未唯への手紙
未唯への手紙
『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』
『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』
『資本主義がわかる「20世紀」世界史講義』
ファシズムの胎動――国家は道具か主体か
「大衆もまた哀願するものより、支配するものをいっそう好み、そして自由主義的な自由を是認するよりも、他の教説の併存を許容しない教説によって、内心いっそう満足に感じるものである」(ヒトラー『我が闘争』第1巻1925年、平野一郎・将積茂訳角川文庫上巻、1973年、15ページ)
「今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてのアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。(中略)ある民族が、文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工しても、それから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはない」(前掲書、414〜415ページ)
ナショナリズムからファシズムへ
なぜ戦争は起こるか?
第二次大戦とはいかなるものであったのでしょうか。それを知るために、ただ戦争の始まりから終わりまでの事実を追っても、おそらくなにも出てこないでしょう。
同じことは、第一次大戦に関しても言えます。たんに事件の発端から戦争の経緯を追っても、そこに出てくるものは政治であり、作戦であるにすぎません。そこに歴史をどう読み込むかという問題があるわけです。
レーニンが『帝国主義論』(1917年)で述べたように、第一次大戦は帝国主義による再分割の戦争であるという見方は、まさに歴史の読み方のひとつを示しています。帝国主義列強が植民地の争奪戦を展開した。なるほど、そうとも言えます。しかし、それもまたひとつの見方にすぎません。
ナポレオン体制崩壊後の復古体制の転覆という見方もできます。勃興する国民国家が、帝国を押しのけたということです。それによって王政が崩壊し、オーストリア帝国、ドイツ帝国、ロシア帝国、オスマン帝国などが消滅し、民族を主体とする国民国家がヴェルサイユ体制によってもたらされました。
いずれにしろ、こうした展開を必然化したものこそ、資本主義経済の発展であったわけで、資本主義社会の市場拡大が帝国主義戦争をもたらし、資本主義が国民国家と結びついたことが、帝国の崩壊をもたらしたということです。
そして資本主義経済は、やがてアメリカを世界の強国に押し上げ、ロシアに社会主義体制をもたらします。結果として、旧ヨーロッパ的国民国家が、この2つに挟まれるかたちとなり、第一次大戦後のヨーロッパは形成されました。そこでの原理は合理主義的であり、国際均衡、不戦条約、国際連盟、民族自決といったきわめて合理的な思想がありました。一方での民主主義と資本主義の繁栄であり、他方での社会主義とマルクス主義の興隆だったわけです。
しかし、その2つの間に挟まれたヨーロッパ地域は、こうした合理主義とは裏腹に第一次大戦後の復興がままならず、1920年代に困難な戦後を迎えたのです。戦勝国のイギリスやフランスは別として、ドイツ、スペイン、イタリア、そして東欧地域の戦後は決して楽なものではなかったわけです。ドイツやオーストリアのハイパーインフレーションだけでなく、戦後復興の遅れが、こうした国で不満を蓄積させていきます。
こうした状況を決定的に悪化させるものが、アメリカとソ連から押し寄せてきます。アメリカからは2年に始まる世界恐慌が、ソ連からは社会主義の影響力の増大と政権奪取への圧力がもたらされます。
そうした脅威が、それぞれの国民国家で不満の爆発を引き起こしたのですが、それがナショナリズムに向かっていったわけです。第一次大戦で生まれた、きわめて合理的な近代主義が、階級の崩壊をもたらし、人民に政治的解放をもたらしたのですが、それが労働者階級の団結という組織化に向かわない場合、ナショナリズムに向かい、経済的不満が合理的な経済発展へと向かわない場合、保守的な権力構造と結びつき、自国礼賛の愛国主義に向かったのです。その中心となったのが大衆(Masses)です。「マルチチュード」とも呼んでいいものですが、これは「はっきりわからない塊」という意味です。この大衆を扇動し、国家主義を打ち出したのがファシズムでした。
ファシズムの台頭―大衆による合理主義の否定
第一次大戦後、最も早く国家主義的政策を採ったのが、イタリアでした。ファシズムの語源、「Fascio」という言葉自体がイタリア語であり、「塊」を意味するこの言葉は、集団・国家を意味するものとして、国家主義という様相をとって出現します。
ドイツの社会学者エミール・レーデラー(1882~1939)は、『大衆の国家』(青井和夫ほか訳、東京創元社、1961年)のなかで、ファシズムを生み出した最初の実験であるフィウメのクーデタを取り上げています。この町は、今はクロアチアの港湾都市リエカですが、この地域にはイタリア系住民が多い。
第一次大戦の見返りとして、この地をイタリアは要求し、1924年にリエカは正式にイタリアに編入されましたが、この地で1年に起こった運動は、まさにファシズムの原型になったとレーデラーは言うのです。
ガブリエーレ・ダヌンツィオは軍人であり、詩人でもあるのですが、自軍を率い、弁舌によって大衆を煽り、フィウメの政権を奪取し、独裁を布きました。
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