未唯への手紙
未唯への手紙
『貧困とはなにか』
【新版】『貧困とはなにか』
概念・言説・ポリティクス
ジェンダー
ジェンダーはもっとも大きく異なった区分を構成している。貧困をジェンダー的に分析すると、(多くの国で顕著ではなくなってきているとはいえ)その発生率が不平等であることが明らかになる。しかしそれ以上に、より重要なのは、貧困の原因と結果の両方が深くジェンダー化されていることが明らかになることである。言い換えれば、「貧困そのものがジェンダー化されている」。すなわち概念的にも方法論的にも、単に「見失われていた女性を加える」ことをはるかに超える意味がある、貧困とジェンダーに関するエビデンスをレビューしたある論文には、「ジェンダーのレンズを通して貧困を見るには、社会的・経済的関係、そして制度を検討する必要がある」と説明があるが、それは「貧困に至る過程が本質的にジェンダー化されており、そこからぬけだす可能性を持った道筋も同様に本質的にジェンダー化されている」ためである。タウンゼンドも「[一九九〇年代のジェンダーと貧困をめぐる議論の]影響は根本的なものであった」と認めている。またこれだけでなく、ジェンダー視点での分析は、女性と貧困の関係だけでなく男性と貧困の関係にも光をあてることができる。ゆっくりとではあるが、これも認識されるようになってきている。とくに、伝統的なジェンダー観によるアイデンティティは、貧困の社会的関係に浸透していることがある。たとえば、「稼ぎ手」としての役割を自分自身のアイデンティティとする男性は、家族を十分に支えられなければ恥や罪悪感を感じる可能性が高い。一方、母親は、消費社会におけるスティグマから子どもを守ることができない場合、あるいは子どものために福祉機関とかかわりを持ったりする場合、その結果として恥辱を受ける傾向が高い。
「貧困の女性化」?
典型的には、女性は男性よりも大きな貧困リスクに直面している。その事実が注目されはじめたころにEUとアメリカで集積されたエビデンスは、程度の差こそあれ(スウェーデンの明確な例外を除いて)、そう示していた。しかし、ジェンダーに関して生のかたちで目に見える貧困格差は近年狭まり、いまでは必ずしも見分けがつかなくなっている。より目につくのは、女性世帯主の家庭、とくにひとり親家庭や年金受給単身者に分類される世帯の貧困である。イギリスの分析では、子どもの存在によって家計が貧困に陥る可能性は、男性の場合よりも女性の場合の方が高いことが示唆されている。たとえばケアをする人(とくに要介護度の高い人の介護者)のような女性が多数を占める集団もリスクが高い。対象者を長期にわたって追跡する縦断的な分析では、
女性が慢性的な貧困、反復的な貧困に陥りやすいことが示されている。
「貧困の女性化」という用語は、そうしたパターンを捉えるために広く使われてきた。(一九七八年にダイアナ・ピアースによって)アメリカでリスクの高い女性世帯主の世帯数が増加していたことに対して使われるようになった当初、そのレトリックには、アメリカをはじめ世界的に女性の貧困を覆い隠していた霧を吹き払う力があった。しかし、それは多くの点で誤解を招くものであった。意味論的には難点がふたつある。まずひとつ、典型的にこれは、「プロセスではなく状態」を指すのに使われ、それによって両者が混同され、混乱することである。ふたつめには、これが新しい現象であることを暗示してしまうことである。シルヴィア・チャントによれば、「理論的にも、解説のためにも、説明にもほとんど役に立たない無骨な用語」であることが次第に認識されつつある。それゆえ、貧困を「ジェンダー化されたもの」として捉える考え方が好まれるようになってきている。
「貧困の女性化」という命題に関する問題のひとつは、それが典型的には世帯内の個人ではなく世帯主に基づいた統計に頼らざるを得ないことである。あるいは別の手段をとるなら、個人についての大まかな「当て推量」に頼らざるを得ない。その代表的な例が、広く引用される「世界の貧困の七〇%は女性」という国連の主張であり、これは「事実というより〈事実のようなもの〉」と評されている。女性が世帯主である世帯の貧困リスクにばかり目を向けることは、この集団内がそもそも均質ではないことを覆い隠す。さらに、生活様式が国によって異なることの影響(たとえば、該当する世帯が統計上は拡大家族世帯の一部であるためカントされない場合)も見えなくなる。そしてさらに重要なことには、男性世帯主の世帯における女性の貧困を覆い隠してしまう。個人をカウントするといいながら、実際には、世帯収入が公平に分配されているというヒーローまがいの前提のもとで世帯収入から貧困の推計をすることは、女性の貧困を過小評価する可能性が高い。
隠された貧困
ギータ・センは、「世帯内の不平等を認識しなければ、だ当に貧しいのか理解できない」と論じている。家庭内での所得と消費の不平等な分配は、隠れた貧困を意味することがある。男性パートナーが貧困でないが女性が貧困である場合、貧困が女性により強くのしかかる場合がそうである。家計管理に関するイギリスの研究には、所得が家庭内で必ずしも公平に分かち合われないこと、女性の方が男性より「個人的なことにお金を使うこと」が少ないことを示しているものが多数ある。こうした調査の大半は小規模で質的なものだが、量的な調査群によっても、その主な結論は支持されている。EUレベルの分析では、資源を十分に共有していると想定される世帯の三分の一近くが実際にはそうしていないことが示されている。
消費と剥奪に関していえば、質的な調査は、やはり男性の方が食糧のような日常の商品についても、自動車のような耐久消費財についても「特権的な消費者」である傾向を強く示している。しかもミラーとグレンディニングが指摘するように、「それぞれが与える利益と自由という観点から見れば、『彼の』車と『彼女の』洗濯機はとうてい等価物だとはいえない」。PSEIUK調査は、限定的な範囲ではあるものの世帯内の不平等の測定が可能になるように設定されてきた。それによれば、一九九九年以降、男女の剝奪格差は縮小しているが、子どもがいる場合にはより顕著な格差があることがわかった。カラギアンナキとバーチャードは、ヨーロッパの幅広い文献の簡単なヒューに基づいて、女性の不利益になる不平等な世帯内剝奪のエビデンスはたしかに存在するが、その程度は文化的な文脈、経済的な文脈(とくに福祉国家では)政策の文脈によって一様ではなく、また、家族・世帯の形態によって異なる、と結論づけている。とくに、「各個人が家庭にもたらす収入の配分は、資源に対するコントロールと関連している可能性があるのだが、カップル内では女性の収入比率が男性よりも小さい傾向がある」ことが示されている。カラギアンナキとバーチャードがEUISILCデータ(第2章参照)を分析した結果、「ヨーロッパの成人の属する世帯のかなりの割合が、成人した世帯員間で不平等な剝奪結果をもたらしている」。これはとくに、複数の家族単位からなる「複合世帯」において顕著である。さらに、明らかに「世帯内の困窮の不平等の程度は、すべての国の全体的な困窮の水準にかなりの影響を与えている」。
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