未唯への手紙
未唯への手紙
『読書原論』
『読書原論』21世紀の読書=忘れる読書
- 読んだ本は「全部忘れてもいい
10本を読むとは何だ?
本
「門前の小僧習わぬお経を読む。」と「師の芸を盗む。」は、真逆のように思える。前者は受動的、後者は能動的だ。だが、ともに「見よう見まね」=「真似び」=「学び」であることにちがいはない。「まる暗記模倣」である。
評論家の山本七平(1920~91)は、すでに少年期に、聖書と論語を(ほとんど)まる暗記した、と記している。山本だけではない。「師」の内村鑑三(1861-1930)も、聖書と論語孔子)を自家薬籠中のものに(master)していた。この洋の東西を分かつ二冊の本に習う(=倣う)のは、なにも二人だけの特性ではない。明治や大正生まれの「教養」の見本であったといっていい。ただし、「論語読みの論語知らず。」も多かった。「聖書読みの聖書知らず。」も例外ではなかった。つまりは「棒暗記」の類である。
「暗記」(memorywork)を非難したいのではない。「知」の大部分は「記憶」として蓄積され、再利用される。「本」とは、素気なくいえば、「素材」すなわち何に書かれるかは別として、記憶の「体外装置」なのだ。人は、自分の「脳内」(記憶の体内装置)に記憶できないものを、「脳外」に溜める(プールする)。石、レンガ、木片、紙等々、記憶装置は雑多だが、その主力は、二〇〇〇年来、ずっと「紙」(paper)だった。紙の集積=「本冊」である。
記憶装置
ところが、20世紀に、人類史、とりわけ人類の知的歴史をひっくり返す、一大変化が生じた。わたしたちはその「大転換」期を生きているのだ。まず、このことを銘記してほしい。
一九七〇年以降に生まれた人の多くは、魚が水の中を泳ぐように、この新潮流のなかをらくらくと泳いでいる。戦中(1942年)に生まれたわたしなどは、遅ればせながら、この大転換期の「尻尾」にようやくとりつくことはできたが、すでにして息も切れ切れである。
新型の「記憶装置」が登場した。データ・命令などの情報を、記憶し、必要に応じて随時、瞬時に、量の大小を問わず、取り出すことができるようにした、電子計算機=コンピュー装置である。
この記憶装置の「情報量」は、理論的には、無限大まで拡充可能である。たとえば、大英博物館から分離独立した大英図書館は、現在(21世紀はじめ)、八〇〇万冊を優に超える(紙の蔵書をもち、書架を横に並べると一四〇キロメータになるといわれる。だが、その蔵書を電子化すれば、USBメモリィ一本に収納可能になる。
つまり20世紀後半に実用化された「電子書」は、「記憶」そのものの概念を変えた、といっていい。極端にいえば、つまりは「理論」的にいえば、「記憶」でより重要なのは、「外部装置」の充実だということになった。脳=内部装置で問われるのは、「索引」力、必要なものを外部装置から「引き出す」能力である、ということになる。
マイ索引
特に重要なのは、「今ここでわたしが必要とする情報」を「わたしの外部装置」から適切に「引き出す能力(脳力)」なのだ。もちろん、辞書やデジタル図書、その他さまざまな文献も不可欠だ。しかし、それらを参照するためには、何が、そのどの点が必要なのか、を感知・覚知していなければならない。マイ・センサー(脳)が的確かつ鋭利でなければならない。
とりわけ有効なのは、情報収集したものを、外部装置にメモし、利用・再利用することだ。わたしの経験でいえば、自分が読み・書きしたものを、外部装置にメモし、自在に利用・再利用(=引用)することだ。
たとえば、「方法論」である。
読書万般に通じるような「方法論」などはない。これがわたしの考え方(方法)だ。だが、マルクス(主義)の方法論=哲学は、「弁証法的唯物論と史的唯物論」である。それは「ソ連共産党小史」(1938)第四章に、スターリンが書いたとされる)文書で、すでに「提示」されている。それを、読み、理解し、活用せよ。「暗唱」せよ。「拳拳服膺」せよ、終わり。
これが一九五〇年代まで、知識人層においても、おおいに通用した。
この「方法論」を「鵜呑み」にせず、異議を唱えると、反共・反党・腐敗=ブルジョア分子である、と攻撃された。ことはマルクス主義関連にかかわらない。文学畑でも同じで、伊藤整の「氾濫」(1958)などは、売れる作家が書いたので)「大衆が読む」小説」、性が「氾濫」するエロ小説、とジャンル分けされた。おそまつな文学「鑑賞」の方法論だが、こちらはなかなか手強い。
ようやく三〇代のなかばだった。万般に通じる「方法論」(哲学)などない、と覚ることができた。でも「わたしの流儀」程度のものはないだろうか、と探していたときだ。「文学研究に体系も方法論もあり得ない」と喝破した、谷沢永一『牙ある蟻』(1978)にであった。
《文学研究は技術をもってする作業なのだ。文学研究の精髄は技術なのだ。自然科学も人文科学も、技術の行使であることに変わりはない。対象の差に応じて、用いる技術に違いがあるだけだ。・・・・・。文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ないのに、技術とは別個な念力競べを妄想する怠慢が、方法論や体系などという架空の大樹の陰に思う(41)
これはどんな「研究」にも通じる提言だ。「技術」だ。それを磨くには、「博覧」(wellread)と「精査」(closeexamination)、広く、深くものごとを見・知ること、これ以外にない、といっている。
ただし、21世紀である。20世紀までとちがって、比較すれば、内部装置の記憶より、外部装置の記憶のほうが、圧倒的に大きくなった。しかも、外部装置のメモリーを超速で検索・活用可能になった。問題は、「記憶量」ではなく「記憶索引力」になったということだ。
たとえば、「方法論」とあれば、すぐに、『牙ある蟻』の「引用箇所」をすらすらと再現する暗記力ではなく、同書のその箇所にたどり着く「勘」(=「短絡」力)、とりわけ「索引」力である。記憶力の「種別」が変わったのだ。
読んだ本は「全部」忘れたほうがいい
司馬遼太郎「伝説」
司馬遼太郎にはいくつかの「伝説」がある。あくまでも伝説である。真偽のほどはわからない、真っ赤な嘘のような話であるとともに、わたしには核心を射ぬいている話としか思えない。
少年期、授業に出ず、大阪の市立(御蔵跡)図書館に通い、全冊読破した。
大阪外大の蒙古語科に入り、「辞書」なしでモンゴル語を習得し、「辞書」をもたずに小説を、それも「梟の城」を書いた。
読む速度が想像を絶した。速度は、見開き二頁を写真機のシャッターを切る速さで読み(とり)、およそ一冊を一五分以内で読み終わり、しかもその内容の核心を語ることができた。
ほとんどノートもメモをとらず、「記憶」だけで、あの膨大な量のしかも複雑な歴史小説をすらすらと書いた。
「おそらく」、などとわたしがいうのもおこがましいが、歴代の日本人で最も多くの書を読んだのは、司馬遼太郎ではなかろうか。もう一人わたしが知っているかぎりでは、谷沢永一だろう。その谷沢がこれまたとんでもない記憶力の人であった。あるとき、
「読んだ本を忘れることができない。〔脳内に溜まりすぎて、出て行かず、ストレスが溜まり、鬱が嵩じる。〕
というようなことを漏らした。読み過ぎ、記憶しすぎて、もはや読めない、書けない、頭が受けつけない、という最大スランプ(最長鬱病)のときであった。ただし、話す(出す)ほうは支障なかった。この期間、谷沢は、「語り下ろし」と「対論」で凌いだ。
「忘れる」能力
だが、司馬も、そして谷沢も、特大の記憶力の持ち主だが、むしろ驚くべきは、忘れることの「名人」といっていいのではないだろうか。わたしにはそう思える。
司馬と同じように、「写真機」のような複写(再現=記憶)力をもった人をもう一人知っている。弁護士である。ただし、この人、再現したものをきれいさっぱり忘れることもできる。まるでフィルムを抜くと、真っ白、それで終わり、というようなのだ。
対して司馬の場合、フィルムが消えても、いわば「写真」に類するものが残る。書いたもの、膨大な小説、エッセイ、紀行文等々である。くわえてDVD(映像)だ。いつまでも残り、いつでも再現可能になる作品群だ。
司馬が、驚くべき記憶力を発揮できたのは、写真機のような複写能力をもっていたからではないだろう。驚くべきは、その「記憶」(=複写)力を、「創作」(=生産)力に転化できたことにあるのではないだろうか)。
司馬は、一九五九年、文壇デビュー作「梟の城」を書きあげ、六〇年直木賞をえて以降、一九九六年の死までおよそ三五年、一度もスランプ期をもたずに、書きそして書き続けることができたのは、文才があったからだが、読んで、書いて、読んだものを忘れることをやめなかったからである(と思える)。
谷沢も、膨大な作品(生産物)を残した。しかし、その膨大な「脳内蓄積物」(記憶量)を作品に十分転化(消化)することはできなかったのではないだろうか)。ゆえに、インプットとアウトプットのバランスがとれず、鬱(未消化物)が嵩じた。そう、わたしには、思える。
忘れる理由
長いあいだ教師をやってきた。ときに、ゼミ生に「どんな本が好きか?」と聞くことがあった。一冊、多くて数冊あげる子が、たまにいた。「どんなところがよかったか?」と聞くと、ほとんどは「憶えていない。忘れた。」と答える。それほどに「本」は(わたしのゼミ生には)読まれない。
じゃあ、学生は本を読まないのか?まったくそんなことはない。「覚える」ほどには読まない、といいたくなるが、正確には、「本」を買わない(ような)のだ。「新聞」を読まないのではなく、新聞を買って読まないのである。よく聞くと、買いたいものが本以外にある、というのだ。紙の新聞(さらには「本」)は読まないが、スマホやパソコン等で、Web(サービス)版を、必要があれば「読む」「見る」)そうだ。
わたしは、新聞はいまでも中央新聞と地方新聞を一紙ずつとっている。といっても、ともに数百万部の発行数だ。その他はウェブ版で済ませている。多くは「速報」版だ。そして、新聞記事は「すぐ」忘れる。なぜか?「再読」しない、する必要を感じないからだ。時局的な連載コラムを新聞や雑誌に書いていたときは、一週間分の新聞紙(五~六紙)を、処分できなかった。重要不可欠と思える記事は、切り抜きした。「仕事」に必要だ、と考えたからだ。しかし、コラムを書いてしまったら、新聞本体も、切り抜きも、すべて処分し、すっかり忘れた。コラム自体も、その内容はほとんど忘れた。
「忘れる。記憶にない。」は、よく解釈すれば、読んでも、「利用」しなかったからだ。学生は「試験」に、ビジネスマンは「仕事」に必要でなかったからだ。さらにいうと、試験や仕事に必要ないものは、読まない。必要なものでも、読んで使ったら、よほど重要でなければ、あっさり忘れる。
わたしもそうだった。大学に入るまで、まともな読書はしたことがなかった、と思ってきた。本箱には、教科書と受験参考書しかなかった(ように思える)。しかし、四〇代、少年期の「読書」について書かなければならなくなったとき、にわかに思い起こしたのだ。中学のとき、ドストエフスキー(1821~81)『罪と罰』(1866)を読んだ。読んだだけではない。この本の「内容」を忘れることができず、「忘れる」ために、二〇代の半ばまで苦しんだのだ。それをすっかり忘れていたのだから、われながら驚きであった。が、ホッともした。忘れたいこと、忘れてもいいことを、忘れることができたからだ。(この理由は拙著『シニアのための「反」読書論』〔文芸社2015〕にくわしく書いた。)
1・2読んだ本を「全部」忘れるのは不可能だ
忘れる本
「忘れる本」は、「忘れてもいい本」だ。ひとまずこういいたい。
わたしの妻は、「眠り薬」の代わりに「本」を読む。もちろんわたしが書いた本は、読まない。「あなたが亡くなってからゆっくり読む。」という。ちょっと寂しい気もするがこれには助かる。プライベイトなことに触れることを書いても、支障が生じない。なにせ、読まれないのだから。
妻がベッドで読む本は、そのほとんどすべてが「小説」である。「眠り薬」のためだから、「消灯」は早い。ときに、スタンドを点けたまま寝ていることがある。読んでも、全部、忘れるそうだ。読んで、忘れることができないほど面白く、眠れなくなったら、読書の目的に反するのだから、当然といえば、当然だろう。
妻が読む本は、ほとんどわたしが読んだことのない本である。「好み」が違うからで、意識してそうしているわけではないだろう(と思いたい)。何冊か、否、数一〇冊になるだろうか、偶然、同じ本を読むケースがある。別々に買って、関係なく読むのだ。ただし、二人が、共通の本について語り合うことはない。なにせ、妻はきれいさっぱり忘れた、と言明するからだ。わたしのほうは、たとえば、宮本美智子(1945~97)「世にも美し「いダイエット」(1994)を妻の本置き場から抜き出して、仕事で使い、宮本の他の本とともに、自分の蔵書に加えてしまった、というケースはある。
その他に、妻は、クッキング、健康、農耕、動植物図鑑、それに税金関連等々、の本や雑誌をひっきりなしに買って、黙々と(?)読んでいる。「家事」(work)全般に関連するもので、「忘れてはならじ」と、膨大な―トとメモをとっている。ノート類は、貴重品と思えるが、忘れるのか、忘れがたいのか、を問い質したことはない。
論でいえば、ノートやメモをとると、それを利用してしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。もそうなのではないだろうか。わたしも、卒論や論文を書くために、はじめは膨大(?)なノートやメモをとったが、ほとんどは読まなかったし、メモも多すぎて活用できなかった。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。
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『読書原論』
『読書原論』21世紀の読書=忘れる読書
- 読んだ本は「全部忘れてもいい
10本を読むとは何だ?
本
「門前の小僧習わぬお経を読む。」と「師の芸を盗む。」は、真逆のように思える。前者は受動的、後者は能動的だ。だが、ともに「見よう見まね」=「真似び」=「学び」であることにちがいはない。「まる暗記模倣」である。
評論家の山本七平(1920~91)は、すでに少年期に、聖書と論語を(ほとんど)まる暗記した、と記している。山本だけではない。「師」の内村鑑三(1861-1930)も、聖書と論語孔子)を自家薬籠中のものに(master)していた。この洋の東西を分かつ二冊の本に習う(=倣う)のは、なにも二人だけの特性ではない。明治や大正生まれの「教養」の見本であったといっていい。ただし、「論語読みの論語知らず。」も多かった。「聖書読みの聖書知らず。」も例外ではなかった。つまりは「棒暗記」の類である。
「暗記」(memorywork)を非難したいのではない。「知」の大部分は「記憶」として蓄積され、再利用される。「本」とは、素気なくいえば、「素材」すなわち何に書かれるかは別として、記憶の「体外装置」なのだ。人は、自分の「脳内」(記憶の体内装置)に記憶できないものを、「脳外」に溜める(プールする)。石、レンガ、木片、紙等々、記憶装置は雑多だが、その主力は、二〇〇〇年来、ずっと「紙」(paper)だった。紙の集積=「本冊」である。
記憶装置
ところが、20世紀に、人類史、とりわけ人類の知的歴史をひっくり返す、一大変化が生じた。わたしたちはその「大転換」期を生きているのだ。まず、このことを銘記してほしい。
一九七〇年以降に生まれた人の多くは、魚が水の中を泳ぐように、この新潮流のなかをらくらくと泳いでいる。戦中(1942年)に生まれたわたしなどは、遅ればせながら、この大転換期の「尻尾」にようやくとりつくことはできたが、すでにして息も切れ切れである。
新型の「記憶装置」が登場した。データ・命令などの情報を、記憶し、必要に応じて随時、瞬時に、量の大小を問わず、取り出すことができるようにした、電子計算機=コンピュー装置である。
この記憶装置の「情報量」は、理論的には、無限大まで拡充可能である。たとえば、大英博物館から分離独立した大英図書館は、現在(21世紀はじめ)、八〇〇万冊を優に超える(紙の蔵書をもち、書架を横に並べると一四〇キロメータになるといわれる。だが、その蔵書を電子化すれば、USBメモリィ一本に収納可能になる。
つまり20世紀後半に実用化された「電子書」は、「記憶」そのものの概念を変えた、といっていい。極端にいえば、つまりは「理論」的にいえば、「記憶」でより重要なのは、「外部装置」の充実だということになった。脳=内部装置で問われるのは、「索引」力、必要なものを外部装置から「引き出す」能力である、ということになる。
マイ索引
特に重要なのは、「今ここでわたしが必要とする情報」を「わたしの外部装置」から適切に「引き出す能力(脳力)」なのだ。もちろん、辞書やデジタル図書、その他さまざまな文献も不可欠だ。しかし、それらを参照するためには、何が、そのどの点が必要なのか、を感知・覚知していなければならない。マイ・センサー(脳)が的確かつ鋭利でなければならない。
とりわけ有効なのは、情報収集したものを、外部装置にメモし、利用・再利用することだ。わたしの経験でいえば、自分が読み・書きしたものを、外部装置にメモし、自在に利用・再利用(=引用)することだ。
たとえば、「方法論」である。
読書万般に通じるような「方法論」などはない。これがわたしの考え方(方法)だ。だが、マルクス(主義)の方法論=哲学は、「弁証法的唯物論と史的唯物論」である。それは「ソ連共産党小史」(1938)第四章に、スターリンが書いたとされる)文書で、すでに「提示」されている。それを、読み、理解し、活用せよ。「暗唱」せよ。「拳拳服膺」せよ、終わり。
これが一九五〇年代まで、知識人層においても、おおいに通用した。
この「方法論」を「鵜呑み」にせず、異議を唱えると、反共・反党・腐敗=ブルジョア分子である、と攻撃された。ことはマルクス主義関連にかかわらない。文学畑でも同じで、伊藤整の「氾濫」(1958)などは、売れる作家が書いたので)「大衆が読む」小説」、性が「氾濫」するエロ小説、とジャンル分けされた。おそまつな文学「鑑賞」の方法論だが、こちらはなかなか手強い。
ようやく三〇代のなかばだった。万般に通じる「方法論」(哲学)などない、と覚ることができた。でも「わたしの流儀」程度のものはないだろうか、と探していたときだ。「文学研究に体系も方法論もあり得ない」と喝破した、谷沢永一『牙ある蟻』(1978)にであった。
《文学研究は技術をもってする作業なのだ。文学研究の精髄は技術なのだ。自然科学も人文科学も、技術の行使であることに変わりはない。対象の差に応じて、用いる技術に違いがあるだけだ。・・・・・。文学研究の技術は、博覧と精査によってしか身につけ得ないのに、技術とは別個な念力競べを妄想する怠慢が、方法論や体系などという架空の大樹の陰に思う(41)
これはどんな「研究」にも通じる提言だ。「技術」だ。それを磨くには、「博覧」(wellread)と「精査」(closeexamination)、広く、深くものごとを見・知ること、これ以外にない、といっている。
ただし、21世紀である。20世紀までとちがって、比較すれば、内部装置の記憶より、外部装置の記憶のほうが、圧倒的に大きくなった。しかも、外部装置のメモリーを超速で検索・活用可能になった。問題は、「記憶量」ではなく「記憶索引力」になったということだ。
たとえば、「方法論」とあれば、すぐに、『牙ある蟻』の「引用箇所」をすらすらと再現する暗記力ではなく、同書のその箇所にたどり着く「勘」(=「短絡」力)、とりわけ「索引」力である。記憶力の「種別」が変わったのだ。
読んだ本は「全部」忘れたほうがいい
司馬遼太郎「伝説」
司馬遼太郎にはいくつかの「伝説」がある。あくまでも伝説である。真偽のほどはわからない、真っ赤な嘘のような話であるとともに、わたしには核心を射ぬいている話としか思えない。
少年期、授業に出ず、大阪の市立(御蔵跡)図書館に通い、全冊読破した。
大阪外大の蒙古語科に入り、「辞書」なしでモンゴル語を習得し、「辞書」をもたずに小説を、それも「梟の城」を書いた。
読む速度が想像を絶した。速度は、見開き二頁を写真機のシャッターを切る速さで読み(とり)、およそ一冊を一五分以内で読み終わり、しかもその内容の核心を語ることができた。
ほとんどノートもメモをとらず、「記憶」だけで、あの膨大な量のしかも複雑な歴史小説をすらすらと書いた。
「おそらく」、などとわたしがいうのもおこがましいが、歴代の日本人で最も多くの書を読んだのは、司馬遼太郎ではなかろうか。もう一人わたしが知っているかぎりでは、谷沢永一だろう。その谷沢がこれまたとんでもない記憶力の人であった。あるとき、
「読んだ本を忘れることができない。〔脳内に溜まりすぎて、出て行かず、ストレスが溜まり、鬱が嵩じる。〕
というようなことを漏らした。読み過ぎ、記憶しすぎて、もはや読めない、書けない、頭が受けつけない、という最大スランプ(最長鬱病)のときであった。ただし、話す(出す)ほうは支障なかった。この期間、谷沢は、「語り下ろし」と「対論」で凌いだ。
「忘れる」能力
だが、司馬も、そして谷沢も、特大の記憶力の持ち主だが、むしろ驚くべきは、忘れることの「名人」といっていいのではないだろうか。わたしにはそう思える。
司馬と同じように、「写真機」のような複写(再現=記憶)力をもった人をもう一人知っている。弁護士である。ただし、この人、再現したものをきれいさっぱり忘れることもできる。まるでフィルムを抜くと、真っ白、それで終わり、というようなのだ。
対して司馬の場合、フィルムが消えても、いわば「写真」に類するものが残る。書いたもの、膨大な小説、エッセイ、紀行文等々である。くわえてDVD(映像)だ。いつまでも残り、いつでも再現可能になる作品群だ。
司馬が、驚くべき記憶力を発揮できたのは、写真機のような複写能力をもっていたからではないだろう。驚くべきは、その「記憶」(=複写)力を、「創作」(=生産)力に転化できたことにあるのではないだろうか)。
司馬は、一九五九年、文壇デビュー作「梟の城」を書きあげ、六〇年直木賞をえて以降、一九九六年の死までおよそ三五年、一度もスランプ期をもたずに、書きそして書き続けることができたのは、文才があったからだが、読んで、書いて、読んだものを忘れることをやめなかったからである(と思える)。
谷沢も、膨大な作品(生産物)を残した。しかし、その膨大な「脳内蓄積物」(記憶量)を作品に十分転化(消化)することはできなかったのではないだろうか)。ゆえに、インプットとアウトプットのバランスがとれず、鬱(未消化物)が嵩じた。そう、わたしには、思える。
忘れる理由
長いあいだ教師をやってきた。ときに、ゼミ生に「どんな本が好きか?」と聞くことがあった。一冊、多くて数冊あげる子が、たまにいた。「どんなところがよかったか?」と聞くと、ほとんどは「憶えていない。忘れた。」と答える。それほどに「本」は(わたしのゼミ生には)読まれない。
じゃあ、学生は本を読まないのか?まったくそんなことはない。「覚える」ほどには読まない、といいたくなるが、正確には、「本」を買わない(ような)のだ。「新聞」を読まないのではなく、新聞を買って読まないのである。よく聞くと、買いたいものが本以外にある、というのだ。紙の新聞(さらには「本」)は読まないが、スマホやパソコン等で、Web(サービス)版を、必要があれば「読む」「見る」)そうだ。
わたしは、新聞はいまでも中央新聞と地方新聞を一紙ずつとっている。といっても、ともに数百万部の発行数だ。その他はウェブ版で済ませている。多くは「速報」版だ。そして、新聞記事は「すぐ」忘れる。なぜか?「再読」しない、する必要を感じないからだ。時局的な連載コラムを新聞や雑誌に書いていたときは、一週間分の新聞紙(五~六紙)を、処分できなかった。重要不可欠と思える記事は、切り抜きした。「仕事」に必要だ、と考えたからだ。しかし、コラムを書いてしまったら、新聞本体も、切り抜きも、すべて処分し、すっかり忘れた。コラム自体も、その内容はほとんど忘れた。
「忘れる。記憶にない。」は、よく解釈すれば、読んでも、「利用」しなかったからだ。学生は「試験」に、ビジネスマンは「仕事」に必要でなかったからだ。さらにいうと、試験や仕事に必要ないものは、読まない。必要なものでも、読んで使ったら、よほど重要でなければ、あっさり忘れる。
わたしもそうだった。大学に入るまで、まともな読書はしたことがなかった、と思ってきた。本箱には、教科書と受験参考書しかなかった(ように思える)。しかし、四〇代、少年期の「読書」について書かなければならなくなったとき、にわかに思い起こしたのだ。中学のとき、ドストエフスキー(1821~81)『罪と罰』(1866)を読んだ。読んだだけではない。この本の「内容」を忘れることができず、「忘れる」ために、二〇代の半ばまで苦しんだのだ。それをすっかり忘れていたのだから、われながら驚きであった。が、ホッともした。忘れたいこと、忘れてもいいことを、忘れることができたからだ。(この理由は拙著『シニアのための「反」読書論』〔文芸社2015〕にくわしく書いた。)
1・2読んだ本を「全部」忘れるのは不可能だ
忘れる本
「忘れる本」は、「忘れてもいい本」だ。ひとまずこういいたい。
わたしの妻は、「眠り薬」の代わりに「本」を読む。もちろんわたしが書いた本は、読まない。「あなたが亡くなってからゆっくり読む。」という。ちょっと寂しい気もするがこれには助かる。プライベイトなことに触れることを書いても、支障が生じない。なにせ、読まれないのだから。
妻がベッドで読む本は、そのほとんどすべてが「小説」である。「眠り薬」のためだから、「消灯」は早い。ときに、スタンドを点けたまま寝ていることがある。読んでも、全部、忘れるそうだ。読んで、忘れることができないほど面白く、眠れなくなったら、読書の目的に反するのだから、当然といえば、当然だろう。
妻が読む本は、ほとんどわたしが読んだことのない本である。「好み」が違うからで、意識してそうしているわけではないだろう(と思いたい)。何冊か、否、数一〇冊になるだろうか、偶然、同じ本を読むケースがある。別々に買って、関係なく読むのだ。ただし、二人が、共通の本について語り合うことはない。なにせ、妻はきれいさっぱり忘れた、と言明するからだ。わたしのほうは、たとえば、宮本美智子(1945~97)「世にも美し「いダイエット」(1994)を妻の本置き場から抜き出して、仕事で使い、宮本の他の本とともに、自分の蔵書に加えてしまった、というケースはある。
その他に、妻は、クッキング、健康、農耕、動植物図鑑、それに税金関連等々、の本や雑誌をひっきりなしに買って、黙々と(?)読んでいる。「家事」(work)全般に関連するもので、「忘れてはならじ」と、膨大な―トとメモをとっている。ノート類は、貴重品と思えるが、忘れるのか、忘れがたいのか、を問い質したことはない。
論でいえば、ノートやメモをとると、それを利用してしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。もそうなのではないだろうか。わたしも、卒論や論文を書くために、はじめは膨大(?)なノートやメモをとったが、ほとんどは読まなかったし、メモも多すぎて活用できなかった。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。
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