花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

石川啄木の現代性

2016-05-21 08:49:07 | Weblog
 昨日の朝日新聞朝刊に「啄木 うそと矛盾に現代性」と題するドナルド・キーンさんのインタビュー記事が載っていました。「啄木は、私たち現代人と似ているのです」と言うキーンさんは、啄木の現代性についてふたつの矛盾を挙げています。
 ひとつめは相異なる気持ちの矛盾です。キーンさんは啄木の「ローマ字日記」を引用しながら次のように言っています。「『なぜこの日記をローマ字で書くことにしたか? なぜだ? 予は妻を愛してる。愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ』。啄木はローマ字でそう記し、買春を繰り返す日々を赤裸々につづっていく。『妻を愛してる』と言いながら売春宿に通い、それを克明に日記に書きながら『読ませたくない』とローマ字を使う。この矛盾こそが、啄木の現代性なのだ」。
 「ローマ字日記」からキーンさんはふたつめの矛盾を読み取っています。「日記にはとてもいい紙が使われている。字もとてもきれい。心のどこかに、これはいつか読まれるべきものだという気持ちがあったのではないでしょうか」。「読まれたくない、読まれるかもしれない。自分に対するうそがあり、矛盾がある」。この、うそ、矛盾は「現代人の特徴の一つ」だそうです。
 私はさらにもうひとつの矛盾があるのではないかと思います。「ローマ字日記」を書いた頃、啄木は20歳台前半でした。青年よ大志を抱けではありませんが、啄木は自分が何者であるかを示さんとし、特に文学において何事かを成さんと思っていたことでしょう。しかし、己の思いとは裏腹に日々の生活は赤貧洗うが如しでした。函館にいる妻子に仕送りをすることも東京へ呼び寄せることもままならず、電車賃がないため会社を休み、友人から借りた時計を質に入れ、その時計を返してくれと言われ自殺を考える有様です。志と現実の矛盾、これが青年啄木のこころを切り裂いたことは想像に難くありません。啄木の作品に現代性を与えるのみならず、時代を超えるものにしたのは、みっつめの矛盾であるやり場のない葛藤も力を貸したのではないかと思います。