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銀の時代のペテルブルクのシンガー・ミシンのビル

『ロシアの世紀末』より ペテルブルク ネフスキー大通り

向い側の二八番地はドム・クニーギ(本の館)という大書店となっているが、かつてシンガー・ミシンのビルであり、ベテルブルク・モダンの代表例の一つである。この建物が出現した時、クラシックなネフスキー大通りの雰囲気はいかにかき乱されただろうか。

アメリカの俳優で機械工だったアイザック・メリット・シンガーが一八五〇年に発明したミシンは、大ヒットし、シンガーはミシンの代名詞となり、シンガー・ミシン社はロシアにも進出し、ペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー大通りに新しいビルを建てることになった。目立つために、通りで頭一つ高いビルが計画された。ところがペテルブルクには二コライ一世Å一八二五-五四)が決めた古い規制があった。それによると、いかなる建物も冬宮(今のエルミタージュ博物館)の高さより二メートル以下でなければならなかった。

七階建で計画されていたシンガー・ビルはやむなく、六階建に変えなければならなかった。

シンガー・ビルの設計者はパーヴェル・シューゾル(一八四四-一九一九)である。彼は折衷主義から出発し、モダン様式、新古典主義などを自在に使いこなした。

ところでリシャット・ムラギルディン『ロシア建築案内』にはこの建物が「本の家(ジンガー書店)」として出てきて、設計者がV・ケンネルとなっているのはなぜだろうか。なにかのまちがいだろうが、ロシアの世紀末の研究がまだこれからであることを感じさせる。

ロシアの世紀末建築の先駆的研究であるのは、ウィリアム・クラフト・ブラムフィールド『ロシア建築のモダニズムの起源』(一九九二)である。そこに建築家シューゾルとシンガー・ビルについて、いくらかくわしく書かれている。

それによると、シューゾルは二十世紀初頭のペテルブルクの建築家のリーダーであったらしい。

「彼は雑誌『ゾーチイ(建築家)』を創刊し、土木建築研究所で教え、建築家・美術家協会の、一九〇三年創立以来の会長を一九一七年までつとめた。そして精力的に建築家の組織をつくり、その会合に参加した。」(同上書)。シューゾルは、一八七〇年代から一九○○年まで、折衷様式でアパートメントー・ハウスを数多く建てた。彼の集合住宅は快適で衛生的だったので評判がよかったという。

一九○二年から一九〇四年にかけて建てられたシンガー・ビルは、シューゾルをモダン様式に踏み出させた。その理由をプラムフィールドは次のように説明している。

「シューゾルのシンガー」ビルの新しい表現は、世紀末におけるアメリカとロシアの建築事情のかなり遠い距離の結果である。」(同上書)

このビルのクライアントはアメリカの企業であり、ロシアの地に、ロシアの建築家によって建てられた。場所も文化もかなりへだたったアメリカとロシアの出会いによって生み出された建物なのである。二つの異文化が衝突し、融合する。

シンガーは、ニューヨークのマンハッタンに二つのオフィス・ビル(一九〇七、一九〇八)を建てている。アメリカの建築家アーネスト・フラッグの設計である。アメリカではすでに摩天楼時代への嗜好がはじまり、ひたすら高い塔を競うようになっていた。

「アメリカの建築家は高い塔を建ててきたが、それはロシアの都市ではこれまで必要とされず、その余裕もなかった高さであった。それだからシンガー・ビルは、ベテルブルクでの商業建築の高さの規準との関連で見なければならない。」(同上書)

新しい建築の大きな要素は鉄骨構造である。重い石の壁で建築を支えるのではなく、鉄骨で支える。それによって壁が軽快になり、デザインに変化をつけることができる。シンガー・ビルでは一、二階に、赤大理石を磨いた、きめの荒いブロックによるアーケードをめぐらし、それより上は、より軽快なグレイの御影石を壁にした。つまり、やや重厚なアーケードの上に、大きなガラス窓のある、軽やかなファサードが載っているイメージがつくられたのである。建築がよりヴィジュアルになったのが世紀末であった。

上三階のファサードは、下二階のアーケードをくりかえす大きなアーケートで構成され、そのなかで、各階の窓が仕切られ、それぞれにバルコニーがつけられている。バルコニーのブロンズの手すりには、アール・ヌ・ヴォー風の飾り彫刻がほどこされている。

この建物は、ネフスキー大通りとエカテリーナ(今はグリボエードフ)運河の河岸通りの角にあり、その角に正面口と塔がある。その角と、その左右に一つずつ、四階まで突抜ける大アーチがあり、その両側にヘルメットをかぶり、槍を掲げたヌードの女性像が掲げられている。この女性像は花ととともに、アール・ヌ・ヴォー特有のモチーフであるが、それはまたシンガー・ミシンの象徴でもあった。

世紀末になぜソーイング・マシン(ミシン)は爆発的に売れたのか。それは女性を家庭内に縛りつける針仕事からの解放をもたらしたのだ。世紀末から女性は社会に出はじめた。ミシンはそのための条件の一つを切開いたのだ。ミシンによる服飾品の大量生産、そしてそれを売る百貨店の発達は、女性のためのマーケットを開花させ、女性の文化を刺激した。その波はロシアにも押寄せてきた。シンガー・ミシンは闘う女闘士をそのビルの上部に掲げた。このアマゾーヌの彫刻家はアマンダスー・インリッヒ・アダムソンであった。

二人のアマゾーヌにはさまれたアーチの上に、巨大なアメリカ鷲が羽をひろげているブロンズ彫刻(アルチュール・オーペル作)が載っていた。しかし、鷲はロシア帝国の象徴でもあったためだろうか、革命後はとりはずされてしまった。革命前の写真でないと見ることができない。

鷲の上にはこのビルのシンボル・タワーであるガラスのキューポラがそびえている。その頂上には、二人の女性が支える地球がのり、そこにシンガーのロゴが書かれている。女性がこの世界を支えていくこと、その女性によってシンガー・ミシンが世界中に広まっていくことを示そうとしている。このキューポラは特に実用性はなく、単なる飾りであるが、高さの制限をなんとかくぐりぬけて、それまでにない高さのビルを建てようとしたシンガー社の工夫であるとプラムフィールドは見ている。

シューゾルが創刊した『ゾーチイ(建築家)』誌には、アメリカとロシアの建築に対する考えのちがいが記録されている。たとえば、このビルには三つのオフィスーエレベーターがつけられた。エレベーターの発達は、百貨店など大きな、高層の商業ビルのために不可欠であった。しかしその他にいくつかの石の階段をつけることをロシア側は求めた。ロシアのビルではそれが当たり前であった。シンガー社はそれにあまり賛成ではなかった。大きなスペースが要るからである。アメリカの商業ビルではエレペーターがあれば、他にはステアウェル(吹き抜けの非常階段)が一つあれば充分というのが常識であった。ところがロシアは、ゆったりとした立派な階段をほしがったので、シンガー社もしぶしぶそれに同意したのである。

さらに、すでにのべたように、ペテルブルクではずいぶん前に決められた高さの規制がまだ通用していることにも、シンガー社はおどろいた。それを知らなかったので、七階の予定を五階に変更しなければならなくなり、余分な費用がかかったという。

シンガー・ビルの中央の吹き抜けの一階はガラス屋根でおおわれ、銀行に使われた。二二階のその他の部分は、シンガー」ミシンと北方貿易社の繊維製品のショールームになっていた。三階から上は英米風のオフィス・ビルになっていて、独立したオフィスールームが並び、共通の廊下、食堂などがあった。最上階はシンガー社のオフィスであった。このようなオフィスービルはロシアでははじめてであった。

「ボザール式とアール・ヌーヴォー式の装飾を機能的なグリッド・デザインに折衷したものであったが、シンガー・ビルはペテルブルクのモダン商業建築の発達の大きなステップであった。もちろん、アメリカのクライアントの規準がビルの新しさや装飾の効果に大きな影響を与えた。このビルのためにシューゾルはペテルブルクの有名な建築家エフゲーニイ・バウムガルテンやマリアン・ペルツァコヅィチなどの協力を得た。この計画は、ペテルブルクのおしゃれな新しいホテルなどとともに、ロシアがブルジョア的ヨーロッパやアメリカの資本主義経済に組入れられていくことを象徴している。」(同上書)

銀の時代のペテルブルクは、アメリカ資本主義を受入れようとしていた。ドストエフスキーのペテルブルクではなかったのである。「おしゃれな新しいホテル」というのはホテル・ヨーロッパのことだ。これについてはネフスキー大通りのもう少し先で触れることにしよう。
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