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『SF超入門』

 『SF超入門』

「これから何が起こるのか」を知るための教養

管理社会・未来の政治

すでに浸透しつつある「マイルドな管理社会」の末路

(ビッグ・ブラザー)率いる党が支配する全体主義国家の、極端な管理・監視社会を描いた『一九八四年』を筆頭に、SFの中では「未来の政治」が何パターンも提示されてきた。一日に発話可能な語数が女性のみ100語以下に制限され、女性の権利が大きく制限されているアメリカを描いたクリスティーナ・ダルチャー『声の物語』。らゆる書籍の所持が禁じられ、本が燃やされ、思想統制が行われるようになった未来を描くレイ・ブラッドベリ『華氏451度』本稿でこれから紹介する作品以外にも、注目すべき作品は数多く存在する。

管理社会というキーワードは、現代において重要性を増している。というのも、インターネットやAIの発展により、これまでSF作品の中で「未来のテクノロジー」と共に描かれてきた「もしも」が、現実のものになりつつあるからだ。

2013年には、アメリカ国家安全保障局(NSA)およびCIAの元局員であったエドワード・スノーデンが、米国内で行われている各種監視活動についての暴露を行った。そこで明かされた事実―「PRISM」と呼ばれるインターネット情報の検閲システムによって、一般市民を含むユーザーのメールやWeb検索、チャットなど多岐にわたる行動が傍受されていること。また、そうした活動にはベライゾン、マイクロソフト、アップルといった巨大企業が関わっており、アメリカは情報収集を国内のみならず中国や同盟国である日本やフランス、イツなどに対しても行っていることーは、世界に衝撃を与えた。

さらに近年、監視国家としての存在感を強め、管理社会体制を拡大しているのが中国だ。政府による弾圧が激しくなっていると報じられる新疆ウイグル自治区では、最先端のテクノロジーを駆使した監視体制が敷かれている。アメリカのジャーナリスト、ジェフケインによる『AI監獄ウイグル』(新潮社)では、150人以上のウイグル人難民、政府関係者、元中国人スパイらに取材を行い、その実態を報告している。

新疆ウイグル自治区では、2015年頃からグループ内の相互監視が行われていたとい市民は100世帯ごとのグループに分けて管理され、グループ内のメンバーにはお互いの訪問者の出入りや日々の行動を記録し合うことが求められた。各家庭の玄関には個人情報が詰まったQRコードが貼られ、それをグループ長が毎日読み取ってチェックする。「一体化統合作戦プラットフォーム(IJOP)」というシステムが監視に用いられていることも明らかになっている。このシステムでは、監視カメラの顔認証、―プ長によるQRコードチェック、銀行取引などあらゆる情報から「通常とは異なる行動」や「治安の安定に関わる行為」をAIがピックアップして当局に報告する。教師でもない人物が大量の書籍を所有していたり、普段5キログラムの化学肥料を買っている人が突然55キログラムも買ったりといった「異常」が検知されると、IJOPの「プッシュ通知」により、即座に警察と政府当局の捜査対象になるのだ。

れ日本に住む一般市民にとっても、管理社会は他人事ではない。近年、誰もがスマホを持ち歩き、冷蔵庫から自動車まで身の回りのあらゆる道具がインターネットと繋がるようになった結果、われわれの日々の行動はすべてデータとして企業に収集されるようになった。このことは「監視資本主義」のキーワードと共に大きな問題となっている。

グーグル、メタ(旧フェイスブック)、マイクロソフトを筆頭に、監視資本主義を主導しているとされる企業は、収集したデータを基にユーザーの次の行動を予測している。データをサービス向上に役立てるといえば聞こえはいいが、多くの場合、データは企業側の利益のために用いられる。ユーザーの行動特性からターゲティング広告を設定したりするのは序の口で、果ては製品を通じてユーザーの行動をコントロールすることも可能になる。たとえば、インターネットにつながった車両システムがドライバーを特定の実店舗に誘導することもありうるだろうし、SNSではユーザーの「いいね!」履歴などから政治的志向を分析し、その人のタイムラインに表示される投稿をコントロールすることで、選挙におけるユーザーの投票行為を操作することもできる(実際に、2016年の米大統領選挙では、フェイスブックでこうした「工作」が行われた)。

われわれがすでに慣れつつある、マイルドな管理社会の行き着く先は、間の個性と自由の剥奪だ。こうした問題提起もSFでは繰り返しなされてきた。

『一九八四年』

――「二足す二は四である」と言えなくなった世界

ジョージ・オーウェル

どんな作品か「捏造された真理」を押し付けられる人々の悲劇

監視社会を描いたディストピア小説といえば、真っ先に名前が挙がるのが、この『一九八四年』だ。読んだことはなくても、タイトルを耳にしたことがある人は多いだろう。20世紀を代表する傑作であり、時代を超えて読みつがれている物語である。

作者のジョージ・オーウェルは、キャリアの初期はルポルタージュ作家として、スペインの内戦体験を描いた『カタロニア讃歌』(1938)などを発表していた。その後は小説を執筆しながら、英BBCに入社して東南アジア向けの番組をつくったり、「トリビューン」紙の文芸担当編集長になったりと職を転々としている。

そんな最中、1945年に刊行されたのが、小説『動物農場』だ。豚や犬や猫が暮らす農場で、動物たちが人間に対して一斉蜂起し、すべての動物は平等であるという理想を体現した「動物農場」を設立する。ところが次第に、一部の動物が富や権力を独占するようになり…………という、現実世界のソ連を彷彿とさせる作品だ。政治権力が腐敗していく普遍的な過程を描き出したこの小説は大ヒットを記録し、『一九八四年』と並んでオーウェルの代表作とされている。その4年後に『一九八四年』が刊行されるが、このときすでにオーウェルは重い結核を患っており、本作が最後の著作となった。

物語の時代設定は、夕ルどおりの1984年。刊行当時の人々からすると、30年ちょっと先の近未来に当たる。世界は旧アメリカ合衆国、旧イギリス、オーストラリア南部などを領有する〈オセアニア〉、欧州大陸からロシアの極東までを領有する〈ユーラシそして旧中国や旧日本を中心にアジア圏を領有する〈イースタシア〉の3大国に分かれているという状況だ。

物語の舞台であるオセアニアは、〈ビッグ・ブラザー〉なる人物が率いる党に支配された全体主義国家。街中では、テレビと監視カメラを兼ね備えた〈テレスクリーン〉が人々の行動を監視している。さらに、至るところに口ひげをたえた45歳くらいの男、すなわちビッグ・ブラザーのポスターが貼られていて、その下には“ビッグ・ブラザーがあなたを見ている”とキャプションがついている。その言葉のとおり、ポスターの男の目線は見る者の動きを追いかけてくるような印象を与える。

主人公であるウィンストンスミスは、オセアニアの〈真理省〉に勤務する党員だ。理省といっても、真理を追究する機関などではない。党にとって都合の悪い情報や記録をねじまげ、真理を「捏造」している組織だ。ここでウィンストンは、日夜党のために記録を改ざんして過ごしている。

党は3つのスローガン「戦争は平和なり」「自由は隷従なり」「無知は力なり」を掲げ、<ニュースピーク〉と呼ばれる新しい言語を公用語としている。ニュースピークでは徐々に使用される単語が減らされており、最終的には使用者の「思考」を制限するのだ。

党員には、毎日2分間、党の敵に対してありったけの憎悪を表現する「二分間憎悪」が習慣づけられている。さらに、オセアニア国民は、嘘を嘘と知りつつ同時に真実であると信じるような「二重思考」の実践を要求される。

やがてウィンストンは真理省での仕事に違和感を覚えるようになり、党に禁じられた行為である「日記」の習慣をひそかに開始する。ある日の日記に、彼は次のように書き残す。

自由とは二足す二が四であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる。

党への反発を強めながら日々を過ごしていたある日、ウィンストンは彼と同じく党の方針に疑問を抱く女性、ジュリアと知り合い、テレスクリーンの監視をかいくぐりながら密会を重ねるようになる。

反政府活動への意欲を高めつつ、二人の仲が深まっていく最中、ウィンストンは党の官であるオブライエンの自宅に招待される。オブライエンは、ジュリアと共にオブライエン邸を訪ねたウィンストンに、自分が党に反抗する秘密組織〈ゴールド同盟>の一員であることを明かし、組織のためにどこまで尽力できるのかとウィンストンたちに問う。

意気揚々とゴールド同盟への忠誠を誓うウィンストンだったが、実はこれは、ウィンストンたちを捕らえるための罠だった。ウィンストンはジュリアもろとも身柄を確保され、党から苛烈な拷問を受ける。出している指の数を答えろと言われ、実際には4本であったとしても、党が5本だというのならば5本だと答えなくてはならない。繰り返し拷問を受けるうちに、ウィンストンは自然とその考えを受け入れるようになっていく。

最終的に、〈101号室〉と呼ばれる最も恐ろしい拷問部屋に連行されたウィンストンは、ついに最後までかばっていたジュリアをも裏切り、これをもって洗脳は完了する。ウィンストンは牢獄から解放され、日常を取り戻す。ある日公園で、同じく拷問を受けてきたであろうジュリアと再会するも、すでにお互いに対する感情はなく、少し会話を交わしたのちにあっけなく別れてしまう。《彼は今、《ビッグ・ブラザー》を愛していた。》――この救いのない一文で、物語は終わる。

どこがスゴいのか――為政者が情報統制に走るたび、何度でも立ち戻るべき作品

ここで描かれている「未来像」には、現代の感覚からすると古臭く感じられる部分も多い。社会を監視する役目は、テレスクリーンどころかとっくに見えないカメラへと移行しているし、インターネット上では発言の一つひとつまで捕捉される。市民の行動に対する誘導やコントロールは、SNS上でもっと巧妙な形で行われるようになっている。

それでも『一九八四年』は、何度でも立ち戻るべき作品だ。権力者は、その権力を維持するために、常に文書改ざんや監視体制の強化といった支配的な方向へと向かいたがる。したがって、ファシズムへの志向が消え去ることは決してないだろうとオーウェルは考えていた。実際、この作品で描かれた情景はいまなお各国で繰り返されている。

『一九八四年』が世に出てから70年余り。国家による情報統制が厳しさを増し、監視社会への懸念が高まるたびに、本作は注目を集めてきた。

近年の事例でいえば、2017年のトランプ大統領の就任式に関連して「オルタナティアクト(もうひとつの事実)」という言葉が物議をかもした。トランプ政権の報道官は、就任式に集まった群衆が「過去最大の人数」だったと自画自賛したが、実際にはそれを裏付ける統計や写真はどこにもない(むしろ空撮写真を見る限り、オバマ大統領の就任式に集まった群衆より明らかに少ない)。この報道を虚偽だと批判するメディアに対して、当時トランプの側近であったケリーアン・コンウェイは「(虚偽ではなく)もうひとつの事実」だと反論したのだ。この発言がまさに「一九八四年」的だということで、本作はまたしても注目を浴び、米アマゾンの書籍売り上げランキングのトップに急浮上している。このときのブームは日本にも波及し、翻訳書は4万部も増刷された。

国家や巨大な組織が、極端な形で市民の統制に走ったとき、人は自分たちがどのように行動し、何を感じるべきなのかというヒントを求めて本作を手に取る。

近年は、時代に合わせてアップデートされた、新しい『一九八四年』と呼ぶべき作品も登場している。アルジェリアの作家ブアレム・サンサルは、「2084世界の終わり」の中で、宗教が支配するようになった全体主義国家の姿を描き出した。中国の代表的なSF作家の一人である郝景芳は、自身がまさに1984年生まれであることもあって、中国人の目線から『一九八四年』をひもといた長編『1984年に生まれて』を発表している。あと数十年もすれば、20世紀を見据えた「二一八四年」が登場し、オリジナルのDNAを後世へ受け継いでいくことだろう。

ジョージ・オーウェル

1903年、英国領インド生まれ。文学のみならず、20世紀の思想、政治に多大なる影響を与えた小説家。主な著作に『動物農場』などがある。

『すばらしい新世界』

――私たちは自己という究極の「虚構」から逃げられない

どんな作品か与えられた「幸福」で制御された人類を描く

オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は、ジョージ・オーウェル『一九八四年』と並んで最も有名なディストピアSFだ。タイトルは、シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の中の台詞から取られたもの。むろん、ハクスリーはこのタイトルに大いなる皮肉を込めている。

物語の舞台は西暦2540年。作中では〈フォード紀元632年〉と表される、いまから約500年先の未来だ。本作が刊行された1930年代は、自動車王ヘンリー・フォードが編み出した大量生産方式によって、安価な自動車が出回るようになった時代。こうした「すべてを流れ作業化する」技術が信奉された結果として、〈フォード紀元〉が生まれたという設定だ(T型フォードが発売された1908年が〈フォード紀元〉の元年に当たる)。

この世界では、人間はみな人工受精で瓶から産まれ、その時点で階級が決定され、その後の人生を送ることになる。支配階級として〈アルファ〉が存在し、それに追従する階級として〈ベータ〉〈ガンマ〉〈デルタ〉〈イプシロン〉が、それぞれに定められた役割を果たすようになっている。

こうしたシステムを機能させるために、人類は徹底した遺伝子コントロールを受けている。たとえば、自然を愛することは生産性に寄与しないからという理由で、人々は自然を嫌うようにプログラミングされている。

下層の階級に属し、ろくでもない仕事をさせられている人々も、遺伝子操作によってそうした作業を「楽しめる」ように設定されているため、不満も不平も抱かない。仮に嫌なことがあっても、多幸感をもたらす〈ソーマ〉という薬を用いることで、たやすく打ち消すことができる。

しかし、やがて物語の焦点は、この世界に違和感を覚え、孤独を感じる男バーナードへと移っていく。その後は、この社会の外側からやってきた〈野人〉のジョンを主人公とし、「誰もが強制的に幸せにされる世界では、不幸になる/不都合を得る権利の価値が高まるのではないか」という新たなテーマが持ち上がってくる。

どこがスゴいのか20世紀の最も予言的なSF書

『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリは、「すばらしい新世界」について、「20世紀の最も予言的なSF書」であり「年を経るごとに現実味が増している」と賛辞を贈っている(『21Lessons21世紀の人類のための27の思考』/河出書房新社)。

ハラリが評価した一点めは、本作のテーマ設定そのものだ。「すばらしい新世界」の中では、階級が下でろくでもない仕事に従事させられている人々も、不満も不平も抱かない。遺伝子操作により、そうした作業が楽しめるようにされているためだ。人間は生化学的なアルゴリズムの集積であり、科学によってそのアルゴリズムをハッキングすることで、自山に制御できるようになる。そんな現代に通じる視点を、『すばらしい新世界』は当時か干していた。

同レディストピア小説の『一九八四年』と比較したとき、その特色はさらに際立つ。『一九八四年』が描く未来は、誰が読んでも恐ろしいことがわかる。一方、『すばらしい新世界』この世界の何が問題なのかをはっきりと指摘することが難しい。読者に考え込ませる作品なのだ。

ハラリが本作を評価するもうひとつの点は、彼が主テーマにしてきた「虚構」と関連している。ハラリは、現在のテクノロジーと科学の革命が意味するものは、《正真正銘の個人と正真正銘の現実をアルゴリズムやテレビカメラで操作しうるということではなく、あるということだ》と語る。

われわれは自分が枠の中に閉じ込められることを恐れるが、実際には自分の脳の中に閉じ込められている。そしてその脳自体も、さらに大きな人間社会が構築する、虚構の中に閉じ込められている。映画「マトリックス」で主人公のネオは赤いカプセルを飲み込むことで、自分が囚われていた虚構の牢獄から抜け出すことに成功するが、外の世界は中の世界とそう変わらず、そこもまた別の虚構世界にすぎないのだ。

「すばらしい新世界」の中で、社会の外で暮らしてきた野人のジョンは、ロンドンの人々を煽り立て、彼らを支配するシステムに反抗させようとする。

しかし、人々はこれにまったく反応しない。ジョンは警察に逮捕され、世界統制官(この世に1人だけ存在する世界の管理者)であるムスタファ・モンドと議論を重ねていく。「文明には、気高さも英雄らしさもまったく必要ないんだよ。そんなものは、政治的な失敗のあらわれだ」と語るムスタファ・モンドに対して、ジョンはこう返す―「でも、苦労は必要です。オセローの言葉を覚えてませんか?『嵐のあとにいつもこんな平穏が訪れるのなら、風よ、死者が目を覚ますほど激しく吹き荒れろ』」と。

不都合なことが好きで、気楽さを望まず、不幸せになる権利を主張するジョンに対して、ムスタファ・モンドは「いやなら出ていけばいい」と答えるのみだ。

結局、野人のジョンは社会から出ていき、無人の地で暮らし始める。そんな彼の存在が世に知られると、人々が群がって彼を観察するようになる。ジョンの平穏な生活は一瞬にして破壊され、もはや逃れる場所もなくなった彼は、最終的に死を選ぶ。

脳も自己も虚構の一部である以上、本当にそこから逃げ出したいなら、自分自身から逃げ出さなければならない。そこまで含めた先鋭的な結末を、この『すばらしい新世界』は1世紀近く前に描き出していたのである。

オルダス・ハクスリー

1984年、英サリー州生まれ。文芸誌編集などを経詩集で作家デビュー。膨大な数のエッセイ、旅行記、伝記などもある。
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『大人のための文学「再」入門』

『大人のための文学「再」入門』

「生き延びること」について

次の世代に何を残せるのか―ヘミングウェイ『老人と海』

アメリカ文学といえばヘミングウェイ、そしてヘミングウェイといえば『老人と海』である。とはいえこれがどういう話なのか、ちゃんと知ってる人は少ないのではないか。どうせ老人が海に行って魚を釣る話でしょう、と言う方。それはその通りである。しかしそれから先がちょっと違う。

アメリカ文学の代表作でありながら舞台はキューバで、なおかつ英語をしゃべる人がほとんど出てこない、という設定からして、本作はちょっと変わっている。一九五八年の革命前のキューバといえば、アメリカの属国のような扱いだった。アメ車が道路を闊歩し、大リーガーが我が物顔でキャンプにやってくる。そうした場所に住む貧しい無名の漁師が、実はアメリカ人たちを超える高貴な精神性を持ち合わせていた、というのが本書のメッセ―ジだ。

彼らの心の底にはカトリックある。それもただのキリスト教ではない。自然を愛し、動植物を敬い、魚たちや星々を兄弟だ、と思うような信仰の形だ。「人間って奴は、所詮、したたかな鳥や獣の敵ではない」。日本で言えば、ちょうど宮沢賢治の童話のような自然観である。

だからこそ、老人はエンジンがついた大きい船には乗らない。どれだけ長く不漁の日々が続いても、小さな小舟で何度も海へ漕ぎ出す。ついに巨大なカジキが針にかかれば、自分の体ひとつで何日も戦い続ける。それも決して相手を組み伏せ、略奪し、金に変えようという戦いではない。

むしろそれは老人にとって、人間よりはるかに美しく偉大な存在であるカジキとたった一本の糸でつながり、深く愛し合うという行為なのである。だからこそ老人にとって、究極的にはどちらがどちらを殺しても大した違いはない。そしてついにカジキを仕留めたとき、彼は魚を宝物と呼ぶ。「手でさわって、やつを感じたい。やつはおれの宝物さ、と老人は思った」。

だからこそ、港への帰り道に膨大な数のサメに襲われ、次々とカジキの肉を食われても、ついに骨ばかりになってしまうまで彼は死闘をやめない。オールやナイフを奪われてさえ、様々なやり方でサメを攻撃し続ける。なぜならカジキはただの獲物ではなく、彼の最愛の仲間なのだから。ようやく老人が港へ連れ帰ったカジキの巨大な白骨を見て、漁村の人々は彼がいかに偉大な戦いをやり抜いたかを無言のうちに見て取る。そしてまた、彼を慕う少年の内に老人の気概はしっかりと根を下ろす。

すべての人はやがて年老い死んでいく。そのとき次の世代に何を残せるのか。そうした問いに一つのはっきりとした答えを与えているからこそ、『老人と海』は時代を越えて読み続けられる力を持つのだ。

初出:『日本経済新聞』2021年12月1日
※初出は「名作コンシルジュ」コーナーにて

犬になること山下澄人『月の客』

たとえば、犬だ。フランツ・カフカの『審判』でKは、突然家に現れた二人組の男に、何かの罪で自分が訴追されていると告げられる。だが自分が何かを犯した記憶はない。他人の家の天井裏にある裁判所に行っても、やっぱり事情はわからない。だがじわじわと追い詰められていき、やがて「犬のようだ」と叫びながら、男たちに首を切られて死ぬ。

しかし本作では犬であるのは悪いことではない。盲目の男はトシに言う。「目玉があるのも不便やの!/男には風も見えたし、音も見えた、息を吹きかけたのが誰なのかわかった、/いぬと一緒やにおいが見える」。目が見えれば目に頼る。だから暗闇では何も見えない。だが犬は、匂いで世界の地図を描いて正確に動く。だからジャック・ロンドンが「野生の呼び声」で描いたように、北極圏でも少しの食料や炎を嗅ぎつけて生き続けられる。

そもそもなぜ犬のようにあることは、悲惨と同等視されてきたのか。文明の中にいれば、自分が身体を持つ生き物であることを忘れられるからだ。ただ人間の顔を見ながら、間の作ったや常識の中で漂っていればいい。そして安全・安心という幻想の中、多くの金を稼いだり、くの関心を集めたりするゲームに興じればいい。

だが、緊急事態にはそんな思い込みは破れる。そして我々の、生きる意思を持つ身体がゴロリと顔を出す。疫病でもいい、大災害でもいい、戦争でもいい。誰が悪いとか、誰がどうしてくれないとか言っている間に我々は簡単に死ぬ。だから目の前のことを見据えて、直感を使いながら、とにかく生き延びる可能性の高い選択をし続けるない。

本書の主人公であるトシは、生まれた瞬間から緊急事態を生きてきた。口をきけない母親は押し入れにともり、ひたすら帳面にカタカナだけで文字を書き続ける。父親はトシ出生とともにいなくなった。引き取られた先でも暴力を振るわれ、死なないためには逃げ出すしかない。

そして彼は、神社にある洞穴に住み着く。だが彼は一人ではない。近所に住む、障害を持ったおっちゃんが獣の捕り方を教えてくれる。飯盒をくれて、米の炊き方を教えてくれる。「いぬ」と名付けられた犬たちは、何度死んでも別の姿でトシの前に現れ、彼に温もりをくれる。そして酔った母親に階段から突き落とされ、脚が不自由になったサナもまた、洞穴に姿を現す。やがて彼女はトシと愛し合うだろう。

トシは民家から米を盗み、鳥や蛇を捕らえて食べる。あまりにも長く犬と暮らしていたので、犬のように鳴けるようになり、その特技を買われて見世物小屋で働く。犬になったトシの声を聞いて、何より観客よりも犬たちが喜ぶ。トシは犬を見下さない。だから「犬のよう」になることにためかない。その敬意を犬たちも感じる。

おそらく戸籍もないトシは、社会の片隅で、見えない存在として生きてきた。けれどもそんな彼の生き方が、先進的なものとなるときがやってくる。大地震だ。登場人物たちが全員関西弁で話しているからには、これは阪神淡路大震災なのかもしれない。あるいはこここはアイヌの言葉で「地の果て」という地名だという記述があり、しかも放射線障害のように腹が膨れて何人も死ぬという設定から見ると、東日本大震災かもしれない。

そのいずれか、あるいは両方にせよ、トシの頭の中にはそうした呼び名は存在しない。ただ体験があるだけだ。そしてその体験は死んだ犬が教えてくれる。「いぬがからだを起とした、暗い中でトシにはそう見えた、死んでいる場合ではない、といぬは、すべてが縦に動いた、何度も、それから横に、斜めに/ぎしぎしと洞穴が音を立てていた、/揺れがおさまり、音が止んだ/いぬは寝ていた、冷たく固くなっていた、撫でて外へ出た」。

トシは死にかけた母親を連れて避難所である学校に行く。だがなぜかそこには誰もいない。母親を看取り、やがて彼は、地震で妻と娘を亡くしたまっさんの工場で働くことにな身体を病んだまっさんはトシに言う。「死んだらあかんで、つまらん、なやとかいいなや、なんでそもない、生まれたら生きるんや、生まれたおぼえはないやろが、」。

知らぬ間に生まれ、知らぬ間に死んでいく。他の動物の身体も、魂も、記憶も食べて食べて、大量に蓄積しながら、我々は生き続ける。一体何のために生きるのか。目的などない。ただこの世界が生命に満ちていて、人間も動物も、死者も生者も、それぞれの形で生きていて、それらの生命がつながっているだけだ。

そして死ぬと我々は月に帰っていく。まっさんの遺体を見て、そこにまっさんはいない、今まっさんは月の近くにいる、とトシは感じる。どうして月に帰るのか。かつて焼かれた男の骨を見たトシは知っている。その、赤や黒の斑点もある白く熱いかけらは月に似ている。ということは、我々の身体の中にはいつも月がある。いつも空から見守ってくれている大きな月は我々の故郷であり、やがて戻っていく場所なのだ。

常にすべてを剥ぎ取られたむき出しの生を生きるトシの物語である本作を読んで、僕はJ・M・クッツェーの『マイケルK』を思い出した。知的障害のあるマイケルは内戦下の南アフリカで、死んだ母親の遺骨を彼女の故郷まで運び、穴に住んで身を隠しながら、誰とも関わらずに植物を育てる。そこには、社会の外側から、現代を批判する鋭い目がある。

だがそれと似た設定である本作はもっと優しい。社会から疎外された多くの人々や動物がトシを助けてくれる。そこには生者も死者もいる。一人の男の人生に、遠大な時間と空間が交錯していく。個人を個人として見るのではなく、むしろ生命の流れの一つの結節点として捉える山下澄人の本作に、僕は日本現代文学の一つの先端を感じる。まずは読者はその、決して「。」で終わることのない言葉の流れを堪能してほしい。

初出:『すばる』2020年7月号(集英社)

戦争が引き裂く個の悲しみヴィエト・タン・ウェン『シンパサイザー』

主人公には居場所がない。戦時下のベトナムでフランス人の宣教師と現地のメイドの間に生まれた彼は、妾の子と罵られて育つ。唯一彼を助けてくれたのが同級生のマンとボンだ。彼ら三人は義兄弟の契りを結ぶ。この関係が、やがて主人公を引き裂くことになる。

大人になったマンは共産主義者として、南ベトナム政府転覆を工作する。そしてボンは、愛国者としてベトコンと戦う兵士となるのだ。二人の友に同時に忠実でいるにはどうしたらいいか。彼はマンの指示のもと、共産側のスパイとしてボンの戦友を本気で演じる。

この危ういバランスは何度も崩れそうになる。サイゴン陥落の日、共産軍の砲撃で死にかけながらボンとベトナムを脱出した主人公は、ロサンゼルスの亡命者社会に溶け込む。そしてともに脱出した将軍への忠誠心を誓いながら、彼の動向を本国に送る。ならば彼は演技しているだけなのか。そうではない。彼は本気で将軍に同情しているのだ。

シンパサイズ

将軍だけは、主人公の出自を気にせずに、能力だけを評価してくれた。しかし自分が内心、軽蔑している人間にさえ認められたい、という主人公の焼け付くような欲望を、共産側は受け入れない。ボンと一緒にラオスから侵入した主人公に対して、共産側は過酷な拷問を加える。一体お前の心はどちらにあるのか。しかし主人公はそのどちらも選べない。著者のウェンは四歳でベトナムを逃れ、アメリカで英文学の教授となった。ベトナム共和国に戻ればアメリカ人と言われ、アメリカでは外国人扱いされ続ける。肝心のベトナム語さえ大して話せないのに。しかも祖国である南ベトナムは消滅し、もはや亡命者たちの心の中にしかない。彼が生涯を通じて感じ続けてきた疎外感が、ベトナムとアメリカの下幸な歴史を巡る巨編として結実した。息をつく暇もないほどの面白さの裏に真の悲しみが流れている本書がピュリッツァー賞を獲ったのも納得である。

「多くの男たちが、自分の名前を覚えてくれた一人の男のために死ぬ」という言葉が切ない。彼らだって、利用されているだけだとわかっているだろうに。本書はすべての戦争の裏にアイデンティティの問題があると看破した、戦争文学の傑作である。

『日本経新聞』2011年9月2日

人生の哀切さ奥底の生命力

シルヴィア・プラス『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』

気づけばメアリーは奇妙な汽車に乗っている。乗り心地はいいし、車内で知り合った女性は大きなチョコレートまでくれる。けれどもどこに行き着くかはわからない。ただ目的地が第九王国という名前だと知らされるだけだ。女性との会話から、そこが冷たい、希望のない場所だとわかる。「第九王国に着いたら、もう戻りようはない。そこは否定の王国、凍りついた心の王国なのよ」。逃げるには、車掌たちの目を盗んで非常停止の紐を引くしかない。ようやく勇気を出したメアリーは汽車から降りることに成功する。スーツケースを置き去りにして、なんとか車掌たちの追跡を振り切るのだ。途中で振り返ると、客車のガラス窓の向こう、生気も個性も失った乗客たちの姿が見える。

知らぬ間にシステムに縛られ、ガラスの中に閉じ込められる。そして心の底にある生命力を振り絞って逃げ出す。本書の表題作のテーマは、プラスの自伝的小説『ベル・ジャI』(ガラスの覆いを思い起こさせる。高校時代、優等生だったエスターは、学校の外で壁にぶつかる。ファッションのセンスも気の利いた会話の能力もない自分は、マスコミと

いうキラキラした世界では生きられない。悩み抜いた彼女は鬱になり生きる意欲まで失う。本当は詩人になりたかった。でも女性に職業選択の自由を与えない五〇年代のアメリカは、彼女の未来を暗く閉ざす。

女性として生きることの困難を哀切に描いたプラスは、いまだ英語圏でカリスマ的な人気を誇っている。それは今なお社会が本質的には変わっていないからだ。だからこそ、プラスの文章は日本に住む我々の心をも打つ。荷物をすべて手放し、風となって走ること。どんな状況でも諦めず、戦い抜くこと。三十歳で若くして亡くなった彼女の言葉は、今でもわれわれを励ます。

もちろんプラスの魅力はそれだけではない。病院を描いた短篇「ブロッサム・ストリートの娘たち」で看護師たちは言う。医者たちの書く字は汚くて読めないし、処方箋や報告書はすべて、カルテ帳の間違った場所に貼られている。こうしたちょっとした表現にも、ユーモアや愛情が表れている。このプラスの短篇集は、小説や詩だけではわからない彼女の多面的な魅力に満ちている。

初出:『日本経済新聞』2022年7月16日

遊牧民の知恵と生きる難民たち―アブドゥラマン・アリ・ワベリ『トランジット』

今の世界を知るにはワベリを読めばいい。ヨーロッパやアメリカに貧しい人々が押し寄せる。どんな国境も法律も彼らを止められない。なぜか。彼らは、どうして自分たちには人権も快適な生活もないのかと叫ぶ、普通の人間だからだ。そしてこの正義に反論できる者などいない。

本書の登場人物バシールもその一人だ。アフリカの小国ジブチの内戦で兵士として闘った彼は、フランス行きの飛行機に乗り込む。もちろん難民として、より良い暮らし求めてだ。そのために言葉がわからない愚か者のふりをする。泣いて同情を得ようとする。

彼の姿勢は欺瞞だろうか。いや、権力者の前で生き延びるには、本心を隠して移動を繰り返し、正面衝突を避けるのが正しい。それにそもそも、ジブチを暴力に満ちた国にしたのは、かつてそこを植民地としていたフランスではないか。

バシールの知恵は遊牧民のものである。ベドウィン時代の記憶を持つアワレは言う。「遊牧民の時間がどの暦にも従わず、いかなる記録文書にも煩わされることはなく、フランス第三共和政の山羊ひげたちによって求められた行政書類にも署名していないということだ」。そしてそんな彼らを真に支配できる者などいない。

一九六五年生まれで自らも内戦に参加したワベリは、ジブチで話されている生のフランス語も交えて見事な文章を織り上げる。ときに詩と散文の間のようになる作品は高く評価され、今や彼はフランス語圏を代表する書き手の一人だ。

もちろん、遊牧民にも弱みはある。フランス式の教育を受けた者たちは伝統を見失い、自分たちを見下し、ヨーロッパ人を仰ぎ見るようになる。フランスで教育を受けたハルビもそうだ。だがそれでは、誇りを持って生きられない。

トヨタの小型トラックを改造して作ったソマリアの戦車のように、ヨーロッパと先祖代々の知恵を統合すること。このワベリの試みは、東洋人である我々にも他人事ではない。

初出:『朝日新聞』2019年3月30日

人種差別との過酷な闘いを体感

 未来の社会を SF で書くという手法がある

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『読書原論』

『読書原論』21世紀の読書=忘れる読書

  • 読んだ本は「全部忘れてもいい

10本を読むとは何だ?


「門前の小僧習わぬお経を読む。」と「師の芸を盗む。」は、真逆のように思える。前者は受動的、後者は能動的だ。だが、ともに「見よう見まね」=「真似び」=「学び」であることにちがいはない。「まる暗記模倣」である。

評論家の山本七平(1920~91)は、すでに少年期に、聖書と論語を(ほとんど)まる暗記した、と記している。山本だけではない。「師」の内村鑑三(1861-1930)も、聖書と論語孔子)を自家薬籠中のものに(master)していた。この洋の東西を分かつ二冊の本に習う(=倣う)のは、なにも二人だけの特性ではない。明治や大正生まれの「教養」の見本であったといっていい。ただし、「論語読みの論語知らず。」も多かった。「聖書読みの聖書知らず。」も例外ではなかった。つまりは「棒暗記」の類である。

「暗記」(memorywork)を非難したいのではない。「知」の大部分は「記憶」として蓄積され、再利用される。「本」とは、素気なくいえば、「素材」すなわち何に書かれるかは別として、記憶の「体外装置」なのだ。人は、自分の「脳内」(記憶の体内装置)に記憶できないものを、「脳外」に溜める(プールする)。石、レンガ、木片、紙等々、記憶装置は雑多だが、その主力は、二〇〇〇年来、ずっと「紙」(paper)だった。紙の集積=「本冊」である。

記憶装置

ところが、20世紀に、人類史、とりわけ人類の知的歴史をひっくり返す、一大変化が生じた。わたしたちはその「大転換」期を生きているのだ。まず、このことを銘記してほしい。

一九七〇年以降に生まれた人の多くは、魚が水の中を泳ぐように、この新潮流のなかをらくらくと泳いでいる。戦中(1942年)に生まれたわたしなどは、遅ればせながら、この大転換期の「尻尾」にようやくとりつくことはできたが、すでにして息も切れ切れである。

新型の「記憶装置」が登場した。データ・命令などの情報を、記憶し、必要に応じて随時、瞬時に、量の大小を問わず、取り出すことができるようにした、電子計算機=コンピュー装置である。

この記憶装置の「情報量」は、理論的には、無限大まで拡充可能である。たとえば、大英博物館から分離独立した大英図書館は、現在(21世紀はじめ)、八〇〇万冊を優に超える(紙の蔵書をもち、書架を横に並べると一四〇キロメータになるといわれる。だが、その蔵書を電子化すれば、USBメモリィ一本に収納可能になる。

つまり20世紀後半に実用化された「電子書」は、「記憶」そのものの概念を変えた、といっていい。極端にいえば、つまりは「理論」的にいえば、「記憶」でより重要なのは、「外部装置」の充実だということになった。脳=内部装置で問われるのは、「索引」力、必要なものを外部装置から「引き出す」能力である、ということになる。

マイ索引

特に重要なのは、「今ここでわたしが必要とする情報」を「わたしの外部装置」から適切に「引き出す能力(脳力)」なのだ。もちろん、辞書やデジタル図書、その他さまざまな文献も不可欠だ。しかし、それらを参照するためには、何が、そのどの点が必要なのか、を感知・覚知していなければならない。マイ・センサー(脳)が的確かつ鋭利でなければならない。

とりわけ有効なのは、情報収集したものを、外部装置にメモし、利用・再利用することだ。わたしの経験でいえば、自分が読み・書きしたものを、外部装置にメモし、自在に利用・再利用(=引用)することだ。

たとえば、「方法論」である。

読書万般に通じるような「方法論」などはない。これがわたしの考え方(方法)だ。だが、マルクス(主義)の方法論=哲学は、「弁証法的唯物論と史的唯物論」である。それは「ソ連共産党小史」(1938)第四章に、スターリンが書いたとされる)文書で、すでに「提示」されている。それを、読み、理解し、活用せよ。「暗唱」せよ。「拳拳服膺」せよ、終わり。

これが一九五〇年代まで、知識人層においても、おおいに通用した。

この「方法論」を「鵜呑み」にせず、異議を唱えると、反共・反党・腐敗=ブルジョア分子である、と攻撃された。ことはマルクス主義関連にかかわらない。文学畑でも同じで、伊藤整の「氾濫」(1958)などは、売れる作家が書いたので)「大衆が読む」小説」、性が「氾濫」するエロ小説、とジャンル分けされた。おそまつな文学「鑑賞」の方法論だが、こちらはなかなか手強い。

ようやく三〇代のなかばだった。万般に通じる「方法論」(哲学)などない、と覚ることができた。でも「わたしの流儀」程度のものはないだろうか、と探していたときだ。「文学研究に体系も方法論もあり得ない」と喝破した、谷沢永一『牙ある蟻』(1978)にであった。

《文学研究は技術をもってする作業なのだ。文学研究の精髄は技術なのだ。自然科学も人文科学も、技術の行使であることに変わりはない。対象の差に応じて、用いる技術に違いがあるだけだ。・・・・・。文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ないのに、技術とは別個な念力競べを妄想する怠慢が、方法論や体系などという架空の大樹の陰に思う(41)

これはどんな「研究」にも通じる提言だ。「技術」だ。それを磨くには、「博覧」(wellread)と「精査」(closeexamination)、広く、深くものごとを見・知ること、これ以外にない、といっている。

ただし、21世紀である。20世紀までとちがって、比較すれば、内部装置の記憶より、外部装置の記憶のほうが、圧倒的に大きくなった。しかも、外部装置のメモリーを超速で検索・活用可能になった。問題は、「記憶量」ではなく「記憶索引力」になったということだ。

たとえば、「方法論」とあれば、すぐに、『牙ある蟻』の「引用箇所」をすらすらと再現する暗記力ではなく、同書のその箇所にたどり着く「勘」(=「短絡」力)、とりわけ「索引」力である。記憶力の「種別」が変わったのだ。

読んだ本は「全部」忘れたほうがいい

司馬遼太郎「伝説」

司馬遼太郎にはいくつかの「伝説」がある。あくまでも伝説である。真偽のほどはわからない、真っ赤な嘘のような話であるとともに、わたしには核心を射ぬいている話としか思えない。

少年期、授業に出ず、大阪の市立(御蔵跡)図書館に通い、全冊読破した。

大阪外大の蒙古語科に入り、「辞書」なしでモンゴル語を習得し、「辞書」をもたずに小説を、それも「梟の城」を書いた。

読む速度が想像を絶した。速度は、見開き二頁を写真機のシャッターを切る速さで読み(とり)、およそ一冊を一五分以内で読み終わり、しかもその内容の核心を語ることができた。

ほとんどノートもメモをとらず、「記憶」だけで、あの膨大な量のしかも複雑な歴史小説をすらすらと書いた。

「おそらく」、などとわたしがいうのもおこがましいが、歴代の日本人で最も多くの書を読んだのは、司馬遼太郎ではなかろうか。もう一人わたしが知っているかぎりでは、谷沢永一だろう。その谷沢がこれまたとんでもない記憶力の人であった。あるとき、

「読んだ本を忘れることができない。〔脳内に溜まりすぎて、出て行かず、ストレスが溜まり、鬱が嵩じる。〕

というようなことを漏らした。読み過ぎ、記憶しすぎて、もはや読めない、書けない、頭が受けつけない、という最大スランプ(最長鬱病)のときであった。ただし、話す(出す)ほうは支障なかった。この期間、谷沢は、「語り下ろし」と「対論」で凌いだ。

「忘れる」能力

だが、司馬も、そして谷沢も、特大の記憶力の持ち主だが、むしろ驚くべきは、忘れることの「名人」といっていいのではないだろうか。わたしにはそう思える。

司馬と同じように、「写真機」のような複写(再現=記憶)力をもった人をもう一人知っている。弁護士である。ただし、この人、再現したものをきれいさっぱり忘れることもできる。まるでフィルムを抜くと、真っ白、それで終わり、というようなのだ。

対して司馬の場合、フィルムが消えても、いわば「写真」に類するものが残る。書いたもの、膨大な小説、エッセイ、紀行文等々である。くわえてDVD(映像)だ。いつまでも残り、いつでも再現可能になる作品群だ。

司馬が、驚くべき記憶力を発揮できたのは、写真機のような複写能力をもっていたからではないだろう。驚くべきは、その「記憶」(=複写)力を、「創作」(=生産)力に転化できたことにあるのではないだろうか)。

司馬は、一九五九年、文壇デビュー作「梟の城」を書きあげ、六〇年直木賞をえて以降、一九九六年の死までおよそ三五年、一度もスランプ期をもたずに、書きそして書き続けることができたのは、文才があったからだが、読んで、書いて、読んだものを忘れることをやめなかったからである(と思える)。

谷沢も、膨大な作品(生産物)を残した。しかし、その膨大な「脳内蓄積物」(記憶量)を作品に十分転化(消化)することはできなかったのではないだろうか)。ゆえに、インプットとアウトプットのバランスがとれず、鬱(未消化物)が嵩じた。そう、わたしには、思える。

忘れる理由

長いあいだ教師をやってきた。ときに、ゼミ生に「どんな本が好きか?」と聞くことがあった。一冊、多くて数冊あげる子が、たまにいた。「どんなところがよかったか?」と聞くと、ほとんどは「憶えていない。忘れた。」と答える。それほどに「本」は(わたしのゼミ生には)読まれない。

じゃあ、学生は本を読まないのか?まったくそんなことはない。「覚える」ほどには読まない、といいたくなるが、正確には、「本」を買わない(ような)のだ。「新聞」を読まないのではなく、新聞を買って読まないのである。よく聞くと、買いたいものが本以外にある、というのだ。紙の新聞(さらには「本」)は読まないが、スマホやパソコン等で、Web(サービス)版を、必要があれば「読む」「見る」)そうだ。

わたしは、新聞はいまでも中央新聞と地方新聞を一紙ずつとっている。といっても、ともに数百万部の発行数だ。その他はウェブ版で済ませている。多くは「速報」版だ。そして、新聞記事は「すぐ」忘れる。なぜか?「再読」しない、する必要を感じないからだ。時局的な連載コラムを新聞や雑誌に書いていたときは、一週間分の新聞紙(五~六紙)を、処分できなかった。重要不可欠と思える記事は、切り抜きした。「仕事」に必要だ、と考えたからだ。しかし、コラムを書いてしまったら、新聞本体も、切り抜きも、すべて処分し、すっかり忘れた。コラム自体も、その内容はほとんど忘れた。

「忘れる。記憶にない。」は、よく解釈すれば、読んでも、「利用」しなかったからだ。学生は「試験」に、ビジネスマンは「仕事」に必要でなかったからだ。さらにいうと、試験や仕事に必要ないものは、読まない。必要なものでも、読んで使ったら、よほど重要でなければ、あっさり忘れる。

わたしもそうだった。大学に入るまで、まともな読書はしたことがなかった、と思ってきた。本箱には、教科書と受験参考書しかなかった(ように思える)。しかし、四〇代、少年期の「読書」について書かなければならなくなったとき、にわかに思い起こしたのだ。中学のとき、ドストエフスキー(1821~81)『罪と罰』(1866)を読んだ。読んだだけではない。この本の「内容」を忘れることができず、「忘れる」ために、二〇代の半ばまで苦しんだのだ。それをすっかり忘れていたのだから、われながら驚きであった。が、ホッともした。忘れたいこと、忘れてもいいことを、忘れることができたからだ。(この理由は拙著『シニアのための「反」読書論』〔文芸社2015〕にくわしく書いた。)

1・2読んだ本を「全部」忘れるのは不可能だ

忘れる本

「忘れる本」は、「忘れてもいい本」だ。ひとまずこういいたい。

わたしの妻は、「眠り薬」の代わりに「本」を読む。もちろんわたしが書いた本は、読まない。「あなたが亡くなってからゆっくり読む。」という。ちょっと寂しい気もするがこれには助かる。プライベイトなことに触れることを書いても、支障が生じない。なにせ、読まれないのだから。

妻がベッドで読む本は、そのほとんどすべてが「小説」である。「眠り薬」のためだから、「消灯」は早い。ときに、スタンドを点けたまま寝ていることがある。読んでも、全部、忘れるそうだ。読んで、忘れることができないほど面白く、眠れなくなったら、読書の目的に反するのだから、当然といえば、当然だろう。

妻が読む本は、ほとんどわたしが読んだことのない本である。「好み」が違うからで、意識してそうしているわけではないだろう(と思いたい)。何冊か、否、数一〇冊になるだろうか、偶然、同じ本を読むケースがある。別々に買って、関係なく読むのだ。ただし、二人が、共通の本について語り合うことはない。なにせ、妻はきれいさっぱり忘れた、と言明するからだ。わたしのほうは、たとえば、宮本美智子(1945~97)「世にも美し「いダイエット」(1994)を妻の本置き場から抜き出して、仕事で使い、宮本の他の本とともに、自分の蔵書に加えてしまった、というケースはある。

その他に、妻は、クッキング、健康、農耕、動植物図鑑、それに税金関連等々、の本や雑誌をひっきりなしに買って、黙々と(?)読んでいる。「家事」(work)全般に関連するもので、「忘れてはならじ」と、膨大な―トとメモをとっている。ノート類は、貴重品と思えるが、忘れるのか、忘れがたいのか、を問い質したことはない。

論でいえば、ノートやメモをとると、それを利用してしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。もそうなのではないだろうか。わたしも、卒論や論文を書くために、はじめは膨大(?)なノートやメモをとったが、ほとんどは読まなかったし、メモも多すぎて活用できなかった。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

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『読書原論』

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  • 読んだ本は「全部忘れてもいい

10本を読むとは何だ?


「門前の小僧習わぬお経を読む。」と「師の芸を盗む。」は、真逆のように思える。前者は受動的、後者は能動的だ。だが、ともに「見よう見まね」=「真似び」=「学び」であることにちがいはない。「まる暗記模倣」である。

評論家の山本七平(1920~91)は、すでに少年期に、聖書と論語を(ほとんど)まる暗記した、と記している。山本だけではない。「師」の内村鑑三(1861-1930)も、聖書と論語孔子)を自家薬籠中のものに(master)していた。この洋の東西を分かつ二冊の本に習う(=倣う)のは、なにも二人だけの特性ではない。明治や大正生まれの「教養」の見本であったといっていい。ただし、「論語読みの論語知らず。」も多かった。「聖書読みの聖書知らず。」も例外ではなかった。つまりは「棒暗記」の類である。

「暗記」(memorywork)を非難したいのではない。「知」の大部分は「記憶」として蓄積され、再利用される。「本」とは、素気なくいえば、「素材」すなわち何に書かれるかは別として、記憶の「体外装置」なのだ。人は、自分の「脳内」(記憶の体内装置)に記憶できないものを、「脳外」に溜める(プールする)。石、レンガ、木片、紙等々、記憶装置は雑多だが、その主力は、二〇〇〇年来、ずっと「紙」(paper)だった。紙の集積=「本冊」である。

記憶装置

ところが、20世紀に、人類史、とりわけ人類の知的歴史をひっくり返す、一大変化が生じた。わたしたちはその「大転換」期を生きているのだ。まず、このことを銘記してほしい。

一九七〇年以降に生まれた人の多くは、魚が水の中を泳ぐように、この新潮流のなかをらくらくと泳いでいる。戦中(1942年)に生まれたわたしなどは、遅ればせながら、この大転換期の「尻尾」にようやくとりつくことはできたが、すでにして息も切れ切れである。

新型の「記憶装置」が登場した。データ・命令などの情報を、記憶し、必要に応じて随時、瞬時に、量の大小を問わず、取り出すことができるようにした、電子計算機=コンピュー装置である。

この記憶装置の「情報量」は、理論的には、無限大まで拡充可能である。たとえば、大英博物館から分離独立した大英図書館は、現在(21世紀はじめ)、八〇〇万冊を優に超える(紙の蔵書をもち、書架を横に並べると一四〇キロメータになるといわれる。だが、その蔵書を電子化すれば、USBメモリィ一本に収納可能になる。

つまり20世紀後半に実用化された「電子書」は、「記憶」そのものの概念を変えた、といっていい。極端にいえば、つまりは「理論」的にいえば、「記憶」でより重要なのは、「外部装置」の充実だということになった。脳=内部装置で問われるのは、「索引」力、必要なものを外部装置から「引き出す」能力である、ということになる。

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特に重要なのは、「今ここでわたしが必要とする情報」を「わたしの外部装置」から適切に「引き出す能力(脳力)」なのだ。もちろん、辞書やデジタル図書、その他さまざまな文献も不可欠だ。しかし、それらを参照するためには、何が、そのどの点が必要なのか、を感知・覚知していなければならない。マイ・センサー(脳)が的確かつ鋭利でなければならない。

とりわけ有効なのは、情報収集したものを、外部装置にメモし、利用・再利用することだ。わたしの経験でいえば、自分が読み・書きしたものを、外部装置にメモし、自在に利用・再利用(=引用)することだ。

たとえば、「方法論」である。

読書万般に通じるような「方法論」などはない。これがわたしの考え方(方法)だ。だが、マルクス(主義)の方法論=哲学は、「弁証法的唯物論と史的唯物論」である。それは「ソ連共産党小史」(1938)第四章に、スターリンが書いたとされる)文書で、すでに「提示」されている。それを、読み、理解し、活用せよ。「暗唱」せよ。「拳拳服膺」せよ、終わり。

これが一九五〇年代まで、知識人層においても、おおいに通用した。

この「方法論」を「鵜呑み」にせず、異議を唱えると、反共・反党・腐敗=ブルジョア分子である、と攻撃された。ことはマルクス主義関連にかかわらない。文学畑でも同じで、伊藤整の「氾濫」(1958)などは、売れる作家が書いたので)「大衆が読む」小説」、性が「氾濫」するエロ小説、とジャンル分けされた。おそまつな文学「鑑賞」の方法論だが、こちらはなかなか手強い。

ようやく三〇代のなかばだった。万般に通じる「方法論」(哲学)などない、と覚ることができた。でも「わたしの流儀」程度のものはないだろうか、と探していたときだ。「文学研究に体系も方法論もあり得ない」と喝破した、谷沢永一『牙ある蟻』(1978)にであった。

《文学研究は技術をもってする作業なのだ。文学研究の精髄は技術なのだ。自然科学も人文科学も、技術の行使であることに変わりはない。対象の差に応じて、用いる技術に違いがあるだけだ。・・・・・。文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ないのに、技術とは別個な念力競べを妄想する怠慢が、方法論や体系などという架空の大樹の陰に思う(41)

これはどんな「研究」にも通じる提言だ。「技術」だ。それを磨くには、「博覧」(wellread)と「精査」(closeexamination)、広く、深くものごとを見・知ること、これ以外にない、といっている。

ただし、21世紀である。20世紀までとちがって、比較すれば、内部装置の記憶より、外部装置の記憶のほうが、圧倒的に大きくなった。しかも、外部装置のメモリーを超速で検索・活用可能になった。問題は、「記憶量」ではなく「記憶索引力」になったということだ。

たとえば、「方法論」とあれば、すぐに、『牙ある蟻』の「引用箇所」をすらすらと再現する暗記力ではなく、同書のその箇所にたどり着く「勘」(=「短絡」力)、とりわけ「索引」力である。記憶力の「種別」が変わったのだ。

読んだ本は「全部」忘れたほうがいい

司馬遼太郎「伝説」

司馬遼太郎にはいくつかの「伝説」がある。あくまでも伝説である。真偽のほどはわからない、真っ赤な嘘のような話であるとともに、わたしには核心を射ぬいている話としか思えない。

少年期、授業に出ず、大阪の市立(御蔵跡)図書館に通い、全冊読破した。

大阪外大の蒙古語科に入り、「辞書」なしでモンゴル語を習得し、「辞書」をもたずに小説を、それも「梟の城」を書いた。

読む速度が想像を絶した。速度は、見開き二頁を写真機のシャッターを切る速さで読み(とり)、およそ一冊を一五分以内で読み終わり、しかもその内容の核心を語ることができた。

ほとんどノートもメモをとらず、「記憶」だけで、あの膨大な量のしかも複雑な歴史小説をすらすらと書いた。

「おそらく」、などとわたしがいうのもおこがましいが、歴代の日本人で最も多くの書を読んだのは、司馬遼太郎ではなかろうか。もう一人わたしが知っているかぎりでは、谷沢永一だろう。その谷沢がこれまたとんでもない記憶力の人であった。あるとき、

「読んだ本を忘れることができない。〔脳内に溜まりすぎて、出て行かず、ストレスが溜まり、鬱が嵩じる。〕

というようなことを漏らした。読み過ぎ、記憶しすぎて、もはや読めない、書けない、頭が受けつけない、という最大スランプ(最長鬱病)のときであった。ただし、話す(出す)ほうは支障なかった。この期間、谷沢は、「語り下ろし」と「対論」で凌いだ。

「忘れる」能力

だが、司馬も、そして谷沢も、特大の記憶力の持ち主だが、むしろ驚くべきは、忘れることの「名人」といっていいのではないだろうか。わたしにはそう思える。

司馬と同じように、「写真機」のような複写(再現=記憶)力をもった人をもう一人知っている。弁護士である。ただし、この人、再現したものをきれいさっぱり忘れることもできる。まるでフィルムを抜くと、真っ白、それで終わり、というようなのだ。

対して司馬の場合、フィルムが消えても、いわば「写真」に類するものが残る。書いたもの、膨大な小説、エッセイ、紀行文等々である。くわえてDVD(映像)だ。いつまでも残り、いつでも再現可能になる作品群だ。

司馬が、驚くべき記憶力を発揮できたのは、写真機のような複写能力をもっていたからではないだろう。驚くべきは、その「記憶」(=複写)力を、「創作」(=生産)力に転化できたことにあるのではないだろうか)。

司馬は、一九五九年、文壇デビュー作「梟の城」を書きあげ、六〇年直木賞をえて以降、一九九六年の死までおよそ三五年、一度もスランプ期をもたずに、書きそして書き続けることができたのは、文才があったからだが、読んで、書いて、読んだものを忘れることをやめなかったからである(と思える)。

谷沢も、膨大な作品(生産物)を残した。しかし、その膨大な「脳内蓄積物」(記憶量)を作品に十分転化(消化)することはできなかったのではないだろうか)。ゆえに、インプットとアウトプットのバランスがとれず、鬱(未消化物)が嵩じた。そう、わたしには、思える。

忘れる理由

長いあいだ教師をやってきた。ときに、ゼミ生に「どんな本が好きか?」と聞くことがあった。一冊、多くて数冊あげる子が、たまにいた。「どんなところがよかったか?」と聞くと、ほとんどは「憶えていない。忘れた。」と答える。それほどに「本」は(わたしのゼミ生には)読まれない。

じゃあ、学生は本を読まないのか?まったくそんなことはない。「覚える」ほどには読まない、といいたくなるが、正確には、「本」を買わない(ような)のだ。「新聞」を読まないのではなく、新聞を買って読まないのである。よく聞くと、買いたいものが本以外にある、というのだ。紙の新聞(さらには「本」)は読まないが、スマホやパソコン等で、Web(サービス)版を、必要があれば「読む」「見る」)そうだ。

わたしは、新聞はいまでも中央新聞と地方新聞を一紙ずつとっている。といっても、ともに数百万部の発行数だ。その他はウェブ版で済ませている。多くは「速報」版だ。そして、新聞記事は「すぐ」忘れる。なぜか?「再読」しない、する必要を感じないからだ。時局的な連載コラムを新聞や雑誌に書いていたときは、一週間分の新聞紙(五~六紙)を、処分できなかった。重要不可欠と思える記事は、切り抜きした。「仕事」に必要だ、と考えたからだ。しかし、コラムを書いてしまったら、新聞本体も、切り抜きも、すべて処分し、すっかり忘れた。コラム自体も、その内容はほとんど忘れた。

「忘れる。記憶にない。」は、よく解釈すれば、読んでも、「利用」しなかったからだ。学生は「試験」に、ビジネスマンは「仕事」に必要でなかったからだ。さらにいうと、試験や仕事に必要ないものは、読まない。必要なものでも、読んで使ったら、よほど重要でなければ、あっさり忘れる。

わたしもそうだった。大学に入るまで、まともな読書はしたことがなかった、と思ってきた。本箱には、教科書と受験参考書しかなかった(ように思える)。しかし、四〇代、少年期の「読書」について書かなければならなくなったとき、にわかに思い起こしたのだ。中学のとき、ドストエフスキー(1821~81)『罪と罰』(1866)を読んだ。読んだだけではない。この本の「内容」を忘れることができず、「忘れる」ために、二〇代の半ばまで苦しんだのだ。それをすっかり忘れていたのだから、われながら驚きであった。が、ホッともした。忘れたいこと、忘れてもいいことを、忘れることができたからだ。(この理由は拙著『シニアのための「反」読書論』〔文芸社2015〕にくわしく書いた。)

1・2読んだ本を「全部」忘れるのは不可能だ

忘れる本

「忘れる本」は、「忘れてもいい本」だ。ひとまずこういいたい。

わたしの妻は、「眠り薬」の代わりに「本」を読む。もちろんわたしが書いた本は、読まない。「あなたが亡くなってからゆっくり読む。」という。ちょっと寂しい気もするがこれには助かる。プライベイトなことに触れることを書いても、支障が生じない。なにせ、読まれないのだから。

妻がベッドで読む本は、そのほとんどすべてが「小説」である。「眠り薬」のためだから、「消灯」は早い。ときに、スタンドを点けたまま寝ていることがある。読んでも、全部、忘れるそうだ。読んで、忘れることができないほど面白く、眠れなくなったら、読書の目的に反するのだから、当然といえば、当然だろう。

妻が読む本は、ほとんどわたしが読んだことのない本である。「好み」が違うからで、意識してそうしているわけではないだろう(と思いたい)。何冊か、否、数一〇冊になるだろうか、偶然、同じ本を読むケースがある。別々に買って、関係なく読むのだ。ただし、二人が、共通の本について語り合うことはない。なにせ、妻はきれいさっぱり忘れた、と言明するからだ。わたしのほうは、たとえば、宮本美智子(1945~97)「世にも美し「いダイエット」(1994)を妻の本置き場から抜き出して、仕事で使い、宮本の他の本とともに、自分の蔵書に加えてしまった、というケースはある。

その他に、妻は、クッキング、健康、農耕、動植物図鑑、それに税金関連等々、の本や雑誌をひっきりなしに買って、黙々と(?)読んでいる。「家事」(work)全般に関連するもので、「忘れてはならじ」と、膨大な―トとメモをとっている。ノート類は、貴重品と思えるが、忘れるのか、忘れがたいのか、を問い質したことはない。

論でいえば、ノートやメモをとると、それを利用してしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。もそうなのではないだろうか。わたしも、卒論や論文を書くために、はじめは膨大(?)なノートやメモをとったが、ほとんどは読まなかったし、メモも多すぎて活用できなかった。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。

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岩波講座『世界歷史21』

 岩波講座『世界歷史21』

二つの大戦と帝国主義20世紀前半

ソヴィエト社会主義の成立とその国際的文脈

はじめに

二〇世紀初頭のロシアの社会主義者は、西ヨーロッパと比較しての自国の後進性を強く意識していた。農業国で「ブルジョア」民主主義も達成されていないロシアではなく、強大なプロレタリアートを擁し、ブルジョア革命の課題がすでに果たされている西ヨーロパでこそ、社会主義革命は起こるであろう。こうした観点をどの国のマルクス主義者も共有していた。だが、自国の後進性に対する自覚は、ロシアの一部の社会主義者に、独特な世界革命の展望を打ち出すための動機をも与えた。そうした展望には、レフ・トロツキーの永続革命論だけではなく、ウラジール・レーニンの帝国主義論も含まれた。第一次世界大戦を触媒としてレーニンは、資本主義全体の破滅が迫っているとの認識を得るとともに、ヨーロッパばかりかロシア、さらには被抑圧地域までもが社会主義へと向かう革命に突入するという、壮大な世界史像を打ち出した。本稿は、ロシアの社会主義者が自国に新しい社会体制を打ち立てる過程を、ヨーロッパ、とくにドイツの社会主義運動の動向を参照しながら検討する。また、ロシアの社会主義者がコミンテルンを通じて打ち出した世界(史)認識について-察する。後進的とされる諸地域が歴史の主体となる世界史像を打ち出したことは、ソヴィエト社会主義に独特の輝きを付与したのである。

  • 帝国主義と第一次世界大戦

ヨーロッパ社会主義者の混迷

一八七三年、ウィーンで起こった恐慌を起点にして、ヨーロッパと北アメリカは長い不況に入った。社会主義者はこの「大不況」資本主義の最後が間近であるあかしと受け取った(McDonough1995:341)。無調整な資本主義のもとでは生産過剰による恐慌が避けられず、資本家は新しい市場の開発と従来の市場のさらなる開発によって危機を乗り切ろうとするが、かえって恐慌予防の手段を減らし、いっそう全面的な恐慌を準備することになる。これがカール・マルクスの見通しであった(マルクス、エンゲルス一九六〇:四八一頁)。

だが、八九六年に「大不況」は終わり、好景気が訪れた。資本主義が予期せぬ回復力を発揮したことは社会主義者を混乱させた。ドイツ社会民主党右派のエドゥアルト・ベルンシュタインは、社会主義革命の追求ではなく、体制内での運動を主眼とせよと主張した。党活動の実態はすでにそうなっていたのだが、党主流派は社会主義革命の目標を棚上げする気にはなれなかった。カール・カウツキーはベルンシュタインの「修正主義」を党内で公式に否定することに成功したが、社会主義革命の好機はいずれ到来すると論じる以上のことはできなかった(McDonough1995:341-346;スティーンソン一九九〇一六九―一九三頁)。

ヨーロッパ社会主義者の動向には、一九〇五年の第一次ロシア革命が影響を与えた。ペテルブルグでは労働者評議会(ソヴィエト)が組織され、一二月にはモスクワで労働者の武装蜂起が起こった。これに触発されて各国社会主義運動の左派は、街頭での大衆運動を重視するようになったが、カウツキーたち主流派は労働者の勢力が十分でない時点で政府との対決姿勢を強めることに慎重であった。こうしてヨーロッパの社会運動は右派、左派、それにイデオロギー上は社会主義革命を掲げつつも、実践では改良主義の立場をとる中間派に分極化した(スティーンソン一九九〇:一九四一二二八頁)。

理論面であらたな局面を切り開いたのは、オーストリアのルドルフ・ヒルファディングである。彼は『金融資本論』(一九一〇年)で資本主義の回復に説明を与えた。マルクスの時代と異なり現代資本主義では、産業資本ではなく銀行資本の役割が増えた。銀行資本は産業資本と融合して金融資本となる。競争を特徴とする産業資本が国家介入を嫌うのに対して、金融資本は安定を好むために国家の介入・保護を求め、政治権力との関係も緊密化する。資本の集中と経営の大規模化が進み、トラスト化が進行する。無政府状態的な競争にかえて、トラストによる経済の調整が進み、恐慌の可能性は減る。こうして金融資本のもとで現代資本主義は、より組織された性格を帯びる(「組織資本主義」)。金融資本はまた、投資先を求めて政府の植民地拡大を後押しするため、帝国主義が本格化する。こうしたヒルファディングの理論は、同時代の社会主義者に広く受け入れられた(McDonough1995:348-350)。

問題は、ヒルファディングの認識を大枠で共有した上で、どのような目標を立て、その実現のために何をなすべきかということであった。第一次世界大戦が始まると、何をなすべきかという問いはいっそう鋭さを増した。

戦時統制経済

社会主義者は労働者階級の国際連帯を旗印とし、一八八九年にはヨーロッパの社会主義政党を中心にして社会主義インターナショナル(第二インター)を結成していた。そのシュトゥットガルト大会(一九〇七年)は、戦争阻止のために努力し、開戦後はその即時中止を目指して介入すること、さらには資本家の支配の没落を促進するために戦争によって生じた危機を利用しなければならないと決議した。だが実際に、一九一四年夏に各国政府が参戦すると、諸社会主義政党も戦時予算を受け入れ、

第二インターは崩壊した。反戦を維持したローザ・ルクセンブルクのような左派は少数であった(西川一九八九:二三〇、一八七―二〇三頁)。

戦争の長期化にともない、各国では戦時経済体制が構築された。とくにドイツでは諸企業の国有化、原料・燃料の配分、価格規制、食糧配給などで国家による経済生活の計画的な管理が実現した。「組織資本主義」の延長線上に出現したこの体制は、社会主義者の関心をひいた。ドイツ社会民主党内で支配勢力となった右派のうちには、戦時統制経済を「国家社会主義」とみなし、社会主義への接近として評価するものが現れた(XMeJIbHHIKA1927:143,150)。右派に近い『社会主義月刊』誌の「国家社会主義」欄(この欄自体は一九一〇年開始のようである)は、開戦後最初の回(一九四年一二月九日)で、「戦争は経済的・社会的生活を維持し規制するための、巨大な一連の国家的措置をおのずから必要とした」と記し、クレジット取引を維持するための貸付金庫開設法の議決などを報じた(SozialistischeMonatshefte

国家社会主義の支持者のうちインリヒ・クーノは、ドイツ政府による帝国主義(植民地支配)の追求をとくに積極的に肯定した。帝国主義が社会主義に先行する「段階」である以上、ドイツがその段階を進むのを支援すべきであると彼は論じた。冊子『党の崩壊?』(一九一五年)で彼は記した。「新しい帝国主義的な発展段階は、より早期の発展段階、たとえば機械制大工業の形成がそうであったように、資本主義の新しい、内的な、金融面での生活条件の中から成長して出てきた発展時期であり、そのようなものとして不可避の、社会主義への通過段階なのである」(Cunow1915:14)。クーノの主張は植民地支配の正当化であったが、発展段階論に立ち、社会主義への接近を志向する点で、マルクス主義者による戦争への積極的な対応の一つの姿であった。

社会主義者がみな帝国主義を段階と考えたわけはない。右派の露骨な戦争支持に批判的なカウツキーは、一九一五年四月にクーノに反論した。ヒルファディングは「帝国主義という語をある特殊な種類の政策の意味で用いたのであり、「経済段階」としてではなかった」とカウツキーはいう。不可避的な段階ではなく政策である以上、帝国主義を推進しても社会主義にたどりつけるとは限らず、帝国主義政策にかえて各国金融資本の国際連合による世界の搾取という、「超帝国主義」政策が現れる可能性がある、と彼は論じた(Kautsky1915:111,144)。

レーニンの帝国主義論

スイスに亡命中のレーニンは、ドイツでの議論を丹念に追っていた。彼はクーノを帝国主義的として非難したが、帝国主義を政策ではなく段階とする点ではカウツキーよりもクーノと重なる点があった。レーニンにとってカウツキの「超帝国主義」論は、資本主義の廃絶という課題を回避するものであった(レーニン全集二二巻・一九五七:三一二―三一三頁)。

レーニンは、帝国主義を段階とした上で、その先に進もうとした。彼によれば「帝国主義とは、二〇世紀にはじめて到達した資本主義の最高の発展段階である」。金融資本の支配が植民地支配と世界分割を推進し、世界戦争を引き起こすにいたった。「いまや人類は、社会主義にうつるか、それとも植民地や独占や特権やありとあらゆる民族抑圧によって資本を人為的に存続させるための「大」国間の武力闘争を、数年間も、さらには数十年にわたってさえたえしのぶか、そのいずれかをえらぶようせまられている」。それゆえ、「現代の帝国主義戦争の内乱〔内戦〕への転化」が必要なのであった(レーニン全集二一巻・一九五七:二〇〔訳は変更〕、二二五、三〇七―三〇八頁)。

注目すべきは、戦争の進展につれ、レーニンによるロシア革命の位置づけが変化したことである。彼は他の社会主義者と同様、後進国ロシアの当面の課題は共和政樹立などの民主主義革命であると考え、ロシアの革命とヨーロッパ社会主義革命とを単に並置していた。一九一五年七月の時点でも「ロシアは、もっともおくれた国であって、そこでは社会主義革命は直接には不可能」と記していた。だが、九月後半の論説「ロシアの敗北と革命的危機」では、レーニンの認識には変化が見られた。同論説はロシアで自由主義政党のカデット(立憲民主党)などが政府批判を強めたため、皇帝ニコラ一世が九月半ばに下院を休会させたことを受けていた。レーニンはこの情勢を「ロシアにおける革命的危機のもっともきわだった現れの一つ」と評価した上で、こう記した。一九〇五年革命と異なり「ロシアにおけるブルジョア民主主義革命は、いまではもう、西欧の社会主義革命の序曲であるだけではなく、切りはなすことのできない構成部分なのである」。「戦争が全ヨーロッパを」とらえたことが、レーニンがロシアとヨーロッパの革命を直接に結合させるための背景をなしていた(レーニン全集二巻・一九五七:七、一五七、二八〇、三九二―三九三頁)。

これによりレーニンの展望はトロッキーに接近した。一九〇五年革命の経験に基づきトロッキーは、ロシアではプロレタリアートがブルジョア革命を主導し、さらに連続的に社会主義革命に進んでいくという「永続革命論」を唱えていた(トロッキー一九六七)。これに対してレーニンにおいては、帝国主義と世界戦争がヨーロッパ、さらに世界を一体化させたことによって、ロシア革命の連続的発展の展望が開けたのである。

だが、遅れたロシアはどのようにしてヨーロッパ社会主義革命と歩調を合わせることができるのか。第一の答えは先進ヨーロッパの支援であるが、それが直ちに得られる保証はなかった。第二の答えは革命戦争である。一九一五年八月の「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」でレーニンは、西ヨーロッパ諸国を念頭において、当初は一国でも、革命戦争により社会主義を維持することが可能との認識を打ち出した。「若干のテーゼ」(一〇月一三日発表)ではこの認識がロシアを念頭において具体化された。革命によって自分たちボリシェヴィキが権力についた場合には何をするのかという踏み込んだ問いを立て、レーニンは記した。全交戦国に「植民地と、すべての従属的な、抑圧されている、完全な権利をもたない諸民族との解放を条件として」講和を提議する。現在の政府のもとでは各国ともこの条件を受け入れることができない。「そうなれば、われわれは革命戦争を準備し、遂行しなければならないであろう」。ここで「革命戦争」の主体は、ヨーロッパ諸国民だけに限定されなかった。「いま大ロシア人に抑圧されているすべての民族、アジアのすべての植民地・従属国(インド、中国、ペルシア、その他)を反乱に立ちあがらせる」ことを彼は考えていた(レーニン全集二一巻・一九五七和田一九七七二〇頁、vanRee2010:160-164)。帝国主義と四一七一四一九頁、世界戦争が、世界革命の展望を開いたある。第三の答えは戦時統制経済にあった。一九一六年末にレーニンは、若い同志ニコライ・ブハーリンの戦時統制経済論のコンセプト「国家資本主義」を受け入れ、経済生活全般が国家によって管理され、計画原理が導入されるまでになったことに注意を向けた。レーニンは「国家資本主義」から社会主義までの距離は限りなく小さいと見た。彼は戦時統制経済がある程度まで確立されていたロシアでも、革命後に社会主義に移行することは可能であるとの認識をかためたと考えることができる(和田一九八二:二七ニー二七六頁)。

こうしてレーニンは徐々に、ヨーロッパで社会主義革命が起こるまでの短期間という条件付きではあるが、ロシア一国でも社会主義建設を進めることができると示唆するようになった。一国社会主義論の萌芽がここにあった。

一九一七年春二月革命の報を受けたレーニンは、封印列車でドイツを経て帰国した。社会主義者のエスエル(社会主義者=革命家党)とメンシェヴィキは、各都市で労働者・兵士代表ソヴィエトを組織して、民主的な講和を実現するようにカデット主導の臨時政府に圧力をかけたが、戦線維持には理解を示した。連立政府となった五月以降、国政の主導権は社会主義者に移ったが、彼らもまた、数ヵ月以内に普通選挙の実施が見込まれていた憲法制定会議が開催されるまで、急進的な改革に踏み切ろうとはしなかった(ブルダコーフ二〇一七)。民衆の間では、戦争の即時停止、臨時政府の打倒を掲げるレーニンへの支持が高まっていった。

六月二一日には「経済会議」が設置された。「国民経済の一般組織計画の策定」などを課題とし、商工省の活動計画などを検討した。だが、社会主義者と主義者の意見調整は難航した。メンシェヴィキの労働大臣とカデットの商工省次官がそれぞれ作成した経済政策宣言案は、いずれも採択されなかった。財務省には二月革命後の直接税と間接税の税収の割合についての資料がなく、一九一七年度の予算も同省幹部によれば、誰も承認するものがいないので存在しないということであった。一〇月前半に経済会議は活動をやめた(Ky3HeuOza2011:7-10,15,18)。

  • ロシア内戦と社会主義

ソヴィエト政権の成立

一九一七年一〇月二五日、十月革命によってボリシェヴィキが政権についた。新政府人民委員会議の首班にはレーニンがついた。彼の主導で第二回全ロシア・ソヴィエト大会は「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択した。政権は理念上は集団経営を支持していたが、「土地に関する布告」では農民による地主所有地の奪取と細分化を是認した(ACB1957:17-20,408)。国内の後進地域である農村との提携路線には、被抑圧民族との提携という「若干のテーゼ」との類似性を見出せる。

「平和に関する布告」は「若干のテーゼ」の直接の延長線上にあり、無併合・無償金に基づく民主的講和のための交渉に即時入るよう、各国の国民と政府に呼びかけた。「無併合」は植民地支配の全面的な否認であり、大国による小民族の強制的な編入は、その時期や、当該民族の発展の程度にかかわらず否定された(Ibid:12-16)。

各国政府が無反応であることまではレーニンは予期していたが、イギリス・フランス・ドイツ労働者の応答がなかったことは彼の期待を裏切った。一一月二〇日には民族人民委員ヨシフ・スターリンとレーニンの署名で「ロシアと東方の全勤労ムスリムへの呼びかけ」を出し(Ibid:113-115)、旧ロシア帝国の諸地域や中東・インドのムスリムとの連携を図ったが、呼びかけにとどまった。非ロシア人地域はどこでも、十月革命により混乱する大ロシアから離れつつあった。

結局ドイツ側中央同盟国だけが、講和交渉に応じた。ブハーリンたちは革命戦争を主張したが、レーニンは政権の存続を最優先とし、一九一八年三月三日にブレスト・リトフスク講和条約を締結した。ソヴィエト・ロシアは沿バルト全域およびベラルーシの一部の領有権を手放し、フィンランドとウクライナから撤退し、ザカフカースの一部をオスマン帝国に移譲した。これに先立って中央同盟国は、一月二七日にウクニナ人民共和国ともブレスト・リトフスクで講和条約を結んでいた。これは第一次世界大戦で最初の講和条約である。「民族自決」が適用された点で、二つのブレスト講和には新しい潮流に応えた側面があった。パリ講和会議での中東欧の新興国の成立をも先取りしていた。

この間人民委員会議は、企業経営に対する労働者統制(じきに形骸化した)、銀行の国有化など、経済管理に関わる諸措置を採用した。一九一七年一二月一日には経済生活の国家管理のために最高国民経済会議を設置した。帝政期につくられた戦時統制機構もここに吸収された。翌年春までに試行錯誤的に諸企業の国有化がなされた。これら一連の措置は社会主義そのものとは考えられなかった。一九一八年二月一日発表の一文でレーニンは、現在のロシアには「みごとな技術装備をもつ、ドイツの組織された国家資本主義以上に高度な、新しい経済制度は、まだない」と記した。

レーニンの認識では、ロシアは資本主義から社会主義への移行期にあった。一九一八年一月六日に憲法制定会議(農民の支持を受けたエスエルが第一党となった。エスエルは人民委員会議を認めておらず、レーニンは憲法制定会議を解散すると決めた。会議は一月五日に一日だけ開かれた)が閉鎖された後、第三回全ロシア・ソヴィエト大会で「ロシア社会主義ソ「ヴィエト共和国」という国名が打ち出された(七月に憲法が制定され、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(RSFSR)の名称が確定する。その後、「社会主義」と「ソヴィエト」の語順は入れ替わる)。「社会主義への移行を実現しようという」「決意」が、国名の意味するものであった。レーニンはこうした移行期にある国家を「プロレタリアート独裁」と呼んだ。カウツキーは「プロレタリアート独裁とは〔中略〕自然な発展段階を飛び越える、あるいは法令によって取り去るための壮大な試みである」と述べたが、正鵠を射ていた。

一九一八年三月にはブレスト講和の締結と軌を一にして、より安全な内陸部のモスクワに首都を移した。党名も第七回党大会(三月六十八日)でロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)からロシア共産党(ボリシェヴィキ)に改称した。「社会民主(主義)」の語が放棄されたのは、第二インターの社会民主政党の失墜のためであるが、十月革命によって「民主主義」の観念自体が見直しを迫られたためでもあった。モスクワ市プレスニャ地区党委員会は党名改称を支持して、「労働運動の平和的発展の時期には、社会主義諸政党の必要かつ進歩的な要素であった民主主義の諸要求」の綱領は、「現在かつての意義を喪失している」と述べた(Couna-Hemokpar.8Mapra1918:3)。レーニンも「労働者が自分自身の国家をつくりだしたとき、わが国の革命の発展過程のなかで民主主義―ブルジョア民主主義の古い概念が乗りこコミューン型の新えられたところに、労働者は到達した」と述べた(レーニン全集二七巻・一九五八:一二五頁)。しい国家であるソヴィエト共和国では、社会民主主義を含む旧来の民主主義全般が古くなったのである。

そのことは「ブルジョア的な」市民的自由の観念が否定されるということでもあった。前年一一月二八日(憲法制定会議の当初の開会予定日)、政権はカデットを「人民の敵の党」と呼び、その幹部の逮捕に踏み切った。逮捕から逃れて潜伏したフョードルェフは、一九一八年一月一日、同志のソフィア・パーニナ(逮捕され、裁判の後に釈放)宛ての手紙に「新年おめでとう。古い年、それにロシアのレトロ革命(レトロ=ヴォリューション)は呪われんことを」と記した。市民的自由の確立を目指してきたカデットにとっては、ロシア革命は歴史の逆行に帰結したのだった。

内戦と国家建設

一九一八年五月半ば、四万人弱のチェコスロヴァキア軍団がウラル地方のチェリャビンスクで反乱を起こした。同軍団は第一次世界大戦中にロシア軍に投降したハプスブルク帝国軍の兵士から編成され、西部戦線に参加するためにソヴィエト政権の許可を得てウラジオストックに向かっていた。だが、チェリャビンスクでソヴィエト政権と諍いになり、反乱を起こしたのである。多様な反ボリシェヴィキ勢力が呼応して、沿ヴォルガ・ウラル・シベリアにいたる地域がソヴィエトロシアから切り離された。軍団の救出を名目として、連合国も八月以降、ロシアに軍事干渉を開始した(林二〇二:一〇九、一三六一一七一、一七六―一九〇頁)。これによりロシア内戦は第一次世界大戦と直結した。ただし、一一月に大戦が終わると、東部戦線の再構築という連合国のロシア介入の一番の目的は消滅し、反ボリシェヴィキ諸勢力に対する連合国の支援も中途半端なものとなった。

ソヴィエト総会では一九一八年六月以降、エスエル・メンシェヴィキが放逐され、七月の左派エスエル反乱後は同党も分裂し、代議員はほぼ共産党および無党派だけとなった(池田二〇一七一八七一八八頁)。この現状をカウツキは、プロレタリアート独裁ではなく「プロレタリアート内部での一党の独裁」と批判した。そもそも独裁が臨時措置ではなく恒常化していることが問題であった。「われらがボリシェヴィキの同志たちは全てを全ヨーロッパ革命という札に賭けた。この札が通らなかったとき、彼らは解決不能な諸課題を突きつけるような道に追いやられた」。それゆえ彼らは独裁の恒常化に依拠しているとカウツキーは論じた(Kautsky1918:29,38,60)

内戦の展開と並行して、ソヴィエト・ロシアでは赤軍の建設、経済・行政機構の確立、農村における徴兵・穀物徴発体制の整備、共産党組織の集権化が一体的に進んだ。軸となったのは共産党組織である。都市部の食糧不足が深刻になり、労働者の間に不穏な情勢が強まった一九一八年五月を境にして、中央委員会から県・市の党委員会へと連なる指揮系統に服することが、党員集団に対して明確に求められるようになった。これ以降、穀物徴発のための農村への人員派遣、内戦の前線への派遣などを通して、軍事的な規律をもった党組織の集権的編成が進んだ。

経済面では企業の国有化が包括的な性格を帯びた。一九一八年六月二八日に重要工場企業の全面的国有化がなされたのである。国有化企業数はそれまでの四八七から八月末までに三一一四に跳ね上がった。これらの企業の管理にあたった最高国民経済会議には、産業部門ごとに総管理局(グラフキ)がおかれた(庄野一九六八:七六二―七八五頁)。この企業管理体制においては、中央機構と地方機構、また部門間で、物資の確保をめぐる権限争いや汚職が絶えなかった。その皺寄せとして、「ブルジョア的」な出自をもつ革命前からの職員(民間からの転入者も含む)が攻撃され、冤罪事件も発生した(CBHA3HHCKas2011)。職員攻撃の背景には、政権が彼ら旧職員に依拠せざるをえないことがあった。最高国民経済会議の中央機構では旧職員の比率は四八・三パーセントに上った(powHnKOB1973:53)。

対農民政策では、都市の食糧危機が強まった一九一八年五月以降は、都市政権にとっての他者としての農村という把握が前景化した。穀物の確保が対農村政策における最重要課題であった。一九一九年一月には、穀物徴発量を事前に確定して県ごとに割り当てる割当徴発制度(帝政末期に先例をもつ)が全国的に導入された(梶川一九九八二九十三四頁)。

軍事面では旧軍将校の利用というトロツキー路線が功を奏し、一九一八年夏までに最高指揮機構が確立された。総ルガ・ウラル地方の奪還にじてソヴィエト政権は旧軍の事務機構を活用することができた。八月以降、赤軍は沿ヴ成功した(Smele2015:81-88)。一一月にはドイツ革命が起こり、世界革命の展望が開けたかのように見えた。

とはいえソヴィエト・ロシアの孤立が急に緩和されるわけではなく、経済構造がすぐに変革される見通しもなかった。九一九年春の第八回党大会(三月一八一二三日)で新しい党綱領案を議論した際、ブハーリンは目下の事象であるが緒についたのである。その最初のものとして三月珍坦ムスリム勢力とモスクワとの協議の結果、バシキリア自治ソヴィエト社会主義共和国が成立した(Schafer2001)。共産党支配が前提ではあるが、現地住民の政治参加を実現し、その文化育成に努める自治共和国体制は、同時代の列強の植民地支配と比べて先進的であった。

一九一九年六月には、アレクサンドル・コルチャークムスク政権の部隊を赤軍が押し戻し、シベリア・極東のソヴィエト化の展望が開けた。極東の中国人・朝鮮人の革命運動も活発化した。反日本帝国の目標を掲げる彼らは、ロシア共産党の重要な提携者であった。コミンテルン執行委員会ビュローは一二月に「東方問題について」を議題とし、中国・日本・朝鮮・インドトルコ・ペルシア諸民族への個別のアピールの準備を始めた(山内二〇〇七:一三五―一三六頁)。「東方」がコミンテルンの視野に本格的に入り始めたのである。

一九二〇年二月、ソヴィエト・ロシアは内戦開始以来初の講和となるタル・トゥ条約をエストニアと締結した。四月までに日本を除く連合国の部隊も撤兵した。四月には赤軍がアゼルバイジャンを征圧するなど、旧帝国版図の多くもモスクワの支配に服しつつあった。

第二回ュミンテルン大会(一九二〇年七月一九日|八月七日)は、赤軍のポーランド進軍と重なり、代議員はヨーロッパのソヴィエト化の展望に沸いた。だが本大会のより重要な点は、東方諸地域および植民地が存在感を高めたことである。第一回大会に代表がいた中国、朝鮮(この二地域は在露活動家が代表)(石川二〇〇七、水野二〇〇七)、トルコ、ペルシアにくわえ、インド、メキシュ、オランダ領インドネシア(オランダ人マーリン)の代表も参加した。その結果、第二回大会の議論には顕著な特徴が生じた。それは、先進諸国およびロシアだけではなく、被抑圧地域も視野に入れた「世界史」像が、出席者の間で共有されていたことである。「帝国主義戦争は従属地域の諸民族を世界史に引き入れた」とレーニンは大会で述べた(Bropoi1934:619-625;レーニン全集三一巻・一九五九:二二五頁)。

大会では後進諸民族の世界史上の位置が激しく議論された。レーニンの報告によれば、民族・植民地問題小委員会では、「国民経済発展の資本主義的段階」は「後進の諸民族にとって不可避である」と考えることは正くないとの結論にいたった。「先進国のプロレタリアートの援助をえて、後進国はソヴィエト体制に移行し、資本主義的発展段階を飛びこえて、一定の発展段階を経て共産主義へ移行」できるのである(レーニン全集三一巻・一九五九:二三七頁〔訳は変更〕)。ドイツ社会民主党左派出身のカール・ラデックもこう述べた。「同志レーニンは、全ての諸国民が資本主義の段階を経過すると考えるためのいかなる理論的根拠もないと指摘した。今日の資本主義諸国の全てが、工場制手工業の時期を通過して資本主義にたどりついたのではない。日本は封建主義から直接に帝国主義的文化に移行したのだ」(Bropoň1934:115)。こうしてマルクス主義の特徴の一つである段階論的な世界史認識が、国際共産主義運動の座標に据えられた。

一九二〇年の時点では、反帝国主義運動の高揚を背景として、前進運動の速度、段階の跳躍や短縮――ソヴィエロシア自身が試みていた――への楽観論が目立った。インドの共産主義者マナベンドラ・ローイは、インド資本主義の成長の速度をレーニンよりも高く見積もり、民族ブルジョア一般とではなく、革命的な性格をもった部分だけと提携すべきとの見解をレーニンに受け入れさせた(ヘイスコックス一九八六:九一一六頁)。オランダ領インドネシアのマーリンは、「植民地のためにいわゆるクーノ的マルクス主義を採用すべきではない」と述べ、ある段階(この文脈では資本主義)を必ず通過すると考えるべきではないと論じた(Bropoň1934:138)。

実は、先進地域の成果から学ぶことで、後進地域は諸段階を跳び越えることができるという認識は、一九〇七年にカウツキーも示していたが、それはあくまで理論上の平面においてであった(Lih2019:56)。これに対して、いまや跳躍の可能性は実践上の平面に移された。それはまた、被抑圧・後進地域の民族も、世界史の主体とみなされたということでもあった。この点は、ヨーロッパ中心の第二インターにはないコミンテルンの特徴であった。

かくしてソヴィエト社会主義が、被抑圧地域を重要な主体とする「世界史」像を具現化したという意味で、コミンテルン第二回大会は決定的な意義をもったのである。

三、ソヴィエト社会主義とアウタルキー

世界資本主義の安定

内戦が収束に向かう一九一九年末、ソヴィエト政権はトロツキーの主導で労働の軍事化に着手した。これは一種のアウタルキー(自給自足)政策であった。外国からの工業製品や資本の獲得が不可能な状況にあって、軍隊を労働軍に改組し、全般的労働義務制と組み合わせることで、労働強化による工業の再建を図ったのである。トロIは最高国民経済会議の地方分権化などの機構改革も求めた。守勢に立たされた最高国民経済会議議長アレクセイ・ルイコフは、第九回党大会(一九二〇年三月二九日1四月五日)で、資本主義諸国とのつながりを排除した構想では経済復興は困難であると指摘した(Day2004:21-34)。

現物経済化が進む一九二〇年のロシアは、社会主義に急速に向かっているように見えた(ただし闇市場は残った)。エフゲーニー・プレオブラジェンスキーは際限なき紙幣発行を、対価なしで流通界から価値物を汲み出す特殊な税金のようなものと評価した(上垣一九七八:四六頁)。だが八月、ワルシャワ近郊に迫った赤軍がポンド軍に押し戻され、ヨーロッパ革命の希望が遠のくとともに、ルイコフが提起した選択肢が現実味を帯び始めた。この年一月に連合国はロシアの封鎖解除を決定していた。一一月二三日、人民委員会議は資本主義諸国への利権供与を認める法令を採択した。年末までにレーニンは、労働組合の国家との一体化を主張するトロツキーを抑え、労働組合の一定の自立性を擁護することで、労働の軍事化路線の終わりが近いことを示した(IIITeăH1949:394-397;Day2004:39-41,52)。一九二〇年夏から農村では過酷な穀物徴発に対する蜂起があいついだ。一九二一年春には食糧不足や労働動員体制に対する労働者の抗議行動が、ペトログラードやモスクワをはじめとする都市部に起こった。農村の窮状に同情的なクロンショット要塞の水兵も反乱を起こした。食糧供給を改善して都市労働者の抗議を静めるため、第一〇回党大会(一九二一年三月八一一六日)は穀物割当微発から食糧税(現物税)への転換を決め、納税後に農民の手元に残った穀物は局地市場で取引できるようにした(石井一九七七:一二―二四頁)。この転換を説明するにあたってレーニンは、穀物割当徴発を念頭において、これまでは荒廃と戦争によって「戦時共産主義」を余儀なくされていたと語った。一九一八年春にわれわれは、国家資本主義は一歩前進であると考えていたが、現在ふたたびプロレタリアート独裁を国家資本主義と組み合わせようとしているのだとも述べた(レーニン全集三二巻・一九五九:三六九三七二頁)。レーニンは社会主義への前進運動における転進を、「強いられた戦時共産主義」から「一九一八年春の元来の路線への回帰」として説明したのである。しかし、割当微発や全般的労働義務制のような、「戦時共産主義」として考えられた諸施策は、内戦がおおむね収束した後の一九二〇年にも、社会主義への有効な方策として精力的に追求されてきたので、「強いられた」という説明には無理があった。また、一九一八年春には、政権と市場や商業の関係については論じられていなかったので、一九二一年春の転換と一九一八年春との間に直接的な関係を想定することもできない(門脇一九七一)。第一○回党大会は市場経済の全面導入に踏み切ったわけではなく、協同組合を介した工業製品(たとえば繊維品)と農産物の地域的な商品交換を想定していた。だが、市場経済は政権の想定を超えてなし崩し的に拡大し、農業にくわえ、小売業・中小企業・消費財産業も私的原理に委ねられることになった。鉱山、金属・機械・石油化学といった資本財産業・重工業の大半は「官制高地」として国有化を維持し、最高国民経済会議が管理を続けた。「官制高地」という軍事用語が示す通り、共産党の認識では私的経済という敵が彼らを包囲していた。企業経営には独立採算制が導入され、失業も発生した。この現状が一九二一年末までに「新経済政策」、また略称「ネップ」と呼ばれるようになった石井一九七七:三、二五十三二頁、Shearer1996:27-28)。

共産党は重工業主体の工業化を目標としたが、農民の消費意欲を喚起して、穀物を市場で現金化させるためには、消費財生産を強化する必要があった。だが、工業化の原資を得るためには、農民に有利な市場価格で穀物を確保するのは望ましくはなかった。結局、農業国ロシアをいかに工業化するかという、帝政期以来の問題が共産党の前に立ちはだかっていた。財務人民委員グリゴーリー・ソューリニコフは国際経済との接続路線を追求し、外国からの消費財の輸入、借款の実現を目指した。通貨安定と予算の均衡も実現させた。だが、一九二二年五月、ソヴィエト・ロシアも参加したジェノヴァ会議が成果なり、この方面での楽観ができないことが分かった(Day2004:60-65;ノーヴ一九八二一〇二―一〇四頁)。

 第10章 私の展開は「個と超」とする
個の自立から分化と統合を繰り返す
現象の概要として私の歴史を作る
個と超をつなげた新たな数学
存在から目的を達成して超に至る
現象を解析して存在を分化させる
他者の世界の変革する
超として私の宇宙を創造する
存在は個となり 無は超となる
 ダブルスターの日なので昼食はスタバ #スタバ風景
 豊田市図書館の1冊
412.2バツ『未来から来た男』ジョン・フォン・ノイマン
11月15日(水) 

 フロントが4人だから二列目両脇のてれさと桜が目立つ それと裏センターの和とあやめ #池田瑛紗
 4つのシンメ かきさく やまくぼ てれさく まゆうめ さいごがまゆせーらなら #早川聖来
11月16日(木) 

 私を 「存在」とした以上 未唯空間は「空間」へ 未唯宇宙は「宇宙」とします 未唯からの別離
11月17日(金) 

 30年で世界を掌握する方法
神(女性格)は女性に対して 子供を支配せよ!と伝えた そして平和に向かせる 戦わせない教育で30年もすれば 平和になる
 アラブの石油はアラブの女性を強くするために神が配置した 教育を受けた 払うの女性が部屋を求める時 世界は変わる
 女性は自立して家族制度を変革させる 家を守らず自分を守る 生まれていた個として有限であることを示す 有限である以上 所有とは無関係になる いかに この目的を果たすか そのための方向を示すものは 共有
 これおもろい

 奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   158
お茶 138
トマトジュース 178
鮭切身         300
あまおうケーキ          218
鍋野菜         258
みかん         380
スペアリブ    457
ポテサラ       100
納豆            118
天ぷら         398
 豊田市図書館の6冊
133.5ポパ『果てしなき探究(上))知的自由
133.5ポパ『果てしなき探究(下))知的自由
133.5コダ『オックスフォード哲学者奇行』
234.07『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』
321サト『21の物語から考える法学入門』
368.2リス『貧困とはなにか』概念・言説・ポリティックス
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『哲学の課題』

 『哲学の課題』

樫山欽四郎

ヘーゲルと現代

どこに問題があるか

ヘーゲルについてということですが、いろいろ問題がありますので、ある一つの問題に限って話をします。ヘーゲルというのは一方では非常に歓迎されているが、他方では徹底的にきらわれている。そういう思想家なんです。有名なヘーゲルの言葉に「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というのがありますが、これは諸君も聞いたことがあると思います。これは『法哲学』の序文の中に出てくる非常に有名な言葉です。この言葉がたいへん評判が悪くそういう評判が常識となって一般に受け入れられている。普通の考えで言うと、理性的に考えられたものがそのまま現実であり、現実的なものはそのままわれわれの考えること(理性的なこと)に一致していると言ったことになるから、現実はそのままでよろしい、ということになる。絶対的な手放しの現実肯定になるというのです。こういうふうに受け取られているために、この言葉は非常に評判が悪いのです。しかしよく考えてみると、なぜそういうことを言ったのか、よく理解されていないわけです。だから評判が悪い。フェアニュンフティヒ(vernünftig)というのは、つまり理性的であるというのは、普通の意味でわれわれが常識的に理性という言葉でいっている意味でなくて、後からわかりますように、弁証法的な意味に使われているわけです。現実という意味もやはりそうです。フェアニュンフティヒというのはドイツ語で言い換えるとすれば、ヴェーゼントリッヒという意味に近い意味で使われているのです。ヴェーゼンというのは普通、本質と訳しておりますけれども、本当は実在という意味です。普通実在といえばリアリティーのことですが、そういう意味ではなく、本質的な意味での実在、本当の実在というような意味です。ですからリアリティーという言葉でいうのとは意味が違います。今そのことには触れないことにします。本当の意味で実在(真理)であるものは、当然、現実にあるということで、本当のものはやはり現実になるということですね。ところが、普通現実ということで考えている場合、それがよくわかっているかというとそうとは言えない。本当の現実とは何かということは、実は一番わからない165難しいことです。だからその現実ということでもヘーゲルは非常に厳密に考え、定めています。それを今ここで説明すると長くなり、かえって混乱してわかりにくくなりますので、やめますが、とにかくヘーゲルは現実ということを自分の考えの流れの中で弁証法的に考えているわけです。普通に常識的に受け入れられた現実がそのまま理性的だなどと言っているのではない。だからその思索の流れの中で理解しないと、とんでもないことになってしまいます。ヘーゲルのように考えるということは、物事を流れの中で考えるということなんです。だから広く言うと歴史の中で考えるということです。歴史的に動いていく、その動きの中で考えていく。だから歴史的な動きの意味にとらないとわからないところが出てくる。このことは、これからお話しすることでわかってもらえると思います。そういうわけで、この言葉一つをとってみても一方では非常に賛成されるけれども、他方では極端にきらわれてきたのがヘーゲル哲学です。最近でもたとえば、バートランド・ラッセルという人はヘーゲル哲学を一言のもとに、はねつけています。この人は二十世紀のイギリスの代表的な思想家ですが、にべもなく、ヘーゲルというものを打ち消しています。

ヘーゲルの亡くなったのは一八三一年ですから現在までに約百三十年以上たっているわけです。その間いったいどういう取り扱いを受けてきたかというと、死んで、しばらくするとほとんど顧みられなくなってしまいました。十九世紀の後半以後はマルクスがヘーゲルを取り上げたために、マルクス主義の基礎になっているという意味で、取り上げられるということはありますけれども、それだけのことで、ヘーゲルをヘーゲルとして研究するということは行なわれませんでした。いわゆるオーソドックスの哲学では、ほとんど問題にされなかった。二十世紀に入ってから、一九一〇年頃、新カント学派のヴィンデルバントという人がヘーゲルをもう一度考え直す必要があるということを、『プレルーディエン』という本の中で書いています。しかし本当にヘーゲルが積極的に問題にされたのは、一九三〇年前後です。現在一般に流布しているヘーゲル全集は、そのころグロックナーという人が編集したものです。それでは、一九三一年にヘーゲル百年忌に際して起こってきたこのヘーゲル復興運動というのが、ずっと今日まで続いているのかというとそうではありません。それもいつの間にか立ち消えになってしまった。ところが今度の戦争がすんでから、急に研究が盛んになってきて、今まではほとんどヘーゲルを問題にしなかったフランスにおいてさえ取り上げられるようになってきた。最近数年の間には驚くほどヘーゲル研究の書物が各国で出版されている。十九世紀のある時期にイギリス人でヘーゲルを問題にした人々があります。有名な人ではブラッドリーとかカーライルとかいう人々です。しかし本国ドイツでは、十九世紀の後半からほとんど忘れられたかのごとくであった。それが現在では、いま言ったように盛んになってきた。戦後あいついでヘーゲル研究の書物が出ている。われわれが全部読もうとしても追いつけないほど出ている。だからヘーゲル理解のうえでも非常に歴史があるわけです。

どうして過去において、一方で非常に賛成されたかと思うと他方で反対されたかというと、そこには、そういうような二面が兼ね備わっていたためだと言えましょう。だからその二面のどちらかだけを取り出すと、極端な賛成と反対が出てくることになります。右と左の思想のどっちからも受け入れられそうなことが書いてある。だから一方でマルクスに非常に大きな影響を与えているかと思うと、反対に他方では、国家哲学に利用され、そのためプロイセンの御用哲学であるということまで言われている。ところが、不思議なことに、戦争中に日本でヘーゲルに関する本が、発禁になったことがあります。ちょっと考えるとなぜだかわからないのです。務台理作先生の『ヘーゲル研究』という書物は戦争中に出ていた。これが発禁になってしまった。どうして発禁になったのですかと先生に尋ねたことがあるのですが、どういうわけかわかりませんということでした。よく考えてみると、国家というものは世界史の中に流れ込んでしまうという思想が、ヘーゲルの歴史哲学に出てくるため、国家至上主義からいけないと見られたのではないかと、私は判断しています。そういうことを文部省あたりで考えたと思うのですがね。あの当時でも一方の人はヘーゲル哲学は御用哲学だということを言っている。だから国家主義の方からは認められてもよさそうだけれども、無視された。このことはヘーゲルという思想家が非常に大きく怪物的であるということにもなります。そのために理解の仕方でいろいろなことが出てくるというわけです。これは人から聞いた話ですから本当かどうかわかりませんが、西田幾多郎という人はヘーゲルを研究し、『論理学』を何べんも読んだといわれますが、そのことを頭に置いて西田哲学を読むとそういうことが感じられます。そういうので、ヘーゲルはいろいろな人からいろいろに見られるように、いろいろなことを一つにごたまぜにしているとも言えそうです。よく言えば、多くの複雑なことを考えぬき、それらを体系的に実によくまとめ上げていると言えます。だからどこをとってみても、その部分に非常に人を引きつけることを言っているわけです。問題のどれをとってみても何か考えさせるものをもっている。いろいろな解釈、いろいろな意見を成り立たせるようなもとがあるわけです。そこでそのようなことを通して、何が話されたかということ、それを私が理解した限りにおいてお話をしておきたいと思うのです。

さきほど、話しましたように、ヘーゲルが死んでから、ヘーゲル右派とヘーゲル左派というものに分かれたとされています。ヘーゲル左派のほうからはマルクスが出ている。ヘーゲル右派のほうは宗教哲学、国家哲学に向かっている。ルードヴィッヒ・ハイムという人の『ヘーゲルとその時代』という本は、徹底的にヘーゲルをやっつけている。つまりヘーゲルというのはプロイセンの御用哲学だと言っている。なぜそういうことを言われるようになったかということ、そこにある問題を指摘したいと思います。

フランス革命とヘーゲル

その前に、そのことを理解してもらうために年代的に当時のことを言っておきましょう。ヘーゲルが生まれたのが一七七〇年で、亡くなったのは一八三一年。それからフランス革命が起こったのが一七八九年、ナポレオンがヨーロッパそしてドイツを征服したのが一八〇五年、一八〇六年にナポレオンはドイツ帝国を認めないと言っている。その意味において、ドイツは一応崩壊したわけです。さらに一八三〇年にフランスの七月革命が起きており、一八三一年にヘーゲルは死んでいるわけです。そうするとフランス革命というのはヘーゲルがちょうど、だいたい諸君と年齢があまり違わないときに起こったわけです。そのことはわれわれ日本にとって中国で革命が起きたということとは違うものがあります。そこのところを理解してもらいたい。中国とわれわれとは密接な関係にあるけれども、中国で革命が起きたということをわれわれが考える場合と、ドイツ人が、フランスで革命が起きたことを考える場合とでは、そこに非常な意味の違いがある。われわれは太平洋の岸辺に立ってみても、別にはっきりとそこを国境線だとは思わない。ところがドイツやフランスの場合だと足を一歩踏み出したら、もう他国の領土に入ってしまう。そういう状況の中で、国と国とが接してるのです。そういう関係にある隣国に大きな革命が起きたということは、たいへんなショックだったにちがいない。私のような老人なら感じないかもしれないが、諸君くらいの年齢のときにすぐ傍で革命に出会ったということを考えてもらいたい。ヘーゲルは、ナポレオンがドイツに攻め込んできたとき、その太鼓の音をききながら、『精神現象学』を書いたという話が残っています。

ここで当時の他の思想家のことを考えてみると、アダム・スミス(一七二三―一九〇)が例の『国富論』を書いたのは一七七六年ですから、ヘーゲルの青年時代には世の中に出ていたということを考えなければならない。それからキルケゴールの生まれたのは一八一三年で、亡くなったのは一八五五年ですし、ニーチェが一八四四年か一九〇〇年まで生存していました。マルクスの『経済学批判』が出たのは一八五九年です。そこで、だいたいそういうような年代表を頭に入れておいて聞いてもらいたい。一八〇六年にドイツはナポレオンによって、一応解体されるのですが、その後ナポレオンがモスクワから逃げだしてくることによって、盛り返していきます。それから王政の復古などがあり、一八三〇年にまた革命が起きている。さらに一八四八年に三月革命が起こる。ヘーゲルは一八三一年に死んでいますから、生まれてから死ぬまで革命の動乱の中に生きておって、そしてドイツの崩壊を目のあたりに見ているわけです。その後またもう一度ドイツが盛り返して、ビスマルクがドイツを統一するのですが、そのときはもう死んでしまっている。そういう状況の中で、ああいう思索をやったということを考えてもらいたい。ドイツというところは、諸君、歴史で習って知っているでしょうが、今日でも連邦国家ですね。ドイツが統一されたのは過去において三回ありますけれども、その三回というのをどういうふうに解釈したらいいかということについては、いろいろ意見がありますが、とにかくそういうのがドイツという国です。要するに連邦国家であって、ドイツの中には、よその国の王様が支配していたところがあるという状況です。だから統一ドイツというものが生まれるということが、ドイツにとって非常に難しいわけです。現在だって大きく東と西に分かれているのみならず、西も依然として連邦国家です。とにかくフランス革命を境にしての動乱という歴史的な状況の中で思索が行なわれていったということを、どうか頭において聞いていただきたいと思います。ヘーゲル右派とヘーゲル左派とに分かれたと言いましたが、他方そのことはフランス革命に対して、どういう態度をとったかということに関係してくるわけです。ヘーゲルはフランス革命をどういうふうに扱ったかということに関係してくるわけです。いま言ったように、フランス革命というものは、ナポレオンが亡びた後にも王政が復活したりして、革命のはじめに人々が想像したとおにはなっていません。このことと関連してフランス革命の精神というものに対し、哲学的に、思想的にどういう態度をとったかということ、これがまず問題になることなんですが、そのことを話す前に次のことを知っておいてもらいたい。

③十八世紀の自然主義

一八三〇年にオーギュスト・コントが『実証哲学』という本の出版を始めているわけです。ヘーゲルの死ぬ少し前です。そこでヘーゲルが死んでから実証主義というものが起きてくることになりますが、これによってヘーゲル哲学というものは、古い形2而上学をそのまま蒸し返したのであって、科学的な現在では役に立たないのだということにされてしまった。オーギュスト・コントの考えによれば人類の思想は三段階に変わったことになる。最初に神話、その次に形而上学、第三に実証主義の時代がくる、ということで、形而上学の時代はもう終わったのだといっている。そういう意味で、ヘーゲル哲学というものは意味をなさないのだということになる。つまり形而上学(ヘーゲル哲学)などは意味がない。それは単なるスペキュレーション(思弁)の世界であって、現実の世界ではないということで、退けられてしまう。もともとフランス革命を導いてきた思想というものが、いわばオーギュスト・コントのポジティヴィズムにつながっている。フランス革命の思想は英国の思想にも連なり、やがてポジティヴィズムに展開していくことになる。だから没後、そういう十九世紀の思想からヘーゲルがいろいろ批評されたわけです。そこでそういう意味で後にポジティヴィズムに展開する、経験論や自然主義という十八世紀の思想に対して、ヘーゲルがどういうふうな態度をとったかということに問題の重点があるわけです。ヘーゲル右派とか左派とか言いますが、それらは近代のそういう思想傾向とフランス革命に対して、ヘ―ゲルがどういう態度をとったかということに関係してくるわけです。フランス革命の歴史的な話というのは私の任ではないのですけれども、あの当時のフランスの思想は十七世紀から始まって、十八世紀に至る間につくられていったわけです。それではフランスの思想の根底をなしているものは何であったかということの問題ですが、これは広い意味での自然主義的合理主義であるといってよいと思います。この自然主義といわれているところのものは一見明瞭なように見えますが、実は必ずしもそうではないわけです。たとえばルソーが「自然に帰れ」ということを言った場合に、その自然というものは何を指しているのかというと、これは必ずしも明瞭ではない。それからルソーに影響を与えたロックが「人間の平等」ということを言っている。生まれつき人間が平等であるということは、逆に、生まれつき人間は不平等であるというふうに言い換えてもおかしくはない。つまり人間は生まれつき平等であるということを言うのは、ある立場があって、その立場から考えて、言われたことです。その生まれつきという場合には、自然的主体として、権利の主体として、法的人格として、平等であるということをいっているわけです。けれども、それをロックがそういう根本的な意味のものと考えておったかというと非常にあいまいになってくるわけです。いずれにせよ、自然的存在として平等であるという、そのことに基づいて考えている。ルソの場合は人間は生まれつき善であるというふうに考えている。人間は生まれつき善であるというふうにルソーには書かれているわけです。そういう意味の自然です。そういう意味の自然を前提として、その自然の方向から考えてそれに合わないものに対する徹底的な批評を続けていくということですね。それがフランスの自然主義というところからでてくるわけですが、ルソーなんかの場合は必ずしもそれは徹底した実証の立場から行なわれたのではない(ルソーはボランタリストですからそういう意味で人間をむしろ意志的に考えていた)。そういう考え方の底に流れていたものが後にコントに大きな影響を与えるわけです。そういう形で自然ということが非常に大きな意味をもっていた。その場合には、いま言った意味で生まれつきということを言うわけですが、後に啓蒙時代になると、いっそう強調されてそれが国家の問題として考えられるようになります。そうなると自然主義的な意味に合致した限りでの国家でないようなものは、すべて間違っているという思想に転じていくわけです。

この考えの中には二つの傾向があるわけです。自然的にものを考えるという考えには二つの傾向がある。一つはイギリスに育ったもので、自然法則というものを知って自然の法則を適用していけばやがて自然を征服することができる。そういう意味で知識というものは力である。だから力にならないような知識はだめだという考えが出来上がっている。もう一つはフランスに発達したもので、デカルトなどが全体として世界の唯一の原理というものを立てようとする。デカルトで言うと合理的精神というものになりますが、やがて自覚という形で把握されるものですが、そういう全体として統一をもった一つの世界を見ようとした。そういうわけで当時ヨーロッパに二つの自然観があったわけです。いずれにしても自然主義的なものの見方が、人間に対し、国家に対し大きな意味をもって考えられていた。そういうわけでそれがその当時の社会に対する批判の原理となっていたわけです。そこでそれが批判という形をとって現われるとどういうふうになるかというと、自然の原理というものに従って社会というものが考えられるということです。こういう考えは古代社会には全然ないわけで、中世にもそういうことはない。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという人たちですらポリスから独立した人間を考えることができなかった。つまりアテネ、スパルタ、テーベなどの都市国家から離れて、人間を純粋に人間自身として考えることはできなかった。だからソクラテスが死ぬときに国法に従って死んでいったのは、初めからポリスを離れた自分を考えることができなかったからです。ソクラテスはいつでもポリスの中で考えていた。したがって人間がポリスというものをつくりかえることはできないと考えていた。ポリスというのは初めからあるもので、ポリスをつくりかえるなどということは考えられさえもしなかった。つまり自分はポリスの中で大きくなってきてポリス以外に自分の生きるところはないと考えて生きていた。それからまた中世77の封建社会においては、封建貴族は封建貴族、武士は武士ですから、そこにそういうものを離れて一般化した形で人間それ自身というようなものを考えていくということはできなかった。

もしわずかにできたとすれば、それはキリスト教の中でのことです。けれどもこの場合でも十八世紀に生まれた思想で言うような形においてではない。自然の原理に従って人間を形成していくことができると同時に社会を形成していくことができる、つまりつくり直していくことができるというような考えは、古代や中世ではとても考られないことであったわけです。これを人間個人の問題に直して考えると教養、自己形成です。Bildungというのはドイツ語でbildenの名詞化です。ビルドゥングを教養といっております。要するにこれは自己形成ということなんです。この自己形成の原理になるものが自然であるというふうに考えられていたわけです。そういう形で考えられる自己形成を行なうと同時に、社会も人間の手によって自己形成を行なうことができる、そういうふうに考えられたわけです。当時のいろいろな人によって言うことが多少違っているけれども、そういういろいろな思想を通してやはり一貫した考えが流れていたわけです。それが極度にはっきりした形をとって現われてきているのが啓蒙時代である。

 第一章 私を「存在」に変える
放り込まれたので、孤立 と孤独で生きている
存在を考えること で目的が与えられ る
内なる世界を作り、 他者の世界を見ていく
私は私の世界にい る。 存在者として生きる
外のなる現象を内なる世界で解明する
現象から空間の軸を抽出する
宇宙の旅人として空間から知をめざす
全てを知ることで 存在の無に至る
 第6章 本・図書館を「知」とする
図書館は共用のシンボル
考えることで知の世界をつくる
存在を考えて個は覚醒する
中間の場は考える環境を作り出す
知の拠点でコメント文化を作り出す
個の目的達成のために教育を再編成
本を分化・統合して知の体系を作る
個の知で人類の平等をめざす
 第8章 クルマ社会は「共有」とする
車を移動手段として共有
行政は地域にサービスする
個の覚醒と自立を支援する
個の共有する意識を育てる
コミュニティに意識と知識を蓄積する
地域は個の多様性に対応する
車は個と共有をつなぎ合わせる
クルマを共有して境がない社会にする
 第9章 社会の変を「変革」とする
集中から分散して循環させる
多様化に市民の多様性で対応
超える存在でグローバルに対応
部分の循環と全体の循環をシンクロさせる
危機意識で全体の状況を把握する
個の覚醒で家族・ 教育・仕事を変える
個の目的達成で全体の平等を目指す
有限な存在ならば共有が前提になる
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 『哲学 100の基本』

『哲学100の基本』

岡本裕一朗

世界は謎に満ちている

哲学は探究する時領域を限定することがありません。その理由は、哲学がもともと「すべて」を問い直すことにあります。この「すべて」を表現するのが、「世界」です。したがって、哲学では「世界」という概念がしばしば登場します。

しかし、哲学者たちが「世界」という言葉を使う時、必ずしも一義的ではないことに注意しておきましょう。つまり、「世界」の意味は多義的であることが、最初に確認しておく点です。

それぞれの哲学者が同じ「世界」という言葉を使っても、想定している「世界」が違うのです。

言いかえると、哲学者たちはそれぞれ構想する哲学の違いに応じて、「世界」を定義してきました。

したがって、「世界」を考える時は、正しい答えを見つけようとするのではなく、むしろ哲学者たちが「世界」の意味をどう定義しているのかこの点に注意を払う必要があります。

「世界」という言葉は、ギリシア語やラテン語では「コスモス」に当たり、調和のとれた全体を指していました。

調和がとれた全体であれば、小さくてもコスモス(ミクロコスモス)と呼ばれ、マクロコスモスと対比されました。一般には、ミクロコスモスは人間を指し、マクロコスモスは大宇宙を意味しています。

ただし、宇宙という言葉には、「ユニヴァース」という別系統の言葉があり、「コスモス」とは区別して使われます。しかも、哲学者によっては、「コスモス(世界)」と「ユニヴァース(宇宙)」を対比する場合もありますので、注意が必要です。

このように、何を「世界」と考えるかは、異なっていますが、「秩序をもった全体」という点で、共通の構造があります。その一つは、全体を構成する要素があることです。

また、それぞれの要素が他の要素と関係をもち、秩序を構成することです。さらに、それらの要素が全体としての世界においてあることです。こうして、「要素一秩序全体」として「世界」を理解することが、重要な視点になります。このパートでは、哲学者たちの有名な世界論を提示しますので、こうした視点を念頭に置きながら、それぞれの「世界」を確認してください。

学校概念としての哲学と世界概念としての哲学

近代の哲学者であるデカルト*は、「世界論」を構想し執筆したのですが、ガリレオ裁判のために、その出版を断念しました。

その時、デカルトが構想した世界論は、地動説を取り入れた自然学だったのです。デカルトが考えた「世界」というのは、「宇宙」であることが分かります。

ところが、デカルトは自伝とも言うべき『方法序説』の中で、別の「世界」について語っています。学校で学んだ「書物の学問」と対比する形で、「世界の書物」について語るのですが、この時の「世界」は人の世界という意味での「世間」です。そのため、「世間という大きな書「物」と訳されています。

こうした「世間(世界)の学問」と「書物の学問」の対比を踏襲しているのが、カント*です。カントは「世界知(Weltkenntnis)」という言葉を使いながら、「単に学校のためのみならず、生活のために役立つ」知識と説明しています。そのため、この言葉には、「世間知」という訳が使われています。「世界」は人々の世界として、「世間」を意味するのです。

こうした使い方を鮮明に打ち出すのが、「世界(世間)概念としての哲学」という考えです。カントは、主著である『純粋理性批判』の「方法「論」の中で、「学校概念」と「世界概念」を区別して、次のように述べています。

哲学という概念は、一つの学校概念にすぎない、すなわち、学としてのみ求められ、そのさいこうした知識の体系的統一以上の何ものかを(中略)目的としてもつことのない認識の体系という学校概念にすぎない。しかし、さらに世界概念(conceptuscosmicus)というものがあるのであって、この世界概念は、哲学という名称の根底にいつでも置かれていたし、とりわけ、この概念がいわば人格化されて、哲学者という理想において一つの原型として表象されたときには、そうである。

哲学の学説を知ることは、学校概念としての哲学にすぎないのです。むしろ、哲学の知識が、世界(世間)の中で有効に使えるようになる必要があるわけです。それを体現した人こそが、はじめて「哲学者」と呼ばれるようになる、と述べています。

ここでカントは、「世界概念」という言葉にわざわざラテン語を付加して、「conceptuscosmicus」と表現しています。このcosmosが、世界市民(コスモポリタン)につながることは、注目しておく必要があります。これは、コスモス(cosmos)と市民(polites)から作られたものです。カントは、永遠平和論で、コスモポリタンの立場を強調していますが、このためには、「世間知」や「世界概念としての哲学」が必要なのです。

カントによれば、哲学の目標は、学校概念としての哲学、つまり哲学説の物知りにあるのではありません。むしろ、世界市民になりえるように、「哲学する」ことを身につけ、世界(世間)の中で活用できることが大切なのです。これがカントの考える「哲学者」のイメージです。とすれば、哲学者は哲学研究者とは区別されなくてはなりません。

学校概念としての哲学・・・哲学説の体系的知識・・・哲学研究者(モデル)
世界概念としての哲学・・・世間知としての哲学・・・哲学者(モデル)

だとすれば、職業的に哲学を研究するのでないかぎり、目指すべきは「世間知」としての哲学なのです。哲学を世界(世間)でどう活用できるか、これが哲学の試金石になりそうです。

意志と表象としての世界

世界は人間にとってどんな意味をもつのか?この問題を極限にまで突きつめたのが、ドイツの哲学者ショーペンハウアー*です。彼は『意志と表象としての世界』を1819年に出版しましたが、この本は生涯にわたって何度も検討されています。そのため、正編第2版と続編が1844年に刊行されました。ショーペンハウアーにとっては、『意志と表象としての世界』がすべてなのです。

しかし、世界が「表象」や「意志」とされるのは、どうしてなのでしょうか。この二つは、カント*が「現象と物自体」を区別したことにもとづいています。カントは世界を考える時、「現象」と「物自体」に区分したのですが、それに対応するようにショーペンハウアーは「表象」と「意志」に分けたのです。すなわち、現象=表象と物自体=意志という対比です。

「表象としての世界」という考えは、人間の認識のあり方を見れば、無理なく理解できます。というのも、人間にとって現象している世界が、「表象」だからです。しかし、ショーペンハウアーには、さらに「意志としての世界」というアイデアもあります。

そして、もっともショーペンハウアーらしいのは、こちらの思想です。なぜなら、「意志」は「物自体」とされているからです。しかし、そもそも「意志」として何が考えられているのでしょうか。

ショーペンハウアーが「意志」を考える時、特徴的なのは人間の意志に限定しないことです。その他に、動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちで、盲目的に活動しているものが「意志」と呼ばれています。盲目的で、衝動的な世界が、意志の世界なのです。

しかも、もっとも重大なことは、ショーペンハウアーにとって、意志の世界が苦悩に他ならないことです。「苦悩は人生から生じるのであり、人生はまたこの意志の現象に他ならない」と言います。ショーペンハウアーによれば、意志の世界では、欲望に終わりがなく、退屈と苦悩に苛まれることになります。そのため、次のように発言されることになります。

われわれの生存の状態はきわめて悲惨であるから、こんな状態でいるくらいなら完全に存在しない方が断然望ましいであろう。

意志にかんするこうした考えは、「厭世主義(ペシミズム*)」と呼ばれますが、最近では「反出生主義*(生まれてこない方がよかった)」と言われることもあります。

したがって、彼の最終的な方向は、「意志の否定」となるのですが、これは同時に「世界の超克」になります。しかし、問題なのは、これが具体的に何を意図しているかです。単純に考えると、「自殺」が一番分かりやすいですが、ショーペンハウアーはこの方法を採用しません。むしろ、解脱や悟りといった境地ですが、正直なところ、必ずしも納得できる結論かどうかは分かりません。

人間は世界内は存在である?

20世紀において、「世界」という概念を印象的な形で哲学に導入したのは、ドイツの哲学者ハイデガー“です。彼は、1927年に出版した『存在と時間』の中で、人間(現存在)と呼ばれる)を「世界内存在」と規定し、従来の考えを厳しく批判したからです。

しかし、「世界内存在」と言われても、常識的な意味で考えると、ほとんど無意味な規定のように見えます。「人間が世界のうちに存在しているのは当たり前ではないか!」というわけです。その規定で、ハイデガーは何を意図しているのでしょうか。

対比的に想定されているのは、デカルト“が「世界」と呼ぶ宇宙的な自然です。自然科学で取り扱うような宇宙が、デカルトの世界です。こうした自然科学的な世界に対して、ハイデガーはまったく違った「世界」を打ち出しています。

ハイデガーが想定する「世界」は、人間が道具を使うという場面で説明されています。たとえば、ハンマーは、釘を打つというような用途(「~のため」)のもとで、使用します。

また、釘を打つのは、家を造るためです。こうして、それぞれ「~の「ため」という指示連関の全体ができ上がるわけです。

ハイデガーは、このような指示連関の全体性を「有意義性」と呼びますが、これが「世界」と呼ばれるわけです。

ハイデガーはその状況を、独特の言葉づかいで、次のように表現しています。読み取りにくいですが、道具を使う場面を考えて読んでください。

現存在が、おのれに指示するという様態においてそのうちでおのれを先行的に了解している場、これが、存在者を先行的に出会わせる基盤なのである。おのれに指示しうう了解することがそのうちでおこなわれる場が存在者を適所性という存在様式において出会わせる基盤なのだが、そうこた場が世界という現象なのである。

ハイデガーは、デカルトのような自然科学的な世界(宇宙)の中での存在者のあり方を「事物存在(Vorhandenscin,手前存在)」と呼び,道具的な有意義性のもとで理解されている存在者のあり方を「道具存在(Zuhandensein、手もと存在)」と呼んで区別しています。こうした道具的な存在者を有意義性のもとで了解しつつ使うのが人間であり、そのあり方を「世界内存在」と呼ぶのです。

このあり方は、物理的な自然を事物として観察する態度ではなく、もっと親密な形で世界とかかわる交渉と見なされ、いわば理論以前的な実践的な態度だと考えられています。こういう実践の中で全体として解されているのが、「世界」というわけです。

ハイデガーの独特の言葉づかいのため、やや分かりにくいかもしれませんが、同じ「世界」といっても、事物性の総体と見るか、有意義性の連関と見るかによって、まったく違った様相を帯びてきます。ハイデガーは、道具性という使用にもとづいて、個々のものおよびその連関の全体を、「世界」と呼んだのです。

ハイデガーはその状況を、独特の言葉づかいで、次のように表現しています。読み取りにくいですが、道具を使う場面を考えて読んでくださ

現存在が、おのれに指示するという様態においてそのうちでおのれを先行的に了解している場、これが、存在者を先行的に出会わせる基盤なのである。おのれに指示しつつ了解することがそのうちでおこなわれる場が、存在者を適所性という存在様式において出会わせる基盤なのだが、そうした場が世界という現象なのである。

ハイデガーは、デカルトのような自然科学的な世界(宇宙)の中での存在者のあり方を「事物存在(Vorhandensein、手前存在)」と呼び、道具的な有意義性のもとで理解されている存在者のあり方を「道具存在(Zuhandensein、手もと存在)」と呼んで区別しています。こうした道具的な存在者を有意義性のもとで了解しつつ使うのが人間であり、そのあり方を「世界内存在」と呼ぶのです。

このあり方は、物理的な自然を事物として観察する態度ではなく、もっと親密な形で世界とかかわる交渉と見なされ、いわば理論以前的な実践的な態度だと考えられています。こういう実践の中で全体として了解されているのが、「世界」というわけです。

ハイデガーの独特の言葉づかいのため、やや分かりにくいかもしれませんが、同じ「世界」といっても、事物性の総体と見るか、有意義性の連関と見るかによって、まったく違った様相を帯びてきます。ハイデガーは、道具性という使用にもとづいて、個々のものおよびその連関の全体を、「世界」と呼んだのです。

世界は成立していることがらの総体である

「世界」という概念を、きわめて短い表現で簡潔に示しているのが、オーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタインです。彼が『論理哲学論考』の冒頭で「世界」について与えた規定は、「世界」という概念の意味を考える時、誰もがふまえるべき論点になっています。『論理哲学論考』という本は、論理的な厳密性にもとづいて番号づけが行なわれていますが、その中でもっとも原理的な位置を占めるのが「世界」に関する規定です。次のように述べられています。

1.世界は成立していることがらの総体である。
1.1世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
1.11世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている
1.12なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。
1.13論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
1.2世界は諸事実へと分解される。

この表現で、「世界」がどのようなものか、明確に示されていますが、あまりに簡潔なので、かえって分かりにくいかもしれません。たとえば、「成立していることがら(wasderFallist)」とか、「事実(Tatsache)」とか「もの(Dinge)」と言われても、奇妙な表現に感じるのではないでしょうか。いったい、何が言いたいのでしょうか。

まず、「成立していることがら」というのは、現実において実際に成立していることを意味しています。たとえば、私には兄弟がいますが、他のこと(一人っ子であること)も可能だったでしょう。可能性としては、さまざまありますが、現実にはそのうちの一つが起こったわけです。こうして現実に成立していること、それをすべて集めたものが「世界」というわけです。

つぎに、「事実」と「もの」が対比されています。「事実」というのは、「ものがかくかくである」ということを表わしています。「猫」とか「犬」などは、「もの」に当たりますが、「猫が木に登る」とか、「犬が吠える」というあり方は、事実になります。ヴィトゲンシュタインによると、ものの総体が世界ではなく、「ものがかくかくしかじかである」という事実の総体が、世界なのです。

したがって、世界は全体だとしても、「もの」をどんなに集めても世界にはならないのです。ここで「事実」というのは、言語的に言えば、単語ではなく、文で表現されるものです。文で表現される事実を要素として、世界は成り立っているのです。

ヴィトゲンシュタインが定義した「世界」は、一見したところ抽象的に感じますが、「世界」を考える時、もっとも包括的な規定といえます。

 第3章 社会を「世界」に変える
全体が個を成り立たせる世界
個の自立を支援する中間
存在の意識から個の覚醒を図る
多様化に対応して中間を自立させる
個の目的をコミュニティで共有する
個の目的達成を支援するコミュニ ティ
個の目的達成を中間の目的とする
合意して行動するユニット構成

 奥さんへの買い物依頼
もも肉          262
食パン8枚   118
ドミチキプレート          498
刺身            480
卵パック       228
牧場の朝      168
焼きそば      198
味噌もつ鍋   358
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哲学にとってすべてを表現するのが「世界」

 哲学にとってすべてを表現するのが「世界」
 そうなると私は私の世界が成り立つ
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本を返しに図書館へ

 本を返しに図書館へ
 12冊 開館前だから返却口へ
3冊 私の傾向にない本を借りた
 本が示す方向を見定める
 本を通じて、大いなる意図からの指示
もうちょっと生きられそうだから
 未唯宇宙を一歩進める
 例えば、
 個と超の新たな数学を具体化
 →逆集合論:天皇 ライブから集合を規定
 今日は気分を変えて フラペチーノ #スタバ風景

 豊田市図書館の3冊
019.9トコ『大人のための文学「再」入門』
019.12ワシ『読書原論 』21世紀の読書=忘れる読書
902.3フユ『SF超入門 』「これから何が起こるのか」を知るための教養
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