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グーグルの人類史上最高の成功広告モデル

『世界史を創ったビジネスモデル』より グーグルが見出した空前のフロンティア

収入源がなかったグーグル

 サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジは、スタンフォード大学コンピュータサイエンス学科の大学院生。1996年頃に新しい検索エンジンを作った。それまでの検索エンジンとは違って、彼らのエンジンは、人々が知りたい順に検索結果を並べる非常に優れたものだった。大学のコンピュータを使ってテスト公開したところ、多数のアクセスを集めた。

 彼らのエンジンがなぜ結果をこのように並べられるのか?これは、コンピュータサイエンスの問題として大変興味深い。だが、以下では、その問題ではなく、ビジネスモデルの問題に焦点を絞って話を進めることとしよう。

 大学のコンピュータではアクセスを処理できなくなってしまったので、大学の外で事業として行なうこととし、98年に「グーグル」という名の会社を発足させた。事業の拡張に必要な資金は、ベンチャーキャピタルからの出資を仰いで調達することとした。

 これについては、「グーグル創世記伝説」とでも呼びうる挿話がある。グーグル検索エンジンのデモを見た有名なベンチャーキャピタリスト、アンディ・ベクトルシャイムは、即座に出資を決断し、10万ドルの小切手を切ると言った。それに対するブリンの答え。「実は、それを受け入れる預金口座がないんです」

 他のネットベンチャーのように、グーグルの最初の拠点もガレージだった。その後本社を構えたが、それは、パロアルトの自転車屋の2階だった。

 このときグーグルが直面していた難問は、つぎのようなものだ。彼らは、きわめて価値が高いサービスを提供できる。しかし、そこから収入を得る方法がない。

 この問題に答えを見出さなければ、ベンチャーキャピタルは出資を引き上げてしまうだろう。では、どうしたらよいのか?

 この問題の答えは、実は本章のIで書いてしまった。ただ、そこでは、ごく概略しか示さなかった。そこで、あなた自身がプリンとペイジになったつもりで、この問題をもう一度考えてみようではないか。

収益モデルを求めての試行錯誤

 サービスの有料化は、できなくはない。例えば会員制にする。しかし、それでは利用者が減ってしまう。無料のエンジンは他にもあるので、多少性能が悪くても利用者はそちらを使うだろう。

 そこで考えられるのは、ライセンス契約で他のウェブサイトに検索技術を提供し、収入を得ることだ。グーグルは、最初はこれを収益の柱にしようと考えていたようだ。

 もう一つ考えられるのは、料金を払えば検索結果の上位に置くという方法だ。これは、マーがアリババやタオバオに導入した方法だ。アメリカでも、ゴートゥー(後に「オーバーチュア」と改名)という検索エンジンはそれを行なった。

 しかし、この方法は、強い批判を浴びた。検索結果と広告が区別できないと、検索結果の信頼性が低下するからだ。プリンとペイジは、これを論外と考えた。

 そこで登場するのが、広告モデルだ。これまでも述べてきたように、これは何十年も前に見出されていた方法である。電話は料金を取れたので放送を事業化できたが、無線では料金を取れないので、ラジオ放送はできなかった。これを解決したのが広告モデルだ。

 グーグルの検索サービスにはすでに多数の利用者がいた(01年には、1日7000万ものアクセスがあった)。だから、広告は当然考えられる方法だ。そして、インターネットの世界には、すでにバナー広告というものがあった。そこで、「大企業に営業をかけて、広告を出してもらおう」ということになる。

 広告において、検索サービスはラジオやテレビより有利な特性をもっている。検索された言葉に関連のある広告を出すことができるからだ。例えば、利用者が「車」と入力すれば、自動車会社の広告を出す。これは、「検索連動型広告」と呼ばれる。利用者が関心を持つはずの広告を出せるのだから、効果的だ。

 そこで、グーグルもニューヨークに拠点を作り、大企業を相手に営業活動を始めた。これは、「プレミアム・スポンサーシップ広告」と呼ばれた。

競争入札方式の導入

 プレミアム広告は順調に伸びたので、普通の企業ならそれで満足するだろう。しかし、グーグルは、そこで止まらず、新しい仕組みの広告を開発した。これは、いくつかの要素から成り立っている。それらについて説明しよう。

 第1は、競争入札方式の導入だ。

 検索結果が表示される画面には、広告を掲載できる場所がいくつかある。そこにさまざまな検索語に応じて広告を掲載する権利を、入札で決めるのだ。最も高い価格で応札した者が最も目に付く位置に広告を掲載することができる。ここにおいて、グーグルは従来の広告モデルとは性格が大きく違う広告モデルを採用したことになる。大口広告主との個別交渉から、公開入札という競争方式に転換したのだ。

 グーグルは、この方式をさらに改良した。仮にクリック1000回当たり単価10ドルで応札した企業が落札したとしよう。しかし、二番札は1ドルだったとする。この場合、10ドルでなく1ドル1セントでも落札できたわけだ。広告主がそれを知れば、高すぎる価格を提示したことを後悔するだろう。二番札の価格を正確に知らなくとも、次回の入札では価格を引き下げるはずだ。

 この問題に対してグーグルが考え出しだのは、一番高い価格で応札した広告主は、二番札より1セントだけ高い価格で落札できるという方式だ。例えば、先ほどの例なら、10ドルで応札した企業は、1ドル1セントで権利を得る。

 この方式なら、広告主も満足する。グーグルの側にも、価格が不当に下がらないという利点がある。この入札方式は、実は従来からあったものなのだが、グーグルは独自に同じ方式を見出し、広告という世界にこれを持ち込んだのだ。

 入札はインターネットを通じて行なわれ、落札した企業はクレジットカードで料金を支払う。自動化されて、従来よりずっと簡単になった。単価を低くできるので、零細企業でも広告を出せるようになった。以上のような特徴を持つ広告は、「アドワーズ」と呼ばれた。

 グーグルは、次第に重点をアドワーズ広告に移していく。プレミアム広告が伸びていたにもかかわらず、なぜそうしたのだろうか?・

 グーグルの企業文化がそれを促したのではないかと想像される。プリンもペイジも、ゴルフ嫌い(つまり、接待サービス嫌い)だった。そして広告嫌いだった。彼らは、論文の中で、従来型の広告の害悪について論じていたほどである。顧客をディナーに招待して説明するなどという仕事は、彼らの望むところではなかったのだ。グーグルは、検索エンジンを変えただけではない。広告のビジネスモデルをも変えたのだ。

 スティーブン・レヴィは、『グーグル』(阪急コミュニケーションズ)の中で、「(グーグルは)ネットで莫大な収益を上げる秘密の方程式を解いてしまった」「(これは)人類史上最大の成功を収めた広告システム」であり、「今でも、競合他社はそれに匹敵するモデルを生み出せないでいる」としている。そのとおりだ。

 プレミアム広告で満足していたら、グーグルは「ITで成功した企業の一つ」にはなっていたろうが、「人類の歴史を変える企業」にはならなかったろう。次節で述べる方法とも相まって、グーグルのビジネスモデルは、途方もない収益を生み出していく。
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銀の時代のペテルブルクのシンガー・ミシンのビル

『ロシアの世紀末』より ペテルブルク ネフスキー大通り

向い側の二八番地はドム・クニーギ(本の館)という大書店となっているが、かつてシンガー・ミシンのビルであり、ベテルブルク・モダンの代表例の一つである。この建物が出現した時、クラシックなネフスキー大通りの雰囲気はいかにかき乱されただろうか。

アメリカの俳優で機械工だったアイザック・メリット・シンガーが一八五〇年に発明したミシンは、大ヒットし、シンガーはミシンの代名詞となり、シンガー・ミシン社はロシアにも進出し、ペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー大通りに新しいビルを建てることになった。目立つために、通りで頭一つ高いビルが計画された。ところがペテルブルクには二コライ一世Å一八二五-五四)が決めた古い規制があった。それによると、いかなる建物も冬宮(今のエルミタージュ博物館)の高さより二メートル以下でなければならなかった。

七階建で計画されていたシンガー・ビルはやむなく、六階建に変えなければならなかった。

シンガー・ビルの設計者はパーヴェル・シューゾル(一八四四-一九一九)である。彼は折衷主義から出発し、モダン様式、新古典主義などを自在に使いこなした。

ところでリシャット・ムラギルディン『ロシア建築案内』にはこの建物が「本の家(ジンガー書店)」として出てきて、設計者がV・ケンネルとなっているのはなぜだろうか。なにかのまちがいだろうが、ロシアの世紀末の研究がまだこれからであることを感じさせる。

ロシアの世紀末建築の先駆的研究であるのは、ウィリアム・クラフト・ブラムフィールド『ロシア建築のモダニズムの起源』(一九九二)である。そこに建築家シューゾルとシンガー・ビルについて、いくらかくわしく書かれている。

それによると、シューゾルは二十世紀初頭のペテルブルクの建築家のリーダーであったらしい。

「彼は雑誌『ゾーチイ(建築家)』を創刊し、土木建築研究所で教え、建築家・美術家協会の、一九〇三年創立以来の会長を一九一七年までつとめた。そして精力的に建築家の組織をつくり、その会合に参加した。」(同上書)。シューゾルは、一八七〇年代から一九○○年まで、折衷様式でアパートメントー・ハウスを数多く建てた。彼の集合住宅は快適で衛生的だったので評判がよかったという。

一九○二年から一九〇四年にかけて建てられたシンガー・ビルは、シューゾルをモダン様式に踏み出させた。その理由をプラムフィールドは次のように説明している。

「シューゾルのシンガー」ビルの新しい表現は、世紀末におけるアメリカとロシアの建築事情のかなり遠い距離の結果である。」(同上書)

このビルのクライアントはアメリカの企業であり、ロシアの地に、ロシアの建築家によって建てられた。場所も文化もかなりへだたったアメリカとロシアの出会いによって生み出された建物なのである。二つの異文化が衝突し、融合する。

シンガーは、ニューヨークのマンハッタンに二つのオフィス・ビル(一九〇七、一九〇八)を建てている。アメリカの建築家アーネスト・フラッグの設計である。アメリカではすでに摩天楼時代への嗜好がはじまり、ひたすら高い塔を競うようになっていた。

「アメリカの建築家は高い塔を建ててきたが、それはロシアの都市ではこれまで必要とされず、その余裕もなかった高さであった。それだからシンガー・ビルは、ベテルブルクでの商業建築の高さの規準との関連で見なければならない。」(同上書)

新しい建築の大きな要素は鉄骨構造である。重い石の壁で建築を支えるのではなく、鉄骨で支える。それによって壁が軽快になり、デザインに変化をつけることができる。シンガー・ビルでは一、二階に、赤大理石を磨いた、きめの荒いブロックによるアーケードをめぐらし、それより上は、より軽快なグレイの御影石を壁にした。つまり、やや重厚なアーケードの上に、大きなガラス窓のある、軽やかなファサードが載っているイメージがつくられたのである。建築がよりヴィジュアルになったのが世紀末であった。

上三階のファサードは、下二階のアーケードをくりかえす大きなアーケートで構成され、そのなかで、各階の窓が仕切られ、それぞれにバルコニーがつけられている。バルコニーのブロンズの手すりには、アール・ヌ・ヴォー風の飾り彫刻がほどこされている。

この建物は、ネフスキー大通りとエカテリーナ(今はグリボエードフ)運河の河岸通りの角にあり、その角に正面口と塔がある。その角と、その左右に一つずつ、四階まで突抜ける大アーチがあり、その両側にヘルメットをかぶり、槍を掲げたヌードの女性像が掲げられている。この女性像は花ととともに、アール・ヌ・ヴォー特有のモチーフであるが、それはまたシンガー・ミシンの象徴でもあった。

世紀末になぜソーイング・マシン(ミシン)は爆発的に売れたのか。それは女性を家庭内に縛りつける針仕事からの解放をもたらしたのだ。世紀末から女性は社会に出はじめた。ミシンはそのための条件の一つを切開いたのだ。ミシンによる服飾品の大量生産、そしてそれを売る百貨店の発達は、女性のためのマーケットを開花させ、女性の文化を刺激した。その波はロシアにも押寄せてきた。シンガー・ミシンは闘う女闘士をそのビルの上部に掲げた。このアマゾーヌの彫刻家はアマンダスー・インリッヒ・アダムソンであった。

二人のアマゾーヌにはさまれたアーチの上に、巨大なアメリカ鷲が羽をひろげているブロンズ彫刻(アルチュール・オーペル作)が載っていた。しかし、鷲はロシア帝国の象徴でもあったためだろうか、革命後はとりはずされてしまった。革命前の写真でないと見ることができない。

鷲の上にはこのビルのシンボル・タワーであるガラスのキューポラがそびえている。その頂上には、二人の女性が支える地球がのり、そこにシンガーのロゴが書かれている。女性がこの世界を支えていくこと、その女性によってシンガー・ミシンが世界中に広まっていくことを示そうとしている。このキューポラは特に実用性はなく、単なる飾りであるが、高さの制限をなんとかくぐりぬけて、それまでにない高さのビルを建てようとしたシンガー社の工夫であるとプラムフィールドは見ている。

シューゾルが創刊した『ゾーチイ(建築家)』誌には、アメリカとロシアの建築に対する考えのちがいが記録されている。たとえば、このビルには三つのオフィスーエレベーターがつけられた。エレベーターの発達は、百貨店など大きな、高層の商業ビルのために不可欠であった。しかしその他にいくつかの石の階段をつけることをロシア側は求めた。ロシアのビルではそれが当たり前であった。シンガー社はそれにあまり賛成ではなかった。大きなスペースが要るからである。アメリカの商業ビルではエレペーターがあれば、他にはステアウェル(吹き抜けの非常階段)が一つあれば充分というのが常識であった。ところがロシアは、ゆったりとした立派な階段をほしがったので、シンガー社もしぶしぶそれに同意したのである。

さらに、すでにのべたように、ペテルブルクではずいぶん前に決められた高さの規制がまだ通用していることにも、シンガー社はおどろいた。それを知らなかったので、七階の予定を五階に変更しなければならなくなり、余分な費用がかかったという。

シンガー・ビルの中央の吹き抜けの一階はガラス屋根でおおわれ、銀行に使われた。二二階のその他の部分は、シンガー」ミシンと北方貿易社の繊維製品のショールームになっていた。三階から上は英米風のオフィス・ビルになっていて、独立したオフィスールームが並び、共通の廊下、食堂などがあった。最上階はシンガー社のオフィスであった。このようなオフィスービルはロシアでははじめてであった。

「ボザール式とアール・ヌーヴォー式の装飾を機能的なグリッド・デザインに折衷したものであったが、シンガー・ビルはペテルブルクのモダン商業建築の発達の大きなステップであった。もちろん、アメリカのクライアントの規準がビルの新しさや装飾の効果に大きな影響を与えた。このビルのためにシューゾルはペテルブルクの有名な建築家エフゲーニイ・バウムガルテンやマリアン・ペルツァコヅィチなどの協力を得た。この計画は、ペテルブルクのおしゃれな新しいホテルなどとともに、ロシアがブルジョア的ヨーロッパやアメリカの資本主義経済に組入れられていくことを象徴している。」(同上書)

銀の時代のペテルブルクは、アメリカ資本主義を受入れようとしていた。ドストエフスキーのペテルブルクではなかったのである。「おしゃれな新しいホテル」というのはホテル・ヨーロッパのことだ。これについてはネフスキー大通りのもう少し先で触れることにしよう。
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存在論の2つの立場-一基礎づけ主義と反基礎づけ主義

『社会科学の考え方』より 認識論

存在論と認識論は互いに結び付いているが、存在論はより根本的な概念であ仏存在論という言葉自体は、様々な領域で異なる形で使われている。しかしながら社会科学において存在論とは、端的に言うならば、私たちの知識の対象が(私たちとは独立して)そこに存在するのかしないのか、という問いに関する議論を意味する。例えば熱帯林破壊のような環境問題は、私たちがそれを知リていようといまいと、そこに存在するのだろうか。

こうした問いについての立場は大きく分けて2つある。一つは基礎づけ主義(Ibundationalism)である。この立場に立つ人は、私たちが知らなくても、「それ」が客観的に「そこ」に存在すると考える。すなわち私たちの知識や考えは、強固な疑いのない真実という基礎の上に組み立てられているとみなす(したがって「基礎づけ」主義と呼ばれる)。そして基礎づけ主義に立った場合、何らかの「真実」が独立して存在しているため、それは誰が見ても、正しく見ることができれば、同じように見えるはずだと考えても不思議はない。例えば、熱帯林破壊のような環境問題であれば、その深刻さや原因・結果について、客観的に示すことができるということになる。

一方、反基礎づけ主義(anti-foundationalism)と呼ばれる立場をとる人は、その問題となる社会的事象が存在するかどうかは、私たちの解釈によると言う。よい換えると、そうした事象は私だちから独立して存在するものではない。例えば、熱帯林の減少はそれだけでは問題にならない。森林の増減は自然現象としても存在するし、そもそも日本にいる私たちは熱帯林の変化を直接知ることはできない。現地の人ですら身の回りの変化しか感じることはできず、それを熱帯林破壊という問題として理解することは難しいだろう。そうした中、何らかの経緯である種の森林減少が「熱帯林破壊」として意味づけられ、それに沿って私たちが解釈することで初めて、解決すべき問題となる。事象のこのような社会的構築は、各主体がそれぞれの価値観に基づいてなす行為がもたらすものであるが、その過程は社会的・政治的・歴史的文脈によって制約を受けるため、相対的なものにならざるを得ない(なお、こうした立場は社会的な現象や出来事についての立場であり、反基礎づけ主義に立つと言っても、物理的に森林の存在やその増減といった現象か存在しないと考えるわけではない。環境問題としての熱帯林破壊を構築する、森林や森林破壊の定義、森林減少の現状把握[データ収集]や意味づけといった諸要素が、社会的・政治的に形作られているとする立場である)。

存在論と認識論の関係--研究上の意義

 認識論的立場、すなわち私たちが世の中について何をどのように知ることができるかという点についての考え方は、その人がとる存在論的立場(=基礎づけ主義か、反基礎づけ主義か)によって規定される。私たちの知識の対象が、私たちから独立して存在するという基礎づけ主義の立場をとるのであれば、私たちは「客観的」に事象の相互関係を(あるいは因果関係すらも)観察できると考えることもできる。こうした立場を実証主義と言う(次節の「実証主義」の項を参照)。実証主義者は質的データに加えて数値データを積極的に収集し、客観的・科学的に物事(あるいは真実)を証明しょうとする傾向にある。

 あるいは、基礎づけ主義に立ちながらも、目に見えるものは表面的なものであり、その背後にある構造に注目する必要があるとして、観察に基づいて因果関係を実証するというよりも、目に見えない構造を説明することに主眼を置くべきだという立場も成り立つ。こうした立場を批判的実在論という。

 対照的に、反基礎づけ主義に立つ人は、人々がどのようにその出来事を解釈しているか、解釈しよう(させょう)としているかという点に着目する。こうした立場を解釈主義という(次節の「解釈主義」の項を参照)。解釈主義者にとっては、「客観的な」数値データなどは重要視せず、人々の言説等に着目して分析を進めることだろう。

 このように、存在論と認識論は相互に結び付いており、その立場の違いは手法(メソッド)に影響を与えるため、これらをロジカルに結び付ける方法論(メソドロジー)は、社会科学の研究を行う上で非常に重要な意義を持つ。存在綸や認識論については論争が多く、人によっては異なる用語を使って説明することも多いし、存在論が先か認識論が先かなどの哲学的な論争もあるが。しかし、いずれにせよこの存在論と認識論における異なる立場や、それが調査手法の選択に与える影響などについて明確に認識しておくことは、研究者としては不可欠であろう。
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豊田市図書館の30冊

338.2『銀行員大失職』

763.44『初心者のチェロ 基礎教本』

253.14『船乗りがつなぐ大西洋世界』英領植民地ボストンの船員と貿易の社会史

302.62『ブラジルの人と社会』

740.59『日本写真年鑑2017』捨身、いま、ここに

291『2017 都道府県 Data Book』

391.2『兵器と戦術の日本史』

30『社会科学の考え方』認識論、リサーチ・デザイン、手法

389.04『群島-世界論[パルティータⅡ]』

916『工学部ヒラノ教授のはじまりの場所』世田谷少年交差点

361.45『躍進するコンテンツ、淘汰されるメディア』メディア大再編

318.6『都市のあこがれ、山村の戸惑い』京都府美山町という「夢」

953.7『ちいさな国で』

673『日本の優れたサービス』選ばれ続けるつのポイント

675『宅配がなくなる日』同時性解消の社会論

673.97『六本木発ワールド・ダイニング』

318『地方自治の再発見』不安と混迷の時代

673.3『『クレーマーズレポート

302.22『地政学で読み解く没落の国・中国と韓国 繁盛の国・日本』

234.06『近代ドイツの歴史とナショナリズム・マイノリティ』

238.05『ロシアの世紀末』<銀の時代>への旅

210.4『移動者の中世』史料の機能、日本とヨーロッパ

143.1『図解 話を聞かない男、地図が読めない女』

159『菜根譚×呻吟語』別冊NHK100分de名著

201.1『西洋の没落Ⅰ』

201.1『西洋の没落Ⅱ』

133『現代思想の名著30』

290.93『カナダ事件簿』

104『絶望を生きる哲学--池田晶子の言葉』

188.8『日本のリーダーはなぜ禅にはまるのか』人生を成功に導く禅の言葉
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アレクサンドリアのヒュパティア

ヒュパティアの死 415年

 アレクサンドリアのヒュパティア(370年ころ~415年)

 アレクサンドリアのヒュパティアは、キリスト教徒の群衆によって、肉片に引き裂かれて虐殺された。その一部の原因は、彼女が厳格なキリスト教の教義に従わなかったことにある。彼女は新プラトン主義者であり、異教徒であり、そしてピタゴラス教団の思想に従っていると自認していた。興味深いことに、ある程度確実で詳細な情報が残っている人物としては、ヒュパティアは人類の歴史上初の女性の数学者だ。彼女は魅力的な容貌の、断固とした禁欲主義者だったと言われている。なぜ数学に夢中になっていて結婚しようとしないのかと問われた彼女は、私は真理と結婚しているのだと答えたという。

 ヒュパティアの著作には、ディオファントスの『算術』への注釈が挙げられる。彼女が生徒たちに出した数学の問題のひとつに、x-y=αとx**2一y**2=(xーy)+b(ここでaとbは既知とする)という1対の連立方程式の整数解を問うものがあった。この2つの方程式が成り立つような、x、y、a、b の整数値を見つけられるだろうか?

 キリスト教徒は彼女の最も強力な哲学上の対抗者であり、神の性質と来世に関する彼女のプラトン的な主張を、彼らは公式に取り下げさせた。西暦414年の暖かい3月のある日、キリスト教狂信者の群衆が彼女をとらえ、衣服をはぎ取り、そして鋭い貝殻を使って彼女の骨から肉をえぐり取った。現代の宗教的テロリズムの犠牲者たちと同様に、彼女がとらえられたのは単に宗教的分断の反対側にいる著名人だったからなのかもしれない。マリア・デニェージというもう一人の女性が著名な数学者として名を上げたのは、ルネサンス期になってからのことだった。

 ヒュパティアの死をきっかけに数多くの学者たちがアレクサンドリアを離れ、さまざまな意味で、数世紀にわたるギリシア数学の進歩は終わりを告げた。ヨーロッパの暗黒時代の間、アラブとインドの人々が数学の進歩に主導的な役割を果たすことになった。

秘密結社ブルバキ 1935年

 アンリ・カルタン(1904-2008)、クロード・シュヴァリー(1909-84)、シュレーム・マンデルブロー(1899-1983)、アンドレ・ヴェイユ(1906-98)、その他

 歴史家のアミール・アクゼルは、ニコラ・ブルバキが「20世紀最大の数学者」であり、「数学に対する我々の考え方を変え……た。 20世紀半ばにアメリカなど各国の教育界に吹き荒れた「新しい数学」を引き起こし……た」と書いている((『ブルバキとグロタデイーク』水谷淳訳、日経BP社)。彼の著作は今日の現代数学の大半を支える大きな土台となっている。現在活躍している世界中の数学者の中で、ニコラ・ブルバキの独創的な研究から影響を受けていない者など一人もいないと言えよう。」(同上)

 しかし、天才数学者であり何十冊もの評価の高い教科書の著者であるブルバキは、実在しないのだ! ブルバキは個人ではなく、ほぼ全員がフランス人の数学者によって1935年に設立された秘密結社だった。このグループは、すべての現代数学の基本に、最初から最後まで、完全に自己完結した、非常に論理的かつ堅牢な取り扱いを行うことを目指して、集合論、代数学、トポロジー、関数論、積分論などの著作を出版した。この秘密グループの創立メンバーには、アンリ・カルタン、ジャン・クーロン、ジャン・デルサルト、クロード・シュヴァリー、ジャン・デュドネ、シャルル・エーレスマン、ルネ・ド・ボッセル、シュレーム・マンデルブロー、アンドレ・ヴェイユといった、そうそうたる数学者が含まれている。彼らは年長の数学者たちが不必要に古い習慣にとらわれていると感じていたため、ブルバキのメンバーは50歳で辞任するものとされた。

 共同で本を書いている間、どのメンバーも不適当とみなした点に拒否権を発動する権利を持っていた。大声での口論が引き起こされた。会合のたびに、彼らの著作は音読され、1行1行吟味された。1983年、ブルバキは『スペクトル論』と題した最終巻を発行した。現在でも毎年、ニコラ・ブルバキ協会によってブルバキのセミナーが組織されている。

 著述家のモーリス・マシャルは次のように書いている。「ブルバキは、革新的な技法の発明や壮大な定理の証明をしたわけではないし、そんなことはしようともしていなかった。このグループが成し遂げたのは……数学の新しいビジョン、その構成要素の深い再整理と再説明、明確な用語と記法、そして独特のスタイルをもたらしたことにあった。」

Mathematica 1988年

 スティーブン・ウルフラム(1959-)

 過去20年問に、数学のやり方は大きく変化した。純粋な理論と証明から、コンピュータと実験の利用へと移行したのだ。この変化の一因となったのが計算ソフトウェアパッケージであり、数学理論家のスティーブン・ウルフラムによって開発され、イリノイ州シャンベーンのウルフラム・リサーチ社から販売されているMathematicaだ。Mathematicaの最初のバージョンは1988年にリリースされ、現在では数多くのアルゴリズムや可視化、ユーザーインターフェース機能を統合した汎用計算環境を提供している。Mathematicaは、Maple、Mathcad、MATLAB、Maximaなど、実験数学に現在利用できる数多くのパッケージの一例だ。

 1960年代以降、特定の数値計算やアルゴリズム、グラフィックなどのタスクを行うための個別ソフトウェアパッケージは存在していたし、カオスやフラクタルに興味を持つ研究者たちは以前からコンピュータを利用して研究に取り組んできた。Mathematicaは、さまざまな専用パッケージの機能を統合し、便利に使えるようにしてくれた。現在、Mathematicaは工学、科学、金融、教育、芸術、服飾デザインなど、可視化と実験が必要とされる分野で利用されている。

 1992年、専門誌「実験数学」が創刊され、計算機を利用して数学的構造を研究し重要な性質やパターンを特定するための道しるべとなってきた。教育者で著述家のデヴィッド・バーリンスキーは次のように書いている。「コンピュータは……数学的な実験の本質を変容させた。歴史上初めて数学は、物理学のように、目に見えるという理由で物事が発見されるような経験的な学問になって行くのかもしれない。」

 数学者のジョナサン・ボーウェインとデヴィッド・ペイリーは次のように書いている。「おそらく、この方向へ向けた最も重要な進歩は、MathematicaやMapleなど幅広い種類の数学ソフトウェア製品が開発されたことだろう。最近では、多くの数学者がこれらのツールを巧みに使いこなし、日常の研究の一部として利用している。結果として、部分的または全面的にコンピュータベースのツールの助けを借りて発見された、新しい数学的成果の大波がわれわれの前に押し寄せてきているのだ。」
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グローバル化と地域化 ルーマン

『社会の社会』より ルーマン 分化 グローバル化と地域化

近代社会を機能に定位した分化の形式によって性格づけようとすると、多くの矛盾に直面する。一見したところそれらの矛盾には、十分な経験的裏づけがあるように思われるのである。個々の地域に目を向けるや否や、分化した巨大システムの機能範型では用いられていない諸構造が見いだされるだろう。例えば中国南部の経済圏(香港および台湾を含む)においては(富裕な)家族およびそれに類するかたちで形成された社会的ネットワークが大きな意義を有していることを考えてみればよい。あるいはラテンアメリカ諸国の多くにおいて、経済と政治とが結びついていることでもよい。さらにこう問うてみることもできる。典型的日本人は、言語の「イエス/ノー」コードに定位して合理的に決定を下す個人というイメージとどれくらい一致しているのか。むしろ確固たる区別を回避するという関心事こそが、社会的な義務として課せられているのではないか、と。法の問題と政治の問題とを鋭く分離しておくことは、世界システムの多くの国家においては通常的事態ではない。そこで実行されている問題解決を《腐敗》として指し示してみてもあまり意味はないのである。そこでは利益分配、将来の保証、影響カ行使の戦略は人による、直接的あるいは間接的な《推薦》を通しての多重的なネットワーク効果に従って生じる。農業によって条件づけられたクライアント関係が解体され、代わって組織内での地位が求められるようになったところでも、事は同様なのである。細部を見ていくほど、機能分化の理論によって予期されるものからの逸脱が目につくようになる。例えば西アフリカの太鼓奏者は多数に及ぶ異なるリズムの資本をめぐって、国際的な金融市場で競合する。だから国家においてこそ、「グローバル」と「地域的」とのこの差異が可視的となる。世界の政治システムがひとつの諸国家システムであり、このシステムは個々の国家が自身を統一体と考えることをもはや許さないのだが、だとしても今述べた事態は何ら変わらないのである。

以上のように理解された「グローバル/地域的」の差異が及ぼす効果として、総体システムはもはや目的に依存するのではなく歴史に依存しつつ発展していくようになるという点も挙げられる。つまりすでに生じている状況に対して常に後から反応せざるをえないのである。この点でもまた認知的統合は排除され、地域ごとに相異なる状況認知が促進されるのである。これは、「あらゆる機能システムはグローバル化へと向かっていく。また機能分化への移行は、すでに論じておいたように(本書第一章第x啓、世界社会システムを形成することによってのみ終結を迎える)という根本仮定と何ら矛盾しない(さもなければ世界社会もグローバル化も存在しなかったはずである)。普遍主義と限定性の上に築かれた機能システムにとって、空間境界は何の意昧ももたない。機能システムの内部における環節分化(例えば、政治国家への)なら話は別であるが。機能連関は、領域国家の境界を常に横断することを要求する。国外地域からの報道を受信することを、国際的信用のための努力を、自身の境界の向こうで生じる出来事への政治的・軍事的対抗策を、先進国の学校および大学システムをコピーすることを、である。世界規模のコミュニケーションがほとんど時間を要さず、テレコミュニケーションのかたちで実現されうることによって、空間的障壁はますます弱められていく。もはや情報は、物や人のように輸送されるには及ばないのである。むしろ世界システムは、あらゆる作動と出来事の同時性を実現する。同時的なものは因果的にコントロール不可能だから、このシステムが及ぼす効果もコントロール不可能となる。したがって、すでに示唆しておいたように、世界社会の全面的実現から出発する以外に選択肢はないのである。

すでに成立していた世界社会の内部において、伝統的な範型に従って《帝国》を打ち立てようとした最後の巨大な試みはソヴィエト・システムとともに破綻した。そのように破綻したのは他でもない、世界社会の機能分化に直面してのことであった。ソヴィエト共産主義帝国では、経済・政治・科学・マスメディアが絡み合うのを回避できなかった。〔それらの領域の間の〕境界を《封鎖する》ことも、内的状態と外的状態との比較を阻止することもできなかったのである。とりわけそこから生じる刺激を情報へと変換することを組織の水準において効果的に阻止することができなかった〔つまり、すべてを「党」にょって決定しょうと試みられたが失敗した〕。それゆえにシステムが急速に崩壊するに至ったのである。この事例を一般化できるとすれば、地域的な単位が世界社会との戦いで勝利を収めることなど、明らかにありえないはずである。世界社会の影響力に抗して白身を主張しようと試みても、敗北する結果にしかならないだろう。

このように相当に顕著な指標が見受けられるからといって、地域的な違いはもはや何の意味ももたないなどという話にはならない。逆である。機能分化という支配的範型こそが、違いが影響を及ぼすためのきっかけを与えるように思われる。この点を説明するために、条件づけの概念を利用できる。出発点となるのは、機能分化は進化の上で蓋然性が低いということである。そこにおいて地域的特性の介入は促進的にも阻止的にも生じうる。例えば家系への、あるいはそれに類したものへの忠誠が〔資産の保持を第一に考え、政治的主張にはこだわらないというように〕経済と政治の分化を要求することもあるだろう。また言うまでもなく、境界を超える経済関係というかたちで地域特性が生じてきて、それは政治的には〔有意味にコントロールすることができず〕阻止するないし破壊するしかないということになるかもしれない。しかし機能システムのオートポイエティックな自律性が、特に典型的には法システムのそれが、地域的特性のゆえに妨げられるということもありうる。政治システムの自己腐敗を可能にするような諸条件があらかじめ与えられているということもありうる。例えばタイにおける票の買収のようなかたちでである。この現象は、公式には秘密選挙であるにもかかわらず、地方およびスラムのローカルな諸条件を基礎として機能しているのである。地域特性のゆえに機能システムの組織上のインフラ(大学、病院から行政官庁に至るまでの)が広範囲にわたって機能不全に陥り、その結果それらよりもむしろフレキシブルなネットワークに頼るほうが合理的であるということになるかもしれない。その種の関係は、人が常に交替するにもかかわらず、利用されることによって再発生していくのである。

これらローカルな特殊条件のもとでも構造的カップリングが生じて、それにより機能分化へと向かう近代化の流れが促進されるということもありうる。しかし典型的なケースでは機能システムのオートポイエティックな自律性は阻止されるか、作動上の可能性の部分領域へと制限されるのである。いずれにせよ機能分化の優位を、この原理[そのもの]が自己実現を保証するというように把握するのは、非現実的というものだろう。肝心なのは全体社会の自己操舵の形式のあるものがより大きな成果を挙げ、他のものはそうではないことだ云々というような、ハイアラーキカルな範型に従う解釈も、事態を捉えているとは言いがたい。むしろ次のように仮定するのが妥当だろう。世界社会の水準で機能分化が貫徹しているがゆえに、どんな構造によって地域的な条件づけのための〔特定の〕条件が優越してくるかが定められるのである、と。言い換えるならば、条件づけが複雑で不安定なかたちで条件づけられることが阻止しつつ阻止を解除することが、制限とチャンスとを無数のさらなる諸条件に依存させつつ組み合わせることが問題なのである。このように見るならば機能分化はシステムの作動の可能性の条件なのではなく、むしろそれら諸作動の条件づけの可能性なのである。同時にそこからシステムの動態が生じてきて、その結果世界社会の内部におけるきわめて不均等な発展へと至ることになる。それゆえに諸地域は自分自身が、全体社会総体における均衡からはるかに隔たったところにいるのに気づくだろう。まさにその点にこそ、独自の運命のチャンスが存しているとも言える。もはや自身の運命を、機能分化という形式原理の一種のミクロ版であるなどと考えることはできない。言えるのはただ、世界社会の水準におけるこの原理の優位が存在していなければ、すべてが別様だったろうということだけである。どんな地域もこの法則から逃れることなどできない。
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システム分化 ルーマン

『社会の社会』より ルーマン 分化 システム分化

分化 システム分化

社会学は当初から、分化を取り扱ってきた。この概念はいくらか注目しておくに値する。それは相異なるものの統一性を(あるいは、統一性の確立を)表しているからだ。言うまでもなく昔の社会においても、種々の違いが観察されてはいた。そこでは都市住民が地方住民から区別され、貴族が農民から区別されていた。またある家族のメンバーは他の家族のそれから区別されていた、等。しかしこの段階では、特定の人間および生活形式の特質に注目し、相応の予期を形成するだけで十分だった。モノを扱う場合と同様にすればよかったわけである。分化の概念によって、より抽象的な方向へと歩を進めることが可能になる。次のように推測することもできるだろう。抽象化へのこの一歩が生じたのは、十九世紀におけるある傾向によってであった。すなわち、統一性と差異とを過程の帰結として把握しようとする傾向である。進化的発展の帰結も、めざされた行為(例えば、《国民》の政治的統一の場合のように)の帰結も含めて、である。

十九世紀末には分化というこの構想を用いることによって、進歩理論から構造分析への転換が可能になった。ただし、分業が実り豊かである点を肯定的に評価する姿勢は、経済学理論から継承されたままであった。パーソンズの一般行為システムの理論もまた、この構想を踏まえて組み立てられていたのである。パーソンズ理論の中枢的な定式は、発展の分析(分化の増大)にしても、近代の個人主義を役割分化の帰結として説明することにしても、この構想によってもたらされたのである。ゲオルク・ジンメルはそこから出発して、貨幣の分析へと至った。一方デュルケームが向かったのは道徳的連帯の形式の変動に関する考察にであり、またマックス・ヴェーバーは宗教・経済・政治・性愛などのさまざまな生活秩序の合理化という概念を導き出してきたのである。分化の構想は別種の理論的アプローチを例えば発展に関する、個人性に関する、また価値基準に関する議論を--排除しない。それどころか、別種のアプローチヘの道を開いてくれる。他ならぬこの点において、分化の構想の優位性を見て取れるはずである。こう要約してもよいだろう。分化は、成長という条件のもとで凝集性を維持するのに不可欠である、と。

分化の概念を用いて近代社会を賛美することもできたし、批判するのも可能だった。分化した近代社会を歴史の帰結であり不可逆的だと見なすことも可能だし、未来に目を向けて疑念を呈することもできたのである。ジンメルにとってもヴェーバーにとっても、高度に発展した《形式》は分化から派生した事柄のひとつであった。個人性の登場もまたそのような派生物であるという点については、あらゆる古典的理論家の見解は一致している。しかし形式は同時に、ゆゆしい意味喪失と関わらざるをえなくもなる。形式は常に、制限と放棄をも意味するからだ。また個人性によってもたらされるのは、個人がそうなりたいと欲しているものではない。個人性は疎外の経験を産み出すからである。個人的な特性とともに、自分に何が与えられていないかに関する意識もまた高まっていく。その帰結については十九世紀以来、さまざまな理論において論じられてきた。複数の自己に関する、人格的アイデンティティと社会的アイデンティティのコンフリクトに関する、あるいは矛盾を含む社会化に関する理論などにおいてである。

このように分化の概念は、多数の接続可能性によって重層的に決定されている。しかしもちろんその分だけ曖昧さを抱え込んでしまうことにもなる。したがってここでは分化の概念を、システム分化という特殊事例に限定して用いることとする。確かにそうすることによって、全体社会の分化という構造的問題から個人の行動を安易に推論することはできなくなってしまうだろう。とはいえもちろんのこと、役割分化について、分化した趣味について、概念の分化について、あるいはまったく一般的な意昧での用語の分化について語ることまでもが排除されてはならない。区別されるものはすべて、区別というこの作動の帰結を考える限り、差異として、それゆえ分化の帰結〕として指し示されるからである。しかし以下の考察が提起するテーゼは、「他の分化は、システム分化から生じてくる。したがってシステム分化によって説明されうる」というものである。というのは、複数の作動が作動の水準で(回帰的に)結合されれば必ず、システムと環境の差異が生じてくるからである。

そのようにして社会システムが成立する場合、われわれは分出という語を用いることになる。そしてその際には、分出の結果、環境として現れてくるものをも引き合いに出すことにする。この種の分出は、全体社会システムの場合がまさにそうなのだが、有意味な諸可能性という指し示されることのない(分出の後で初めて指し示されうるようになる)領域において生じることもある。つまり、それ以上制限を受け付けない世界の中において、である。しかしまた、すでに形成されているシステムの内部において生じることもありうる。われわれは後者の事例のみをシステム分化として、あるいは違いを名指すことができる場合には当該システムの内的分化として、指し示すことにしよう。

したがってシステム分化とは回帰的なシステム形成に他ならない。すなわちシステム形成の結果に、当のシステム形成を適用することなのである。そこではあるシステムの内部においてさらなるシステムが形成されるわけだが、そうする中で前者は、部分システムとその環境という区別によって再構成されることにもなる。今や部分システムから見れば、包括的システムの残余部分は環境となる。部分システムにとって総体システムは、「部分システム/部分システムの環境」という差異の統一性として現れてくる。言い換えればシステム分化は、システム内環境を産み出すのである。つまりここで生じているのは、これまでしばしば用いてきた概念を再度使用するならば、システムと環境の区別がそれによって区別されるものの中に、すなわちシステムの中に《再参入》することなのである。

この経過を十分正確に把握しておくことが重要である。ここで扱われているのは、《全体》を《部分》へと分解することではない。概念的な意味においても実際の分割という意味においても、そのような分割が問題とされているわけではないのである。全体/部分の図式はヨーロッパ古来の伝統に由来している。それをここで用いようとすれば、決定的な点を見逃してしまうことになる。システム分化とは、全体が諸部分へと引き裂かれるということでは決してない。そのような水準で考えている限り、全体はやはり諸部分から、そして諸部分間の《関係》から成り立っているということになるだろう。確かに部分システムは包括的システムに属しており包括的システムを実現しているのだが、どの部分システムも独自の(部分システム固有の)「システムと環境」の差異を用いて、包括的システムを再構成する。包括的システムは、当のシステム内部において常に新たな「システムと環境」の区別を用いることによって、ある意味で自身を複数化するのである。分化の進展は自然発生的に生じうる。つまり進化の帰結として生じるのであり、進化は構造的変動を広めるために様々な機会を利用しうるわけだ。そうした分化の進展に際しては、全体と部分の図式が示唆しているような、全体社会による調整など何ら前提とされないのである。また同様に、総体システムの中で実行されるすべての作動が部分システムヘと分割されて、今や総体システムは部分システムの内部でのみ作動しうる云々ということが前提にされるわけでもない。高度に分化した全体社会にも、《自由な》相互作用が多々見られる。その結果として、全体社会システムと相互作用システムの分化が生じてくる。この分化〔がどのょうなかたちで現れてくるか〕は、全体社会システムの分化形式とともに変化するのである。

したがって分化の進展はいつ、どこからでも始まりうる。そうして導入された逸脱を強化していけるのである。多くの集落の中であるひとつの集落が、優先される場所として形成される。そこでは中心化によって得られる複数の利点が相互に支え合うことになる。かくして最後には、都市と地方との新たな分化が生じてくるのである。そうして初めて残りの集落は、都市との区別における《村》となる。そして次第に、都市というものもあって、そこでは村とは異なる生活が営まれうるのだという事態に自身を合わせていくようになる。また都市は、村の環境として、村において可能な事柄を変化させることにもなる。村はこの点にも自身を合わせていくのである。

このようにシステム分化という文脈においては、あらゆる変化は二重の、それどころか多重的な、変化なのである。あるシステムが変化するということは、他のシステムにとっての環境が変化するということでもある。生じることは、幾重にもわたって生じる--システム言及ごとに、である。例えば景気ないし競争が理由となって労働力需要が急速に減少したとしよう。それは経済においては合理化の進展や利潤率の向上を意味するかもしれない。しかし同時に政治システムにおいて、影響を被る家族において、学校および高等教育という教育システムにおいて、学術の新たな研究テーマ(《労働の未来》)としても、それぞれのシステムの環境における変化を踏まえて、まったく異なる因果連鎖を発動せしめるかもしれない。あらゆるシステムにとって同一の出来事であるにもかかわらずそうなのである! そこから帰結するのは、驚くべき動態化である。まさに爆発的な反作用圧力が生じてくる。それに対して個々の部分システムが自身を守りうるためには、無関心の閥という高い壁によるしかないのである。したがって分化によって、依存性と独立性が同時に増大するという事態が引き起こされざるをえない。どの点で依存したりしなかったりするかは特定化され、システム独白のコントロールに服するのである。以上の結果としてついには部分システムは自身を、作動の上で閉じられたオートポイエティックなシステムとして定式化するに至ることになる。
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男女の機会の平等を考える上で留意すべきこと

『働き方の男女不平等』より 男女の不平等とその不合理性--分析結果の意味すること

女性の人材活用について日本企業が合理的に行動しているとの推定で議論をすること自体が、きわめて問題が多いことは明らかである。しかし論者によっては、日本企業はそれでも男女に機会を平等に開いていると主張する人がいるかも知れない。建前としては、多くの日本企業は「男女の機会の平等」は是とし、「結果の平等」は経済合理性がなく不可と考えているからである。だがこれは機会の平等をきわめて限定的に考える結果であると筆者には思える。多くのフェミニストは結果の平等を主張してきたので、機会の平等の意味自体を問うことは少なかったようには思われる。筆者は基本的に自由主義者であり、暫定的手段として過渡的なポジティブ・アクションの採用は別として結果の平等志向には賛成できないのだが、それでも問題は「機会」か「結果」かの2分類といった単純なものではないと考える。その理由はいくつかある。そこで最後に機会の平等とは何を意味すべきかについて再考してみよう。

①まず第1に、既存の制度を前提とした機会の平等は真の機会の平等ではないという認識が重要であると筆者は考える。恒常的に残業できるか否かを「踏み絵」にされた結果の女性の一般職の選択が真の意味で自由意志の選択でないことは明らかだと思うが、正規雇用を新卒者に限っていた時期では(現在でもかなりそうであるが)、いったん結婚・育児離職した女性にはどんなに優秀でも、非正規のいわゆる「パート・アルバイト」の仕事しかない時期が戦後長く続いていた。これなども男女の機会の平等を制度的に妨げている例である。

より一般に、人事における内部労働市場の最優先(「入口の職」以外は外部から人を取らず、すでに企業に勤めている者の昇進や異動で担当者を定めることを原則とすること)も著しい男女の機会の不均等を生み出している。アメリカの政府や大企業などでは他者と競合しない個人的昇進の場合を除いて、職の「空き」ができて新たに採用の必要のある場合には公募広告を出すのが原則である。内部応募が多く、当然個人的に業績が知られている分内部応募者が有利であるが、外からの応募者が採用される場合も多くある。内部労働市場優先の度合いが強いほど、就業の継続性が男性より少ない女性は不利を被る。日本企業の人事における内部市場の最優先は、日本企業の文化の問題などではなく、「終身雇用制度」の下で正規雇用者の雇用が強く守られているせいで中途採用者市場とその人材活用がほとんど発達しなかったという、日本の雇用制度と労働市場の問題が背景にある。そしてそれは人材活用上合理的制度とは言い難い。また短時間正社員制度や残業無しの正社員制度、在宅勤務制度などが普及しないせいで、家庭との両立が難しいという事情から、正規雇用を去る女性のケースも制度が作り出す男女の機会の不平等である。

一般に、機会の平等とは何を基準にして機会が平等であると考えるのかが重要である。既存の制度を前提として形式的には男女に機会が同等に開かれていても、実質的には制度上の制約で女性に機会が著しく狭められている状況が日本においては多々ある。そのような制約を大幅に軽減する雇用制度改革の必要があり、それを抜きにして男女の機会の平等は達成できないと筆者は考える。

①第2に、第7章の「企業が女性に不公平なシグナルを利用する場合」のモデルに基づいた分析結果に関連するが、「与えられた機会がどのような基準で評価されるのか」という点に関し基準が男女で公平か否かが問題である。

例えば「恒常的に長時間労働ができるかどうか」を基準とされることが女性に不利であることは述べたが、一般にライフスタイルの選択や、その他平均的に男女で異なる働き方の選択に中立な仕方で評価が決められていないと、本章で分析した女性のシグナルが男性より劣る結果となりやすく、仮に企業に女性への偏見がなくても、そのシグナルを基準に男女の仕事能力を測る限り、女性への低い評価が生まれ、特に資格基準の厳しい地位の高い役職に対して女性の自己投資のインセンティブを奪い予言の自己成就的に無資格者の割合を高める可能性が大きい。したがって評価の基準が、育児役割負担の違いなど男女の置かれた状況の違いや、就業時間など男女の選好の違いに中立的な基準であることが必要であり、そうでなければ、機会が真に男女平等とは言えない。

①第3点として、社会的機会の平等を阻害する制度に影響をもたらす価値観や意識は単に個人の精神の自由の問題ではないと筆者は考える。多くの経済学者は、個人の価値観や選好を変えようとする政策を取るべきではないと考える。例えばもし女性に対する「偏見」は内面の選好の問題だとされれば、それに対して何らかの対策をとろうとすれば「公が個人の内面に踏み込むべきではない」というような批判が起こりうる。しかし女性の仕事能力への偏見や、職種に関し性別で向き不向きのステレオタイプの押し付けや、本人が育児離職するか否かの決定の前に、女性は離職するものと決めつけて統計的差別を行うことも、その倫理観も問われよう。

最後の統計的差別の例は本章の冒頭に『鏡の国のアリス』のもじりで表現したように、いまだ本人がしていない離職を理由に企業がその女性個人の賃金を低く抑え人材投資を控えることを、それが統計的差別であれ、倫理的に不当と思わない潜在意識が日本企業にあり、これらはすべて単なる個人の内面の問題ではない。文化的に個人の行為・責任と個人の賞罰を結び付ける傾向が日本企業文化に弱いことは本書の第1章で欧米での「報酬の個別性」に対し、日本における「報酬の連帯性」として特徴づけたが、これから働こうとする世代の女性が、過去に離職した、あるいは離職せざるを得なかった、異なる世代の女性たちといわば連帯責任を負わされているのが、女性の高い離職率を理由とする日本における女性への統計的差別で、このような価値観が、統計的差別が合理的か否かの判断とは別個に、存在していることが日本で統計的差別を強く存続させている理由の1つと思える。しかしこれは筆者には倫理的に不当と思えるし、職業キャリアを重視する女性には常に不当な差別となる。またその結果これらの価値観や意識が、長期間雇用・長時間労働優先という特殊的前提での合理性の判断とあいまって、女性の人材活用をしない制度や慣習を作り出し、その結果女性人材の不活用による外部不経済や、女性からの自己投資のインセンティブの剥奪や、男女の機会と処遇の不平等を再生産している。したがってこれらの問題のある価値観や意識は、個人の精神の自由の問題ではなく、社会における多くの人々にとっての上記の①や⑦を満たす真の選択の自由と機会の平等の実現という観点から見直されるべきものである。

④第4点として、信念が結果に影響する場合に男女の機会の平等の実現に何をもって合理的とするかの問題がある。予言の自己成就の分析は、それが女性の離職率の高さであれ、女性の労働生産性の低さであれ、企業がそれを予測して行動を起こすと、それに見合う実態が生まれる可能性を示した。一般に行為者の信念が、行動の選択結果に違いをもたらす場合が多くある。通常信念が行動の選択に影響を及ぼすとき、その選択が合理的であるには、信念が合理的である必要があると考えられていた。エルスター(Elster 1982)が議論したように信念には合理的な信念も非合理的な信念もあり、エルスターがあげたイソップの「すっぱいぶどう」の話のように、心理的には満足を与えても、事実と矛盾する非合理的信念があるからである。しかしコートとラウリーの理論モデルと筆者による追加分析のモデルが示したように、企業が女性の資格に対し偏見を持っているとシグナルが男女で同等でも、偏見に見合った資格取得の実態を生みだし、逆に企業が男女の資格は同等だと信じていると、男女でシグナルが異なっても、男女に同等な資格取得の実態を生み出すといった場合には、信念の合理性はきわめて曖昧となる。つまり、事実との一致を基準にするなら合理的だが、その一致自体が内生的に生み出されているからである。このため行為者(この場合企業)にとっては信念の合理性を判断する外的基準がない。

このような場合に重要なのは行為者でなく、社会にとっての合理性の基準である。例えばCL理論のように女性への偏見がパレート非効率的均衡を生み出すなら、それは社会的に望ましくない。また正規雇用者の中途採用市場が発達せず雇用者に退出オプションがきわめて限られるため、事実上雇用者による雇用主の選択の自由が大きく制限されており、そのため一方で正規雇用者が非自発的に長時間労働をする状況と、他方で非正規雇用者の生産性が低い状況とが生みだされていると考えられ、その雇用のあり方は社会的に非効率で望ましくない。企業の整理解雇要件の緩和とともに、中途採用市場での労働者の職歴の継続性が高まる労働市場への変換が必要である。第1章で述べた合成の誤謬の問題の存在も社会的基準の合理性が重要であることを示している。

結果の平等達成の手段であるアファーマティブ・アクションは、それ自体が市場価格にゆがみをもたらすため問題もある不完全な手段ではあるが、それがパレート非効率的均衡を打ち破ることができることはCL理論が想定した状況で示された。またオランダやデンマークやドイツのように雇用者がペナルティを受けずに雇用時間を選べる一定の権利を法的に保障することや、EUのように最大労働時間を法的に規定することは、企業による雇用者への非自発的な長時間労働の押し付けが、退出オプションが限られるために可能になっている正規雇用の現状を打開する有効な制度設計となる。

このような市場への介入は、市場主義的な機会の平等のみを肯定する者には抵抗があろう。しかしアダム・スミスのいう「神の見えざる手」が機能しない状況は多くあり、社会的にはより望ましくない状況が均衡を保つというような状況が日本における男女共同参画が進まないことの背景には存在すると考えられる。もしそうであるならば、一方で雇用者の選択の自由を増やすために、企業の自由を制限する手段(例えば雇用者が就業時間を選べる権利)や、暫定的な手段としてポジティブ・アクションの採用も、望ましくない均衡を破る方策として十分考えられてよく、基本的に自由主義とは矛盾しないと筆者は考える。基本原則は女性人材を活用できない社会が経済的に合理的ではあり得ないという認識から出発することである。その認識の下に女性の人材活用に停滞状態を生んでいる現状を支える労働市場や雇用や家族のあり方を見極め、男女の真の機会の平等の達成のために、自由主義的な原則を尊重しながらも、それらの制度や慣習を政府も企業も家庭も積極的に設計し直すことが、いま強く望まれていると筆者は思う。
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マウスコンピューターでの入力

マウスコンピューターでの入力

 マウスコンピューターの2-1を2万円で購入。スタバでインスピレーションの入力が可能になった。キーボードを使って、タテにして入力。

 視力の関係でほとんど見えていないけど、どうにか入力はできます。マウス操作するときだけが視点が定まらない。リモートのマウスを手に入れます。入力に関しては、インスピレーションが一番しっくりきます。何しろ、25年以上、使っています。それも同じバージョンです。その間、マシンもWindowsも変わったけど、相変わらず、動いている。

 CTRLキーでほとんどの操作ができます。家の環境であれば、ネット放送が受信できるので、最新情報がリアルに入ってきます。

 Windows10はノウハウの集積になっています。どんな安いものでもWindowsが動けば、同一環境が保証されます。それに私のコンテンツ、特に未唯空間と本棚システムがあれば、ネットは必要ない。

 つまり、Windowsという窓口だけで、空間が拡がっていく。それらを支えるクラウドの対してはまだ、未消化です。銀行口座がないので、お金がかかるものには対応できない。いつでも入力できるようにしておきましょう。これが可能な環境です。この2万円のマシンは1年もたないでしょう。私はいつまでもつかわからないけど。だから、それだけ駆使します。

オレンジの使い道

 オレンジは寝ながらのネット放送の受信を加えます。タブレットから役割を移管します。

全握は中三トリオだけ欠席

 25日の全握は中三トリオだけが欠席。それぞれがバラバラの理由です。生ちゃんはレミゼ、ひめたんは休業。ちーちゃんは大学の関係なんです、
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マウス2-1購入。これで6台同時可動

マウス2-1購入。これで6台同時可動

 マウスの2-1を購入。2万円。これで6台を並行活用。さて、何が変わるのか。スタバでインスピレーションの入力が可能になった。キーボードを使って、タテにして入力。

 一台ずつに名前を付けておこう。タブレットタイプは「タブレット」と「オレンジ」、キンドルタイプは「オアシス」と「キンドル」、パソコンタイプは「F」と「マウスか生ちゃん」としておきます。それぞれの役割分担は追々、決めていきます。

 「生ちゃん」はすぐに可動できた。USBでコンテンツを共用させます。慣れてきたら、クラウドを使うことを考えよう。これで入力ができます。パソコンを持ち出すリスクがなくなったのと、トラブルに対して、一週間の時間が確保できた。何しろ、インスピレーションと未唯空間が確保できた。その上、いつもの携帯用バックに入れることができた。厚いローディアと一緒に持ち運べます。

 ヤフーを見たりするのは、「タブレット」にしておきます。「生ちゃん」はあくまでも外での入力マシンです。その際も、ローディア経由で書き起こします。

幕張がカオス状態に

 今週末の幕張はカオス状態が予想される。3万人を集める乃木坂の全握に、欅とAKBの握手会が同時開催。さらに乃木坂のイベントとして天が重る。風が吹くとすぐ止る、鉄道も混乱を増す。

三回忌の後はしゃぶしゃぶ食べ放題

 奥さんの母親の三回忌。なぜか葬儀センターで実施。80人定員のところに8人です。読経を聞いておしまい。

 その後、会食。以前はピザだったけど、今回は寿司としゃぶしゃぶ食べ放題です。こんな贅沢なことはあり得ない。実家の方のおごりなので、奥さんからは何の制約もない。30過ぎの子どもたちは旺盛な食欲。

 こういう時も、家族制度を考えてしまう。
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