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 『哲学 100の基本』

『哲学100の基本』

岡本裕一朗

世界は謎に満ちている

哲学は探究する時領域を限定することがありません。その理由は、哲学がもともと「すべて」を問い直すことにあります。この「すべて」を表現するのが、「世界」です。したがって、哲学では「世界」という概念がしばしば登場します。

しかし、哲学者たちが「世界」という言葉を使う時、必ずしも一義的ではないことに注意しておきましょう。つまり、「世界」の意味は多義的であることが、最初に確認しておく点です。

それぞれの哲学者が同じ「世界」という言葉を使っても、想定している「世界」が違うのです。

言いかえると、哲学者たちはそれぞれ構想する哲学の違いに応じて、「世界」を定義してきました。

したがって、「世界」を考える時は、正しい答えを見つけようとするのではなく、むしろ哲学者たちが「世界」の意味をどう定義しているのかこの点に注意を払う必要があります。

「世界」という言葉は、ギリシア語やラテン語では「コスモス」に当たり、調和のとれた全体を指していました。

調和がとれた全体であれば、小さくてもコスモス(ミクロコスモス)と呼ばれ、マクロコスモスと対比されました。一般には、ミクロコスモスは人間を指し、マクロコスモスは大宇宙を意味しています。

ただし、宇宙という言葉には、「ユニヴァース」という別系統の言葉があり、「コスモス」とは区別して使われます。しかも、哲学者によっては、「コスモス(世界)」と「ユニヴァース(宇宙)」を対比する場合もありますので、注意が必要です。

このように、何を「世界」と考えるかは、異なっていますが、「秩序をもった全体」という点で、共通の構造があります。その一つは、全体を構成する要素があることです。

また、それぞれの要素が他の要素と関係をもち、秩序を構成することです。さらに、それらの要素が全体としての世界においてあることです。こうして、「要素一秩序全体」として「世界」を理解することが、重要な視点になります。このパートでは、哲学者たちの有名な世界論を提示しますので、こうした視点を念頭に置きながら、それぞれの「世界」を確認してください。

学校概念としての哲学と世界概念としての哲学

近代の哲学者であるデカルト*は、「世界論」を構想し執筆したのですが、ガリレオ裁判のために、その出版を断念しました。

その時、デカルトが構想した世界論は、地動説を取り入れた自然学だったのです。デカルトが考えた「世界」というのは、「宇宙」であることが分かります。

ところが、デカルトは自伝とも言うべき『方法序説』の中で、別の「世界」について語っています。学校で学んだ「書物の学問」と対比する形で、「世界の書物」について語るのですが、この時の「世界」は人の世界という意味での「世間」です。そのため、「世間という大きな書「物」と訳されています。

こうした「世間(世界)の学問」と「書物の学問」の対比を踏襲しているのが、カント*です。カントは「世界知(Weltkenntnis)」という言葉を使いながら、「単に学校のためのみならず、生活のために役立つ」知識と説明しています。そのため、この言葉には、「世間知」という訳が使われています。「世界」は人々の世界として、「世間」を意味するのです。

こうした使い方を鮮明に打ち出すのが、「世界(世間)概念としての哲学」という考えです。カントは、主著である『純粋理性批判』の「方法「論」の中で、「学校概念」と「世界概念」を区別して、次のように述べています。

哲学という概念は、一つの学校概念にすぎない、すなわち、学としてのみ求められ、そのさいこうした知識の体系的統一以上の何ものかを(中略)目的としてもつことのない認識の体系という学校概念にすぎない。しかし、さらに世界概念(conceptuscosmicus)というものがあるのであって、この世界概念は、哲学という名称の根底にいつでも置かれていたし、とりわけ、この概念がいわば人格化されて、哲学者という理想において一つの原型として表象されたときには、そうである。

哲学の学説を知ることは、学校概念としての哲学にすぎないのです。むしろ、哲学の知識が、世界(世間)の中で有効に使えるようになる必要があるわけです。それを体現した人こそが、はじめて「哲学者」と呼ばれるようになる、と述べています。

ここでカントは、「世界概念」という言葉にわざわざラテン語を付加して、「conceptuscosmicus」と表現しています。このcosmosが、世界市民(コスモポリタン)につながることは、注目しておく必要があります。これは、コスモス(cosmos)と市民(polites)から作られたものです。カントは、永遠平和論で、コスモポリタンの立場を強調していますが、このためには、「世間知」や「世界概念としての哲学」が必要なのです。

カントによれば、哲学の目標は、学校概念としての哲学、つまり哲学説の物知りにあるのではありません。むしろ、世界市民になりえるように、「哲学する」ことを身につけ、世界(世間)の中で活用できることが大切なのです。これがカントの考える「哲学者」のイメージです。とすれば、哲学者は哲学研究者とは区別されなくてはなりません。

学校概念としての哲学・・・哲学説の体系的知識・・・哲学研究者(モデル)
世界概念としての哲学・・・世間知としての哲学・・・哲学者(モデル)

だとすれば、職業的に哲学を研究するのでないかぎり、目指すべきは「世間知」としての哲学なのです。哲学を世界(世間)でどう活用できるか、これが哲学の試金石になりそうです。

意志と表象としての世界

世界は人間にとってどんな意味をもつのか?この問題を極限にまで突きつめたのが、ドイツの哲学者ショーペンハウアー*です。彼は『意志と表象としての世界』を1819年に出版しましたが、この本は生涯にわたって何度も検討されています。そのため、正編第2版と続編が1844年に刊行されました。ショーペンハウアーにとっては、『意志と表象としての世界』がすべてなのです。

しかし、世界が「表象」や「意志」とされるのは、どうしてなのでしょうか。この二つは、カント*が「現象と物自体」を区別したことにもとづいています。カントは世界を考える時、「現象」と「物自体」に区分したのですが、それに対応するようにショーペンハウアーは「表象」と「意志」に分けたのです。すなわち、現象=表象と物自体=意志という対比です。

「表象としての世界」という考えは、人間の認識のあり方を見れば、無理なく理解できます。というのも、人間にとって現象している世界が、「表象」だからです。しかし、ショーペンハウアーには、さらに「意志としての世界」というアイデアもあります。

そして、もっともショーペンハウアーらしいのは、こちらの思想です。なぜなら、「意志」は「物自体」とされているからです。しかし、そもそも「意志」として何が考えられているのでしょうか。

ショーペンハウアーが「意志」を考える時、特徴的なのは人間の意志に限定しないことです。その他に、動物の本能、植物の運動、無機的自然界のあらゆる力のうちで、盲目的に活動しているものが「意志」と呼ばれています。盲目的で、衝動的な世界が、意志の世界なのです。

しかも、もっとも重大なことは、ショーペンハウアーにとって、意志の世界が苦悩に他ならないことです。「苦悩は人生から生じるのであり、人生はまたこの意志の現象に他ならない」と言います。ショーペンハウアーによれば、意志の世界では、欲望に終わりがなく、退屈と苦悩に苛まれることになります。そのため、次のように発言されることになります。

われわれの生存の状態はきわめて悲惨であるから、こんな状態でいるくらいなら完全に存在しない方が断然望ましいであろう。

意志にかんするこうした考えは、「厭世主義(ペシミズム*)」と呼ばれますが、最近では「反出生主義*(生まれてこない方がよかった)」と言われることもあります。

したがって、彼の最終的な方向は、「意志の否定」となるのですが、これは同時に「世界の超克」になります。しかし、問題なのは、これが具体的に何を意図しているかです。単純に考えると、「自殺」が一番分かりやすいですが、ショーペンハウアーはこの方法を採用しません。むしろ、解脱や悟りといった境地ですが、正直なところ、必ずしも納得できる結論かどうかは分かりません。

人間は世界内は存在である?

20世紀において、「世界」という概念を印象的な形で哲学に導入したのは、ドイツの哲学者ハイデガー“です。彼は、1927年に出版した『存在と時間』の中で、人間(現存在)と呼ばれる)を「世界内存在」と規定し、従来の考えを厳しく批判したからです。

しかし、「世界内存在」と言われても、常識的な意味で考えると、ほとんど無意味な規定のように見えます。「人間が世界のうちに存在しているのは当たり前ではないか!」というわけです。その規定で、ハイデガーは何を意図しているのでしょうか。

対比的に想定されているのは、デカルト“が「世界」と呼ぶ宇宙的な自然です。自然科学で取り扱うような宇宙が、デカルトの世界です。こうした自然科学的な世界に対して、ハイデガーはまったく違った「世界」を打ち出しています。

ハイデガーが想定する「世界」は、人間が道具を使うという場面で説明されています。たとえば、ハンマーは、釘を打つというような用途(「~のため」)のもとで、使用します。

また、釘を打つのは、家を造るためです。こうして、それぞれ「~の「ため」という指示連関の全体ができ上がるわけです。

ハイデガーは、このような指示連関の全体性を「有意義性」と呼びますが、これが「世界」と呼ばれるわけです。

ハイデガーはその状況を、独特の言葉づかいで、次のように表現しています。読み取りにくいですが、道具を使う場面を考えて読んでください。

現存在が、おのれに指示するという様態においてそのうちでおのれを先行的に了解している場、これが、存在者を先行的に出会わせる基盤なのである。おのれに指示しうう了解することがそのうちでおこなわれる場が存在者を適所性という存在様式において出会わせる基盤なのだが、そうこた場が世界という現象なのである。

ハイデガーは、デカルトのような自然科学的な世界(宇宙)の中での存在者のあり方を「事物存在(Vorhandenscin,手前存在)」と呼び,道具的な有意義性のもとで理解されている存在者のあり方を「道具存在(Zuhandensein、手もと存在)」と呼んで区別しています。こうした道具的な存在者を有意義性のもとで了解しつつ使うのが人間であり、そのあり方を「世界内存在」と呼ぶのです。

このあり方は、物理的な自然を事物として観察する態度ではなく、もっと親密な形で世界とかかわる交渉と見なされ、いわば理論以前的な実践的な態度だと考えられています。こういう実践の中で全体として解されているのが、「世界」というわけです。

ハイデガーの独特の言葉づかいのため、やや分かりにくいかもしれませんが、同じ「世界」といっても、事物性の総体と見るか、有意義性の連関と見るかによって、まったく違った様相を帯びてきます。ハイデガーは、道具性という使用にもとづいて、個々のものおよびその連関の全体を、「世界」と呼んだのです。

ハイデガーはその状況を、独特の言葉づかいで、次のように表現しています。読み取りにくいですが、道具を使う場面を考えて読んでくださ

現存在が、おのれに指示するという様態においてそのうちでおのれを先行的に了解している場、これが、存在者を先行的に出会わせる基盤なのである。おのれに指示しつつ了解することがそのうちでおこなわれる場が、存在者を適所性という存在様式において出会わせる基盤なのだが、そうした場が世界という現象なのである。

ハイデガーは、デカルトのような自然科学的な世界(宇宙)の中での存在者のあり方を「事物存在(Vorhandensein、手前存在)」と呼び、道具的な有意義性のもとで理解されている存在者のあり方を「道具存在(Zuhandensein、手もと存在)」と呼んで区別しています。こうした道具的な存在者を有意義性のもとで了解しつつ使うのが人間であり、そのあり方を「世界内存在」と呼ぶのです。

このあり方は、物理的な自然を事物として観察する態度ではなく、もっと親密な形で世界とかかわる交渉と見なされ、いわば理論以前的な実践的な態度だと考えられています。こういう実践の中で全体として了解されているのが、「世界」というわけです。

ハイデガーの独特の言葉づかいのため、やや分かりにくいかもしれませんが、同じ「世界」といっても、事物性の総体と見るか、有意義性の連関と見るかによって、まったく違った様相を帯びてきます。ハイデガーは、道具性という使用にもとづいて、個々のものおよびその連関の全体を、「世界」と呼んだのです。

世界は成立していることがらの総体である

「世界」という概念を、きわめて短い表現で簡潔に示しているのが、オーストリア出身の哲学者ヴィトゲンシュタインです。彼が『論理哲学論考』の冒頭で「世界」について与えた規定は、「世界」という概念の意味を考える時、誰もがふまえるべき論点になっています。『論理哲学論考』という本は、論理的な厳密性にもとづいて番号づけが行なわれていますが、その中でもっとも原理的な位置を占めるのが「世界」に関する規定です。次のように述べられています。

1.世界は成立していることがらの総体である。
1.1世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
1.11世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている
1.12なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。
1.13論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
1.2世界は諸事実へと分解される。

この表現で、「世界」がどのようなものか、明確に示されていますが、あまりに簡潔なので、かえって分かりにくいかもしれません。たとえば、「成立していることがら(wasderFallist)」とか、「事実(Tatsache)」とか「もの(Dinge)」と言われても、奇妙な表現に感じるのではないでしょうか。いったい、何が言いたいのでしょうか。

まず、「成立していることがら」というのは、現実において実際に成立していることを意味しています。たとえば、私には兄弟がいますが、他のこと(一人っ子であること)も可能だったでしょう。可能性としては、さまざまありますが、現実にはそのうちの一つが起こったわけです。こうして現実に成立していること、それをすべて集めたものが「世界」というわけです。

つぎに、「事実」と「もの」が対比されています。「事実」というのは、「ものがかくかくである」ということを表わしています。「猫」とか「犬」などは、「もの」に当たりますが、「猫が木に登る」とか、「犬が吠える」というあり方は、事実になります。ヴィトゲンシュタインによると、ものの総体が世界ではなく、「ものがかくかくしかじかである」という事実の総体が、世界なのです。

したがって、世界は全体だとしても、「もの」をどんなに集めても世界にはならないのです。ここで「事実」というのは、言語的に言えば、単語ではなく、文で表現されるものです。文で表現される事実を要素として、世界は成り立っているのです。

ヴィトゲンシュタインが定義した「世界」は、一見したところ抽象的に感じますが、「世界」を考える時、もっとも包括的な規定といえます。

 第3章 社会を「世界」に変える
全体が個を成り立たせる世界
個の自立を支援する中間
存在の意識から個の覚醒を図る
多様化に対応して中間を自立させる
個の目的をコミュニティで共有する
個の目的達成を支援するコミュニ ティ
個の目的達成を中間の目的とする
合意して行動するユニット構成

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