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『ハイデガーの超政治』

『ハイデガーの超政治』

 『ハイデガーの超政治』

轟孝夫

ナチズムとの对诀/存在·技術·国家への問い

学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」

学問の必然性

以上で見たように、超政治は既存の哲学や学問に取って代わるものとして位置づけられていた。それゆえ超政治に初めて言及される覚書二九でも、それは「学問の変貌」と結びつけられていたのである。ハイデガーはさらに、覚書四八で「知の変貌の準備」について語っている。十年を必要とするこの準備は「現実の教師のうちに、また教育共同体のうちに現れる知の育成(Wissenserziehung)のある様式を要求する」(GA94,122)。そして彼は覚書五一で、このような「知の育成」の役割を大学に課している。「大学がわが民族に今後もなお属するべきならば、知の育成というその任務は今なお、まったく別の仕方で、根源的に根を下ろし、明瞭にされ、鋭くされる必要がある――わが民族の存在の根本様式としての知の苦難から」(GA94,123)。すなわち、大学は今や、存在者全体を耐え抜くという知の根源的なあり方に根差した教育を展開すべきだと言うのである。

ハイデガーは大学をこうした「知の育成」の場にすることを目標として、フライブルク大学の学長に就任するのである。あの悪名高い学長就任演説「ドイツ大学の自己主張」(以下「自己主張」と略)で示されているのは、まさにこの知の育成の構想であり、結局これこそ「黒ノート」ではほとんどその名前が言及されるにすぎなかった超政治の具体的な内容を示している。それゆえ彼は第二次世界大戦後に自身のナチス加担について釈明するときも、自分が学長職を引き受けた理由は学長就任演説に示されていると述べ、つねにその参照を促すのである(GA16,430,654)。本節では以下で、この学長演説「自己主張」に示された新たな知の構想と、それに基づいたナチズムに対する彼の姿勢を明らかにしたい。

この演説の冒頭でハイデガーは、「ドイツ大学の自己主張」を「ドイツ大学の本質への根源的で「共同的な意志」と規定する(GA16,108)。そうだとすれば、この「自己主張」の意味を明らかにするには、まず「ドイツ大学の本質」を解明する必要がある。彼によると、ドイツ大学は「学問に基づいて、また学問によってドイツ民族の運命の指導者かつ守護者を教育し、陶治する上級学府を意味する」(GA16,108)。したがってドイツ大学の本質への意志は、まずは「学問への意志」として、また同時に「ドイツ民族の歴史的、精神的課題への意志」として規定される。つまりドイツ大学の本質への意志は、学問とドイツ民族の運命を同時に意志するものでなければならないのである。

ハイデガーによると、このことが達成されるのは、「われわれ――教師と学生が、一方で学問を自身のもっとも内的な必然性に晒すときであり、また他方でドイツの運命をまさにその究極の苦難において耐え抜くときである」(GA16,108)。ここで学問を内的な必然性に晒し出すこととドイツの運命を究極の苦難において耐え抜くことという二つの課題が提示されている。大学がおのれの本質を意志するということは、この二つの課題を担うことを意味するのである。前節で見たように、ハイデガー的意味での真の学問、すなわち形而上学が民族の歴史的存在をあらわにするものである限り、学問の必然性を取り戻すこととドイツ民族の運命を担うことという二つの課題は結局のところ、こうした形而上学の遂行に収斂していく。実際、以下でも示されるように「自己主張」では、学問の本質が民族の精神的世界の開示として規定されることになる。

ハイデガーが学問の必然性について問うとき、この問いの背景には、今日の学問からはその必然性が失われているという現状認識がある。つまり現代において学問は何のために存在し、また何のためになされているのかが見失われていると言うのである。しかしこうした学問の必然性を取り戻すには、当時、ナチスが喧伝していた「新しい学問概念」のように「あまりに今日的な学問〔自由主義的な学問〕に対して、その自律性と無前提性を疑ってかかる」だけでは不十分である(GA16.108)。この新しい学問概念は、すでに前節でも触れた政治的学問概念を指している。これは「価値判断からの自由」という自由主義的な学問理念に反対し、学問は決して自律的で無前提的な営みではなく、民族にとって有用なものでなければならないと主張する!である(GA16,656)。

ここでハイデガーは、「単に否定するだけで、ここ数十年間を越えて振り返ることもしない、こういったふるまいは、まさしく学問の本質を求める本物の努力を装うだけのものになってしまう」と批判する(GA16,108)。つまり政治的学問概念は、ここ数十年のあいだに学問がすっかり細分化、専門化されてしまい、その意味が見失われつつある状況を批判的に捉え、学問に対して民族への貢献という意味で政治的であることを求めるものだが、ハイデガーはそうしたやり方によっては学問の真の必然性を取り戻すことはできないと言うのである。

ギリシア的原初への回帰

さて、そうだとすれば、われは学問の必然性をいかにして取り戻すべきだろうか。ハイデガーがここで問うているのは、学問の意義とは何なのか、そもそもそれは何のために存在するのかという問いである。この問いに対して、ハイデガーは学問が真に存在しうるのは、「われわれがふたたび、われわれの精神的歴史的現存在の原初(Anfang)の力に服するとき」だけだと答えている。そして彼はこの「原初」を次のように説明する。

この原初はギリシア哲学の勃興です。このときに西洋の人間は民族性に基づいて、自分の言葉によって、はじめて存在者全体に反抗し、存在者全体をそれが実際にそのようなものとしてあるような存在者として問い尋ね、把握します。あらゆる学問は哲学です。(……)あらゆる学問は哲学のかの原初にしっかりと結びつけられています。学問はこの原初から、学問の本質の力を汲み取るのです(……..)。(GA16108f.)

つまり学問は哲学というその原初に立ち返るときのみ、その意義を取り戻すことができると言うのである。この哲学は今の引用箇所では、自分の言葉によって存在者全体に反抗し、それを把握することと規定されている。つまりここでもハイデガーが一九二〇年代終わり以降、形而上学として論じてきた存在者全体を捉える学が問題になっていることがわかるだろう。

ハイデガーはこれに続く箇所で、原初における学間の本質を明らかにするために、伝説上、最古の哲学者とされるギリシアの神ブロメテウスが、古代ギリシアの代表的な悲劇作家アイスキュロス前五二五前四五六)の悲劇「縛られたプロメテウス」のなかで語っている「しかし、知は必然よりもはるかに無力である」という言葉を参照している。これはプロメテウスが人間に火を与えたためゼウスの怒りを買い、罰として山頂に縛り付けられている状態で述べたという設定になっている。ハイデガーはまず、この言葉が「事物についてのいかなる知も、あらかじめ運命の圧倒的力に委ねられていて、この圧倒的力の前では無力である」ことを述べていると解釈する。

しかし如は単にこのような無力に甘んじているだけではない。まさにこの無力ゆえに「知は自分に能う限りの反抗を展開せざるをえず、その反抗に対してはじめて存在者の隠蔽性の総力が立ちはだかり、知は実際に無力をさらけ出す。かくしてまさに存在者はそのなぞめいた揺るぎなさにおいておのれを示し、知におのれの真理を委ね渡す」(GA16,109)。つまり原初の知とは「運命の圧倒的力に委ねられ」つつ、それをあらわにすること、すなわちおのれの意のままにできない存在者の存在を開示し、そのことにおいて自分の無力をあらためて自覚することを意味するのである。

すでに前節でハイデガーが超政治を原初への還帰として捉えていることを指摘した。彼が「自己「主張」で求めているのも、ギリシア哲学という学問の原初への還帰である。しかもこの原初は存在者全体を問い、把握することとして規定されている。つまりここで問題となっているのは、前節ですでに形而上学、超政治として論じられた知そのものである。学問の必然性は存在者全体に圧倒されながらも、それに対して問うという仕方で立ち向かわざるをえない点に存するのである。
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