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岩波講座『世界歷史21』

 岩波講座『世界歷史21』

二つの大戦と帝国主義20世紀前半

ソヴィエト社会主義の成立とその国際的文脈

はじめに

二〇世紀初頭のロシアの社会主義者は、西ヨーロッパと比較しての自国の後進性を強く意識していた。農業国で「ブルジョア」民主主義も達成されていないロシアではなく、強大なプロレタリアートを擁し、ブルジョア革命の課題がすでに果たされている西ヨーロパでこそ、社会主義革命は起こるであろう。こうした観点をどの国のマルクス主義者も共有していた。だが、自国の後進性に対する自覚は、ロシアの一部の社会主義者に、独特な世界革命の展望を打ち出すための動機をも与えた。そうした展望には、レフ・トロツキーの永続革命論だけではなく、ウラジール・レーニンの帝国主義論も含まれた。第一次世界大戦を触媒としてレーニンは、資本主義全体の破滅が迫っているとの認識を得るとともに、ヨーロッパばかりかロシア、さらには被抑圧地域までもが社会主義へと向かう革命に突入するという、壮大な世界史像を打ち出した。本稿は、ロシアの社会主義者が自国に新しい社会体制を打ち立てる過程を、ヨーロッパ、とくにドイツの社会主義運動の動向を参照しながら検討する。また、ロシアの社会主義者がコミンテルンを通じて打ち出した世界(史)認識について-察する。後進的とされる諸地域が歴史の主体となる世界史像を打ち出したことは、ソヴィエト社会主義に独特の輝きを付与したのである。

  • 帝国主義と第一次世界大戦

ヨーロッパ社会主義者の混迷

一八七三年、ウィーンで起こった恐慌を起点にして、ヨーロッパと北アメリカは長い不況に入った。社会主義者はこの「大不況」資本主義の最後が間近であるあかしと受け取った(McDonough1995:341)。無調整な資本主義のもとでは生産過剰による恐慌が避けられず、資本家は新しい市場の開発と従来の市場のさらなる開発によって危機を乗り切ろうとするが、かえって恐慌予防の手段を減らし、いっそう全面的な恐慌を準備することになる。これがカール・マルクスの見通しであった(マルクス、エンゲルス一九六〇:四八一頁)。

だが、八九六年に「大不況」は終わり、好景気が訪れた。資本主義が予期せぬ回復力を発揮したことは社会主義者を混乱させた。ドイツ社会民主党右派のエドゥアルト・ベルンシュタインは、社会主義革命の追求ではなく、体制内での運動を主眼とせよと主張した。党活動の実態はすでにそうなっていたのだが、党主流派は社会主義革命の目標を棚上げする気にはなれなかった。カール・カウツキーはベルンシュタインの「修正主義」を党内で公式に否定することに成功したが、社会主義革命の好機はいずれ到来すると論じる以上のことはできなかった(McDonough1995:341-346;スティーンソン一九九〇一六九―一九三頁)。

ヨーロッパ社会主義者の動向には、一九〇五年の第一次ロシア革命が影響を与えた。ペテルブルグでは労働者評議会(ソヴィエト)が組織され、一二月にはモスクワで労働者の武装蜂起が起こった。これに触発されて各国社会主義運動の左派は、街頭での大衆運動を重視するようになったが、カウツキーたち主流派は労働者の勢力が十分でない時点で政府との対決姿勢を強めることに慎重であった。こうしてヨーロッパの社会運動は右派、左派、それにイデオロギー上は社会主義革命を掲げつつも、実践では改良主義の立場をとる中間派に分極化した(スティーンソン一九九〇:一九四一二二八頁)。

理論面であらたな局面を切り開いたのは、オーストリアのルドルフ・ヒルファディングである。彼は『金融資本論』(一九一〇年)で資本主義の回復に説明を与えた。マルクスの時代と異なり現代資本主義では、産業資本ではなく銀行資本の役割が増えた。銀行資本は産業資本と融合して金融資本となる。競争を特徴とする産業資本が国家介入を嫌うのに対して、金融資本は安定を好むために国家の介入・保護を求め、政治権力との関係も緊密化する。資本の集中と経営の大規模化が進み、トラスト化が進行する。無政府状態的な競争にかえて、トラストによる経済の調整が進み、恐慌の可能性は減る。こうして金融資本のもとで現代資本主義は、より組織された性格を帯びる(「組織資本主義」)。金融資本はまた、投資先を求めて政府の植民地拡大を後押しするため、帝国主義が本格化する。こうしたヒルファディングの理論は、同時代の社会主義者に広く受け入れられた(McDonough1995:348-350)。

問題は、ヒルファディングの認識を大枠で共有した上で、どのような目標を立て、その実現のために何をなすべきかということであった。第一次世界大戦が始まると、何をなすべきかという問いはいっそう鋭さを増した。

戦時統制経済

社会主義者は労働者階級の国際連帯を旗印とし、一八八九年にはヨーロッパの社会主義政党を中心にして社会主義インターナショナル(第二インター)を結成していた。そのシュトゥットガルト大会(一九〇七年)は、戦争阻止のために努力し、開戦後はその即時中止を目指して介入すること、さらには資本家の支配の没落を促進するために戦争によって生じた危機を利用しなければならないと決議した。だが実際に、一九一四年夏に各国政府が参戦すると、諸社会主義政党も戦時予算を受け入れ、

第二インターは崩壊した。反戦を維持したローザ・ルクセンブルクのような左派は少数であった(西川一九八九:二三〇、一八七―二〇三頁)。

戦争の長期化にともない、各国では戦時経済体制が構築された。とくにドイツでは諸企業の国有化、原料・燃料の配分、価格規制、食糧配給などで国家による経済生活の計画的な管理が実現した。「組織資本主義」の延長線上に出現したこの体制は、社会主義者の関心をひいた。ドイツ社会民主党内で支配勢力となった右派のうちには、戦時統制経済を「国家社会主義」とみなし、社会主義への接近として評価するものが現れた(XMeJIbHHIKA1927:143,150)。右派に近い『社会主義月刊』誌の「国家社会主義」欄(この欄自体は一九一〇年開始のようである)は、開戦後最初の回(一九四年一二月九日)で、「戦争は経済的・社会的生活を維持し規制するための、巨大な一連の国家的措置をおのずから必要とした」と記し、クレジット取引を維持するための貸付金庫開設法の議決などを報じた(SozialistischeMonatshefte

国家社会主義の支持者のうちインリヒ・クーノは、ドイツ政府による帝国主義(植民地支配)の追求をとくに積極的に肯定した。帝国主義が社会主義に先行する「段階」である以上、ドイツがその段階を進むのを支援すべきであると彼は論じた。冊子『党の崩壊?』(一九一五年)で彼は記した。「新しい帝国主義的な発展段階は、より早期の発展段階、たとえば機械制大工業の形成がそうであったように、資本主義の新しい、内的な、金融面での生活条件の中から成長して出てきた発展時期であり、そのようなものとして不可避の、社会主義への通過段階なのである」(Cunow1915:14)。クーノの主張は植民地支配の正当化であったが、発展段階論に立ち、社会主義への接近を志向する点で、マルクス主義者による戦争への積極的な対応の一つの姿であった。

社会主義者がみな帝国主義を段階と考えたわけはない。右派の露骨な戦争支持に批判的なカウツキーは、一九一五年四月にクーノに反論した。ヒルファディングは「帝国主義という語をある特殊な種類の政策の意味で用いたのであり、「経済段階」としてではなかった」とカウツキーはいう。不可避的な段階ではなく政策である以上、帝国主義を推進しても社会主義にたどりつけるとは限らず、帝国主義政策にかえて各国金融資本の国際連合による世界の搾取という、「超帝国主義」政策が現れる可能性がある、と彼は論じた(Kautsky1915:111,144)。

レーニンの帝国主義論

スイスに亡命中のレーニンは、ドイツでの議論を丹念に追っていた。彼はクーノを帝国主義的として非難したが、帝国主義を政策ではなく段階とする点ではカウツキーよりもクーノと重なる点があった。レーニンにとってカウツキの「超帝国主義」論は、資本主義の廃絶という課題を回避するものであった(レーニン全集二二巻・一九五七:三一二―三一三頁)。

レーニンは、帝国主義を段階とした上で、その先に進もうとした。彼によれば「帝国主義とは、二〇世紀にはじめて到達した資本主義の最高の発展段階である」。金融資本の支配が植民地支配と世界分割を推進し、世界戦争を引き起こすにいたった。「いまや人類は、社会主義にうつるか、それとも植民地や独占や特権やありとあらゆる民族抑圧によって資本を人為的に存続させるための「大」国間の武力闘争を、数年間も、さらには数十年にわたってさえたえしのぶか、そのいずれかをえらぶようせまられている」。それゆえ、「現代の帝国主義戦争の内乱〔内戦〕への転化」が必要なのであった(レーニン全集二一巻・一九五七:二〇〔訳は変更〕、二二五、三〇七―三〇八頁)。

注目すべきは、戦争の進展につれ、レーニンによるロシア革命の位置づけが変化したことである。彼は他の社会主義者と同様、後進国ロシアの当面の課題は共和政樹立などの民主主義革命であると考え、ロシアの革命とヨーロッパ社会主義革命とを単に並置していた。一九一五年七月の時点でも「ロシアは、もっともおくれた国であって、そこでは社会主義革命は直接には不可能」と記していた。だが、九月後半の論説「ロシアの敗北と革命的危機」では、レーニンの認識には変化が見られた。同論説はロシアで自由主義政党のカデット(立憲民主党)などが政府批判を強めたため、皇帝ニコラ一世が九月半ばに下院を休会させたことを受けていた。レーニンはこの情勢を「ロシアにおける革命的危機のもっともきわだった現れの一つ」と評価した上で、こう記した。一九〇五年革命と異なり「ロシアにおけるブルジョア民主主義革命は、いまではもう、西欧の社会主義革命の序曲であるだけではなく、切りはなすことのできない構成部分なのである」。「戦争が全ヨーロッパを」とらえたことが、レーニンがロシアとヨーロッパの革命を直接に結合させるための背景をなしていた(レーニン全集二巻・一九五七:七、一五七、二八〇、三九二―三九三頁)。

これによりレーニンの展望はトロッキーに接近した。一九〇五年革命の経験に基づきトロッキーは、ロシアではプロレタリアートがブルジョア革命を主導し、さらに連続的に社会主義革命に進んでいくという「永続革命論」を唱えていた(トロッキー一九六七)。これに対してレーニンにおいては、帝国主義と世界戦争がヨーロッパ、さらに世界を一体化させたことによって、ロシア革命の連続的発展の展望が開けたのである。

だが、遅れたロシアはどのようにしてヨーロッパ社会主義革命と歩調を合わせることができるのか。第一の答えは先進ヨーロッパの支援であるが、それが直ちに得られる保証はなかった。第二の答えは革命戦争である。一九一五年八月の「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」でレーニンは、西ヨーロッパ諸国を念頭において、当初は一国でも、革命戦争により社会主義を維持することが可能との認識を打ち出した。「若干のテーゼ」(一〇月一三日発表)ではこの認識がロシアを念頭において具体化された。革命によって自分たちボリシェヴィキが権力についた場合には何をするのかという踏み込んだ問いを立て、レーニンは記した。全交戦国に「植民地と、すべての従属的な、抑圧されている、完全な権利をもたない諸民族との解放を条件として」講和を提議する。現在の政府のもとでは各国ともこの条件を受け入れることができない。「そうなれば、われわれは革命戦争を準備し、遂行しなければならないであろう」。ここで「革命戦争」の主体は、ヨーロッパ諸国民だけに限定されなかった。「いま大ロシア人に抑圧されているすべての民族、アジアのすべての植民地・従属国(インド、中国、ペルシア、その他)を反乱に立ちあがらせる」ことを彼は考えていた(レーニン全集二一巻・一九五七和田一九七七二〇頁、vanRee2010:160-164)。帝国主義と四一七一四一九頁、世界戦争が、世界革命の展望を開いたある。第三の答えは戦時統制経済にあった。一九一六年末にレーニンは、若い同志ニコライ・ブハーリンの戦時統制経済論のコンセプト「国家資本主義」を受け入れ、経済生活全般が国家によって管理され、計画原理が導入されるまでになったことに注意を向けた。レーニンは「国家資本主義」から社会主義までの距離は限りなく小さいと見た。彼は戦時統制経済がある程度まで確立されていたロシアでも、革命後に社会主義に移行することは可能であるとの認識をかためたと考えることができる(和田一九八二:二七ニー二七六頁)。

こうしてレーニンは徐々に、ヨーロッパで社会主義革命が起こるまでの短期間という条件付きではあるが、ロシア一国でも社会主義建設を進めることができると示唆するようになった。一国社会主義論の萌芽がここにあった。

一九一七年春二月革命の報を受けたレーニンは、封印列車でドイツを経て帰国した。社会主義者のエスエル(社会主義者=革命家党)とメンシェヴィキは、各都市で労働者・兵士代表ソヴィエトを組織して、民主的な講和を実現するようにカデット主導の臨時政府に圧力をかけたが、戦線維持には理解を示した。連立政府となった五月以降、国政の主導権は社会主義者に移ったが、彼らもまた、数ヵ月以内に普通選挙の実施が見込まれていた憲法制定会議が開催されるまで、急進的な改革に踏み切ろうとはしなかった(ブルダコーフ二〇一七)。民衆の間では、戦争の即時停止、臨時政府の打倒を掲げるレーニンへの支持が高まっていった。

六月二一日には「経済会議」が設置された。「国民経済の一般組織計画の策定」などを課題とし、商工省の活動計画などを検討した。だが、社会主義者と主義者の意見調整は難航した。メンシェヴィキの労働大臣とカデットの商工省次官がそれぞれ作成した経済政策宣言案は、いずれも採択されなかった。財務省には二月革命後の直接税と間接税の税収の割合についての資料がなく、一九一七年度の予算も同省幹部によれば、誰も承認するものがいないので存在しないということであった。一〇月前半に経済会議は活動をやめた(Ky3HeuOza2011:7-10,15,18)。

  • ロシア内戦と社会主義

ソヴィエト政権の成立

一九一七年一〇月二五日、十月革命によってボリシェヴィキが政権についた。新政府人民委員会議の首班にはレーニンがついた。彼の主導で第二回全ロシア・ソヴィエト大会は「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択した。政権は理念上は集団経営を支持していたが、「土地に関する布告」では農民による地主所有地の奪取と細分化を是認した(ACB1957:17-20,408)。国内の後進地域である農村との提携路線には、被抑圧民族との提携という「若干のテーゼ」との類似性を見出せる。

「平和に関する布告」は「若干のテーゼ」の直接の延長線上にあり、無併合・無償金に基づく民主的講和のための交渉に即時入るよう、各国の国民と政府に呼びかけた。「無併合」は植民地支配の全面的な否認であり、大国による小民族の強制的な編入は、その時期や、当該民族の発展の程度にかかわらず否定された(Ibid:12-16)。

各国政府が無反応であることまではレーニンは予期していたが、イギリス・フランス・ドイツ労働者の応答がなかったことは彼の期待を裏切った。一一月二〇日には民族人民委員ヨシフ・スターリンとレーニンの署名で「ロシアと東方の全勤労ムスリムへの呼びかけ」を出し(Ibid:113-115)、旧ロシア帝国の諸地域や中東・インドのムスリムとの連携を図ったが、呼びかけにとどまった。非ロシア人地域はどこでも、十月革命により混乱する大ロシアから離れつつあった。

結局ドイツ側中央同盟国だけが、講和交渉に応じた。ブハーリンたちは革命戦争を主張したが、レーニンは政権の存続を最優先とし、一九一八年三月三日にブレスト・リトフスク講和条約を締結した。ソヴィエト・ロシアは沿バルト全域およびベラルーシの一部の領有権を手放し、フィンランドとウクライナから撤退し、ザカフカースの一部をオスマン帝国に移譲した。これに先立って中央同盟国は、一月二七日にウクニナ人民共和国ともブレスト・リトフスクで講和条約を結んでいた。これは第一次世界大戦で最初の講和条約である。「民族自決」が適用された点で、二つのブレスト講和には新しい潮流に応えた側面があった。パリ講和会議での中東欧の新興国の成立をも先取りしていた。

この間人民委員会議は、企業経営に対する労働者統制(じきに形骸化した)、銀行の国有化など、経済管理に関わる諸措置を採用した。一九一七年一二月一日には経済生活の国家管理のために最高国民経済会議を設置した。帝政期につくられた戦時統制機構もここに吸収された。翌年春までに試行錯誤的に諸企業の国有化がなされた。これら一連の措置は社会主義そのものとは考えられなかった。一九一八年二月一日発表の一文でレーニンは、現在のロシアには「みごとな技術装備をもつ、ドイツの組織された国家資本主義以上に高度な、新しい経済制度は、まだない」と記した。

レーニンの認識では、ロシアは資本主義から社会主義への移行期にあった。一九一八年一月六日に憲法制定会議(農民の支持を受けたエスエルが第一党となった。エスエルは人民委員会議を認めておらず、レーニンは憲法制定会議を解散すると決めた。会議は一月五日に一日だけ開かれた)が閉鎖された後、第三回全ロシア・ソヴィエト大会で「ロシア社会主義ソ「ヴィエト共和国」という国名が打ち出された(七月に憲法が制定され、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国(RSFSR)の名称が確定する。その後、「社会主義」と「ソヴィエト」の語順は入れ替わる)。「社会主義への移行を実現しようという」「決意」が、国名の意味するものであった。レーニンはこうした移行期にある国家を「プロレタリアート独裁」と呼んだ。カウツキーは「プロレタリアート独裁とは〔中略〕自然な発展段階を飛び越える、あるいは法令によって取り去るための壮大な試みである」と述べたが、正鵠を射ていた。

一九一八年三月にはブレスト講和の締結と軌を一にして、より安全な内陸部のモスクワに首都を移した。党名も第七回党大会(三月六十八日)でロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)からロシア共産党(ボリシェヴィキ)に改称した。「社会民主(主義)」の語が放棄されたのは、第二インターの社会民主政党の失墜のためであるが、十月革命によって「民主主義」の観念自体が見直しを迫られたためでもあった。モスクワ市プレスニャ地区党委員会は党名改称を支持して、「労働運動の平和的発展の時期には、社会主義諸政党の必要かつ進歩的な要素であった民主主義の諸要求」の綱領は、「現在かつての意義を喪失している」と述べた(Couna-Hemokpar.8Mapra1918:3)。レーニンも「労働者が自分自身の国家をつくりだしたとき、わが国の革命の発展過程のなかで民主主義―ブルジョア民主主義の古い概念が乗りこコミューン型の新えられたところに、労働者は到達した」と述べた(レーニン全集二七巻・一九五八:一二五頁)。しい国家であるソヴィエト共和国では、社会民主主義を含む旧来の民主主義全般が古くなったのである。

そのことは「ブルジョア的な」市民的自由の観念が否定されるということでもあった。前年一一月二八日(憲法制定会議の当初の開会予定日)、政権はカデットを「人民の敵の党」と呼び、その幹部の逮捕に踏み切った。逮捕から逃れて潜伏したフョードルェフは、一九一八年一月一日、同志のソフィア・パーニナ(逮捕され、裁判の後に釈放)宛ての手紙に「新年おめでとう。古い年、それにロシアのレトロ革命(レトロ=ヴォリューション)は呪われんことを」と記した。市民的自由の確立を目指してきたカデットにとっては、ロシア革命は歴史の逆行に帰結したのだった。

内戦と国家建設

一九一八年五月半ば、四万人弱のチェコスロヴァキア軍団がウラル地方のチェリャビンスクで反乱を起こした。同軍団は第一次世界大戦中にロシア軍に投降したハプスブルク帝国軍の兵士から編成され、西部戦線に参加するためにソヴィエト政権の許可を得てウラジオストックに向かっていた。だが、チェリャビンスクでソヴィエト政権と諍いになり、反乱を起こしたのである。多様な反ボリシェヴィキ勢力が呼応して、沿ヴォルガ・ウラル・シベリアにいたる地域がソヴィエトロシアから切り離された。軍団の救出を名目として、連合国も八月以降、ロシアに軍事干渉を開始した(林二〇二:一〇九、一三六一一七一、一七六―一九〇頁)。これによりロシア内戦は第一次世界大戦と直結した。ただし、一一月に大戦が終わると、東部戦線の再構築という連合国のロシア介入の一番の目的は消滅し、反ボリシェヴィキ諸勢力に対する連合国の支援も中途半端なものとなった。

ソヴィエト総会では一九一八年六月以降、エスエル・メンシェヴィキが放逐され、七月の左派エスエル反乱後は同党も分裂し、代議員はほぼ共産党および無党派だけとなった(池田二〇一七一八七一八八頁)。この現状をカウツキは、プロレタリアート独裁ではなく「プロレタリアート内部での一党の独裁」と批判した。そもそも独裁が臨時措置ではなく恒常化していることが問題であった。「われらがボリシェヴィキの同志たちは全てを全ヨーロッパ革命という札に賭けた。この札が通らなかったとき、彼らは解決不能な諸課題を突きつけるような道に追いやられた」。それゆえ彼らは独裁の恒常化に依拠しているとカウツキーは論じた(Kautsky1918:29,38,60)

内戦の展開と並行して、ソヴィエト・ロシアでは赤軍の建設、経済・行政機構の確立、農村における徴兵・穀物徴発体制の整備、共産党組織の集権化が一体的に進んだ。軸となったのは共産党組織である。都市部の食糧不足が深刻になり、労働者の間に不穏な情勢が強まった一九一八年五月を境にして、中央委員会から県・市の党委員会へと連なる指揮系統に服することが、党員集団に対して明確に求められるようになった。これ以降、穀物徴発のための農村への人員派遣、内戦の前線への派遣などを通して、軍事的な規律をもった党組織の集権的編成が進んだ。

経済面では企業の国有化が包括的な性格を帯びた。一九一八年六月二八日に重要工場企業の全面的国有化がなされたのである。国有化企業数はそれまでの四八七から八月末までに三一一四に跳ね上がった。これらの企業の管理にあたった最高国民経済会議には、産業部門ごとに総管理局(グラフキ)がおかれた(庄野一九六八:七六二―七八五頁)。この企業管理体制においては、中央機構と地方機構、また部門間で、物資の確保をめぐる権限争いや汚職が絶えなかった。その皺寄せとして、「ブルジョア的」な出自をもつ革命前からの職員(民間からの転入者も含む)が攻撃され、冤罪事件も発生した(CBHA3HHCKas2011)。職員攻撃の背景には、政権が彼ら旧職員に依拠せざるをえないことがあった。最高国民経済会議の中央機構では旧職員の比率は四八・三パーセントに上った(powHnKOB1973:53)。

対農民政策では、都市の食糧危機が強まった一九一八年五月以降は、都市政権にとっての他者としての農村という把握が前景化した。穀物の確保が対農村政策における最重要課題であった。一九一九年一月には、穀物徴発量を事前に確定して県ごとに割り当てる割当徴発制度(帝政末期に先例をもつ)が全国的に導入された(梶川一九九八二九十三四頁)。

軍事面では旧軍将校の利用というトロツキー路線が功を奏し、一九一八年夏までに最高指揮機構が確立された。総ルガ・ウラル地方の奪還にじてソヴィエト政権は旧軍の事務機構を活用することができた。八月以降、赤軍は沿ヴ成功した(Smele2015:81-88)。一一月にはドイツ革命が起こり、世界革命の展望が開けたかのように見えた。

とはいえソヴィエト・ロシアの孤立が急に緩和されるわけではなく、経済構造がすぐに変革される見通しもなかった。九一九年春の第八回党大会(三月一八一二三日)で新しい党綱領案を議論した際、ブハーリンは目下の事象であるが緒についたのである。その最初のものとして三月珍坦ムスリム勢力とモスクワとの協議の結果、バシキリア自治ソヴィエト社会主義共和国が成立した(Schafer2001)。共産党支配が前提ではあるが、現地住民の政治参加を実現し、その文化育成に努める自治共和国体制は、同時代の列強の植民地支配と比べて先進的であった。

一九一九年六月には、アレクサンドル・コルチャークムスク政権の部隊を赤軍が押し戻し、シベリア・極東のソヴィエト化の展望が開けた。極東の中国人・朝鮮人の革命運動も活発化した。反日本帝国の目標を掲げる彼らは、ロシア共産党の重要な提携者であった。コミンテルン執行委員会ビュローは一二月に「東方問題について」を議題とし、中国・日本・朝鮮・インドトルコ・ペルシア諸民族への個別のアピールの準備を始めた(山内二〇〇七:一三五―一三六頁)。「東方」がコミンテルンの視野に本格的に入り始めたのである。

一九二〇年二月、ソヴィエト・ロシアは内戦開始以来初の講和となるタル・トゥ条約をエストニアと締結した。四月までに日本を除く連合国の部隊も撤兵した。四月には赤軍がアゼルバイジャンを征圧するなど、旧帝国版図の多くもモスクワの支配に服しつつあった。

第二回ュミンテルン大会(一九二〇年七月一九日|八月七日)は、赤軍のポーランド進軍と重なり、代議員はヨーロッパのソヴィエト化の展望に沸いた。だが本大会のより重要な点は、東方諸地域および植民地が存在感を高めたことである。第一回大会に代表がいた中国、朝鮮(この二地域は在露活動家が代表)(石川二〇〇七、水野二〇〇七)、トルコ、ペルシアにくわえ、インド、メキシュ、オランダ領インドネシア(オランダ人マーリン)の代表も参加した。その結果、第二回大会の議論には顕著な特徴が生じた。それは、先進諸国およびロシアだけではなく、被抑圧地域も視野に入れた「世界史」像が、出席者の間で共有されていたことである。「帝国主義戦争は従属地域の諸民族を世界史に引き入れた」とレーニンは大会で述べた(Bropoi1934:619-625;レーニン全集三一巻・一九五九:二二五頁)。

大会では後進諸民族の世界史上の位置が激しく議論された。レーニンの報告によれば、民族・植民地問題小委員会では、「国民経済発展の資本主義的段階」は「後進の諸民族にとって不可避である」と考えることは正くないとの結論にいたった。「先進国のプロレタリアートの援助をえて、後進国はソヴィエト体制に移行し、資本主義的発展段階を飛びこえて、一定の発展段階を経て共産主義へ移行」できるのである(レーニン全集三一巻・一九五九:二三七頁〔訳は変更〕)。ドイツ社会民主党左派出身のカール・ラデックもこう述べた。「同志レーニンは、全ての諸国民が資本主義の段階を経過すると考えるためのいかなる理論的根拠もないと指摘した。今日の資本主義諸国の全てが、工場制手工業の時期を通過して資本主義にたどりついたのではない。日本は封建主義から直接に帝国主義的文化に移行したのだ」(Bropoň1934:115)。こうしてマルクス主義の特徴の一つである段階論的な世界史認識が、国際共産主義運動の座標に据えられた。

一九二〇年の時点では、反帝国主義運動の高揚を背景として、前進運動の速度、段階の跳躍や短縮――ソヴィエロシア自身が試みていた――への楽観論が目立った。インドの共産主義者マナベンドラ・ローイは、インド資本主義の成長の速度をレーニンよりも高く見積もり、民族ブルジョア一般とではなく、革命的な性格をもった部分だけと提携すべきとの見解をレーニンに受け入れさせた(ヘイスコックス一九八六:九一一六頁)。オランダ領インドネシアのマーリンは、「植民地のためにいわゆるクーノ的マルクス主義を採用すべきではない」と述べ、ある段階(この文脈では資本主義)を必ず通過すると考えるべきではないと論じた(Bropoň1934:138)。

実は、先進地域の成果から学ぶことで、後進地域は諸段階を跳び越えることができるという認識は、一九〇七年にカウツキーも示していたが、それはあくまで理論上の平面においてであった(Lih2019:56)。これに対して、いまや跳躍の可能性は実践上の平面に移された。それはまた、被抑圧・後進地域の民族も、世界史の主体とみなされたということでもあった。この点は、ヨーロッパ中心の第二インターにはないコミンテルンの特徴であった。

かくしてソヴィエト社会主義が、被抑圧地域を重要な主体とする「世界史」像を具現化したという意味で、コミンテルン第二回大会は決定的な意義をもったのである。

三、ソヴィエト社会主義とアウタルキー

世界資本主義の安定

内戦が収束に向かう一九一九年末、ソヴィエト政権はトロツキーの主導で労働の軍事化に着手した。これは一種のアウタルキー(自給自足)政策であった。外国からの工業製品や資本の獲得が不可能な状況にあって、軍隊を労働軍に改組し、全般的労働義務制と組み合わせることで、労働強化による工業の再建を図ったのである。トロIは最高国民経済会議の地方分権化などの機構改革も求めた。守勢に立たされた最高国民経済会議議長アレクセイ・ルイコフは、第九回党大会(一九二〇年三月二九日1四月五日)で、資本主義諸国とのつながりを排除した構想では経済復興は困難であると指摘した(Day2004:21-34)。

現物経済化が進む一九二〇年のロシアは、社会主義に急速に向かっているように見えた(ただし闇市場は残った)。エフゲーニー・プレオブラジェンスキーは際限なき紙幣発行を、対価なしで流通界から価値物を汲み出す特殊な税金のようなものと評価した(上垣一九七八:四六頁)。だが八月、ワルシャワ近郊に迫った赤軍がポンド軍に押し戻され、ヨーロッパ革命の希望が遠のくとともに、ルイコフが提起した選択肢が現実味を帯び始めた。この年一月に連合国はロシアの封鎖解除を決定していた。一一月二三日、人民委員会議は資本主義諸国への利権供与を認める法令を採択した。年末までにレーニンは、労働組合の国家との一体化を主張するトロツキーを抑え、労働組合の一定の自立性を擁護することで、労働の軍事化路線の終わりが近いことを示した(IIITeăH1949:394-397;Day2004:39-41,52)。一九二〇年夏から農村では過酷な穀物徴発に対する蜂起があいついだ。一九二一年春には食糧不足や労働動員体制に対する労働者の抗議行動が、ペトログラードやモスクワをはじめとする都市部に起こった。農村の窮状に同情的なクロンショット要塞の水兵も反乱を起こした。食糧供給を改善して都市労働者の抗議を静めるため、第一〇回党大会(一九二一年三月八一一六日)は穀物割当微発から食糧税(現物税)への転換を決め、納税後に農民の手元に残った穀物は局地市場で取引できるようにした(石井一九七七:一二―二四頁)。この転換を説明するにあたってレーニンは、穀物割当徴発を念頭において、これまでは荒廃と戦争によって「戦時共産主義」を余儀なくされていたと語った。一九一八年春にわれわれは、国家資本主義は一歩前進であると考えていたが、現在ふたたびプロレタリアート独裁を国家資本主義と組み合わせようとしているのだとも述べた(レーニン全集三二巻・一九五九:三六九三七二頁)。レーニンは社会主義への前進運動における転進を、「強いられた戦時共産主義」から「一九一八年春の元来の路線への回帰」として説明したのである。しかし、割当微発や全般的労働義務制のような、「戦時共産主義」として考えられた諸施策は、内戦がおおむね収束した後の一九二〇年にも、社会主義への有効な方策として精力的に追求されてきたので、「強いられた」という説明には無理があった。また、一九一八年春には、政権と市場や商業の関係については論じられていなかったので、一九二一年春の転換と一九一八年春との間に直接的な関係を想定することもできない(門脇一九七一)。第一○回党大会は市場経済の全面導入に踏み切ったわけではなく、協同組合を介した工業製品(たとえば繊維品)と農産物の地域的な商品交換を想定していた。だが、市場経済は政権の想定を超えてなし崩し的に拡大し、農業にくわえ、小売業・中小企業・消費財産業も私的原理に委ねられることになった。鉱山、金属・機械・石油化学といった資本財産業・重工業の大半は「官制高地」として国有化を維持し、最高国民経済会議が管理を続けた。「官制高地」という軍事用語が示す通り、共産党の認識では私的経済という敵が彼らを包囲していた。企業経営には独立採算制が導入され、失業も発生した。この現状が一九二一年末までに「新経済政策」、また略称「ネップ」と呼ばれるようになった石井一九七七:三、二五十三二頁、Shearer1996:27-28)。

共産党は重工業主体の工業化を目標としたが、農民の消費意欲を喚起して、穀物を市場で現金化させるためには、消費財生産を強化する必要があった。だが、工業化の原資を得るためには、農民に有利な市場価格で穀物を確保するのは望ましくはなかった。結局、農業国ロシアをいかに工業化するかという、帝政期以来の問題が共産党の前に立ちはだかっていた。財務人民委員グリゴーリー・ソューリニコフは国際経済との接続路線を追求し、外国からの消費財の輸入、借款の実現を目指した。通貨安定と予算の均衡も実現させた。だが、一九二二年五月、ソヴィエト・ロシアも参加したジェノヴァ会議が成果なり、この方面での楽観ができないことが分かった(Day2004:60-65;ノーヴ一九八二一〇二―一〇四頁)。

 第10章 私の展開は「個と超」とする
個の自立から分化と統合を繰り返す
現象の概要として私の歴史を作る
個と超をつなげた新たな数学
存在から目的を達成して超に至る
現象を解析して存在を分化させる
他者の世界の変革する
超として私の宇宙を創造する
存在は個となり 無は超となる
 ダブルスターの日なので昼食はスタバ #スタバ風景
 豊田市図書館の1冊
412.2バツ『未来から来た男』ジョン・フォン・ノイマン
11月15日(水) 

 フロントが4人だから二列目両脇のてれさと桜が目立つ それと裏センターの和とあやめ #池田瑛紗
 4つのシンメ かきさく やまくぼ てれさく まゆうめ さいごがまゆせーらなら #早川聖来
11月16日(木) 

 私を 「存在」とした以上 未唯空間は「空間」へ 未唯宇宙は「宇宙」とします 未唯からの別離
11月17日(金) 

 30年で世界を掌握する方法
神(女性格)は女性に対して 子供を支配せよ!と伝えた そして平和に向かせる 戦わせない教育で30年もすれば 平和になる
 アラブの石油はアラブの女性を強くするために神が配置した 教育を受けた 払うの女性が部屋を求める時 世界は変わる
 女性は自立して家族制度を変革させる 家を守らず自分を守る 生まれていた個として有限であることを示す 有限である以上 所有とは無関係になる いかに この目的を果たすか そのための方向を示すものは 共有
 これおもろい

 奥さんへの買い物依頼
食パン8枚   158
お茶 138
トマトジュース 178
鮭切身         300
あまおうケーキ          218
鍋野菜         258
みかん         380
スペアリブ    457
ポテサラ       100
納豆            118
天ぷら         398
 豊田市図書館の6冊
133.5ポパ『果てしなき探究(上))知的自由
133.5ポパ『果てしなき探究(下))知的自由
133.5コダ『オックスフォード哲学者奇行』
234.07『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』
321サト『21の物語から考える法学入門』
368.2リス『貧困とはなにか』概念・言説・ポリティックス
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