goo

『大人のための文学「再」入門』

『大人のための文学「再」入門』

「生き延びること」について

次の世代に何を残せるのか―ヘミングウェイ『老人と海』

アメリカ文学といえばヘミングウェイ、そしてヘミングウェイといえば『老人と海』である。とはいえこれがどういう話なのか、ちゃんと知ってる人は少ないのではないか。どうせ老人が海に行って魚を釣る話でしょう、と言う方。それはその通りである。しかしそれから先がちょっと違う。

アメリカ文学の代表作でありながら舞台はキューバで、なおかつ英語をしゃべる人がほとんど出てこない、という設定からして、本作はちょっと変わっている。一九五八年の革命前のキューバといえば、アメリカの属国のような扱いだった。アメ車が道路を闊歩し、大リーガーが我が物顔でキャンプにやってくる。そうした場所に住む貧しい無名の漁師が、実はアメリカ人たちを超える高貴な精神性を持ち合わせていた、というのが本書のメッセ―ジだ。

彼らの心の底にはカトリックある。それもただのキリスト教ではない。自然を愛し、動植物を敬い、魚たちや星々を兄弟だ、と思うような信仰の形だ。「人間って奴は、所詮、したたかな鳥や獣の敵ではない」。日本で言えば、ちょうど宮沢賢治の童話のような自然観である。

だからこそ、老人はエンジンがついた大きい船には乗らない。どれだけ長く不漁の日々が続いても、小さな小舟で何度も海へ漕ぎ出す。ついに巨大なカジキが針にかかれば、自分の体ひとつで何日も戦い続ける。それも決して相手を組み伏せ、略奪し、金に変えようという戦いではない。

むしろそれは老人にとって、人間よりはるかに美しく偉大な存在であるカジキとたった一本の糸でつながり、深く愛し合うという行為なのである。だからこそ老人にとって、究極的にはどちらがどちらを殺しても大した違いはない。そしてついにカジキを仕留めたとき、彼は魚を宝物と呼ぶ。「手でさわって、やつを感じたい。やつはおれの宝物さ、と老人は思った」。

だからこそ、港への帰り道に膨大な数のサメに襲われ、次々とカジキの肉を食われても、ついに骨ばかりになってしまうまで彼は死闘をやめない。オールやナイフを奪われてさえ、様々なやり方でサメを攻撃し続ける。なぜならカジキはただの獲物ではなく、彼の最愛の仲間なのだから。ようやく老人が港へ連れ帰ったカジキの巨大な白骨を見て、漁村の人々は彼がいかに偉大な戦いをやり抜いたかを無言のうちに見て取る。そしてまた、彼を慕う少年の内に老人の気概はしっかりと根を下ろす。

すべての人はやがて年老い死んでいく。そのとき次の世代に何を残せるのか。そうした問いに一つのはっきりとした答えを与えているからこそ、『老人と海』は時代を越えて読み続けられる力を持つのだ。

初出:『日本経済新聞』2021年12月1日
※初出は「名作コンシルジュ」コーナーにて

犬になること山下澄人『月の客』

たとえば、犬だ。フランツ・カフカの『審判』でKは、突然家に現れた二人組の男に、何かの罪で自分が訴追されていると告げられる。だが自分が何かを犯した記憶はない。他人の家の天井裏にある裁判所に行っても、やっぱり事情はわからない。だがじわじわと追い詰められていき、やがて「犬のようだ」と叫びながら、男たちに首を切られて死ぬ。

しかし本作では犬であるのは悪いことではない。盲目の男はトシに言う。「目玉があるのも不便やの!/男には風も見えたし、音も見えた、息を吹きかけたのが誰なのかわかった、/いぬと一緒やにおいが見える」。目が見えれば目に頼る。だから暗闇では何も見えない。だが犬は、匂いで世界の地図を描いて正確に動く。だからジャック・ロンドンが「野生の呼び声」で描いたように、北極圏でも少しの食料や炎を嗅ぎつけて生き続けられる。

そもそもなぜ犬のようにあることは、悲惨と同等視されてきたのか。文明の中にいれば、自分が身体を持つ生き物であることを忘れられるからだ。ただ人間の顔を見ながら、間の作ったや常識の中で漂っていればいい。そして安全・安心という幻想の中、多くの金を稼いだり、くの関心を集めたりするゲームに興じればいい。

だが、緊急事態にはそんな思い込みは破れる。そして我々の、生きる意思を持つ身体がゴロリと顔を出す。疫病でもいい、大災害でもいい、戦争でもいい。誰が悪いとか、誰がどうしてくれないとか言っている間に我々は簡単に死ぬ。だから目の前のことを見据えて、直感を使いながら、とにかく生き延びる可能性の高い選択をし続けるない。

本書の主人公であるトシは、生まれた瞬間から緊急事態を生きてきた。口をきけない母親は押し入れにともり、ひたすら帳面にカタカナだけで文字を書き続ける。父親はトシ出生とともにいなくなった。引き取られた先でも暴力を振るわれ、死なないためには逃げ出すしかない。

そして彼は、神社にある洞穴に住み着く。だが彼は一人ではない。近所に住む、障害を持ったおっちゃんが獣の捕り方を教えてくれる。飯盒をくれて、米の炊き方を教えてくれる。「いぬ」と名付けられた犬たちは、何度死んでも別の姿でトシの前に現れ、彼に温もりをくれる。そして酔った母親に階段から突き落とされ、脚が不自由になったサナもまた、洞穴に姿を現す。やがて彼女はトシと愛し合うだろう。

トシは民家から米を盗み、鳥や蛇を捕らえて食べる。あまりにも長く犬と暮らしていたので、犬のように鳴けるようになり、その特技を買われて見世物小屋で働く。犬になったトシの声を聞いて、何より観客よりも犬たちが喜ぶ。トシは犬を見下さない。だから「犬のよう」になることにためかない。その敬意を犬たちも感じる。

おそらく戸籍もないトシは、社会の片隅で、見えない存在として生きてきた。けれどもそんな彼の生き方が、先進的なものとなるときがやってくる。大地震だ。登場人物たちが全員関西弁で話しているからには、これは阪神淡路大震災なのかもしれない。あるいはこここはアイヌの言葉で「地の果て」という地名だという記述があり、しかも放射線障害のように腹が膨れて何人も死ぬという設定から見ると、東日本大震災かもしれない。

そのいずれか、あるいは両方にせよ、トシの頭の中にはそうした呼び名は存在しない。ただ体験があるだけだ。そしてその体験は死んだ犬が教えてくれる。「いぬがからだを起とした、暗い中でトシにはそう見えた、死んでいる場合ではない、といぬは、すべてが縦に動いた、何度も、それから横に、斜めに/ぎしぎしと洞穴が音を立てていた、/揺れがおさまり、音が止んだ/いぬは寝ていた、冷たく固くなっていた、撫でて外へ出た」。

トシは死にかけた母親を連れて避難所である学校に行く。だがなぜかそこには誰もいない。母親を看取り、やがて彼は、地震で妻と娘を亡くしたまっさんの工場で働くことにな身体を病んだまっさんはトシに言う。「死んだらあかんで、つまらん、なやとかいいなや、なんでそもない、生まれたら生きるんや、生まれたおぼえはないやろが、」。

知らぬ間に生まれ、知らぬ間に死んでいく。他の動物の身体も、魂も、記憶も食べて食べて、大量に蓄積しながら、我々は生き続ける。一体何のために生きるのか。目的などない。ただこの世界が生命に満ちていて、人間も動物も、死者も生者も、それぞれの形で生きていて、それらの生命がつながっているだけだ。

そして死ぬと我々は月に帰っていく。まっさんの遺体を見て、そこにまっさんはいない、今まっさんは月の近くにいる、とトシは感じる。どうして月に帰るのか。かつて焼かれた男の骨を見たトシは知っている。その、赤や黒の斑点もある白く熱いかけらは月に似ている。ということは、我々の身体の中にはいつも月がある。いつも空から見守ってくれている大きな月は我々の故郷であり、やがて戻っていく場所なのだ。

常にすべてを剥ぎ取られたむき出しの生を生きるトシの物語である本作を読んで、僕はJ・M・クッツェーの『マイケルK』を思い出した。知的障害のあるマイケルは内戦下の南アフリカで、死んだ母親の遺骨を彼女の故郷まで運び、穴に住んで身を隠しながら、誰とも関わらずに植物を育てる。そこには、社会の外側から、現代を批判する鋭い目がある。

だがそれと似た設定である本作はもっと優しい。社会から疎外された多くの人々や動物がトシを助けてくれる。そこには生者も死者もいる。一人の男の人生に、遠大な時間と空間が交錯していく。個人を個人として見るのではなく、むしろ生命の流れの一つの結節点として捉える山下澄人の本作に、僕は日本現代文学の一つの先端を感じる。まずは読者はその、決して「。」で終わることのない言葉の流れを堪能してほしい。

初出:『すばる』2020年7月号(集英社)

戦争が引き裂く個の悲しみヴィエト・タン・ウェン『シンパサイザー』

主人公には居場所がない。戦時下のベトナムでフランス人の宣教師と現地のメイドの間に生まれた彼は、妾の子と罵られて育つ。唯一彼を助けてくれたのが同級生のマンとボンだ。彼ら三人は義兄弟の契りを結ぶ。この関係が、やがて主人公を引き裂くことになる。

大人になったマンは共産主義者として、南ベトナム政府転覆を工作する。そしてボンは、愛国者としてベトコンと戦う兵士となるのだ。二人の友に同時に忠実でいるにはどうしたらいいか。彼はマンの指示のもと、共産側のスパイとしてボンの戦友を本気で演じる。

この危ういバランスは何度も崩れそうになる。サイゴン陥落の日、共産軍の砲撃で死にかけながらボンとベトナムを脱出した主人公は、ロサンゼルスの亡命者社会に溶け込む。そしてともに脱出した将軍への忠誠心を誓いながら、彼の動向を本国に送る。ならば彼は演技しているだけなのか。そうではない。彼は本気で将軍に同情しているのだ。

シンパサイズ

将軍だけは、主人公の出自を気にせずに、能力だけを評価してくれた。しかし自分が内心、軽蔑している人間にさえ認められたい、という主人公の焼け付くような欲望を、共産側は受け入れない。ボンと一緒にラオスから侵入した主人公に対して、共産側は過酷な拷問を加える。一体お前の心はどちらにあるのか。しかし主人公はそのどちらも選べない。著者のウェンは四歳でベトナムを逃れ、アメリカで英文学の教授となった。ベトナム共和国に戻ればアメリカ人と言われ、アメリカでは外国人扱いされ続ける。肝心のベトナム語さえ大して話せないのに。しかも祖国である南ベトナムは消滅し、もはや亡命者たちの心の中にしかない。彼が生涯を通じて感じ続けてきた疎外感が、ベトナムとアメリカの下幸な歴史を巡る巨編として結実した。息をつく暇もないほどの面白さの裏に真の悲しみが流れている本書がピュリッツァー賞を獲ったのも納得である。

「多くの男たちが、自分の名前を覚えてくれた一人の男のために死ぬ」という言葉が切ない。彼らだって、利用されているだけだとわかっているだろうに。本書はすべての戦争の裏にアイデンティティの問題があると看破した、戦争文学の傑作である。

『日本経新聞』2011年9月2日

人生の哀切さ奥底の生命力

シルヴィア・プラス『メアリ・ヴェントゥーラと第九王国』

気づけばメアリーは奇妙な汽車に乗っている。乗り心地はいいし、車内で知り合った女性は大きなチョコレートまでくれる。けれどもどこに行き着くかはわからない。ただ目的地が第九王国という名前だと知らされるだけだ。女性との会話から、そこが冷たい、希望のない場所だとわかる。「第九王国に着いたら、もう戻りようはない。そこは否定の王国、凍りついた心の王国なのよ」。逃げるには、車掌たちの目を盗んで非常停止の紐を引くしかない。ようやく勇気を出したメアリーは汽車から降りることに成功する。スーツケースを置き去りにして、なんとか車掌たちの追跡を振り切るのだ。途中で振り返ると、客車のガラス窓の向こう、生気も個性も失った乗客たちの姿が見える。

知らぬ間にシステムに縛られ、ガラスの中に閉じ込められる。そして心の底にある生命力を振り絞って逃げ出す。本書の表題作のテーマは、プラスの自伝的小説『ベル・ジャI』(ガラスの覆いを思い起こさせる。高校時代、優等生だったエスターは、学校の外で壁にぶつかる。ファッションのセンスも気の利いた会話の能力もない自分は、マスコミと

いうキラキラした世界では生きられない。悩み抜いた彼女は鬱になり生きる意欲まで失う。本当は詩人になりたかった。でも女性に職業選択の自由を与えない五〇年代のアメリカは、彼女の未来を暗く閉ざす。

女性として生きることの困難を哀切に描いたプラスは、いまだ英語圏でカリスマ的な人気を誇っている。それは今なお社会が本質的には変わっていないからだ。だからこそ、プラスの文章は日本に住む我々の心をも打つ。荷物をすべて手放し、風となって走ること。どんな状況でも諦めず、戦い抜くこと。三十歳で若くして亡くなった彼女の言葉は、今でもわれわれを励ます。

もちろんプラスの魅力はそれだけではない。病院を描いた短篇「ブロッサム・ストリートの娘たち」で看護師たちは言う。医者たちの書く字は汚くて読めないし、処方箋や報告書はすべて、カルテ帳の間違った場所に貼られている。こうしたちょっとした表現にも、ユーモアや愛情が表れている。このプラスの短篇集は、小説や詩だけではわからない彼女の多面的な魅力に満ちている。

初出:『日本経済新聞』2022年7月16日

遊牧民の知恵と生きる難民たち―アブドゥラマン・アリ・ワベリ『トランジット』

今の世界を知るにはワベリを読めばいい。ヨーロッパやアメリカに貧しい人々が押し寄せる。どんな国境も法律も彼らを止められない。なぜか。彼らは、どうして自分たちには人権も快適な生活もないのかと叫ぶ、普通の人間だからだ。そしてこの正義に反論できる者などいない。

本書の登場人物バシールもその一人だ。アフリカの小国ジブチの内戦で兵士として闘った彼は、フランス行きの飛行機に乗り込む。もちろん難民として、より良い暮らし求めてだ。そのために言葉がわからない愚か者のふりをする。泣いて同情を得ようとする。

彼の姿勢は欺瞞だろうか。いや、権力者の前で生き延びるには、本心を隠して移動を繰り返し、正面衝突を避けるのが正しい。それにそもそも、ジブチを暴力に満ちた国にしたのは、かつてそこを植民地としていたフランスではないか。

バシールの知恵は遊牧民のものである。ベドウィン時代の記憶を持つアワレは言う。「遊牧民の時間がどの暦にも従わず、いかなる記録文書にも煩わされることはなく、フランス第三共和政の山羊ひげたちによって求められた行政書類にも署名していないということだ」。そしてそんな彼らを真に支配できる者などいない。

一九六五年生まれで自らも内戦に参加したワベリは、ジブチで話されている生のフランス語も交えて見事な文章を織り上げる。ときに詩と散文の間のようになる作品は高く評価され、今や彼はフランス語圏を代表する書き手の一人だ。

もちろん、遊牧民にも弱みはある。フランス式の教育を受けた者たちは伝統を見失い、自分たちを見下し、ヨーロッパ人を仰ぎ見るようになる。フランスで教育を受けたハルビもそうだ。だがそれでは、誇りを持って生きられない。

トヨタの小型トラックを改造して作ったソマリアの戦車のように、ヨーロッパと先祖代々の知恵を統合すること。このワベリの試みは、東洋人である我々にも他人事ではない。

初出:『朝日新聞』2019年3月30日

人種差別との過酷な闘いを体感

 未来の社会を SF で書くという手法がある

 奥さんへの買い物依頼
ベーコンブロック         278
茶わん蒸し   298
香薫            258
朝食ヨーグルト           138
カレーメシ     200
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )