サバイバル登山家」(みすず書房刊)を読んだ。この本には、ケモノのように自然に糧を求めるという意味の、そしてもうひとつは危険地帯を生きて切り抜けるという意味の、登山における2つの意味でのサバイバルが記されている。食料は米と若干の調味料だけを持ち、岩魚を釣りながら谷を遡り、ある時は尾根を越え、大井川源流地帯から仙丈岳にかけて南アルプス南部を踏破した記録や、藪を漕ぎ谷を遡下降しながら、南ア同様に食料を調達しつつ日高山脈を南下し襟裳岬まで歩き通した記録は、前者にあたる。かたや、雪の後立山連峰を横断し、冬黒部を渡り、記録的な豪雪に襲われながら薬師岳を越えたり、あるいは剣岳八ッ峰の峻谷険壁を攀じったりの章は後者である。
 服部氏の山行は、ヒマラヤ登攀のような派手さはないけれど、七大陸最高峰なんかよりは全然過激である。地味で過激な登山である。特に、後立-黒部-北アルプス北部を冬季につなげるなんてかなり挑発的だ。けれども、誰もがおいそれと乗れるものではない。凄いサバイバル(生き残り)をしたなぁ、と思いながら読んだ。
 その冬季サバイバル山行記の最後の箇所に、「冬季登攀は不合理な目的のために合理性を積み重ねていく不思議な行為である」とある。成程と思う一方、合理性を積み重ねること自体が目的となることも時にはないだろうか、と思ったりした。さらには、合理性の積み重ねの結果を試すために、山行を企てることはないだろうか。例えば、長期縦走に合理的と思えるタクティクスを考えついたので、それを検証したくて大きな山域のロングルートを探してみるなんてことはありそうである。または、難易度の高い岩壁をよじ登るためにトレーニングを積むのが主で、難しい壁にとりつくのはトレーニングの結果を示さんがため、てなことにいつの間になっていることはあると思う。そうなると、登山そのものは一連の営みの句読点に過ぎないと言えるかもしれない。でも、おそらくそのあたりのことはどうでもよく、服部氏が言う不合理と言うか、非合理と言うか、結局はそんな思いに突き動かされて人は山へ行くのであろう。「そこに山があるからだ」と言うマロリーの言葉は、敢えて合理的な答えを求めようとする人たちに対して「無粋なことを聞くもんじゃないよ」とたしなめる意を込めたものだったのかもしれない。そんなことを考えながら、頁を閉じた。