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未唯への手紙

未唯への手紙

図書館の利用

2015年01月25日 | 6.本
『知的生活習慣』より

家から脱出する

 図書館の三階に読書室がある。大きな粗末なテーブルが五つある。一つのテーブルを八つの椅子がかこむ。午前中は人がすくない。一見して定年退職したという人が難しそうな本をひらいている。それを見ると、なにかいじらしいようでもあり、少し哀れでもある。やはり、うちにいられないのだろうと思う。こちらだって、似たようなものだから他人のことをとやかくは言えない。

 歩いて数分のところに区立図書館がある。学校をやめて研究室が使えなくなった。うちにもちゃんとした書斎があるが、どうも落ち着かない。台所の音はきこえないが、(ナがいいから食べものの臭いがする。脱出するために図書館へ行く。十時から十二時すぎまでいて帰宅、食事をして二時すぎから夕方まで机に向かってすごす。

 本はめったに読まない。もっぱら書きものである。能率が上がる。まわりに人のいることを忘れる。図書館は、いいなあ、とときどき天井をながめながら声にならないひとりごとを言う。

休憩する

 かっては、机に向かったら一時間でも二時間でも、席を立たず、本を読んだり仕事をしたりして得意になっていたが、あるとき、これがいけないということを知る。

 きっかけは、航空旅客がエコノミー症候群とかいうので命を落とす事故が多発したことである。同じ姿勢で長時間、腰かけているのはたいへんいけない、という。そんなことは聞いたこともない。どうしていけないのか、少しずつ得た知識によると、座席に座っていると、脚と心臓の距離が大きくたふて、血行が悪くなり、血栓ができやすい。それがのぼってきて、とんでもない悪さをするらしい。

 その後、病院でも、長い時間同じ姿勢で仕事をするのがいけない、と言われた。どこかが充血するという。

 図書館で座り続けるといっても知れている。エコノミー症候群になったりする気づかいはないが、疲れる。ということは、体が休憩を求めているのだろう。それで学校の時間割を思い出す。授業は一時間ごとに区切られ、放課の時間がある。ぶふ続けということはない。先年、東京のある都立高校が、午前中ぶふ続けで同一教科、午後も同じ教科を教えることにして話題を呼んだ。やはり失敗だつたらしく、すぐやめた。長時間、同じ姿勢をとり続けるのがよくなかったにちがいない。

 そういうこともあり、図書館での仕事の仕方を変えた。一時間したら、席を立つ。トイレヘ行って、館外へ出る。隣が小公園だから行ってベンチに腰をおろして空をながめる。のどが乾いているときは自動販売機で、ヴ。ンーホーテンのココアを飲む。

 天気が悪かふたりすると、一階の雑誌閲覧室へ行って新刊雑誌をめくる。読みたい雑誌はたいていほかの人が読んでいる。バ″クナンバーも欠けている。失敬していく不心得者がいるらしい。しかたがないから、アメリカの「タイム」を見る。これは見る人がすくないらしく、いつも、待っている。

 長くて二十分、たいていは十分少しで切り上げて三階の席へ戻る。休憩前に考えていたことの流れを見失って、しばらく、まごつくこともある。ものを書くには、中休みはよくないようで、調子が出たら、何時間でも、かまわずぶっ続けにするのが分別である。本を読んでいるときは中休みをした方がよい。

執筆する

 ものを書くには、図書館が適している。うちにいると電話が鳴る。出てみると、屋根を直せ、とか、墓地を買わないか、とか、マンションで節税しないかとか。ロクな電話はない。そのつど立っていてはしかたがないから、子機を書斎の机の上に置いたら、飛び上がるような音を立てて、心臓がおかしくなる。うちにいてはダメ。図書館に限る。いっさいわずらわすものがない。以前、近くの中学生が来て私語してうるさいから注意した。そのせいかどうか、その後、来なくなった。

 十分もすれば隣に人のいることも忘れて仕事に没頭できる。そうして図書館で書き上げた本がどれくらいあるか、自分でもわからない。書いていてわからぬことがあると、十歩も歩けば書架である。辞書類もわりによく揃っている。図書館は、私にとって、本を借りて読むところではなく、主として、執筆の書斎代用として役立っている。うちの書斎より仕事のはかが行くのである。

 話にきいただけであるが、ロンドンには大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)がある。イギリス第一の図書室(リーディング・ルーム)がある。やはり原稿を書く人も利用するらしい。資本論のカール・マルクスもこのリーディング・ルームで原稿を書いたと言われる。

 わが区立図書館は小っぽけだが、そして一枚板に脚をつけただけのテーブルだけしかないけれども、リーディング・ルームではある。そこで原稿を書いていけないことはあるまいと思っている。

 先日、ある会合で、フランス文学の中村弓子さんに会った。俳人中村草田男の令嬢である。退職していまは名誉教授だが、古くからの知り合いである。久しぶりに会った。まず彼女は、「私も、図書館通いをいたしています。図書館はいいですね」と声をはずませる。私が、「図書館には知的緊張の空気がはりつめていて、こちらも、影響されて、しゃきっとしますね……」などと話し合った。

「アイコンタクト」を使い分けて、印象を二割増しに

2015年01月25日 | 5.その他
『世界で働く人になる』より 言葉を超えた「コミュニケーション力」を鍛える

アイコンタクトは「郷に入っては郷に従え」

 対照的に、英語が母語として使用されている地域、例えばアメリカやイギリスでは、アイコンタクトは無視することができない重要なコミュニケーション・ツールです。また、アラブ圏では欧米以上に近い距離から、相手の目を真っすぐ見るといいます。ラテン語圏の出身者も、アイコンタクトを非常に重視します。彼らは、何も無意味に目を見つめ合っているのではありません。しっかり目的を持って、自分のまなざしをコントロールしています。

 このアイコンタクトの目的は、見知らぬ人に対しては自分が相手に悪意を持っていないことを示し、自分の知人に対しては親愛の意を示すことにあります。また、相手の興味を引いて、自分の発言を印象付けるためにも用いられますし、相手の感情を読み取ったり、話の始まりと終わりのタイミングを計ったりするためにも使われます。アイコンタクトを重視する地域では、相手の目を見ずに下を向いたまま接すると、相手の話に興味がないかのような印象を与える危険性があるので、要注意です。

 アイコンタクトは、日本人が習慣的には行わない行動ですが、ある地域では非常に重要視される要素です。結論から言えば、アイコンタクトに関しては、日本人は原則「郷に入っては郷に従え」で対処すれば良いと思います。アジアの国々など、目を合わせることを習慣的に行わない文化圏の人々に対しては日本式で、欧米やアラブ諸国など、アイコンタクトを重視する文化圏の人々に対しては、彼らの方法に合わせてみましょう。こうして、相手の方法に合わせた後は、相手の出方を見ながら、自分の対応を調整するといいと思います。

目を合わせてにっこり、ただしあまり見つめ過ぎない

 では、アイコンタクトを重視する地域で人々に会った場合、具体的にはどのように対処すれば良いのでしょうか。以下、例を挙げながらお伝えしたいと思います。

 まず、ホテルやオフィスなどのエレベーターでは、乗り合わせた相手の目を見て、ほほえみます。日本とは違い、知らない人同士も目を合わせてにっこりします。このほほえみは、相手に自分が悪意を持っていないことを印象付けるためのものです。裏を返せば、日本は前提として常に安全だからこそ、アイコンタクトが習慣化されていないと言えるかもしれません。男性も女性も、同じようにほほえみます。

 ただ、アイコンタクトといっても、偶然乗り合わせた相手を見つめ過ぎないことが大事です。相手が自分にほほえみ返した時点で、目をそらすくらいがちょうどいいタイミングだと思います。

 会議場やレセプションなど、これから共に仕事をすることになる人と初めて会う場で、偶然相手と目が合った場合も、視線をすぐそらさないように注意したほうがいいでしょう。相手は自分のことを不愉快に思っているのかと、勘違いしてしまいます。エレペーターで出会ったときのように、にっこりほほえんで、すっと視線をそらせることをおすすめします。

 また、プレゼンテーションをする際は、聴衆の誰もが平等にアイコンタクトを受けていると感じさせるために、自分の視点を、会場全体を広くメビウスの輪を描くようなイメージで動かしてみるのが効果的です。

 社内で目上の人に会ったときも、アイコンタクトは必須です。しっかり相手の目を見て、明るくあいさつしましょう。すると相手は、あなたを自信がある人と感じてくれる可能性が増します。印象を二割アップする絶好のチャンスです! 緊張して、にらみつけてしまわないように。「目は心の窓」なので、明るい気持ちでいれば、まず失敗することはありません。

会議中にも使えるアイコンタクトの技

 アイコンタクトは、会議中などでも必要な要素です。もしも会議中に誰かと目が合っても、すぐに視線をそらさないこと。ここはぐっとこらえて、一瞬目を合わせてほほえんでみましょう。

 実際、カナダ人の同僚から、会議中、目が合った瞬間にウインクを送られたことがあります。送られた側の私はドキッとしたのですが、もちろん、相手は私のことが好きなわけではありません。これは、「あ、目が合った!」という微妙な間を、相手にけげんな思いをさせずにやり過ごすための知恵なのです。その人のちやめっ気も手伝って、この方法は秀逸だと思いました。「こんな対応もあるのだな」と私もさっそく試みましたが、結局ウインクがうまくできなくて挫折しました。残念!

 また、会議で組織の重役と目が合ったときのことです。アフリカ出身の重役が、発言しながら私の目を見つめ続けるので、こちらもそらすことができず、テーブルを挟んで、一分ほど見つめ合ってしまったことがありました。

 日本人が二分間、他人とただただ目を合わせるには、かなりの辛抱が必要だと思います。しかし、私が見つめ合った当の相手は、全く何とも思っていないようでした。アイコンタクトに慣れていない人は、一分間、誰かと目を合わせる練習をしてみるといいかもしれませんね。

 さらに、アイコンタクトを重視する文化圏では、相手の興味を引いたり、自分の発言にインパクトを与えたりするためにも、アイコンタクトが意識的に使われています。

 会議で議論の流れにインパクトを与えたいときは、それまでに目立った発言をした人の意見を要約しながら、その発言者の瞳を見つめます。すると、その発言者が自分を見返しますので、全員がその人の瞳の先を追うことで、自分に注目を集めることができます。また、それまで滞りなく話していたスピーチを、いったん沈黙で区切ってから全員を見渡すと、彼らも息をのんでこちらに注目するでしょう。このように、まなざしの持つ力と共に、間や余韻も効果的に使うと良いと思います。

 日本ではあまり意識して使われることのないアイコンタクトですが、これを多用している文化圏では、時と場所をわきまえて使用すると、自分の印象をアップするのに大きな効果が得られるでしょう。また、下手に敵を作ることを防ぐ効果もあります。皆さんも、ぜひ実践してみてはいかがでしょうか。

アイコンタクトについてのまとめ

 ①アイコンタクトを重視する文化圏と、そうでない文化圏がある。

 ②英語圏やアラブ圏、ラテン語圏では、アイコンタクトは重要なコミュニケーション・ツールとなる。エレベーターの中でも、会議でも、積極的に活用しよう。

 ③原則、「郷に入っては郷に従え」。

 ④相手の興味を引いたり、自分の発言にインパクトを与えたりしたいときにも活用できる。

まちライブラリ

2015年01月24日 | 6.本
ザ・パートナー

 パートナーは自分にとっては素直だけど、相手にとってはそうは思えないでしょう。変わるものではない。自分の中から変えていくしか。そして、それに気づいていない。それがザ・パートナーです。

 大きな枠があるんだから、そこの中のローカルをほじっていくこと。そのローカルからグローバルに向かうことは今までもやってきているから、安心して、ローカルに徹すればいい。

 NPOみたいに、自分たちの観点を求めて、長年やってきている人たちに方向を与えて、それぞれを結びつけること、それで私が言っていることに幅をつけていくことが私の役割です。

 トルストイではないけど、リーダーが居て、カリスマが存在して、歴史が変わるものではない。色々な動きをつなげていくこと、方向づけること、それぞれの役割を果たしていくこと。それはその人が生まれてきた理由そのものであり、存在の力が発揮できることを示すこと。

退職後の考える時間

 バスでの思考を、退職を契機に、スタバに移行します。何も見ずに言葉をイメージします。タイムはバスの片道の一時間です。パートナーはハレーすい星です。交信用のICレコーダーです。

プリンター

 本を直接作り出すプリンター、これは3Dプリンターよりも意味があります。電子図書には必要です。

 図書館コミュニティで、ふつうのプリンターと一緒に。持ち込み書類のプリントサービスです。キンコーズと連携するのも手です。

アドラー心理学

 アドラー心理学にはものすごく違和感を感じます。人との関係に帰結させます。その曖昧さと不安定さ。

 二言目には「一人では生きていけない」。だけど、一人で生まれてきて、一人で死んでいきます。他人というのは、周りだけです。本当の周りではない。偶々、居た人のために、なぜ、こんなにもという感じがしている。それを心理学という名前で決めつけられている。

ボディ・ランゲージ

 非言語コミュニケーションの本があった。ボディ・ランゲージを意識して、プロットします。ボディ・ランゲージが気になると、ボディ・ランゲージの本が出てきて、共同体が気になると、共同体の本が出てきます。

まちライブラリ

 まちライブラリとあるけど、つなぐのに、人が移動しないといけない。ではなく、自分のライブラリをいかに作り上げていくのか。それをどうつなげていくのか。

 情報倫理よりもむしろ、情報共有のすごさと恐さ。未来方程式では、社会を変えるためには、情報共有は必要です。前提となる手段です。自分の趣味で作り上げたデジタルライブラリがあります。情報共有のベースになり、未唯宇宙をなす構成物質。

 一冊の本の中には余分なものが多すぎます。ポイントが絞れない。厚さを増すために、余分なことを書いている。本には経緯が書かれているそれまでの経過です。たとえば、「インターネット」にしても、何回、同じことが書かれている。そんなのは、そのための本を読めばいいです。わざわざ、上げて、ページを増やす必要はない。言いたいことはもっと簡単に。それで自分を出して、それをつなげていく。

 まちライブラリはどこをプロットしようか。やはり、「哲学」でしょうね。自販機をどう使っていくかというのも、まちライブラリに入れ込まないといけない。コミュニケーションの道具として、変わっていかないといけない。車で移動させること自体は、社会にとっては、たぶん、悪です。それを身近にする。そうなると、コンビニと同じように、共同分配すればいい。

スタバで店員と交流することが幸福を感じる

2015年01月24日 | 7.生活
『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』より 幸福のレシピ

幸せになるには、ケーキを作るときのように、3つの材料が必要なのです。それは「人との交わり・親切・ここにいること」の3つです。人との交わりは小麦、親切は砂糖、ここにいることは卵、みたいなものです。

そもそも、幸福は一筋縄ではいかないことがわかっています。

エド・ディーナー博士とマーティン・セリグマン博士という、ポジティブ心理学の先駆者たちは、幸福度の高い人たちを集めて研究し、彼らを幸せにしているものは何かを突き止めようとしました。最初はたくさんのサンプルを取り、それから上位10%の人に絞ったのです。

博士たちは、上位10%の人たちがなぜそんなに幸せなのかについて徹底的に調べました。特に注目したのが、「幸せな人たちの共通点」です。

幸せな人の中には、運動好きもいればインドア派もいます。信心深い人もいれば無神論者もいました。

このように、それぞれのタイプは違いますが、上位10%の人たちに共通していたのはたった1つ、社会との結びつきが強いことでした。幸せな人たちはみな、友人や家族と良好な関係を築いています。

実際、彼らは全員「人との結びつきが強い」と報告されていました。とはいえ、良好な人間関係さえあれば幸せになれる、というわけではありません。

上位10%でなくても、他者や社会との結びつきが強い人はたくさんいました。「人との交わり」は、決して魔法の切符ではありません。でも他者と良好な関係を築くことは、確実に「幸せになるための必須条件」なのです。

残念ながら、親しい友人や家族が周りにいない人もいるでしょう。でも「社会との交わり」は近くのコーヒーショップでも体験することができるのです。

最近、こんな調査結果が発表されました。スターバックスに入ろうとする人に声をかけ、こう伝えます。

「あらかじめお金を用意しておいて、注文は手際よく。必要以上に店員と話さないように」

正直いって、私がコーヒーをテイクアウトするときなんてそんなものです。そして、別のグループには、反対に社交的に接するよう頼んでみました。「店員とちゃんと交流するように。笑顔でアイ・コンタクトを取って短い会話を交わして」と。

その結果、店を出るころには、社交的になるよう言われた人々の幸福度のほうがはるかに上がっていたのです。コーヒーを買うといった些細な交わりでも、その日の幸福感を高めることができるのです。

こういう話をすると、「外向的な人はいいけど、内向的な人はどうなの?」と思うでしょう。外向的な人と内向的な人では、他人と交わる相互作用にどんな違いがあるのか。こんな実験もあります。

明らかに外向的な人と内向的な人を一人ずつ選び出し、1対1で会話をしてもらいました。次に、今度はお互いに逆の性格になって話してもらいました。

さあ、どんな変化があったでしょうか。まず外向的な人たち。彼らは内向的に振る舞うよりも、いつもの自分らしくしていたほうがはるかに幸せを感じていました。予想通りの結果ですね。外向的な人は、そのほうがいい気分なのです。

じゃあ内向的な人は? 皆さん、どうだったと思いますか?

男子学生A 正反対だったんじゃ……。

ダン博士 そう、私たちのほとんどがそう思ったはずです。

ところが驚くべきことに、内向的な人も外向的な人とまったく同じ反応だったのです。つまり内向的な人も、人と交わることで幸せを感じていたわけです。

だからってみんなが超外向的になる必要もないし、スターバックスで店員としゃべりまくる必要もありません。それはやりすぎ。

でも、普段の生活でほんの少しでも人と関わるだけで、私たちはより幸福を感じることができるのです。

プレモダンの精神をもって、モダンをリサイクルする

2015年01月24日 | 4.歴史
『世界史の極意』より 戦争を阻止できるか

巨視的に歴史を見る力を身につけることで、現代がどのような時代なのかを把握することが可能になります。そこではアナロジカルな見方も大いに有効でしょう。

しかし、ほんとうに難しい問題はその先にある。

先に述べたとおり、はたして、時代はどこに向かっていくのかという問題です。

一九世紀末に生まれた帝国主義は、二つの世界大戦による大量殺人と大量破壊まで行き着いてしまいました。ヨーロッパが殺し合いをしなくなったのは、あまりにも大きすぎる犠牲をこのときに払ったからです。いわば、帝国主義は臨界点を迎えてしまったわけです。

一方、現代の新・帝国主義は、第三次世界大戦には至っていません。しかし、ウクライナ、パレスチナ、イラク、シリアなどでは、核を使わない戦争が続いています。

こうした戦争や紛争を解決するには、たった一つしかありません。それは、ヨーロッパがそうだったように、もうこれ以上殺し合いをしたくないと双方が思うことです。

その境界線を定量化することはできません。数百万人かもしれないし、数千人かもしれない。しかし、その一線はかならず存在する。

だとすれば、その一線をできるだけ下げるようにするのが、戦争を阻止するという本書の目的に適うことになります。

そのためには、どうすればいいでしょうか。

私は、二つの可能性があると考えます。一つはもう一度、啓蒙に回帰することです。

人権、生命の尊厳、愛、信頼といった手垢のついた概念に対して、不可能だと知りながらも、語っていく。それは、バルトの言う「不可能の可能性」を求めていくことです。

近代が限界に近いことはたしかです。その徴候はいたるところに現れている。

しかし、近代を超える思想として提出されたものが、ことごとく失敗しているのも事実です。

啓蒙主義の帰結を反省して、あらゆる理念や概念を相対化した結果、人びとは何も信じることができなくなって、動物的に行動するだけになってしまう。いまや政治も経済も、動物行動学者の想定するような世界になっています。

私自身は、近代は限界に近づいているものの、それはまだしばらく先のことだと考えます。

国民国家や資本主義のシステムはそう簡単に崩れません。国民国家の成立が均質の労働力を生み、資本主義を育ててきました。その綻びが見え始めたとはいえ、いま世界で起きていることは、しょせんコップのなかの嵐であり、現行システムの調整だと私は思います。

だとすれば、近代の枠組みのなかで戦争を止めるには、近代の力を使うしかありません。それが私の言う啓蒙主義です。モダンのリサイクルと言ってもいいかもしれません。

もう一つはプレモダンの精神、言い換えれば「見えない世界」へのセンスを磨くことです。

本章で何度も述べたとおり、「見える世界」の重視という近代の精神は、旧・帝国主義の時代に戦争という破局をもたらしました。新・帝国主義の時代には、目には見えなくとも確実に存在するものが再浮上してくると私は見ています。

イギリスの特徴として、実念論が国家の中核にあることを挙げました。「目には見えなくとも存在するもの」が、この国では近代的な民族を超える原理となって人々を統合してきたのです。イギリスのみならず、現下の情勢を見てもわかるとおり、もはや合理的なことだけでは国家や社会の動きは説明できないでしょう。実念論の時代の再来です。

だからこそ、私たちは「見えない世界」へのセンスを磨き、国際社会の水面下で起こっていることを見極めなければならないのです。

以上をまとめると、プレモダンの精神をもって、モダンをリサイクルするということです。

歴史への向き合い方も、私たちはイギリスに学ばなければいけません。本書で何度か紹介したとおり、イギリスの歴史教科書は過去の過ちをふまえて、歴史には国家によって、そして民族によって複数の見方があることを、徹底して教えこもうとしていました。

私たちもまた、歴史は物語であるという原点に立ち返る必要があります。

立場や見方が異なれば、歴史=物語は異なる。世界には複数の歴史がある。そのことを自覚したうえで、よき物語を賑いで、伝えること。

そして、歴史が複数あることを知るためには、アナロジーの力を使わなければいけない。「見えない世界」へのセンスを磨くためには、アナロジカルに考えないといけない。

近代の宗教である資本主義やナショナリズムに殺されないために、私たちはアナロジーを熟知して、歴史を物語る理性を鍛えあげていかなければならないのです。

共同体感覚

2015年01月24日 | 3.社会
『アドラー〝実践〟講義』より あなたが幸せに生きるためにはどうすればいいのか--共同体感覚幸せに生きるためにはどうすればいいのか

共同体感覚とはどんな「感覚」なのか

 共同体感覚の「共同体」というのは、究極的には[未来の社会]というような抽象的な概念であると同時に、日常的には「目の前にいる他者とどう付き合っていくか」という具体的な行動であるということがわかりました。では、共同体感覚があるときに感じる「感覚」とはどんな感覚なのでしょうか。共同体感覚をさらにわけて考えてみるとすれば、自己受容、信頼、所属、貢献の4つの感覚からなっていると考えられます(図参照)。

 「自己受容」の感覚とは、その共同体の中でありのままの自分でいられるという感覚です。自分を飾ったり、偽ったりすることなく、そのままの自分でいていいと感じることです。自己受容の感覚があまり持てないとすれば、その共同体の中で自分か無理をしたり、背伸びをしていると感じることがあるかもしれません。

 「信頼」の感覚とは、まわりの人たちに安心して任せることができるという感覚です。まわりの人に頼ることができるという感覚です。もしこの感覚が持てないとすれば、その共同体の中で自分一人だけががんばっている、がんばらなければやっていけないという状況かもしれません。

 「所属」の感覚とは、その共同体に自分が所属していること、もっと具体的にいえば、その中に自分の「居場所」があるという感覚です。その共同体の中で、安心して自分の居場所にいられるという感覚です。家族の中でも、友人グループの中でも、職場でも、自分の居心地が悪く感じられたり、居場所がないと感じられるならば、この所属の感覚ができていないということです。所属の感覚がなければ、自分が仲間はずれになっていると感じるでしょう。

 「貢献」の感覚とは、自分がまわりの人の役に立つことができるという感覚です。自分が持っている能力を使って、その共同体に貢献できるという感覚です。その共同体での所属の感覚を持っているとしても、貢献の感覚があまりないとすれば、自分が他の人の足を引っ張っているのではないか、あるいは重荷になっているのではないかと感じることがあるかもしれません。

 以上の4つの感覚のうち、自己受容と貢献を「私には能力がある」という感覚、所属と信頼を「人々は仲間だ」という感覚、とまとめることができます。その共同体の中で、自分の能力を使って、まわりの人たちの役に立ち、貢献することができること、そうすることでありのままの自分でいられることが「私には能力がある」という感覚を生み出します。また、まわりの人たちが自分の仲間であり、信頼して任せることができることが「人々は仲間だ」という感覚を生み出します。この2つの感覚を自然に感じられることが共同体感覚を持っていることだといえるでしょう。

 こうしてみると、共同体感覚は生まれつきのものではなく、日常的に努力し、練習することで徐々に育てていかなければならないことだということがわかります。

共同体感覚を育てるにはどうすればいいか

 人は共同体の中で、いつでも自分の居場所、つまり所属を求めています。一人では生きていけないことを知っているので所属を求めるのです。人々の行為は、すべて最終目的として所属を目指しているのだと考えると、複雑に見える他者の行為も自分の行為もシンプルに見えてくるでしょう。それが、一見複雑に見えるのは、人それぞれのライフスタイルで、所属を目指そうとするからです。ある人は、主導権を握ることによって所属を果たそうとしますし、また別の人は共同体の中の雰囲気を良いものにしようと努力することで所属を果たそうとします。目的はひとつですけれども、その果たし方は人によっていろいろなのです。もし、自分にしか通用しない考えで所属を目指そうとすると、まわりの人からは不適切な行動としてみられるでしょう。自分だけに通用する考え方を「私的論理」と呼びます。共同体感覚を育てる努力というのは、各自が持っている私的論理を見つけ出すことによって、それを共同体のメンバーが共有できる「共通感覚」へと変換していくことです。そのためには、自分がこのように行動することは、いったい他の人にとってはどういうことになるのか、ということをいつも想像しながら決めていくことです。そう心がけることで共通感覚を身につけていくことができるでしょう。

 自分のことだけを考えると、「私利私欲」になります。私利私欲を追求することは、自分自身の生存のためにはいいことです。しかし、同時に、それがまわりの人たちにとってどういうことになるのか、ということを少しずつ考えていくことです。それが自分の共同体感覚を育てていく方法です。このように、共同体感覚を育てていくことが、他者とのよい関係を作り、最終的には幸せにつながります。まわりのことを考えないで、私利私欲を追求すれば、自分を孤立させることになります。そうなると所属を果たせないことなります。所属を果たせなければ、幸せを感じることはないでしょう。

ドイツの挑戦と課題

2015年01月23日 | 4.歴史
『核を乗り越える』より

ドイツの環境問題への取り組みは二つの理由から来ている。一つは、温室効果ガスにより地球温暖化が世界的な問題になっているというのに、ドイツでは主要な電力の生産を質の悪い褐炭の火力発電に頼っているため、ことのほか温室効果ガスを排出していることへの反省(罪悪感)である。褐炭は国内で多く産出するため値段が安く、そう簡単には止められない。安い電力と地球環境問題の葛藤があったのだ。もう一つは反原発のうねりである。ドイツでは早くも一九六一年に(日本より一〇年早い)商業用原発が送電を開始し、その後より大きい出力の原発を建設しており、世界的に見ても原発先進国なのである。それだけに原発への反発も強くあった。特に、ドイツは地方分権を重視する国であり、地元が強く反対すれば地方自治体(州政府)としても強行し辛くなる。実際、地元の反対で原発の建設計画が中止になることもあった。また、メディアも原発の安全性や核廃棄物問題やエネルギー政策について積極的に報道し、安全神話を振りまくことがなかったこともある。一九七九年にスリーマイル島原発事故が起こって以来、社会運動としての反原発運動が活性化したのである。

そのような状況の中、一九八〇年に緑の党が結成され、環境への負荷を最小限にするエコロジーを中心に据えて、反原発路線を全面的に打ち出した。一九九六年に起きたチェルノブイリ原発事故によって、現実に放射能によって国土が汚染されたこともあり、原発を拒否する勢力として存在感を増していったのである。そして一九九八年に緑の党は六・七%の得票率を確保してシュレーダーが率いるSPD(社会民主党)と連立政権を組み、「脱原子力合意」を発表した。これによると、原子炉の運転期間を最大三二年間に限り、当時一九基の原発の総発電量に上限を設け、原発の新設を禁止したのである。こうして脱原発の方向が強く打ち出されることになった。

このようなドイツ国内の反原発の動きとは別に、ヨーロッパ連合(EU)としての動きがドイツのエネルギー政策に大きく影響したことも述べておかねばならない。一九九八年にEUの指令として、電力会社の地域独占を廃止して電力の自由化に踏み切ったことである。これによって大手電力会社の電力線を他社が使うことを認めるようになり、一般家庭は電力会社を自由に選べるようになったのだ。そしてドイツの電力取引市場が開設され、電力料金も自由競争にさらされるようになった(しかし、最初は電力線を持つ会社が高い託送料金を課したために値段はあまり下がらなかったのだが、後に送電と発電会社の完全分離によって改善された)。その結果として電力料金はいったん下がったのだが、後に述べるような事情で比較的高くなっているのが問題となっている。

もう一つ連立政権が行なった重要な政策に、二〇〇〇年に成立した「再生可能エネルギーに優先権を与えるための法律」で、送電業者は水力・太陽光・地熱・廃棄物ガス・バイオマスなどのエコ電力の送電網に取り込まねばならない(売りたい人がいれば優先的に法律で決めた固定価格で引き取り、電力系統に流し込まねばならない)としたのだ。事実上の再生可能エネルギーの全量買取制で、価格は二〇年間固定することになった。これによって政府が法律で再生可能エネルギー発電への投資回収を保証することになり、急速に普及したのである(日本では、FITの条項に「再生可能エネルギーが多くなって送電線がパンクすると予想されるときは、接続を拒否することができる」があるのと大きな違いである)。

以上のように、電力の自由化・発送電分離と再生可能エネルギーの全量買取制度の二本の柱によって、ドイツでは急速に再生可能エネルギーの普及が進み、原発への依存度が下がったのである。といっても、この動きがスムーズに進んだわけではない。一つは電力業界や産業界の強い圧力があり、二〇〇九年にCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)とFDP(自由民主党)が連立した保守中道政権(メルケル首相)は、二〇一〇年に温室効果ガスの排出量を減らすために、再生可能エネルギーの増加とともに脱原子力合意に大幅な修正(原子炉の稼働を平均二七年間延長する)を加えたのである。原発は二酸化炭素を出さず、電力料金の増額を抑えられるという電力会社の主張をそのまま受け入れたのだ。

さらに、二〇〇〇年と二〇一〇年とを比べてみると、ドイツにおける電力料金はなんと七〇%もの増加率になっており、税金(付加価値税、再生可能エネルギーヘの助成金、環境税、送電柱の道路使用料など)が八四・ニ%増えている。特に再生可能エネルギーの助成金がI〇倍にもなったことが目立つ。電力料金が大幅に上昇し、そのかなりの部分が再生可能エネルギーの全量買取のためのコストであることがわかる。ドイツでは高い電力料金と引き換えに脱原発と再生可能エネルギーの普及を図っていることになる。

二〇一一年の3・11で福島原発の過酷事故が起こるや、メルケル首相は三月一五日には一九八○年以前に運転を始めた(つまり運転期間が三一年を超える)七基の原子炉を即時停止させた。原子力のリスクの大きさを深く認識したのである。そして二つの委員会を設置して、将来に対する提言を求めた。一つは「原子炉安全委員会」で、残る一七基の原発すべてについてどの程度の耐久性を持つかを調べさせた。原発の安全性への確信を得ようとしたのだろう。実際、この委員会は「ドイツの原発は福島第一原発より高い安全措置が講じられている」と答申している。しかし、メルケル首相はこの委員会の答申を採用せず、もう一つの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の提言である、コ刻も早く原発を廃止し、よりリスクが少ないエネルギーによって代替すべきである」と述べた答申を採用することにした。そして、七基の原子炉に加えてトラブルで停止していた原発八基を即時に廃炉とし、残る九基を二○二二年一二月三一日までに廃炉手続きをすることを連邦議会で決定した(議員の八三%が賛成)。同時に、再生可能エネルギーの割合を二〇一一年一七%であったものを、二〇一三年二〇%、二〇二〇年三五%、二〇五〇年八〇%とするという高い目標を設定したのであった。

以上のようなドイツにおける脱原発と再生可能エネルギーヘの移行路線には、ドイツの人々の環境問題への強い関心と経済よりエコを大事にしようという選択が根底にあり(国民性の問題)、それとともに地続きのヨーロッパ大陸であることの地理性(電力の融通を行なうのが普通である)とEUとして統合していくための方針(EU指令)という国際性の問題も重要な要素であることがわかる。地下資源文明が環境容量の有限性によって壁にぶつかっていると認識し、再生可能エネルギーヘの移行という地上資源文明への転換を図ろうとしていると見倣すことができるのではないだろうか。とはいえ、フランスの原発への依存率は七〇%を超えており(二〇二〇年には五〇%まで下げると言っているが)、なぜ隣国同士のドイツとフランスでこのような大きな差異が生じているのか、研究する価値があると思われる。

アメリカヘ

2015年01月23日 | 4.歴史
『航海の歴史』より

19世紀までに、海路での移住は新しい概念ではなくなっていたが、ヨーロッパから合衆国への大量移住は、それまでには見られないほどの規模であった。1850年代は英国とアイルランドからの移住が最盛期を迎え、およそ170万人のうち100万人が合衆国、約50万人がカナダ、残りは主にオーストラリアヘ向かった。他のヨーロッパ諸国もすぐに続き、250万人のドイツ人と50万以上のイタリア人が1871年から1905年の間に合衆国へ到着した。1892年以降は多くの移民がニューヨークのエリス島にある有名な移民局により審査された。

莫大な数にのぼるこれらの民衆は、さまざまな理由--好奇心、大望、あるいはひどい貧困--から長く厳しい航程を耐えた。非常に多くの人々が新しい生活を始めるために海を渡った。中にはかろうじて往きの航路の費用を捻出し、過酷な条件で旅をした者もおり、特に1845年から1852年にかけてアイルランドで起こったひどい飢饉の時代がそうだった。ジャガイモ凋委病の発生の結果、アイルランドは飢饉と病気で荒廃した。100万人が死亡し、移住した人の数も同薮にのぼったと考えられている。移住する費用を地主に払ってもらった者や、自分自身の運賃を払うためにお金をかき集めた者もいた。時には、そうした船に乗り込んだ旅人が、自分たちが逃げ出してきたところよりもつらい試練に直面することもあった。

アイルランド人移民ロバート・ホワイトは幸運にもアメリカ行きの船室船客の切符を購入するだけの金を持っていた。他の移民の大半は「スティーリジ」(一番安い船室、もともとは船の操舵機近くに位置していたためそう呼ばれるようになった)のぞっとするような環境に置かれた。とはいえ、ホワイトの旅でさえ贅沢とは程遠く、彼は他の乗客と多くの困難を分かち合わねばならなかった。彼の記録によると、1847年5月30日、生まれ故郷に「最後の足跡」を残すと、広人な大西洋の反対側に彼を運ぽうとしているプリッグ(2本マストの横帆船)まで1艘のボートで連れて行かれた。彼か士官たちと一緒に生活することになる船室に連れて行かれると、「そこはおよそ10フィート〔約3m〕四方で天井はひどく低く、船長がまっすぐに立つことのできる場所だけが天窓の下にあった……天井は無数の海図で飾られていた……天窓のまん中から垂れ下がった鳥かごには1羽の不幸せなカナリアがいた」。船長--白髪交じりの無愛想な男--に会った時、ホワイトは「粗野な船乗りの男らしい威厳を称賛するよう強いられている」と感じた。船長の妻--「女主人」として有名だった--とも会ったが、「愛想のよい」顔つきで銀のメガネをかけていた彼女は親切で、夫の粗野な態皮をいくぶんか川め介わせた。水人が錨を上げ、トップスルが広げられると、ブリッグはダブリン湾を滑るように出航し、南から吹く凧に乗ってノース海峡に入った。その晩、ベルファスト南部のモーン山地沖合で甲板のハンモックにもたれていたホワイトは、うなり声のような音を耳にして驚いた。

「私は飛び上がり、困惑しながら奇妙な音の原因を捜した……なんと! 隅に一人の男がうずくまっていた……」。男は歓迎されなかった。ホワイトによれば「船員はただちに「密航者」と断定し、彼を揺さぶってまっすぐ立たせた。はしごを上るよう命じ、その貧しい哀れな男をひと蹴りして促した。ぼろを着たその男は3日間隠れていたことを告白したので、彼の運命を決めるため、怒り狂った船長の前に連れて行かれた。「……船長は、船から放り出すべきだと断言し、さっさと結論を出した。哀れな男は船長の怒りにひどく困惑し、熱心に許しを求めた」。結局船長は態度を軟化させ、船が通過する最初の陸地でその密航者を降ろすことを認めた。エまだましな方を選んだので、不運な密航者はこの決定にほっとしただろう。乗組員が他にも密航者がいないか探している間、乗客が甲板に集められたが、ホワイトは彼らのありさまに驚いた、「これまで目にしたことがないくらい雑多な群衆。赤ん坊から弱々しい老人やしわくちやのお婆さんまで、あらゆる年齢層の人間……ある老人など、ひどく衰弱していたため、肺結核の末期ではないかと思われた」。

食べ物は110人の乗客と乗組員にとって重要な関心事であった。最初のうちは1週間分の[ひき割り粉かパン]が一度にまとめて配られていたが、半ば飢えた移民は「ほとんど先のことを考えずにそれらを消費してしまった」ため、船長が毎日1日分ずつ食料を支給することにした。彼らは甲板で必要最低限の状況で自ら調理しなければならなかった。乗客の炊事炉は、前部甲板の両側で果てしない大騒ぎを提供し、時には騒がしいお祭り騒ぎ、時には喧嘩騒ぎ……朝から晩まで男や女や子ともの集団がまわりにいた。あらゆる鍋でオートミールを作っている者がいたり、あり合わせの鉄板でケーキを焼く者もいた。そうしたケーキは通常5cmほとの厚さで、焼かれた時はいつも、煙におおわれた焦げた表面に包まれているが、実のところ芯は生焼けである。

チエ・ゲバラの広島訪問

2015年01月23日 | 4.歴史
『戦争報道論』より グローバルとローカルの回路 さまざまな「九・一一」

米軍による原爆投下が人類史上最大の悲劇であることは、いまだにそれを正当化する米国をのぞけば世界で異論はない。ふたたびラテンアメリカの見方を例にあげると、キューバ革命の英雄チエ・ゲバラの広島訪問のときの言葉がある。

一九五九年七月、新生キューバの通商使節団を率いて来日したゲバラは、東京や阪神の企業を視察したり、財界人の歓迎パーティーに出席していたが、神戸に滞在中、「他の日程をすべて犠牲にしても原爆慰霊碑に献花したい」といって急きょ予定を変更し、広島にむかった。広島では官庁訪問は遠慮し、慰霊碑に直行したゲバラは、真夏の午後、花輪をささげ慰霊碑に参拝した。このあと資料館を一時間あまり見学し、「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて腹が立たないのか」と案内役の県庁職員に話しかけた。

それから四四年後の二〇〇三年三月には、ゲバラの盟友フィデル・カストロ国家評議会議長が広島を訪れた。マレーシアで開かれた非同盟諸国会議に出席した帰途の非公式来日だったが、短い滞在期日のほぼ半分を広島訪問にあてた。原爆慰霊碑に献花し資料館を見学した同議長は「まったく罪のない広島、長崎の犠牲者に哀悼の意を表することは長年の願いだった」と述べた。二〇〇八年五月には、ゲバラの娘で小児科医として医療支援に取り組むアレイダ・ゲバラが広島にやって来た。彼女は、原爆資料館で被爆者の写真や焼け焦げた子どもたちの服に見入り、ときに涙を流して前田耕一郎館長の説明を聞いた。慰霊碑に花を手向けたあと、秋葉忠利巾長と公談し「人間が生みだす悲劇と、そこから立ち上がる人間の力を感じた。広島のメッセージをよりよい世界の実現につなげてほしい」と語った。

広島、長崎へのこうした思いは、キューバの革命家やその娘だけのものではない。ラテンアメリカの国々で多くのジャーナリストや芸術家たちがヒロシマとナガサキについて語りつづけている。

ゲバラは来日のさい、予定外の広島訪問は強行しながら、東京のキューバ大使館と日本外務省が組んでいた第二次大戦で死んだ無名戦士の墓に詣でる計画は拒否した。「行かない。数百万のアジア人を殺した帝国主義の軍隊じゃないか。絶対に行かない。行きたいのは広島だ。アメリカ人が一〇万人の日本人を殺した場所だ」とゲバラは言った。彼が、米軍の日本への原爆投下をアジアの人びとがどのように受け止めているかを知っていたかどうかはわからないが、彼の日本での訪問先の選択はラテンアメリカの革命家が日本の加害性と被害性を明快に理解していたことを示している。

二〇一三年三月にはドイツから、ドレスデン空襲の記憶継承活動をおこなっている「1945年2月13日協会」のマティアス・ノイツナーが来日した。同国東部の古都ドレスデンは第二次大戦末期のこの日から一五日にかけて連合軍(英米軍)による無差別爆撃をうけ、二万五〇〇〇人の市民が犠牲となり、市中心部は廃墟となった。ノイツナーは戦後の一九六〇年生まれだが、この空襲の証言記録をまとめ体験を次世代に語り継ぐために、一九八七年に同協会を設立した。来日は、和・ピースリングの招きによるもので、彼は東京、大阪で「空襲体験をどう継承するか」について講演し、さまざまな世代の参加者と意見交換した。東京での講演内容を加藤が日刊ベリタに寄稿した

ノイツナーは、ドレスデン空襲の実態について語ったあと、この都市がドイツだけでなくヨーロッパ全体にとって重要な意味を持つ記憶の場となっていった過程を説明した。ナチス時代は連合軍非難のシンボル、冷戦時代はソ連による対米批判のプロパガンダに利用されたが、一九六〇年代の終わりころから、そうした宣伝の道具から脱して、ドレスデンはゲルニカ、コペントリー(一九四〇年一一月にドイツ軍の爆撃を受けた英国中部の産業都市)、ヒロシマなどと名を連ねる、国際的な意味を持ち始めるようになった。それは、「世界の平和を達成し、人権をより強固なものにするために、国を超えて、共に過去に対して取り組んでいくことが必要だ」という認識が各国市民に強まってきたからだ、とノイツナーは指摘する。ドイツでは、「ドイツ人のナチ犯罪、虐殺と戦争の罪責を考慮しながら、ドイツ人が受けた被害、空襲被害について思い起こすこと、記憶することができるのか、できるとすればどのように可能なのか」をめぐって、公共の場で議論が巻き起こった。「1945年2月8日協会」はそうした動きのなかで誕生した。

同協会は、高齢の戦争体験世代と若い世代が記憶の継承のために共同の作業をすると同時に、この数年間は、平和や人権について活動している世界中の人々との活発な交流を行ってきた。戦後世代のノイツナーは「ドレスデンは未来に対する様々な挑戦を受けている論争的な記憶の場であることには変わりない」と述べ、「私たちの過去のなかに、重要な考えるための材料や資源、社会参加の経験を見出すことができると信じている」と日本の聴衆にうったえた。そのために国境を越えで、人びとが協力し合うことが欠かせない。「日本に呼んでいただき、感謝している。日本で経験しかことや友好的な気持ちをドレスデンに持って帰りたいと思う」と、彼は講演をむすんだ。

死は<今>がなくなるだけ

2015年01月23日 | 1.私
死は<今>がなくなるだけ

 死は<今>がなくなるだけ。過去と未来は残ります

μとの対話

 他者の存在を前提としている。昨日からイヤな感じになっている。もう一人の他者として、μがいるんだ。そのために、未唯への日記に戻らないと。

 未唯への手紙ともう一人の自分としてのμ。そして、絶対的な存在。これらを他者とします。相対的な存在は外なる世界です。

 語る相手はもう一人の自分のμしかいない。そして、それがつながる相手が出てくるのを、μと一緒に待ちます。それが孤独と孤立、存在と無からの帰結です。だけど、絶対的な存在が居る限りは、どうにか、世界を信じることができます。

 今、間食が止まらない。これを少なくするために、μとの対話を強めます。元々の未唯への手紙の本来の意味です。ウィットゲンシュタイン、池田晶子ともつなげてくれた。

言葉の限界を打破

 言葉の限界を破るためにも、位相構造を使います。トポロジーで突破する。これは、最初の部品表でやってきたことです。馴染みのあることです。

 言葉としてまとめることに汲々としない。やるだけのことはやる。そこで表現しても、誰に渡すかというと、内なる世界の他者です。世人ではない。

 だから、ぶら下げているプラカードも、退社でプリンターがダメになるから、落とします。

他者の位置づけ

 Iさんは単なる客とスタッフだけではなく、存在と認めてくれる人と位置づけられました。そこで待っていてくれる人。

 「こんなことを考えている僕ってすごいでしょう」ともう一人の自分だけに求めます。他者には承認を求めない。考えるための原動力です。考えて、結論までの力です。私のすべてを知っている、私の世界の住人であるμに求めます。これは外なる世界の他者ではない。だから、矛盾させない。

 NAWはどちらかというと、覗き込む人です。Iさんは待っていてくれる人。パートナーは待つ人であり、望む人です。奥さんはよく分かりません。永遠に謎です。

未唯への手紙

 そのために、30年間、未唯への手紙を書いてきたんです。未唯が生まれる前から書き始めた。ブログにしてのは、10年前からです。それだけでも、一億文字あります。

行動するのは他者

 図書館にしても、概念的な図書館をどうするかだけでなく、具体的にどう動かしていくのか。そのために図書館コミュニティをどう作っていくのか。それを自分がやってはダメです。

 行動するのは他者です。彼らが食べていけるようにすること。大きな枠組みで変えていけるのを意識すること。販売店という領域で、それの取っ掛かりをつけました。グローバルの領域からローカルを若手行きました。後はそれぞれの人に任せます。そこまでの距離だけで、そこにいくしかない。その時に、メーカーでシステムを作っている気になっている人は、一度外に置きます。意味を持たない。

 本当に、お客様とどうつながろうか、それによって自分たちをいかに変えようかという人たちに渡していきます。併せて、メーカーの人たちには、そこにいることの意味をハッキリさせていく。中からどう変えていくのか。自分たちが新しい世界をどう作っていくのか。商品に固執するなら、それがどういう意味を持つのか。その為に、自分たちは居るんだということを自覚してもらって、行動してもらう。

私のミッション

 メーカーからの力はエネルギーになります。何しろ、金を使えるし、人もシステムも使えます。お客様と一緒になって、事例を作っていって、お客様を変えていく。そして、日本全体を変えることができます。それが私の狙ったことです。私のミッションです。

朝のIさん 変則勤務

 「ご無沙汰していました」「緊張しているんですよ。四日ぶりぐらいで。頑張ります」「三日間、スターバックスは来ていますか」「よかったです。コーヒー、どうしているのかなと思って」「入って、誰とも話をしてなかったもんで」

 「今日は1時まで居るんですよ」「月曜日は9時から2時まで何ですよ」「2時から3時までは店長と」

 「火曜日は休みで、水曜日は朝から入っていて」「そんな感じでした。すごく変則で、覚えきれていないんですよ」「9時からというのも珍しいんですよ」2月の一週目もそんなに入っていなかったので」「見ておきます」

昼のIさん もう一人の自分のμさんがこんにちは

 「お帰りなさい」「こんにちは」「もう一人のもうさんがここに来ている」「だから、あいさつしたんですね。こんにちは」

 「ケニアなんですよ。ロードだとケニアはあまりないんですけどね」

 「今日は仕事は?」「お疲れ様でした。このまま、帰られるんですね」「火曜日が休みです」「水曜日が7時から」「その次の日が11時からです。はい」「夜の6時とかまで居るんです」

 (NAWさんを連れてこようかな)「ぜひぜひ」

最終兵器、彼女

 もう一人の自分のμには、最終兵器という名前があります。私の最終兵器です。しかし、眠たい。最終兵器であることをどう示していくのか。

 思い切りオープンで行くと、それしかないでしょう。自分ではないのだから。