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『哲学の課題』

 『哲学の課題』

樫山欽四郎

ヘーゲルと現代

どこに問題があるか

ヘーゲルについてということですが、いろいろ問題がありますので、ある一つの問題に限って話をします。ヘーゲルというのは一方では非常に歓迎されているが、他方では徹底的にきらわれている。そういう思想家なんです。有名なヘーゲルの言葉に「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」というのがありますが、これは諸君も聞いたことがあると思います。これは『法哲学』の序文の中に出てくる非常に有名な言葉です。この言葉がたいへん評判が悪くそういう評判が常識となって一般に受け入れられている。普通の考えで言うと、理性的に考えられたものがそのまま現実であり、現実的なものはそのままわれわれの考えること(理性的なこと)に一致していると言ったことになるから、現実はそのままでよろしい、ということになる。絶対的な手放しの現実肯定になるというのです。こういうふうに受け取られているために、この言葉は非常に評判が悪いのです。しかしよく考えてみると、なぜそういうことを言ったのか、よく理解されていないわけです。だから評判が悪い。フェアニュンフティヒ(vernünftig)というのは、つまり理性的であるというのは、普通の意味でわれわれが常識的に理性という言葉でいっている意味でなくて、後からわかりますように、弁証法的な意味に使われているわけです。現実という意味もやはりそうです。フェアニュンフティヒというのはドイツ語で言い換えるとすれば、ヴェーゼントリッヒという意味に近い意味で使われているのです。ヴェーゼンというのは普通、本質と訳しておりますけれども、本当は実在という意味です。普通実在といえばリアリティーのことですが、そういう意味ではなく、本質的な意味での実在、本当の実在というような意味です。ですからリアリティーという言葉でいうのとは意味が違います。今そのことには触れないことにします。本当の意味で実在(真理)であるものは、当然、現実にあるということで、本当のものはやはり現実になるということですね。ところが、普通現実ということで考えている場合、それがよくわかっているかというとそうとは言えない。本当の現実とは何かということは、実は一番わからない165難しいことです。だからその現実ということでもヘーゲルは非常に厳密に考え、定めています。それを今ここで説明すると長くなり、かえって混乱してわかりにくくなりますので、やめますが、とにかくヘーゲルは現実ということを自分の考えの流れの中で弁証法的に考えているわけです。普通に常識的に受け入れられた現実がそのまま理性的だなどと言っているのではない。だからその思索の流れの中で理解しないと、とんでもないことになってしまいます。ヘーゲルのように考えるということは、物事を流れの中で考えるということなんです。だから広く言うと歴史の中で考えるということです。歴史的に動いていく、その動きの中で考えていく。だから歴史的な動きの意味にとらないとわからないところが出てくる。このことは、これからお話しすることでわかってもらえると思います。そういうわけで、この言葉一つをとってみても一方では非常に賛成されるけれども、他方では極端にきらわれてきたのがヘーゲル哲学です。最近でもたとえば、バートランド・ラッセルという人はヘーゲル哲学を一言のもとに、はねつけています。この人は二十世紀のイギリスの代表的な思想家ですが、にべもなく、ヘーゲルというものを打ち消しています。

ヘーゲルの亡くなったのは一八三一年ですから現在までに約百三十年以上たっているわけです。その間いったいどういう取り扱いを受けてきたかというと、死んで、しばらくするとほとんど顧みられなくなってしまいました。十九世紀の後半以後はマルクスがヘーゲルを取り上げたために、マルクス主義の基礎になっているという意味で、取り上げられるということはありますけれども、それだけのことで、ヘーゲルをヘーゲルとして研究するということは行なわれませんでした。いわゆるオーソドックスの哲学では、ほとんど問題にされなかった。二十世紀に入ってから、一九一〇年頃、新カント学派のヴィンデルバントという人がヘーゲルをもう一度考え直す必要があるということを、『プレルーディエン』という本の中で書いています。しかし本当にヘーゲルが積極的に問題にされたのは、一九三〇年前後です。現在一般に流布しているヘーゲル全集は、そのころグロックナーという人が編集したものです。それでは、一九三一年にヘーゲル百年忌に際して起こってきたこのヘーゲル復興運動というのが、ずっと今日まで続いているのかというとそうではありません。それもいつの間にか立ち消えになってしまった。ところが今度の戦争がすんでから、急に研究が盛んになってきて、今まではほとんどヘーゲルを問題にしなかったフランスにおいてさえ取り上げられるようになってきた。最近数年の間には驚くほどヘーゲル研究の書物が各国で出版されている。十九世紀のある時期にイギリス人でヘーゲルを問題にした人々があります。有名な人ではブラッドリーとかカーライルとかいう人々です。しかし本国ドイツでは、十九世紀の後半からほとんど忘れられたかのごとくであった。それが現在では、いま言ったように盛んになってきた。戦後あいついでヘーゲル研究の書物が出ている。われわれが全部読もうとしても追いつけないほど出ている。だからヘーゲル理解のうえでも非常に歴史があるわけです。

どうして過去において、一方で非常に賛成されたかと思うと他方で反対されたかというと、そこには、そういうような二面が兼ね備わっていたためだと言えましょう。だからその二面のどちらかだけを取り出すと、極端な賛成と反対が出てくることになります。右と左の思想のどっちからも受け入れられそうなことが書いてある。だから一方でマルクスに非常に大きな影響を与えているかと思うと、反対に他方では、国家哲学に利用され、そのためプロイセンの御用哲学であるということまで言われている。ところが、不思議なことに、戦争中に日本でヘーゲルに関する本が、発禁になったことがあります。ちょっと考えるとなぜだかわからないのです。務台理作先生の『ヘーゲル研究』という書物は戦争中に出ていた。これが発禁になってしまった。どうして発禁になったのですかと先生に尋ねたことがあるのですが、どういうわけかわかりませんということでした。よく考えてみると、国家というものは世界史の中に流れ込んでしまうという思想が、ヘーゲルの歴史哲学に出てくるため、国家至上主義からいけないと見られたのではないかと、私は判断しています。そういうことを文部省あたりで考えたと思うのですがね。あの当時でも一方の人はヘーゲル哲学は御用哲学だということを言っている。だから国家主義の方からは認められてもよさそうだけれども、無視された。このことはヘーゲルという思想家が非常に大きく怪物的であるということにもなります。そのために理解の仕方でいろいろなことが出てくるというわけです。これは人から聞いた話ですから本当かどうかわかりませんが、西田幾多郎という人はヘーゲルを研究し、『論理学』を何べんも読んだといわれますが、そのことを頭に置いて西田哲学を読むとそういうことが感じられます。そういうので、ヘーゲルはいろいろな人からいろいろに見られるように、いろいろなことを一つにごたまぜにしているとも言えそうです。よく言えば、多くの複雑なことを考えぬき、それらを体系的に実によくまとめ上げていると言えます。だからどこをとってみても、その部分に非常に人を引きつけることを言っているわけです。問題のどれをとってみても何か考えさせるものをもっている。いろいろな解釈、いろいろな意見を成り立たせるようなもとがあるわけです。そこでそのようなことを通して、何が話されたかということ、それを私が理解した限りにおいてお話をしておきたいと思うのです。

さきほど、話しましたように、ヘーゲルが死んでから、ヘーゲル右派とヘーゲル左派というものに分かれたとされています。ヘーゲル左派のほうからはマルクスが出ている。ヘーゲル右派のほうは宗教哲学、国家哲学に向かっている。ルードヴィッヒ・ハイムという人の『ヘーゲルとその時代』という本は、徹底的にヘーゲルをやっつけている。つまりヘーゲルというのはプロイセンの御用哲学だと言っている。なぜそういうことを言われるようになったかということ、そこにある問題を指摘したいと思います。

フランス革命とヘーゲル

その前に、そのことを理解してもらうために年代的に当時のことを言っておきましょう。ヘーゲルが生まれたのが一七七〇年で、亡くなったのは一八三一年。それからフランス革命が起こったのが一七八九年、ナポレオンがヨーロッパそしてドイツを征服したのが一八〇五年、一八〇六年にナポレオンはドイツ帝国を認めないと言っている。その意味において、ドイツは一応崩壊したわけです。さらに一八三〇年にフランスの七月革命が起きており、一八三一年にヘーゲルは死んでいるわけです。そうするとフランス革命というのはヘーゲルがちょうど、だいたい諸君と年齢があまり違わないときに起こったわけです。そのことはわれわれ日本にとって中国で革命が起きたということとは違うものがあります。そこのところを理解してもらいたい。中国とわれわれとは密接な関係にあるけれども、中国で革命が起きたということをわれわれが考える場合と、ドイツ人が、フランスで革命が起きたことを考える場合とでは、そこに非常な意味の違いがある。われわれは太平洋の岸辺に立ってみても、別にはっきりとそこを国境線だとは思わない。ところがドイツやフランスの場合だと足を一歩踏み出したら、もう他国の領土に入ってしまう。そういう状況の中で、国と国とが接してるのです。そういう関係にある隣国に大きな革命が起きたということは、たいへんなショックだったにちがいない。私のような老人なら感じないかもしれないが、諸君くらいの年齢のときにすぐ傍で革命に出会ったということを考えてもらいたい。ヘーゲルは、ナポレオンがドイツに攻め込んできたとき、その太鼓の音をききながら、『精神現象学』を書いたという話が残っています。

ここで当時の他の思想家のことを考えてみると、アダム・スミス(一七二三―一九〇)が例の『国富論』を書いたのは一七七六年ですから、ヘーゲルの青年時代には世の中に出ていたということを考えなければならない。それからキルケゴールの生まれたのは一八一三年で、亡くなったのは一八五五年ですし、ニーチェが一八四四年か一九〇〇年まで生存していました。マルクスの『経済学批判』が出たのは一八五九年です。そこで、だいたいそういうような年代表を頭に入れておいて聞いてもらいたい。一八〇六年にドイツはナポレオンによって、一応解体されるのですが、その後ナポレオンがモスクワから逃げだしてくることによって、盛り返していきます。それから王政の復古などがあり、一八三〇年にまた革命が起きている。さらに一八四八年に三月革命が起こる。ヘーゲルは一八三一年に死んでいますから、生まれてから死ぬまで革命の動乱の中に生きておって、そしてドイツの崩壊を目のあたりに見ているわけです。その後またもう一度ドイツが盛り返して、ビスマルクがドイツを統一するのですが、そのときはもう死んでしまっている。そういう状況の中で、ああいう思索をやったということを考えてもらいたい。ドイツというところは、諸君、歴史で習って知っているでしょうが、今日でも連邦国家ですね。ドイツが統一されたのは過去において三回ありますけれども、その三回というのをどういうふうに解釈したらいいかということについては、いろいろ意見がありますが、とにかくそういうのがドイツという国です。要するに連邦国家であって、ドイツの中には、よその国の王様が支配していたところがあるという状況です。だから統一ドイツというものが生まれるということが、ドイツにとって非常に難しいわけです。現在だって大きく東と西に分かれているのみならず、西も依然として連邦国家です。とにかくフランス革命を境にしての動乱という歴史的な状況の中で思索が行なわれていったということを、どうか頭において聞いていただきたいと思います。ヘーゲル右派とヘーゲル左派とに分かれたと言いましたが、他方そのことはフランス革命に対して、どういう態度をとったかということに関係してくるわけです。ヘーゲルはフランス革命をどういうふうに扱ったかということに関係してくるわけです。いま言ったように、フランス革命というものは、ナポレオンが亡びた後にも王政が復活したりして、革命のはじめに人々が想像したとおにはなっていません。このことと関連してフランス革命の精神というものに対し、哲学的に、思想的にどういう態度をとったかということ、これがまず問題になることなんですが、そのことを話す前に次のことを知っておいてもらいたい。

③十八世紀の自然主義

一八三〇年にオーギュスト・コントが『実証哲学』という本の出版を始めているわけです。ヘーゲルの死ぬ少し前です。そこでヘーゲルが死んでから実証主義というものが起きてくることになりますが、これによってヘーゲル哲学というものは、古い形2而上学をそのまま蒸し返したのであって、科学的な現在では役に立たないのだということにされてしまった。オーギュスト・コントの考えによれば人類の思想は三段階に変わったことになる。最初に神話、その次に形而上学、第三に実証主義の時代がくる、ということで、形而上学の時代はもう終わったのだといっている。そういう意味で、ヘーゲル哲学というものは意味をなさないのだということになる。つまり形而上学(ヘーゲル哲学)などは意味がない。それは単なるスペキュレーション(思弁)の世界であって、現実の世界ではないということで、退けられてしまう。もともとフランス革命を導いてきた思想というものが、いわばオーギュスト・コントのポジティヴィズムにつながっている。フランス革命の思想は英国の思想にも連なり、やがてポジティヴィズムに展開していくことになる。だから没後、そういう十九世紀の思想からヘーゲルがいろいろ批評されたわけです。そこでそういう意味で後にポジティヴィズムに展開する、経験論や自然主義という十八世紀の思想に対して、ヘーゲルがどういうふうな態度をとったかということに問題の重点があるわけです。ヘーゲル右派とか左派とか言いますが、それらは近代のそういう思想傾向とフランス革命に対して、ヘ―ゲルがどういう態度をとったかということに関係してくるわけです。フランス革命の歴史的な話というのは私の任ではないのですけれども、あの当時のフランスの思想は十七世紀から始まって、十八世紀に至る間につくられていったわけです。それではフランスの思想の根底をなしているものは何であったかということの問題ですが、これは広い意味での自然主義的合理主義であるといってよいと思います。この自然主義といわれているところのものは一見明瞭なように見えますが、実は必ずしもそうではないわけです。たとえばルソーが「自然に帰れ」ということを言った場合に、その自然というものは何を指しているのかというと、これは必ずしも明瞭ではない。それからルソーに影響を与えたロックが「人間の平等」ということを言っている。生まれつき人間が平等であるということは、逆に、生まれつき人間は不平等であるというふうに言い換えてもおかしくはない。つまり人間は生まれつき平等であるということを言うのは、ある立場があって、その立場から考えて、言われたことです。その生まれつきという場合には、自然的主体として、権利の主体として、法的人格として、平等であるということをいっているわけです。けれども、それをロックがそういう根本的な意味のものと考えておったかというと非常にあいまいになってくるわけです。いずれにせよ、自然的存在として平等であるという、そのことに基づいて考えている。ルソの場合は人間は生まれつき善であるというふうに考えている。人間は生まれつき善であるというふうにルソーには書かれているわけです。そういう意味の自然です。そういう意味の自然を前提として、その自然の方向から考えてそれに合わないものに対する徹底的な批評を続けていくということですね。それがフランスの自然主義というところからでてくるわけですが、ルソーなんかの場合は必ずしもそれは徹底した実証の立場から行なわれたのではない(ルソーはボランタリストですからそういう意味で人間をむしろ意志的に考えていた)。そういう考え方の底に流れていたものが後にコントに大きな影響を与えるわけです。そういう形で自然ということが非常に大きな意味をもっていた。その場合には、いま言った意味で生まれつきということを言うわけですが、後に啓蒙時代になると、いっそう強調されてそれが国家の問題として考えられるようになります。そうなると自然主義的な意味に合致した限りでの国家でないようなものは、すべて間違っているという思想に転じていくわけです。

この考えの中には二つの傾向があるわけです。自然的にものを考えるという考えには二つの傾向がある。一つはイギリスに育ったもので、自然法則というものを知って自然の法則を適用していけばやがて自然を征服することができる。そういう意味で知識というものは力である。だから力にならないような知識はだめだという考えが出来上がっている。もう一つはフランスに発達したもので、デカルトなどが全体として世界の唯一の原理というものを立てようとする。デカルトで言うと合理的精神というものになりますが、やがて自覚という形で把握されるものですが、そういう全体として統一をもった一つの世界を見ようとした。そういうわけで当時ヨーロッパに二つの自然観があったわけです。いずれにしても自然主義的なものの見方が、人間に対し、国家に対し大きな意味をもって考えられていた。そういうわけでそれがその当時の社会に対する批判の原理となっていたわけです。そこでそれが批判という形をとって現われるとどういうふうになるかというと、自然の原理というものに従って社会というものが考えられるということです。こういう考えは古代社会には全然ないわけで、中世にもそういうことはない。ソクラテス、プラトン、アリストテレスという人たちですらポリスから独立した人間を考えることができなかった。つまりアテネ、スパルタ、テーベなどの都市国家から離れて、人間を純粋に人間自身として考えることはできなかった。だからソクラテスが死ぬときに国法に従って死んでいったのは、初めからポリスを離れた自分を考えることができなかったからです。ソクラテスはいつでもポリスの中で考えていた。したがって人間がポリスというものをつくりかえることはできないと考えていた。ポリスというのは初めからあるもので、ポリスをつくりかえるなどということは考えられさえもしなかった。つまり自分はポリスの中で大きくなってきてポリス以外に自分の生きるところはないと考えて生きていた。それからまた中世77の封建社会においては、封建貴族は封建貴族、武士は武士ですから、そこにそういうものを離れて一般化した形で人間それ自身というようなものを考えていくということはできなかった。

もしわずかにできたとすれば、それはキリスト教の中でのことです。けれどもこの場合でも十八世紀に生まれた思想で言うような形においてではない。自然の原理に従って人間を形成していくことができると同時に社会を形成していくことができる、つまりつくり直していくことができるというような考えは、古代や中世ではとても考られないことであったわけです。これを人間個人の問題に直して考えると教養、自己形成です。Bildungというのはドイツ語でbildenの名詞化です。ビルドゥングを教養といっております。要するにこれは自己形成ということなんです。この自己形成の原理になるものが自然であるというふうに考えられていたわけです。そういう形で考えられる自己形成を行なうと同時に、社会も人間の手によって自己形成を行なうことができる、そういうふうに考えられたわけです。当時のいろいろな人によって言うことが多少違っているけれども、そういういろいろな思想を通してやはり一貫した考えが流れていたわけです。それが極度にはっきりした形をとって現われてきているのが啓蒙時代である。

 第一章 私を「存在」に変える
放り込まれたので、孤立 と孤独で生きている
存在を考えること で目的が与えられ る
内なる世界を作り、 他者の世界を見ていく
私は私の世界にい る。 存在者として生きる
外のなる現象を内なる世界で解明する
現象から空間の軸を抽出する
宇宙の旅人として空間から知をめざす
全てを知ることで 存在の無に至る
 第6章 本・図書館を「知」とする
図書館は共用のシンボル
考えることで知の世界をつくる
存在を考えて個は覚醒する
中間の場は考える環境を作り出す
知の拠点でコメント文化を作り出す
個の目的達成のために教育を再編成
本を分化・統合して知の体系を作る
個の知で人類の平等をめざす
 第8章 クルマ社会は「共有」とする
車を移動手段として共有
行政は地域にサービスする
個の覚醒と自立を支援する
個の共有する意識を育てる
コミュニティに意識と知識を蓄積する
地域は個の多様性に対応する
車は個と共有をつなぎ合わせる
クルマを共有して境がない社会にする
 第9章 社会の変を「変革」とする
集中から分散して循環させる
多様化に市民の多様性で対応
超える存在でグローバルに対応
部分の循環と全体の循環をシンクロさせる
危機意識で全体の状況を把握する
個の覚醒で家族・ 教育・仕事を変える
個の目的達成で全体の平等を目指す
有限な存在ならば共有が前提になる
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