未唯への手紙
未唯への手紙
存在論の2つの立場-一基礎づけ主義と反基礎づけ主義
『社会科学の考え方』より 認識論
存在論と認識論は互いに結び付いているが、存在論はより根本的な概念であ仏存在論という言葉自体は、様々な領域で異なる形で使われている。しかしながら社会科学において存在論とは、端的に言うならば、私たちの知識の対象が(私たちとは独立して)そこに存在するのかしないのか、という問いに関する議論を意味する。例えば熱帯林破壊のような環境問題は、私たちがそれを知リていようといまいと、そこに存在するのだろうか。
こうした問いについての立場は大きく分けて2つある。一つは基礎づけ主義(Ibundationalism)である。この立場に立つ人は、私たちが知らなくても、「それ」が客観的に「そこ」に存在すると考える。すなわち私たちの知識や考えは、強固な疑いのない真実という基礎の上に組み立てられているとみなす(したがって「基礎づけ」主義と呼ばれる)。そして基礎づけ主義に立った場合、何らかの「真実」が独立して存在しているため、それは誰が見ても、正しく見ることができれば、同じように見えるはずだと考えても不思議はない。例えば、熱帯林破壊のような環境問題であれば、その深刻さや原因・結果について、客観的に示すことができるということになる。
一方、反基礎づけ主義(anti-foundationalism)と呼ばれる立場をとる人は、その問題となる社会的事象が存在するかどうかは、私たちの解釈によると言う。よい換えると、そうした事象は私だちから独立して存在するものではない。例えば、熱帯林の減少はそれだけでは問題にならない。森林の増減は自然現象としても存在するし、そもそも日本にいる私たちは熱帯林の変化を直接知ることはできない。現地の人ですら身の回りの変化しか感じることはできず、それを熱帯林破壊という問題として理解することは難しいだろう。そうした中、何らかの経緯である種の森林減少が「熱帯林破壊」として意味づけられ、それに沿って私たちが解釈することで初めて、解決すべき問題となる。事象のこのような社会的構築は、各主体がそれぞれの価値観に基づいてなす行為がもたらすものであるが、その過程は社会的・政治的・歴史的文脈によって制約を受けるため、相対的なものにならざるを得ない(なお、こうした立場は社会的な現象や出来事についての立場であり、反基礎づけ主義に立つと言っても、物理的に森林の存在やその増減といった現象か存在しないと考えるわけではない。環境問題としての熱帯林破壊を構築する、森林や森林破壊の定義、森林減少の現状把握[データ収集]や意味づけといった諸要素が、社会的・政治的に形作られているとする立場である)。
存在論と認識論の関係--研究上の意義
認識論的立場、すなわち私たちが世の中について何をどのように知ることができるかという点についての考え方は、その人がとる存在論的立場(=基礎づけ主義か、反基礎づけ主義か)によって規定される。私たちの知識の対象が、私たちから独立して存在するという基礎づけ主義の立場をとるのであれば、私たちは「客観的」に事象の相互関係を(あるいは因果関係すらも)観察できると考えることもできる。こうした立場を実証主義と言う(次節の「実証主義」の項を参照)。実証主義者は質的データに加えて数値データを積極的に収集し、客観的・科学的に物事(あるいは真実)を証明しょうとする傾向にある。
あるいは、基礎づけ主義に立ちながらも、目に見えるものは表面的なものであり、その背後にある構造に注目する必要があるとして、観察に基づいて因果関係を実証するというよりも、目に見えない構造を説明することに主眼を置くべきだという立場も成り立つ。こうした立場を批判的実在論という。
対照的に、反基礎づけ主義に立つ人は、人々がどのようにその出来事を解釈しているか、解釈しよう(させょう)としているかという点に着目する。こうした立場を解釈主義という(次節の「解釈主義」の項を参照)。解釈主義者にとっては、「客観的な」数値データなどは重要視せず、人々の言説等に着目して分析を進めることだろう。
このように、存在論と認識論は相互に結び付いており、その立場の違いは手法(メソッド)に影響を与えるため、これらをロジカルに結び付ける方法論(メソドロジー)は、社会科学の研究を行う上で非常に重要な意義を持つ。存在綸や認識論については論争が多く、人によっては異なる用語を使って説明することも多いし、存在論が先か認識論が先かなどの哲学的な論争もあるが。しかし、いずれにせよこの存在論と認識論における異なる立場や、それが調査手法の選択に与える影響などについて明確に認識しておくことは、研究者としては不可欠であろう。
存在論と認識論は互いに結び付いているが、存在論はより根本的な概念であ仏存在論という言葉自体は、様々な領域で異なる形で使われている。しかしながら社会科学において存在論とは、端的に言うならば、私たちの知識の対象が(私たちとは独立して)そこに存在するのかしないのか、という問いに関する議論を意味する。例えば熱帯林破壊のような環境問題は、私たちがそれを知リていようといまいと、そこに存在するのだろうか。
こうした問いについての立場は大きく分けて2つある。一つは基礎づけ主義(Ibundationalism)である。この立場に立つ人は、私たちが知らなくても、「それ」が客観的に「そこ」に存在すると考える。すなわち私たちの知識や考えは、強固な疑いのない真実という基礎の上に組み立てられているとみなす(したがって「基礎づけ」主義と呼ばれる)。そして基礎づけ主義に立った場合、何らかの「真実」が独立して存在しているため、それは誰が見ても、正しく見ることができれば、同じように見えるはずだと考えても不思議はない。例えば、熱帯林破壊のような環境問題であれば、その深刻さや原因・結果について、客観的に示すことができるということになる。
一方、反基礎づけ主義(anti-foundationalism)と呼ばれる立場をとる人は、その問題となる社会的事象が存在するかどうかは、私たちの解釈によると言う。よい換えると、そうした事象は私だちから独立して存在するものではない。例えば、熱帯林の減少はそれだけでは問題にならない。森林の増減は自然現象としても存在するし、そもそも日本にいる私たちは熱帯林の変化を直接知ることはできない。現地の人ですら身の回りの変化しか感じることはできず、それを熱帯林破壊という問題として理解することは難しいだろう。そうした中、何らかの経緯である種の森林減少が「熱帯林破壊」として意味づけられ、それに沿って私たちが解釈することで初めて、解決すべき問題となる。事象のこのような社会的構築は、各主体がそれぞれの価値観に基づいてなす行為がもたらすものであるが、その過程は社会的・政治的・歴史的文脈によって制約を受けるため、相対的なものにならざるを得ない(なお、こうした立場は社会的な現象や出来事についての立場であり、反基礎づけ主義に立つと言っても、物理的に森林の存在やその増減といった現象か存在しないと考えるわけではない。環境問題としての熱帯林破壊を構築する、森林や森林破壊の定義、森林減少の現状把握[データ収集]や意味づけといった諸要素が、社会的・政治的に形作られているとする立場である)。
存在論と認識論の関係--研究上の意義
認識論的立場、すなわち私たちが世の中について何をどのように知ることができるかという点についての考え方は、その人がとる存在論的立場(=基礎づけ主義か、反基礎づけ主義か)によって規定される。私たちの知識の対象が、私たちから独立して存在するという基礎づけ主義の立場をとるのであれば、私たちは「客観的」に事象の相互関係を(あるいは因果関係すらも)観察できると考えることもできる。こうした立場を実証主義と言う(次節の「実証主義」の項を参照)。実証主義者は質的データに加えて数値データを積極的に収集し、客観的・科学的に物事(あるいは真実)を証明しょうとする傾向にある。
あるいは、基礎づけ主義に立ちながらも、目に見えるものは表面的なものであり、その背後にある構造に注目する必要があるとして、観察に基づいて因果関係を実証するというよりも、目に見えない構造を説明することに主眼を置くべきだという立場も成り立つ。こうした立場を批判的実在論という。
対照的に、反基礎づけ主義に立つ人は、人々がどのようにその出来事を解釈しているか、解釈しよう(させょう)としているかという点に着目する。こうした立場を解釈主義という(次節の「解釈主義」の項を参照)。解釈主義者にとっては、「客観的な」数値データなどは重要視せず、人々の言説等に着目して分析を進めることだろう。
このように、存在論と認識論は相互に結び付いており、その立場の違いは手法(メソッド)に影響を与えるため、これらをロジカルに結び付ける方法論(メソドロジー)は、社会科学の研究を行う上で非常に重要な意義を持つ。存在綸や認識論については論争が多く、人によっては異なる用語を使って説明することも多いし、存在論が先か認識論が先かなどの哲学的な論争もあるが。しかし、いずれにせよこの存在論と認識論における異なる立場や、それが調査手法の選択に与える影響などについて明確に認識しておくことは、研究者としては不可欠であろう。
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