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一年後に免許停止

一年後に免許停止
 一年後に免許停止になったら、本を借りるのを停止させよう。

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歴史的存在としての「私」の形成とはなにか

『生命の発達学』より
チョムスキーの登場
 20世紀後半の現代でも、発達の仮説は支持されたり棄却されたりしている。そのいくつかをみてみる。まず瞬時のうちに学界の多数派を獲得した学者の提案をみよう。マサチューセッツ工科大学のノーム・チョムスキー(1928-)は哲学者で、社会運動家でもある。彼は言語学の分野で何万とあるさまざまな言語の背後には普遍的文法構造があるという仮説を提唱した。普遍的構造はどの子どもにも生得的に備わっているので、極端に複雑な言語のルールを就学前に獲得してしまう。チョムスキー自身が、自分の普遍文法の理論はプラトンのイデア論の言語への適用であると述べている。
 この理論は当時一世を風靡していた仮説の対立仮説であった。それまでの学者は「子どもは真似をして言語を獲得する」と考えていた。それまでの学者の代表格がハーヴァード大学の世界的に有名な、しかも世界でもっとも尊敬された学者、スキナーである。彼は、『言語学習』という大著を著すことになっていた。その直前にチョムスキーはその原稿を手に入れ、書評のかたちで、実に簡単な議論をした。いわゆる科学的方法にもとづかない純粋な論理分析で、「本や新聞のなかの↓文をとって、それと同じ文に出会う確率はなにか、Oである」、つまり人間の発する文は常に創造であり、真似では説明がつかない、という議論をした。この書評がでるや、学者の多数派は説得された。スキナーが反論をしなかったこともあり、スキナー流の言語発達研究をする者はいなくなってしまった。この現象で注目すべきは、ひとりの天才学者が論理的分析だけで多数派を説得した点である。科学的方法を使わなくても、思考実験だけで多数派の説得が可能なのである。
 この多数派獲得は言語の発達の分野にとどまらず、それまで優性であった行動主義にもとづく心理学の衰退と、それに対抗する認知心理学の形成をうながした。行動主義はワトソンとスキナーの貢献により、1920年代から1950年代まで学界の多数派を形成していた。「刺激と反応の連鎖つまり学習によって、人格形成・知的発達がおこる」とする仮説の検証が至るところでおこなわれていたのであった。
歴史的存在としての「私」の形成とはなにか
 受精からはじまる成長と発達のすがたを語るときには、いたるところで本章で展望した科学的な主要な仮説にふれざるをえない。それぞれの仮説は、将来構築されるであろう発達学の理論の部分を構成するはずである。発達のはじめに、「私」はどこにいたのか。前成説ではピタゴラス版でもハルトゼーカー版でも遺伝子決定説版でも同しように、「私」は初めからあった。前二者では父親の体液のなかに、遺伝子決定説版では父母の遺伝子の合体のなかにあったとする。その対立仮説の後成説では、「私」は初めからあったのではなく、あとから徐々に形成されたとする。古典的後成説では、その過程の説明に困難があった。いかに分化がおこるのか、遺伝子発現の仕組みが不明だった段階では、適切な説明ができない。
 エピジェネティックスの仮説では、その形成される過程を遺伝子の発現過程としてとらえる。それはわれわれの体の構成と心の構成を歴史的にみることであり、われわれの特性は個人のなかで変化するばかりでなく、歴史を反映し、世代ごとに新たな特性をつくりあげる。あとから徐々に形成されるというのは、歴史的存在としての「私」が新しい環境のなかで新たな自己を形成することである。アナクサマンドロスの進化学でもラマルクの進化学でもダーウィンの進化学でも、この歴史性は強調されている。
 歴史的存在としての「私」の形成の過程でもととなるのは、遺伝子の発現である。発現の過程では、自己の自発的行為(ラマルク、ダーウィン、ルソー、ピアジェ、スキナーなどの仮説)、環境との偶然の出会い(ラマルク、ダーウィン、パブロフ、スキナー、ワトソン、シャイエ、バルテスなどの仮説)、象徴機能の獲得(ピアジェ、チョムスキー、ヴィゴツキーなどの仮説)、初期体験(ロック、ルソー、フロイト、ローレンツなどの仮説)、文化との出会い(ヴィゴツキー)、性意識(フロイト)、家族内葛藤(フロイト)、飢餓、戦争体験、出生前の薬禍、その他さまざまな時代に特有な体験(シャイエ、バルテス)が役割を演ずる。同じ環境との出会いをしても、発達の時期が異なれば同じ効果を生まない。同じ体験をしても、それは生命体のその時々にもっている特性によって異なった効果を生む。初期経験の重要性とともに、偶然の出会い、つまりタイミングの重要性が、新しい発達学の鍵となる。
 ギリシャ哲学からはじまる経験論と観念論の哲学的伝統では、構成論の出現である種の統合をみた。発達学では、個人の経験と個人が生命体としてもつ特性の出会いを最重要視するエピジェネティックスがその統合の役を演じる。21世紀にわれわれが遭遇する世界は歴史の結果であると、誰もが理解している。必ずしも誰もが理解しないのは、われわれ自身、つまり生命体としての「私」もまた、歴史の結果であるという点である。なんども言及したように、生命体としての「私」は、受精以来さまざまな文化的社会的環境に遭遇した歴史的存在であるばかりでなく、「私」の両親、祖父母、曾祖父母の生活環境を背負った歴史的存在でもある。歴史的存在である「私」が歴史のなかで自分を形成する過程を記述するのが発達学の課題である。「変化の学」としての発達学は、歴史を最大限にとりいれることと環境との出会いを重視することで、21世紀の発達学となる。「私」は受精のときにあったのではなく、受精までの歴史を背負いながら、環境との出会いを通じて、不断に自らを構成する存在である。

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アウトバーンの歴史 18世紀末から第二次世界大戦終了まで

『アウトバーンの歴史』より 18世紀末から第二次世界大戦終了まで
18世紀末から第一次世界大戦終了まで
 18世紀末の道路の状況は文豪ゲーテが、ザクセン・ワイマール・アイゼナハ公国の特設の道路建設監督官として道路建設に携わった時の叙述から、その整備が遅々として進まなかったことがわかる。また、国家として政策面から見ると1870年に成立したドイツ帝国において、その責任中央官庁が機能していなかった。1909年には自動車の通行に関する法律が制定された。その内容、構造は現在の道路交通法規に連なるものとなっている。
第一次世界大戦終了後ヒトラーの政権掌握まで
 第一次世界大戦(1914-1918)でドイツ帝国は崩壊し、いわゆるワイマ一ル共和国の時代に入る。ワイマール憲法(1919)は中央権力を強化する一方で、道路建設について国と州とに権限が一部競合していたが、帝国はこの権限を行使しなかった。
 こうしたなかで、自動車が増加する時代に入り、1921年には自動車道路実験線(AVUS)が建設された。道路建設連合会や自動車道路研究会(STUFA)といった道路関係団体や道路研究団体が設立され、20、000~30、000kmに及ぶ長距離あるいは幹線道路網の構想が出された。これは後に帝国交通省が策定する長距離道路路線網の礎となるものであった。ほかにも構想があり、そのうちハフラバ(HaFraBa:ハンザ諸都市-フランクフルトーバーゼル自動車道準備協会)が策定したものが有名である。1924年に帝国交通省に自動車に関する審議会が設置された。この時代になると、交通量の計測や技術的試験研究にも力が注がれるようになり、1925年以降には道路設計、建設技術的や契約に関する基本的事項の検討が急速に進んでいった。1926年には、工事請負規則が制定された。この規則は1952年まで変更されることはなかった。1929年にはドイツで初めての高速道路(アウトバーン)計画が着手され1932年に開通した。様々な技術的検討がなされたが、コンクリート舗装に関するものが重要なものであった。後日アウトバーン建設の土台となったコンクリート舗装計画、施工管理(品質管理)が進んだ。1930年には、帝国長距離道路網整備路線図が発表された。
ヒトラーの政権掌握以降第二次世界大戦終了まで
 1933年にはヒトラーが政権を掌握した。原著では、ただの一度もヒトラーの名は現れない。「1933年に新たに権力を手にした者」と呼び、アウトバーンの歴史を都合よく利用したとして非難している。
 ドイツの最初のアウトバーンは、後の西ドイツ首相アデナウアーがケルン市長時代に建設した。そして、本書の記述からわかるように、道路に関する研究はヒトラーが政権を掌握する以前に進められてきたのであって、こうした積み重ねなくしては、突然アウトバーンができるわけはないのである。
 とはいえ、1933年11月『全国道路総監』という新しい帝国の最高位の道路担当組織が創設され、総監は、線形設定や帝国アウトバーンの道路構造の統一性がもたらされるよう事務処理を行ったという。そこで、他国と比較しても早く指示書等が出され、『帝国アウトバーンの車線舗装に関する指針』も相当早く出されている。1934年、延長6、900kmの帝国アウトバーンのネットワークが発表され、早くも1936年末にはこのうちの1、000kmを超える道路が完成した。1938年には延長は3、044kmとなっており、平均して年間760kmという驚異的ともいえる速さで延伸している。これは、どう見てもヒトラーの強力な後押しがあってのことであろう。また、1937年に出された『州道の整備に関する指針(暫定版)RAL』は、設計に関する項目のすべてが網羅されており、設計技術者のバイブルとなり、第二次世界大戦後のかなり長期間にわたって変らないままであった。
 道路総監は国内道路網を4つの等級に分けた。これはそれぞれの道路の建設費負担者をも定めるもので、この基本的構造は現行法に引き継がれている。
 さらに、この当時から環境保全と道路建設とをあわせて検討していくことが考えられていた点も注目に値する。これは自動車道路研究会に負うところが多く、同研究会にはかなり早い時期から衛生委員会が設けられ、「砕石道路」の埃の問題、汚物、騒音、空気の浄化といった問題に取り組んでいた。1930年、40年代には担当官庁ではすでに大規模工事の際の景観問題にも着目しており、この時期に設立された「道路研究会」は「景観形成」に関する委員会を設置している。こうして、景観等に関する知見も集積され、文書に取りまとめられ基準化された。工事段階での現存植物の保全、鳥類保護に資する植林手法などもテーマであった。以上の点は、振り返りに値するものである。
 以上の史実を素直に見る限り、ヒトラー出現以前に道路に関する研究は着実に進められており、これを土台にヒトラーが強力に建設を推進したとみることができよう。また、ヒトラー時代における研究は、上述のRALや環境・景観等に関する研究から見られるように、あるいは戦後もその使用に耐え、あるいは戦後の政策の方向にさえ目が向けられたきわめて先進的なものであったと言えるかもしれない。また、この時期に道路法制上の基礎的事項も定められ、戦後に繋がっていったことも忘れてはならないであろう。
第二次世界大戦終了後東西国境開放前まで
 戦後西ド怖ツの状況:1960年代まで
  戦後、占領軍により帝国アウトバーンの行政組織は廃止され、1949年10月に戦後の暫定的な道路担当組織が統合されて『連邦交通省』となった。長距離道路に関する行政については、連邦がすべてを所管するという形態でなく、基本法(憲法)の規定に基づいて連邦からの委託によって州が実施するというものになった。
  戦後のドイツでまず必要であったのは戦災瓦傑の撤去であった。分量は膨大でその完了には数年を要した。西ドイツが成立した1949年には、同国内にアウトバーン網の枢要部分2、100kmと後に連邦道路網となる21、800kmの道路があった。その戦災による橋梁の破壊状況はひどく、幅員5mを超える1、500余りの橋梁が破壊されていたが、1950年時点で、連邦道路の55%が通行可能になった。
  このように戦後ドイツの復興は日本とは異なり、すでにあった道路網の復旧がスタートだったのである。
  1953年には連邦長距離道路法が制定された。1957年に連邦長距離道路網の最初の整備計画(1959-1970)が策定された。これは、1952年に連邦交通省が策定した国家道路計画をほぼ踏襲するもので、3次にわたる4ヵ年計画で実施に移された。1970年末の整備計画の終了時点では、連邦アウトバーンが約4、500km、連邦道路が約32、500kmとなった。
 道路財源の確立等
  この間1955年に交通財政法、1960年に道路建設財政法が成立し道路特定財源の制度が整うことになった(ドイツでは戦前に道路特定財源が存在していたが、占領軍によって廃止された。この戦前に既に道路特定財源があり、これがいったん廃止となったということは、今までわが国では知られていなかったように思われる。連合国が廃止したというのも、いかに国力にとって交通網が重要かということの裏返しなのだろう)。
  当初の交通財政法は自動車税を財源としたが、その後の法律(改正交通財政法も含む)では鉱油税を財源としている。鉱油税から道路財源への割り当てについては、漸次引き上げられ、1966会計年度には、暖房用の油等から徴収される税収を除いて、その50%が道路工事目的に使用するものとされた(もっともこの特定財源は、1973年の予算法が道路以外の交通機関にも利用できる措置をとり、これが継続したことからこの財源は道路だけのものという性格を失った。
  1960年代初めになると、重量車両の通行が増大し舗装面の状態が悪化する一方であった2このため工事渋滞が多く発生し利用者やマスコミから批判が出るよう`になり、1963年から夏季期間(6月20日~10月10日)はアウトバーンでは補修工事は行わない。こととされた。また、工事手法として車線幅を狭めるものの車線数は確保する工事方式が採用され効果を収めた。

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