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夕食なし。5日目

今日も夕食なしですね。これで変則5日目。咳は止まらない。

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ロシア・ナショナリズム 領土に固執する民族の〝遺伝子〟

『ロシア・ナショナリズムの深層』より 領土に固執する民族の〝遺伝子〟
ロシアによる周辺諸国への干渉や領土の併合などの国際紛争の背景では、いずれの場合も「ロシアの民族主義が決定的な役割」を果たしている。しかし、それは「ソ連崩壊という政治的出来事の反動として惹き起こされた一時的現象」と見るだけでは十分とは言えない。
ロシア人が国際社会で何を考え、どのように感じ、どのように行動するかを真に理解するには彼らが生きてきた幾世紀もの過去の歴史に遡って「普遍的な思考や行動の類型とその原因」を知ることが欠かせない。
歴史体験--弱者から強者への逆転
 ロシア人を対外行動に衝き動かす最も特徴的な原動力となっているのは歴史体験を通して形成された「領土への飽くなき固執」である。
 東スラヴ族の祖先はユーラシア大陸の中央部に生きて民族の形成期に幾多の外敵から絶え間なく襲撃を受けた。ロシア人は「種の保存」本能にも似た「民族の防衛本能」を強めざるを得なかった。
 やがて周辺民族との間の力関係が逆転すると、彼らは強者の立場から周辺の異民族を征服するようになった。それは「弱者体験」の消し難い〝遺伝子〟が逆に無意識に〝強者〟の「攻撃的防御の本能」を刺激しているようにも見える。
 ロシアの歴代の政府はそれを民族や国家を防衛するための「〝防御〟としての先制攻撃あるいは国境線の拡張、緩衝地帯の確保」として説明する。さらに、この論理を飛躍させ西ヨーロッパ列強国との間に「勢力圏の分割」の密約を何度も機会あるごとに繰り返してきた。
  (「勢力圏の分割」の取り決めの実例-アレクサンドル一世、パーヴェル帝とナポレオン、ポーランド分割、スターリンと  ヒットラー、スターリンとチャーチル、米英ソのヤルタ会談など。)
 ロシアは今でこそ〝大国〟だが、国際社会で大国として際立った役割を演じるようになったのは近世以降のここ数世紀のことに過ぎない。ロシアはソ連崩壊後の今でも世界最大の領土を保有しているが、五〇〇年程遡るとフランス並みの国土の中に十数の諸公国が群雄割拠する〝普通の国〟だった。
 ロシア人の民族精神の骨格はそれよりはるかに古い古代や中世に遡って形成された。古代の東スラヴ人は森や大河の流域の平原で農耕を生業として平和な生活を営んでいた。性格も穏和で周囲から入り込む遊牧騎馬民族などの外敵には無防備に近かった。彼らはスラヴの地に来襲しては殺戮や略奪、奴隷の連行を繰り返した。
  (主な異民族の襲来--前六―三世紀にスキタイ人、前二一後二世紀にサルマト人、四世紀にフン族、六-七世紀にアヴァール人、七-八世紀にハザール人、一〇-一一世紀にペチェネグ人、一一世紀にポロヴェツ人が来襲を繰り返した。)
 年代記や周辺諸国の文献によれば、ロシアの最初の統一国家「キエフ・ルーシ」のリューリク王朝は九世紀に西方から渡来した異民族ヴァイキング(ヴァリャーグ)の一族によって建国された。
 一三世紀後半から一五世紀にかけては二世紀半にわたってモンゴルのチンギス・ハーン一族のキプチャク汗国の間接支配下に組み込まれた。この屈辱的な苦難の時代は歴史学上、特に〝タタールの頸木〟と呼ばれる。
 その頸木から解放された後、一五-一六世紀に北辺のモスクワ公国が周辺諸公を併合して中央集権の統一国家を形成した。ロシア人はその頃から徐々に弱者から強者に立場を変えて異民族に支配される側から、周辺の異民族を征服、併合する民族へと立場を逆転させていった。
 一六世紀半ば、イワン四世(雷帝)は国名を「モスクワ大公国」から「ロシア」に変えて、君主の肩書きも「大公」から「ツァーリ(皇帝)」に改めた。彼はかつてロシア人を支配したタタール人のキプチャク汗国の分家筋のカザン汗国(ヴォルガ河上流域-現タタールスタン共和国)を併合し、イスラム教徒の異民族を初めて正教徒のロシア国の中に取り込んだ。これ以後、周囲の異民族を征服する歴史が始まる。
シベリア、極東への進出
 今日のロシアの国土のほぼ三分の二にあたるシベリアと極東のほぼ全域は(局地的な軍事衝突を別とすれば)国家間の大規模な戦争をすることなく探検隊やコサック、小規模な地方部隊の働きでロシアに併合された。
 一五八〇年代にエルマークに率いられた武装集団のコサック部隊がウラル山脈の東方に進出し、一五八五年にシビリ汗国を勝手に征服、西シベリアの現チュメニ、トボリスクなどをモスクワのイワン四世に献上した。これが本格的な東進の始まりだった。
 ロシアの探検家やコサック兵はシベリアを川伝いに進んで一六三七年にはオホーツク海岸に達した。一七四一年にはロシアに仕官したデンマーク人の探検家ベーリングが北アメリカのアラスカに達した。その地にロシア国旗が掲げられ、漁業や毛皮採取の基地が築かれた。
南部での領土拡大--トルコとの戦争
 一八、一九世紀、ロマノフ王朝は西欧化による近代化政策を推進し軍事大国に発展していった。一方、南の大国オスマン・トルコ帝国は旧態依然の政治体制のまま国力が衰退し、ヨーロッパ諸国から〝病める老人〟と陰口を叩かれていた。
 壮年期の新興ロシアはこの〝病める老人〟を相手に一七世紀から一九世紀にかけて約二〇〇年間に十数回の戦争を繰り返した。その殆どの戦争で勝利し、その都度、南部の黒海北岸やバルカン半島で領土を拡大していった。
 第一次露土戦争(一七六八-七四年)後に黒海北岸の(トルコ属領だった)クリミア半島を併合し、半島の南端に黒海艦隊基地のセヴァストーポリ軍港を構築、地中海や中近東への進出の足がかりを築いた。
 その後の戦争でさらに黒海北岸や、バルカン半島南部、黒海東岸を獲得、黒海の出口にあたるボスポラス海峡の自由航行や属領ギリシャの自治拡大をトルコに認めさせた。ギリシャは後に独立を宣言した。
 ロシアはトルコ属領を次々に併合しながら東方世界の覇者になっていく。
  (主な露上戦争-一六九五-九六年。一七一〇-一二年(ロシアとスウェーデンの間の大北方戦争の一部)。一七三五-三九年。一七六八-七四年(↓「クチュクカイナルジ講和」。ドニエプル川河口、アゾフ海沿岸、クリミア半島の一部を獲得。オスマン・帝国属領内の正教徒の保護に関する保障、エーゲ海の航行の自由、賠償金の獲得)。一七八六-九二年(↓「ヤッシー講和」オチャコフ(現ウクライナ)要塞の獲得、黒海北岸のドニエストル川までの沿岸獲得、クリミア半島の併合を承認)。一八○六-一二年。一八二八―二九年(ギリシャ解放戦争↓「アドリアノープル講和」ドナウ川の沿岸部を獲得)。一八五三-五六年=〝クリミア戦争〟。一八七七-七八年(↓「サン・ステファノ講和」、「ベルリン条約」)

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イラクの女性たち 家庭内での女性の地位と処遇

『イラクの女性たち』より 戒律と暴力による女性支配
反米感情やシーア派イスラーム主義政党の支配強化の対象として女性のふるまいや服装が家の外で攻撃されるようになり、女性が伝統的な価値観を重んじざるを得なくなったことについては、すでに触れたとおりである。他方、家庭のなかでは、女性はどのような生活を送っていたのだろうか。社会で暴力が横行するなかで、家庭内では暴力から逃れて生活していたのだろうか。以下、暴力が頻発する社会環境のなかでの女性の家庭内での処遇を考察する。
貧困と抑圧の深化
 紛争中には近親者による家庭内暴力も急増することが報告されている。女性をとりまく生活環境を検証するために、フセイン政権後の経済状況および女性への暴力に関する調査データを以下にまとめる。
 2012年時点のイラクでは、人口約3000万人の23%、約700万人が貧困層(1人1日1・2ドル以下の生活)と言われている。2012年の国連の調査では、食糧支援プログラム受給世帯の40%近くを女性家長世帯が占めているという。
 紛争が続くイラクでは、未亡人の占める割合が高い。正確な数字の入手は困難ではあるが、2011年のイラク計画省および赤十字国際委員会の報告によれば2006年時点でのイラク未亡人の数は人口の約5%にあたる150万人と推定されている。そのうち女性家長の数は約100万人。バグダードだけで30万人を超えると推定されている。母子家庭で収入を得ることが困難であることを考慮すれば、2003年のイラク戦争後に増加した女性家長世帯の間に貧困が広がっていることがうかがわれる。2012年現在で、15~49歳の男性の就業率は73%であるのに比して、女性は14%以下と極端に低く、さらに女性の雇用条件の悪化も報告されている。このように、家の外での就労が女性にとっては困難な状況である。これは、必然的に婚姻している女性の夫への経済的依存度を高める。さらに、女性家長世帯では、一族もしくはそれ以外からの男性による支援に経済的依存度を高める結果になっている。
家庭内での孤立
 これまで見てきたように、フセイン政権崩壊後は、親米、「非イスラーム的」と見られれば襲撃される恐れがあり、女性は家族から家に閉じ込められがちであった。では、女性にとって家庭内は安全な場所なのだろうか。
 統計局の調査によれば、女性に対して暴力の発生場所をたずねたところ2012年の調査では、女性自身は家庭内(64・2%)と路上(63%)でほぼ同程度に暴力に抵触していると考えていることが示された。常に暴力にさらされて生活していると感じている女性が少なくないことが浮き彫りになっている。家庭内暴力に耐えきれず、家を出た結果、近隣や国内に売られるなど人身売買という新たな問題にも派生している。人身売買に関しては、第7章で詳しく述べる。
 では、女性は暴力についてどう思っているのだろうか。同じ2006年にUNICEFが行った同規模の調査によると、夫が妻に肉体的暴力を振るうことを正当であると考える女性が、結婚経験者を中心に59%を占めている。5年後の2011年に行われた同じ調査でも、50%以上の女性が夫の暴力を正当化している。正当化される場合として、夫に外出先を告げないなど自立した態度をとった場合(39%)、喧嘩をした場合(35%)、子供の世話をしない場合(35%)の3つが理由に挙げられている。2006年と2011年のいずれの調査でも、女性の教育レベルが低いほど、暴力を正当化する比率が高い傾向が見られ、貧困家庭ほど、男性からの女性に対する暴力を受け入れる傾向がある。また、男性の側でも2009年の意識調査で若年層男性の68%が女性に対する暴力は正当化されると考えていることが示されている。現在、フセイン政権時代と比較して貧困化だけでなく就学率の低下も進んでいると推定されている。そうであれば、家庭内暴力も今後また増加していく傾向にあることが容易に推定される。
社会の治安不安と家父長制
 本節で論じてきたことをまとめると以下のように言える。つまり、伝統的な家父長制の関係や宗派支配に基づく女性への暴力や抑圧が、貧困や教育の低下という環境因子によって強化され続けているという構図である。そうであるならば、女性が経済的に力をつけてこの負のスパイラルを断ち切ることが1つの改善策になるだろう。実際、イラクの人権大臣は米国の『タイム』誌とのインタビューで女性の貧困削減が女性の地位向上および人権保障のカギであることを認めている。しかし同時に、イラク社会の現状が「男性が1番の社会」であることを理由に、「男性でさえ仕事につくのが困難な現状で、女性に仕事を与えるのは難しい」と、女性の失業対策が簡単ではない現実も認めている。女性を顕著に優遇すれば、優遇措置をとった当事者である政府だけでなく、優遇された女性自身が攻撃される機会が高まる。改善しようとすれば逆に女性が危険にさらされるというジレンマは解決の難しさの一面を表しているとも言えよう。
 イラク全体では、度重なる戦争およびその後の15年にもおよぶ経済制裁によって、それまでイラク社会で主流であった中関層が姿を消した。第2章で見たように、イラク戦争前後のイラクは、バース党幹部およびその関係者を中心とした一部の富裕層が存在するものの、残りは貧困層となって苦しい生活を強いられていた。イラク戦争およびその後の占領統治の間、国内の治安は悪化し、インフラや国内経済は崩壊同然の状態を続けていた。第7章で詳述するが、国内外への避難者が続出し、その数は、2009年時点で合計400万人以上と推定されていた。避難者は女性が多く、とりわけ女性家長の家庭が多い。国内では攻撃にさらされやすいこと。がその主な理由とされている。
 また、家庭内での暴力の一種として顕著になった現象として特筆に値するのは、女性に対する「名誉殺旭」である。第2章で論じてきたように、フセイン政権末期、フセインは伝統的部族主義およびシーア派イスラーム主義政党からなる、伝統や習慣を重んじる保守派へ迎合する姿勢へと転じ、それまで禁じていた「名誉殺人」を許容する法改正を行った。これによって「名誉殺人」は社会的に受容されるようになった。フセイン政権崩壊後にも、この社会規範は維持され、むしろ強化された。このことは、本章第1節で見てきた女性に対する攻撃の頻発と密接に結び付いている。治安構造が複雑化するにつれて女性が誘拐やレイプの標的とされる機会が増加したのはこれまで見たとおりである。このような暴力の標的とされた女性たちは、家族もしくは一族の恥とみなされ、「名誉殺人」の対象とされた。秩序が崩壊し、家族は伝統的紐帯である部族のつながりに依存性を高めた。そのようななか、一族の恥である性的な辱めに対する伝統的な対処法である「名誉殺人」は、家族の名誉、一族の名誉を守るためのある種わかりやすい防衛手段となった。
 「名誉殺人」に対する理解は、女性の側にもある程度受容されている。しかし、「名誉殺人」に対して他の選択をした女性たちもいる。家族からの逃避である。レイプや誘拐の標的とされた女性たちが、「名誉殺人」から逃れるために家族やコミュニティーからの逃亡する道を選んでいるのである。しかし経済的・社会的に自立していない彼女たちの自主的な思いに基づく「主体的」な選択は、しばしば結果的に人身取引と結びついている。フセイン政権後のイラクでは人身取引が急増しているが、その背景には、このような事情が存在している。「名誉殺人」と人身取引の増加については第7章でより詳しく検証する。
恒常的に暴力にさらされる女性たち--
 イラクに見られた女性をめぐる各組織の闘争および女性に対する戒律の強要は、構造的にはこれまで他国でも見られた現象である。ただし、敵対する宗派の女性をレイプすることが戦略的な攻撃の1つであり報復措置となったイラクのケースは、その最も先鋭的な事例と言えるだろう。同時に、一族の恥とされる性的被害は、「名誉殺人」という手法によって、「正しく」処理され、一族の名誉は守られている。そのような環境のなかで、女性は家に閉じこもり、日々を過ごしている。
 本章で論じてきたように、イラクにおける闘争の暴力化および激化の一因は、米国の支援政策にある。宗派に基づいた民兵組織と覚醒評議会の双方は、米国の支援によって得た資金と武器を手に、暴力を伴う抗争を拡大させ、治安を揺るがし続けたと見ることができるだろう。
 暴力の拡散に伴い、各家庭内での暴力行為も頻発している。国家レペルの秩序崩壊および政治空白が宗派的な政争および暴力的な対立を引き起こし、社会全体に貧困と暴力が存在するようになった。そのような環境で、伝統的な家父長制の影響力が強まり、暴力という形で恒常的に女性が抑圧されてしまった。社会的に孤立する女性たちにとって主体的な行動をとる余地は残されていないようにも見える。他方、政治的な進出や、社会的な変革を目指した女性の動きも見られた。また、暴力的な環境だからこそ、そのような状況から逃避という選択をとらざるを得ない女性たちも少なくなかった。以下第5章、第6章、第7章では、そのような女性の「主体性」に注目し、それぞれの動きおよびその結果を検証する。

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