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岩波講座『世界歷史16』

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国民国家と帝国一九世紀

一八四八年革命論

中澤達哉

はじめに

一八四八年革命は、一七世紀のイギリス革命、一八世紀のフランス革命やアメリカ独立革命、二〇世紀のロシア革命と異なり、革命という語の前に国名を冠しない。名称自体が単に勃発の年を表し、なおかつ、諸地域の革命の集合(revolutionsof1848/49)であることから分かるように、全容は実に捉えがたい。実際にこの革命は、一八四八年の上半期に瞬く間にヨロッパ全域に伝播し、大海原を越え、いとも容易にブラジルやコロンビアなど大西洋の対岸に達した。E・ホブズボームによれば、この革命は、「潜在的には最初のグローバルな革命」であったが、他の革命に比して「最も成功しなかった」(ホブズボーム一九八一:一二-一三頁)。同年二月のパリでの華々しい初発と、翌年八月のハンガリー独立戦争の敗北による失望感との間にある、あまりにかけ離れた落差をみれば、「諸民族の春」とは手放しに形容することができなくなる。この革命ほど評価しがたいものはない。

自由・平等・同胞愛を掲げたフランス革命から約六〇年の歳月が経っていた。すでに大革命を肌で知る世代はほぼいない。人びとはメッテルニヒ(KlemensvonMetternich)の復古主義をむしろ肌で体験していた。このような中で、ともすると神話化されていた市民革命の成果を自国にも実現しようとした(特にドイツ系)知識人にとっては、一八四八年の変革は「予告された革命」であった(マルクス、エンゲルス一九七一九七頁)。一八一五年のウィーン体制成立以降の約三〇年が、本体の到来を想定する「三月前期」(Vormärz)と称されたのはそのためである。つまり、予告されるほどに革命は思想的に周到に準備されてきたし、期待の的でもあった。その帰結として、革命運動はしばしばイデオロギー的に統一されているかのように描かれた。実際には、諸地域の革命運動は相互に協調もすれば、逆に早くから激しく対立もしていたのだが。一八四八年革命が「不成功」だったと言われるのは、対立の側面が重視されるからであるが、一方で、この革命は新たな変革主体を登場させたという意味において、まぎれもなく「近代世界の転換点」であったとの把握も存在する(増谷一九七九:七頁)。さらに近年は、亡命者たちの活動にも視野を広げ、一八四八年革命の長期的な余波を指摘し、失敗像の転換を迫る研究も現れている(Clark2023)。

このように、研究史を一瞥しただけでも、一八四八年革命の多面性は明らかである。では、なぜ、これほどまでにこの革命の評価が分かれるのだろうか。同一の出来事が異なる解釈へと帰着するのは、なぜだろうか。史料の制約であろうか。あるいは、後世の国別の国民史の記述ゆえに、異なる姿をみせてしまうのであろうか。もちろん革命の多様性は、今日のフランス革命研究やロシア革命研究でも次々と明らかにされており、一八四八年革命だけを特別視することはできない。むしろ本稿のアプローチは、近世のウェストファリア期から近代後期までの長期変動の中間に一八四八年革命を位置づけ、その実態と構造を明らかにすることである。これにより、一国に限定されないグバル革命としての性質が詳らかになるのではなかろうか。この小論では、近代史研究のほか、近世史研究の成果も踏まえた上で、従来とは幾分異なる革命理解を提示してみたい。

一、「長い近世」と「長い一九世紀」

近世史研究の変貌

一八四八年革命は今日、近世史学の巨大な地殻変動を抜きにして語ることはできない。近世史研究の変貌は、古くは一九六〇年代のポスト工業社会の到来に対応したポストモダニズムによる方法論上の問題提起に端を発する。近代の相対化の機運に対して、近世の独自性を強調することで、近代の既存認識に修正を促そうとすることに特徴がある。近世史研究では、一九七〇一九〇年代に以下の国家論・政治社会論の二つの分野で変容が生じた。それは、かつてのアナール学派に勝るとも劣らない活況ぶりであった。①K・ケーニヒスバーガ、エリオットらの複合国家論と複合君主政論、②J・ポーコック、Q・スキナーらの市民的人文主義に基づく共和主義論である。特に、①の複合国家・複合君主政論は、九〇年代末に「礫岩国家」(conglomeratestate)論へと歩を進め、近世国家史・国制史・政体史研究は一変した。つまり、君主権のもと税制・軍制・官僚制によって中央集権化を進め、対内的に排他的な管轄権を有し、対外的には独立性を保持した主権国家群が成立したとする、従来の絶対主義的な近世国家像は批判の俎上に載せられたのである。こうした把握が人口に膾炙すると、二〇〇〇年にS・ボーラック、〇四年にはA・オジィアンダーによって、国際関係史におけるいわゆる「ウェストファリア神話」さえ提起されることになる。

ここで「礫岩的主権国家」論に言及しよう。スウェーデンの歴史家H・グスタフソンによれば、近世国家を構成する各地域(礫)は、中世以来の独自の法と権利を根拠に、君主に対して地域独特の接合関係をもって礫岩のように集塊していた(グスタフソン二〇一六八六頁)。Conglomerateとは無数の礫(さまざまな色・形・大きさの小石)を含有する堆積岩であり、非均質かつ可塑的な集塊を指す。現代の国際複合企業群もまたconglomerateと呼ばれるのはその文脈においてである。ゆえにこの国家論は、国家を構成する地域の組替・離脱・変形を常に前提とする、緩やかな可塑的主権国家論といえる。その典型は、スペイン王国、スウェーデン王国、神聖ローマ帝国、ハプスブルク帝国、ポーランド=リトアニア共和国であった。より高度な接合の事例としては、フランス王国やイングランド王国を挙げている(グスタフソン二〇一六一〇四一一〇五頁)。絶対王政の中央集権とは異なる、ヨーロッパ全域に及ぶ国家形態として想定されていることを重視しなければならな一方でそれは、一六世紀以降の世界の商業化に適合的な国家形態とも言えるのであろう。

なお、筆者はこれまで、ヨーロッパにおける礫岩的主権国家の編成原理が第一次世界大戦直後まで持続したことを指摘したうえで、主権分有の動態を軸に、近世帝国と近代国民国家の相互浸潤を問題にしてきた(中澤二〇二一:一七五一一七八頁)。その際この状況を「長い近世」と形容し、一八四八年革命から六七年のアウスグライヒまでをハプスブルク帝国史における主権再編の第四期とした(中澤二〇一四:一三五一一六五頁)。本稿においても適宜、主権分有の動態を、一八四八年革命を検証する際の参照軸としたい。

近代史研究の相対化

近世の絶対主義的な主権国家像の相対化は、やがて近代の国民主義的な主権国家像にも修正を迫ることになる。かでも近代史研究の認識に抜本的な変化を及ぼしたのが、一九八〇年代にE・ゲルナー、アンダーソン、Eホブズボームを中心に形成された構築主義である。これは、国民国家研究に以下の三つの基盤を提供した。ネイションは近代において社会的に構築された①人工物であり、また、②想像の共同体である。この集団概念の形成は、③資本主義化・工業化に起因する。

特にホブズボームは、そうした新たに構築されたネイションにあたかも永続的実体であるかのうな装いをもたせるべく、ナショナリストが試みたネイションに都合の良い伝統の創造プロセスを解明した。彼によれば、一八四八年の諸革命は、ネイションを政治的な主体とするための運動であるナショナリズムを中産階級、自由主義、政治的民主主義、そして労働者階級と同様に政治の世界の恒常的なプレーヤーに昇華させた(ホブズボーム一九八一:三六頁)。それゆえ、特権階級や富裕層はもはや旧来のやり方では社会秩序を維持できなくなったと言う。プロイセンの封建領主たるユンカーは世論の重要性にようやく気付き、政治に無関心な南イタリアの農民でさえ君主を軽々に擁護しなくなった。ナポレオン三世(NapoléonIII一八〇八一七三年、在位一八五二七〇年)など革命後の君主は、国民とともに歩む道を選択せざるをえなくなった。
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