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『未来から来た男』ジョン・フォン・ノルマン

 『未来から来た男』ジョン・フォン・ノルマン

現代のコンピューターの誕生を巡る込み入った事情

エニアックからアップルまで

未来のコンピューターに真空管は1000本しか要さないかもしれず、もしかすると重量はわずか1・5トンほどかもしれない。

――『ポピュラーメカニクス』誌、1949年3月号

ロスアラモスの爆弾の投下先となる日本の最終候補地を選ぶのに忙しかった1945年春のある朝、メサから帰宅したフォン・ノイマンはベッドに直行して12時間寝続けた。このときのことをクラリが回想録にこう記している。「ジョニーが何をやらかそうと、2食飛ばしたことよりも私が心配になりそうなことは思いつかない。彼が一度にあれほど長いこと寝続けることなどもちろん知らなかった」

その晩遅くに目をさましたフォンノイマンはかなりの早口で、重圧を感じているときのようにどもりながら、こんな予言を語りだした。

僕らが今つくっているのは怪物で、その影響力は間違いなく歴史を変えく。歴史というものが何かしら残るならね。でも、完成を見ないことなんかありえないだろう。その理由は軍事的なものだけじゃない。科学者の立場から言って非倫理的だからだよ、科学者が自分たちにできるとわかっていることをやらないのは、それがどんなに恐ろしい成り行きを招きかねないとしても。それに、これは始まりでしかないんだ!今まさに使えるようになりつつあるこのエネルギー源によって、科学者はどこの国でもいちばん嫌われると同時にいちばん求められる市民になるだろう。

ここでフォン・ノイマンは唐突に、話題を原子の力から自分が「この先、重要性が増すうえに欠かせなくなる」と思っていた機械の力へと転じた。

「人類は月のはるか先の宇宙まで行けるようになるだろうけれど、それはみずからの創造物の進歩についていけた場合に限られる」。そして、人類がついていけなかった場合には、自分が当時その開発を手伝っていた爆弾よりもその機械のほうが危険な存在になりかねないと心配した。

「未来の技術の可能性についてあれこれ考えているうち、彼がかなり動揺してきたので、私はとうとう睡眠薬を何錠か、そしてとても強いお酒を飲んではどうかと勧めた。彼を現実に引き戻し、避けがたい破滅という自分の予測を気に病むのをやめて少々リラックスさせるためである」

あの晩に彼の心を捉えて放さなかったビジョンがどのようなものだったにしろ、フォンイマンは純粋数学とすっぱり手を切り、自分が恐れる機械の実現に集中した。「このとき、来るべき未来の姿がジョニーの興味を強くひいて頭から離れなくなり、以来ずっとそのままだった」

計算処理に対するフォン・ノイマンの関心は1930年代までさかのぼれる。彼は最初に陸軍の仕事をしていた頃から、爆発のモデル化に必要となる計算量が急速に膨らんで、当時の卓上計算機の能力では手に負えなくなると見込んでいた。ジャーナリストのノーマン・マクレイによると、フォン・ノイマンは「計算機が進歩して、その一部は脳と同じように機能するようになり」、さらには「そうした機械があらゆる通信系、送電網、大工場といった大規模システムに接続されるようになる」と予想していた。1960年代と70年代にコンピューターが相互接続されてARPANETが構築されるのだが、インターネットはそれ以前から何度となく思い描かれていたのだ。

フォン・ノイマンがコンピューターに関心を抱いたのは、戦時中にチューリングに触発されてのことだったのか?この2人が互いを探し求めていたという話はありえそうだ。イギリスの国立研究開発公社(NRDC)の初代代表を務めた科学者トニジファードは実際にそうだったと主張しており、1971年に計算機科学者で歴史家のブライアン・ランデル相手にこう語っている。「彼らは出会い、互いを刺激しました。言ってみれば、それぞれが頭の中に絵の半分を持っていたのが、会って話をするなかでこの2枚がひとつにまとまったのです」



1943年のイギリスでフォン・ノイマンに何が起こったにせよ(その痕跡は今やすっかり失われているようだが)、帰国後の彼はロスアラモスで誰よりも熱く計算技術の重要性を説くようになった。そして1944年1月にはOSRDで応用数学部門を率いていたウォーレン・ウィーヴァーに宛てて手紙を書き、国内最速クラスのコンピューターを探すための支援を要請した。爆縮型爆弾の計算が手に負えなくなりつつあったのだ。ウラムが次のように回想している。

フォン・ノイマンとの議論では、私は手間暇かけて1段階ずつ力まかせに計算することを提案したり、その構想を披露したりした。膨大な量の計算を要し、時間もはるかにかかるが、このほうが信頼性の高い結果が得られる。フォンノイマンが「その兆しが見えてきた」新しい計算機を使おうと決めたのはこのときだった。

ウィーヴァーはフォン・ノイマンをハワード・エイケンに引き合わせた。エイケンはハーバード大学の物理学者で、自身が設計を手がけた電子機械式のコンピューターがIBMから届くのを待っていた。ASCC(自動逐次制御計算機AutomaticSequenceControlledCalculator)と呼ばれていたそのコンピュターは、のちにハーバード・マークⅠと名を変える。フォン・ノイマンはエイケンを訪ね、ロスアラモスに戻ると、機密扱いの問題のひとつを修正して本来の目的を示唆する内容を削除してはどうかと提案した。エイケンは知らなかったが、彼のコンピューターで最初に実行された計算のなかには、爆弾開発のための衝撃波シミュレーションの数々が含まれていた。だが、ハーバード・マークⅠはロスアラモスのパンチカード式計算機よりも処理が遅かったうえ(精度は勝っていた)、そもそも海軍用に押さえられていた。フォン・ノイマンは長年にわたって計算能力を求めて国内を精力的に飛び回り続けた。

「戦後数年は、最新式のメインフレーム計算機を擁するどの施設を訪ねても、必ず誰かが衝撃波問題の計算を実行していたものです」と語るのは、研究に電子式のコンピューターを初めて用いた天文学者のひとり、マーティン・シュヴァルツシルトだ。「なんでまたその処理をと尋ねると、決まってフォン・ノイマンに頼まれてのことでした。こうした処理が、最新式コンピューターの現場を歩き回っていたフォン・ノイマンの足あとと化していたのです」

妙な話だが、ティーヴァーはペンシルベニア大学ムーア校(電気工学科)で開発中だった電子式装置のことをフォン・ノイマンに話していなかった。1943年4月にこのプロジェクトの予算を承認していたフォン・ノイマンの後ろ盾、オズワルド・ヴェブレンしてもそうだった。ハーバード大学のマークIや、ドイツでコンラート・ツーゼが開発していたZ3など、初期の装置では数字を表すのに歯車機構と歯車の歯、そしてリレースイッチが用いられていたのに対し、ムーア校のENIAC(エニアック。電子式数値積分器・計算機ElectronicNumericalIntegratorandComputer)には可動部品がなかった。真空管と電気回路しかなく、設計者は自分たちの計算機は従来型より何千倍も速く計算できると豪語していた。

もしかするとウィ–ヴァーもヴェブレンも、ENIAC

の開発チームは経験不足で、完成にこぎ着けられないと踏んでいたのかもしれない。あるいは、フォン・ノイマンはコンピューターをすぐにでも必要としていたところへ、ENIACは使えるようになるまであと2年と見込まれていたからかもしれない。いずれにしても、フォン・ノイマンはこの装置のことを偶然知った。アバディーンのBRL(弾道研究所)での会合を終えて、帰りの列車を待っていたときだった。

ハーマン・ゴールドスタインはミシガン大学の数学者だったが、第二次世界大戦中は米国陸軍に入隊していた。彼がこれから太平洋に送られるというタイミングで、BRL付きの科学者を集めていたヴェブレンが割って入り、より良い条件を提示した。ゴールドスタインへの渡航命令は、アバディーン性能試験場に出向くよう指示する命令と同じ日に届いた。ゴールドスタインは賢明にもヴェブレンとアバディーンを取り、そこで大砲の射表の計算チームに配属された。ヴェブレンは第一次世界大戦中にも発射体の軌道に関する同様の計算の監督者として雇われていた。

1944年のある夏の日の夕刻、アバディーン駅のホームで、ゴールドスタインは見覚えのある人物を見かけた。今やアメリカでアインシュタインに次いで有名な科学者となていたその人物の講義を、ゴールドスタインは聴講したことがあったのだ。ゴールドスタインがフォン・ノイマンに自己紹介すると、列車を待ちながらの談笑が始まった。ゴールドスタインは、自分が任務のひとつとしてフィラデルフィアのムーア校との連絡将校として働いていることを説明し、共同で取り組んでいたあるプロジェクトについて触れた。それが毎秒300回を超える乗算が可能な電子式のコンピューターだった。

その途端、ゴールドスインによれば、「会話の雰囲気がユーモアを交えた気取らないものから数学の学位審査の口頭試問のようなものへと一変した」

ゴールドスタインによると、この出会いからまもない8月7日、フォン・ノイマンはムーア校で開発中だったコンピューターをゴールドスタインの手配で視察した。そこでフォン・ノイマンが見たものが、「彼のその後の人生を変えました」とゴールドスタインは語っている。

ENIACは170平方メートルほどの床面積があり、部屋いっぱいを占めていた。1万8000本の真空管と大量の配線やスイッチからなる内部構造が、壁に沿ってむきだしでずらりと並んでいた。

「今の私たちはパソコンを持ち運びできるものと思っています」とこのプロジェクトに1950年に加わった数学者ハリー・リードは言う。「ENIACはその中に住めるような代物でした」

ENIACの生みの親はジョン・W・モークリーという、研究者になる夢を大恐慌で絶たれた物理学教員だった。彼は奨学金を得てメリーランド州ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学で勉強し、学部の卒業など気にせず1932年に同大で物理学の博士号を取った。しばらく研究助手として働いていたのだが、運悪く、大学のポストを探し始めた時期が近代史上有数の長い経済停滞期と重なり、モークリーの研究職探しは頓挫し、彼はアーサイナス大学という、ペンシルベニア州にある小規模のリベラルアーツ・カレッジの職で妥協せざるをえなくなった。彼はそこで物理学科の長だったが、実は教員はほかにいなかった。彼は開戦時にもまだ同校に籍を置いていた。世界を襲った惨事には、モーリーの望みを断ったものもあれば、将来の見通しを好転させたものもあった。1941年、科学者が戦時協力のために再教育を受けていたムーア校で、彼は電子工学の講座を受講した。34歳だったモークリーはそこで22歳のJ・プレスバー・エッカートと出会う。彼は地元の不動産王の息子だったが、電子工学に精通していたことから、モークリーが受講した実習講座を任されていたのだった。この2人が、大砲の射表を計算するための装置を製作するという野心的な構想を一緒に考えた。当時のムーア校では、射表の計算に人員をどんどん取られていた。

特定の大砲の射表には、さまざま条件下でさまざまな高度から発射された砲弾の射程を示す弾道が何百と記載されていた。大砲と弾薬の組み合わせそれぞれに専用の射表が必要だった。ムーア校での計算の元になるのはBRLの試験場からのデータで、異なる高度で10発ほど発射された各砲弾の射程距離の測定結果が記録されていた。ムーア校はこのデータをもとに、砲弾の高度や速度に応じて違ってくる風の抵抗を考慮しながら、ほかの軌道を計算しなければならなかった。射表の1行分を計算するのに、1人が卓上計算機を使って最大2日かかった。1930年代になると、マサチューセッツ工科大学(MIT)のヴァネヴァー・ブッシュらが発明した微分解析機を使って、同じ作業を20分とかからずできるようになった。微分解析機は部屋いっぱいになるような大きさの装置で、妙に大きなテーブルサッカー台を何台もボルトでつないだような見た目だったが、問題に即したシャフト、ギア、ホイールを設定すると、ある棒を使って入力の曲線をなぞることで、その動きが求める出力へと機械的に変換された。だが安くはなかった。陸軍はムーア校の解析機の費用を出したが、戦争勃発のおそれが生じた場合にはBRLが徴発できることが条件だった。1940年にそれが現実となり、BRLは連絡将校としてゴールドスタイン少尉を送り込んだ。

1942年終盤のムーア校では、解析機を使うグループと、卓上計算機を使う100人の女性チームに、週6日で弾道計算をさせていた。どちらのチームも射表をひとつ仕上げるのに1カ月ほどかかっていた。だが、女性チームのほうでは、奮闘むなしく、スケジュールの遅れが大きくなるばかりだった。

モークリーはこの遅れを把握していた。彼の最初の妻だった数学者メアリー・オーガスタ・ワルズルがチ―ムの一員だったからだ。モークリーは、ムーア校から191年9月に助教として採用されると、解析機を間近で観察して動作原理の把握に努めるとともに、同じ作業をもっと高速にこなせるその電子版について考え始めた。彼は暫定的なアイデアを「計算を目的とした高速真空管の使用」と題して書き起こした。1943年春のこと、ゴールドスタインがこの覚書をたまたま目にした。彼はモークリーが説明していた方針は追求に値すると確信し、BRLの高官にその重要性を説いた。ENIACの契約は6月に署名され、BRLが用意した15万ドルを元手に1.5ヵ月での完成を目指した。最終的には50万ドルを優に超える費用(今日の800万ドル)がかかっている。

ENIACの開発が「プロジェクトPX」というコード名で本格的に始まった。電気技術者のジョン・ブレイナードがこのプロジェクトの責任者に任命されて予算管理を担当し、エッカ―トが主任技術者となった。このプロジェクトのそもそもの考案者であるモークリーは、顧問という非常勤の役割に格下げとなった。戦争関連の作業に教職員を大勢取られていたムーア校には、彼に引き続き教鞭を執ってもらう必要があったのである。

エッカートは当初、技術者十数名という小振りなチームを率いて、回路の設計やテストを行っていた。だが、1944年に組み立てが始まると人員が急増した。「配線士」と呼ばれた3人の組立工や技師からなる製造チームが引き入れられ、コンピューターの部品を取り付け、それらをケーブルでつなぎ、50万か所ほどもあった接点をはんだ付けして、装置をこの世に出現させた。ここで、ENIACを設計したのは男性だったが、現物の組み立てという手間暇かかる厳しい作業を担当したのはほぼすべて女性で、彼女たちは夜間や週末も働いて完成させた。このプロジの賃金支払票には50人近くの女性の名前が埋もれていたが、ひょっとするとイニシャルしか記載されていない大勢もそうした女性たちだったのかもしれない。

こうした尽力にもかかわらず、戦時中は部品――真空管に限らず、抵抗器、スイッチ、ソケット、長さ何キロ分にもなる配線材のような普通の部品――の調達が難しく、プロジェクトの完成は遅れに遅れて、陸軍の上層部はいらだちを露わにしていた。「ENIACが完成まであと3カ月から進まなかった期間が1ヵ月近くあった」と歴史家のトーマス・ヘイグは語っている。

そんな現場にフォン・ノイマンが登場したのは1944年8月という、ENIAC完成の1年以上前のことだった。このプロジェクトに対する初期の貢献のひとつは、資金が途絶えないようにしたことだ。科学界の重鎮だったフォン・ノイマンは、その頃には政府筋や軍関係に絶大な影響力を持っていた。その彼が、この装置の有用性は当初の設計目的をはるかに超えるだろうと説得力を持って主張したのである。1945年

12月にいよいよ完成すると、彼の予言どおりとなった。ENIACが最初に計算したのは射表どころか、ロスアラモスから依頼された水素爆弾の問題だった。

ロスアラモスは2人の物理学者ニコラス・メトロポリスとスタンフランケルを送り込んでこの新装置の働きぶりを調べさせ、その持てる計算能力をロスアラモスが余すところなく使えるようにした。2人には補助要員として、ハーマン・ゴールドスタインの妻でのちにENIACの取扱説明書を執筆する数学者アデル・ゴールドスタインと、新たにトレーニングを受けた6人のオペレーター――全員女性で、うち4人が数学科卒――が同行した。計算の本来の目的を知っていたのは2人の物理学者だけだった。その目的とは、テラーの「スーパー」の起爆に必要となる貴重なトリチウムの量を決定するために、3本の連立偏微分方程式を解くことである。アメリカによる初期の爆弾研究の大半と同様、詳細は今なお機密扱いだが、ハーマン・ゴールドスタインによると、数週間にわたって100万枚のパンチカードがムーア校へ送られた。テラーは得られた結果をもとにあの爆弾の採用を求め、1946年4月にロスアラモスで行われた極秘の会議では”コンピューターが自分の主張を裏付けた、自分のスーパーはうまくいく”と主張した。フォン・ノイマンとフックスが特許について協力することになったのもこの会議だ。そして、フックスがその詳細をロシアに流すのである。

ENIACに向けられたフォン・ノイマンの関心は、より良い爆弾をつくるための道具としての有用性をはるかに超えていた。彼はENIACを初めて見たときから、まったく違う類いのコンピューターについて考えていた。

ENIACの欠点の多くは、その設計者たちにプロジェクトの当初から認識されていた。150キロワットという消費電力は、半分以上が真空管の加熱や冷却に使われていた。その真空管にしても、新たな入荷分をストレステストにかけて不合格品をはじくという徹底した手続きを踏んでいたにもかかわらず、数日に1本は壊れていた。不良品や接点不良によるダウンの時間を最小限に抑えられるよう、ENIACの部品は標準化された差し込み式ユニットとして用意され、簡単に取り外して交換できるようになっていた。そこまでしても、ダウンしていた時間は稼働時間よりも長かった。『ニューヨークタイムズ』紙の記事によると、契約上の義務によってBRLに移設済みだった1947年12月の段階で、時間の1%は準備とテストに、4%は問題のトラブルシューティングと解決に費やされており、実稼働時間はわずか5%――週に約2時間――だった。

ENIACは戦争用の装置として生まれ、用途はひとつだった。だが戦争が終わり、射表の計算が別の切迫した問題と使用時間を争うようになると、ENIACの存在理由がその最大のハンディキャップとなった。フォン・ノイマンはこのことをプロジェクトに携わる誰よりも、ひょっとすると世界中の誰よりもはっきり認識していた。さらに重要なこととして、ENIACよりも柔軟性がはるかに高くて再プログラムの容易な後継機をどう設計したら良いか、彼は具体的に把握していた。ENIACチームはこの装置の欠点についてかねて議論を続けていた。そこへフォン・ノイマンが加わると、後継機製作の提案書がすみやかに用意され、BRLの上層部による審査にかかった。8月25日、ゴールドスタインとフォン・ノイマンも出席した上層部の委員会が計画を承認した。ムーア校ではすぐさま、この新装置の開発に「プロジェクトPY」というコド名が付けられ、その設計を巡って真剣な議論が始まった。翌年3月、開発チームは彼らの考えをフォン・ノイマンが取りまとめることに同意した。フォン・ノイマンが取りまとめたのはそれどころではない内容の文書だった。

この頃のフォン・イマンは、電子工学という萌芽期の分野にすでに精通していた。各種真空管の優劣にいて彼なりの考えを持っており、新装置の回路をぜひとも設計したいと思っていた。だが、彼は技術者ではなかった――数学者であり、うわべは複雑に見える問題を解きほぐして最も基本的な形で描いてみせる、という特筆すべき能力を持ち合わせていた。そして今、彼はその才腕をENIACチームの雑然としたアイデアに対して振るおうとしていた。ヘイグと共著者らは次のように見ている。「ジョン・オン・ノイマンが審美眼の持ち主だったというわけではないが、ENIACに対する彼の知性の反応は、けばけばしい大聖堂を委ねられた熱心なカルヴァン主義者よろしく、フレスコ画を漆喰で白塗りし、不要な装飾を切り落とすことにたとえられるかもしれない」。この衝動が新装置の設計として実を結び、それに刺激された何世代にわたる技術者や科学者がコンピューターをそのイメーていくことになるのだ。

意外なことに、計算処理の最先端を行くこの貢献に向けたフォン・ノイマンの頭の準備は、20世紀前半に数学界を引き裂いていた根源的な危機との関わりを通じて整えられていた。歴史の思わぬ展開が、現代のコンピューターの知的起源を、数学は完全で、無矛盾で、決定可能であることを証明するというヒルベルトの挑戦と結び付けたのだ。ヒルベルトが彼の挑戦を公にしてほどなく、知的には活発だったが精神的にはもろかったオーストリアの論理学者クルト・ゲーデルが、数学は完全だという証明も無矛盾だという証明も不可能であることを示した。そしてゲーデルがこの偉業を成し遂げて5年後、23歳のチューリングがヒルベルトの「決定問題」に挑み、仮想機械を持ち出すという、論理学者の誰も予想だにしなかったやり方で、数学は決定可能ではないことを証明した。この2人の論理学者による形式主義の成果が、フォン・ノイマンが現代のコンピューターの構造を具体化する際に活かされるのだ。彼の考えをまとめた「EDVACに関する報告の第1草稿」は、やがて計算処理史上最大の影響力をもつ文書となる。計算機科学者のヴォルフガンク・コイによれば、「今日ではこれが現代のコンピューターの出生証明書とみなされている」

 宇宙
空間の外延 内なる空間から全体を超え宇宙に出る
全体を再配置 個を分化し 全体に統合させる
宇宙から見る 超として全体を見る
知の世界 個の目的を生かし 思考中心の世界

 全てを知る
私がすべて 私の核から宇宙の端までが私です
無を知る 全てを知ることで存在の無に至る
私がいる 個の覚醒で存在の意味を納得する
有限を知る 有限の意識から共有する世界をめざす
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