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<今>だけに生きるには

<今>だけに生きるには
 宇宙に向かう。レベル2の要約。
歴史編から始める
 第4章歴史編から始めよう。本命の第8章以降は気が滅入る。歴史編は一番情報が多く、範囲が広い。
 ヘッド以下の名称。直下は「ヘッド構成」、最下位は「詳細」とする。
 宇宙資料は詳細で吸収する。中間の存在としてのヘッド構成。
詳細は膨大
 ヘッドが320、ヘッド構成が1280、詳細が5120。宇宙を表現するのに最低限。他者の理解は不可能。
 まあ、車の部品構成(部品表)に比べれば容易いかも。S360とIMSより、スマホの方が能力がうえだから。

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OCR化した10冊

 『老いること』
  自然の成り行きにまかせる
  自分の年齢をどのように伝えるか
  中心点
  自分の年齢を演じる
  分裂したコンプレックスを癒すことによって良い形で老いを迎える
 『詩に映るゲーテの生涯』
  死の囁きと生命の震え--「マリーエンバートの悲歌」--
  マリーエンバートの悲歌 
 『現代行政とネットワーク理論』
  公共施設のあり方と統廃合・民営化
   公共施設をめぐる動向
    公共施設の状況
    公共施設の民営化から統廃合・民間移譲へ
    公共施設の統廃合の推進
   公共施設の法的位置付け
    「営造物」から「公の施設」へ
    「公の施設」と自治制度
   公共施設と住民の利用権
    小学校廃止と保育所廃止の最高裁裁判例
    その他の裁判例
    裁判例にみる公共施設における住民の利用権
    公共施設の統廃合等の課題
 『書物の破壊の世界史』
  アレクサンドリア図書館の栄枯盛衰
  ヒュパティアの虐殺
  ナチスのビブリオコースト
  イラクで破壊された書物たち
 『生まれ変わっても国連』
  9・11テロ事件
 『哲学の話』
  これからの哲学--読むこと、対話すること、生きること
   哲学の仕事
   何を探求するのか
   哲学の方法--読むこと、対話すること
   生きること
 『社会人教授入門』
  大学教授になるための方法と戦略--資質・適性・ライフスタイル
   大学教授になるための「資質」と「適性」
    知的な「好奇心」「執着」「継続力」
    教育能力と研究能力
   大学教授になるためのライフスタイル
    大学教授の一週間
    二四時間営業
   大学教授の条件
    知性のバロメーター
    大学教授になれる人、なれそうにない人
    大学教授の実力
 『地球外生命と人類の未来』
  目覚めた世界
   私たちに必要な惑星
   ビュラカン会議
   カルダシェフ・スケール
   ハイブリッド惑星としての地球
   前進
 『今からはじめる哲学入門』
  『論考』と言語
  『論考』と倫理
  存在を問う
   はじめに
   「存在とは何か」という問いの動機と必要性-ニーチエとハイデガーの時代診断
   存在とは何か? 「存在とは何か?」と問うことはどのような営みか?
   「存在とは何か」という問いの形式と歴史
   「存在とは何か」と問うことの自由と責任--ハイデガーとヨナスの責任論
 『アラフォー・クライシス』
  経済力のある女性と結婚したい
   〝流されていればどうにかなる〟時代の終焉
   「婚活」生みの親が語る〝想定外〟
   自分がデータ化されて選別される
   アラフォーの未婚化は「自己責任」なのか?
   「収入の高い男性」「若い女性」を求める根強い意識
   非正規だと、結婚したり、子どもをもてる確率が下がる
   男性も女性に経済力を求める時代に
   増加する経済力依存男子
   最も〝結婚していなかった〟アラフォー世代

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「存在とは何か」という問いの動機と必要性-ニーチエとハイデガーの時代診断

 『今からはじめる哲学入門』より 存在を問う
 そもそも私たちは「存在とは何か」という問いをなぜ立てるのだろうか? あるいは、私たちはただそう問うことができるという、ただそれだけの話なのだろうか? そうではなく、問わなければならない必要性があるのだろうか? 言い換えれば、哲学の動機は何に存するのか?
 哲学史を振り返れば、哲学一般の動機は、「知への愛」が大前提にある。そして「知への愛」は突き詰めれば、世界への愛、人間への愛に他ならないだろう。しかしその内実は哲学者ごとに異なる。例えば、ただひたすら知的好奇心の赴くままに考える、考えたいから考えるということ(すなわち高度な遊び)であったり、あるいは神に託された使命(ソクラテス、前四六九-三九九年)や神の弁護のため(ライプニッツ、一六四六-一七一六年)といった宗教上の理由が含まれていたり、また別の場合には、あらゆる既存の学問的知識では納得のいく確実な知が得られず、一度全てを疑う必要があるという、確実な知、諸学問の基礎づけへの欲求(デカルト、一五九六-一六五〇年)であったりする。しかし現代に近づくにつれて、哲学の動機の一つの傾向として、独自の時代診断に基づく歴史的な危機意識、あるいは個人的・実存的な切迫感が大きな位置を占めるようになる。その代表例が近現代のドイツの二人の哲学者、ニーチエ(一八四四-一九〇〇年)、そしてハイデガー(一八八九-一九七六年)の思想である。かれらはどちらも自らの生きる時代、そしてそれに続く時代の精神を「ニヒリズム」(虚無主義)と特徴付けており、ニヒリズムをどのように克服するかを自らの大きな課題として捉えていた。
 まずニヒリズムの基本的な意味について確認しておこう。ニヒワズムとは、ラテン語の「ニヒル」(無)に由来する、あらゆるものが意味を失い、あらゆる価値が無価値化している状態であり、また既存の価値や権威を全て否定する思想である。こうしたニヒリズムは、「神は死んだ」、あるいは「あらゆる神々は死んだ」というニーチエの言葉で表されるように、近代自然科学の進歩ゆえに世界は神なしで十分に理解可能となったことを背景として、キリスト教の神、あるいはキリスト教の神以外の神々も含めた神聖なもの全体がその絶対的権威を失い、また信仰されなくなってきたという状況を指している。
 しかしニーチエによれば、そもそも神への信仰からして或る種のニヒリズムである。というのも、私たちの生きる現実世界への不信や軽視、不満が信仰の根底にあり、この現実世界、今のこの自分自身の内に意味や価値を見出せないがために、この現実世界ではないどこか別の場所として来世や天国を想定し、そこに救いを見出そうとすることが神の想定には含圭れているからである。
 そしてニーチエは現代を、従来の最高価値の設定及び崩壊において存在するもの全体がその意味を喪失した、「全てはどうでもよく空しい」ニヒリズムの時代と、ニヒリズムの克服として新しい意味を問い求める「どうでもよいものはひとつもない」時代、すなわち従来の価値を乗り越え、新しい解釈のもとで新しい価値を能動的に創造していく時代との狭間の歴史的に決定的な危機、「人類最大の災厄かつ好機」として捉える。治療は病が発覚したからこそ行えるのと同じように、ニヒリズムもそれが現代の病として発覚したからこそ乗り越えられる。問題が問題として明るみに出ることが解決の一歩であるということであろう。
 そしてこの危機はニーチエに以下のような経験となって襲ってくる。ある日デーモンがやってきてこう言う。「君が現に生きており今まで生きてきたこの生を、もう一度、そして無限回も生きなくてはならないだろう。それには何ら新しいことはなく、いかなる苦痛や快楽も、いかなる考えやため息も、君の生の言いようもなく小さなことも大きなこともことごとく、君に必ず、しかも全て同じ順序同じ繋がりで回帰してくる。木々の間のこの蜘蛛、この月影も、またこの瞬間と俺自身にしても同様なのだ。生存の永遠の砂時計は繰り返し引っ繰り返され、それとともにチリやホコリでさえも同じように繰り返されるのだ!」続けて以下のように尋ねる。「[そうであるとしたら]君はこれ(この瞬間)をもう一度、そして無限回も重ねて意志するか?」(『愉しい学問/悦ばしき知識』)
 この問いは「回帰思想」と呼ばれている。あなたはこの問いに何と答えるだろうか? いや、そもそもここで実際のところ何が問われているのだろうか? これについてはいろいろな解釈が可能である。だが一つには、もしも成長も発展も新たな展開もないとしても、存在すること自体を肯定できるかということ、この世界、この自分、この歴史、そうしたものをすべてひっくるめて、今この瞬間のすべてを、このように存在するというその事実を、ただ肯定できるかということである。これは「存在とは何か」という伝統的な問いの、切迫感をもった捉え直しに他ならない。そしてこの問いに然りと肯定的に答えられるほどの力強さがなければ、ニヒリズムを乗り越えることはできないというのがニーチエの見立てであろう。
 しかし、である。この問いに然りと答えるには自分自身とその生のみならず、この世界の全体、そしてこれまでの歴史全体をひっくるめてまるごと肯定しなければならない。つまり、いかに悲惨な出来事、悪事を含んでいたとしても、現実世界がただ現実にこのようにあるということ、そのこと自体を--言わば善として--肯定せよということである。これは甚だ無理な要求である。けれども、もしも仮に然りと答えられるとしたら、それはどういう観点からだろうか。これについてもニーチエは考察の手がかりを残している。「世界は美しい事物に満ち満ちているが、それにもかかわらず、こうした事物が覆いを払われて出現する美しい瞬間は乏しい、たいへん乏しい。しかしひょっとすると、これこそが生の最強の魔力なのかもしれない」。苦悩や倦怠、無味乾燥のうちに過ぎてゆく生がふとした拍子に垣間見せる稀な美しい瞬間、それをどれほど愛おしみ、慈しむことができるか。ここに先の問いへの然りと否の答えの分岐点がある。というのも、こうした生の美しい稀な瞬間は、生の流れの内に孤立してあるわけではなく、苦痛や倦怠といった他のあらゆる事柄との密接な関係の中で生起してくるからである。それゆえ、もしも生の美しい稀な瞬間の永遠回帰を意志できるのであれば、それはすなわち、他の全ての存在の永遠回帰に対する意志、世界全体の永遠回帰へ向かう意志であり、肯定であらざるをえない。
 では、これに対してハイデガーはニヒリズムをどのように捉え、どのように乗り越えようとしていたのか。ハイデガーによれば、ニヒリズムとは、突き詰めれば「存在とは何か」と問わないことである。私たちは自分自身にせよ自分の周囲にいる人たちにせよ、その他の生物、事物にせよ、いつまでも変わらずに目の前に現れているものとして漠然と捉えてしまっている。そしてそこから類推して、存在すること自体もつねに目の前に現れているということ(「恒常的現前性」)であると考えている。このように「存在することは当然で自明のことだ」と考えることは私たちの存在の捉え方の傾向であり、いろいろなものが目の前に現れているということの確かさと強力さのもと、そう信じ込んでいる。確かに、そのように考えなくては予定も立てられないし、何より安心できない。こうした安心感は健全な日常生活を営むためには必要なことである。
 他方で、「或るものが存在し続けることは当然のことである」と捉えるこの傾向は、もう一つの側面を持っている。それは、存在すること自体を自分の予想範囲に押し込め、掌握可能なものとして捉えるということである。その際、私たちが密やかに行なっているのは、或るものが存在すること自体の固有さ・有限性・時間性を忘却すること、それらにまつわる尊さを忘却することである。
 「恒常的現前性」という解釈のもと、つねに現れている対象と化している事物は、私たちによって算定・量化・予測・作成可能なもの、それゆえに時間や場所、人を選ばず、一般的に誰もが利用可能なもの、いくらでも代えがきくものとして捉えられるようになっている。その際、それぞれの存在者に固有の扱いにくさや把握しえなさ、不安定さ、偶然性といった側面は隠されて、あるいは可能な限り排除されて、存在者は何の抵抗もなく簡単に扱える都合のよい事物と化している。こうした中「もしも利益や装飾や楽しみを差し引いたら、植物や動物は私たちにとって何なのだろう」とハイデガーは問う。
 他の存在者に対するこうした見解ゆえに、存在者である私たち自身も、公共性において「迅速性・算定・大衆的なものの要求」に曝される。それぞれに固有であるはずの経験が「露出・公開・卑俗化」される中で、あらゆる経験が個々人の固有の歴史的文脈から引き剥がされ、誰もが体験可能なものとして出回るようになる。いつからだろう、人が人をタイプ別に区分けしたり、勝ち組・負け組と分類したり、雑誌が「理想」のライフスタイルを提示したり、あるいは企業が利益のために限界まで人を働かせることが当然のように行われるようになってきたのは。人が人をそのように扱うことが普通のことになってきたのは。その際「そもそも私たちは誰か」、「私たちはいかにあるべきか」といった問いは問われることなく、全てが決定済みで疑問の余地のないことのようである。
 このように普段忘却されている存在者の扱いにくさは、究極的には自らも含めた存在者全体が私たちの意志と無関係に存在しており、私たちは誕生の際にその只中にただ投げ込まれるということ、すなわち「被投性」に由来する。つまり存在者は根本的には私たちが存在させているものではない以上、なぜ存在しているか、いつまでどのように存在しているかは究極的には不明であり、偶然であり、賜物である。存在者は、自分であれ他の存在者であれ、「私向きのもの」として作られたわけでは決してない。しかし、たいていの場合そうした不都合な私たちの「被投性」は隠蔽されている。そうした中で、私たちはたいてい、私たち人間が存在者の支配者、ひいては存在の支配者であるという錯覚に陥っている。
 こうした現代的危機に対する可能な抵抗こそが、ハイデガーによれば、人間存在の時間性・有限性を獲得し直すこと、すなわち「存在を問うこと」としての「現存在」(=存在が現れる場)に成ることであり、そうして存在の捉え方の歴史的に決定的な変化に向けて問い続けることを決断することなのである。ハイデガー自身、こうした決断を遂行しつつ私たちに決断を促している。では、私たちの存在の捉え方の傾向に反して「存在を問う」ということはいかにして可能になるのか? そもそも「存在を問う」とはどのような営みだろうか?

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『論考』と倫理

 『今からはじめる哲学入門』より
 『論考』における「語りえないもの」は、言語の働きに関するものと倫理に関するものに大別される。そして、『論考』の終わり頃(六・四節以降)にて突如提示される後者が、ウィトゲンシュタインの叙述の簡素さも相まって、多くの解釈者を悩ませてきた。とりわけ、後者が前者とどんな関係をもつのか--あるいはもたないのか--はまったく漠然としており、後者をウィトゲンシュタイン特有の宗教観と結びつけようとする解釈者のなかには、後者を前者から独立に読み解こうとする者もいる。
 『論考』成立の外在的な事柄、たとえば、戦場にて死に直面しながらその草稿を書き溜めた点や、日記での私的な叙述を見るなら、『論考』における倫理の語りえなさに宗教性を読み取らないことは難しい。その語りえなさを、もっぱら宗教的観点から論じる解釈者がいるのも肯ける。だが一方で、できる限り内在的に『論考』を読み、倫理の語りえなさを言語の働きの語りえなさと架橋したいと考える解釈者の存在も無視できない。私自身も本節にてこの架橋を試みるつもりだが、それはたんに『論考』の整合的解釈のためではなく、その架橋が生にとって有意味だと考えるからである。
 まずは『論考』の該当箇所から、三つの節を見ておこう。引用がやや長くなるが、その内容からいって省略をせず、節全体を抜き出すことにする(強調原文。引用文はすべて岩波文庫版の野矢訳による)。
  六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。--かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
   価値の名に値する価値があるとすれば、それは、生起するものたち、かくあるものたちすべての外になければならない。生起するものも、かくあるものも、すべては偶然だからである。
   それを偶然ではないものとするのは、世界の中にある何ごとかではありえない。世界の中にあるとすれば、再び偶然となるであろうから。
   それは世界の外になければならない。
  六・四二三 倫理的なものの担い手たる意志について語ることはできない。
   他方、現象としての意志はただ心理学の興味を引くにすぎない。
  六・四三 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。
   ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。
   幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。
 いかなる事実pについても、~pではなくpが成り立っているのは偶然であり、「それを偶然ではないもの」にする何ごとかは世界内にはない。そして、倫理の担い手たる、語りえない「意志」についても、それは事実を変えられず、ただ「世界の限界」を変えうるのみである。
 いま見た「世界の限界」との表現が独我論的含意をもつことに、解釈者の多くが注目した。とりわけ、二つの語りえなさの架橋を模索する解釈者が。『論考』における言語論は独我論によって支えられており--本章では詳述できないが--右のことを記した五・六番台の節でも「世界の限界」との表現はこんなふうに使用されている。「世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている」。「主体は世界に属さない。それは世界の限界である」。以上をひと繋がりにして読むなら、独我論的な主体こそが、二つの語りえなさを架橋するものに見える。
 しかし、独我論による架橋が何となくの説得力をもっているとしても、愚直に『論考』の文面を読む限り、よく分からない点は残る。世界内の事実をいっさい変えず、世界の限界を変えることによって世界の全体が変わるというとき、それは何が変わることなのか。『論考』における言語にとってそれは明らかに語りえないことだが、ナンセンスになることを恐れないなら、それは次のことかもしれない。世界内の事実はすべてそのままに、だれが「私」であるかだけが変わること--。あるいは、言語の限界と世界の限界との関係を見るなら、それは次のことかもしれない。世界内の事実はすべてそのままに、「私の言語」の在り方だけが変わることー。
 だが、だれが「私」であるかだけが変わるような仕方で可能になるものが、『論考』にとっての倫理なのだろうか。だとすれば、「私」が現実にだれかである以上、すでにこの世界は「幸福な世界」や「不幸な世界」などとして固定されており、「意志」の出る幕はないのではないか。ウィトゲンシュタインの倫理的苦悩は、彼が現実にウィトゲンシュタインであったことに、たしかに起因しているだろう。しかし、彼が倫理の担い手に「意志」という呼称を与えたとき、彼には別の思いがあったに違いない(そうでないならば、幸不幸は、「私」が現実にだれであるかという特殊な運不運の問題になりかねない)。
 世界内の事実はそのままに「私の言語」だけが変わること。こちらについてまず考えるべきは、そのようなことが可能かどうかである。「私の言語」が変化したなら、その言語によって写像されるべき世界内の事実もまた変化するのではないか。つまり、「私の言語」の変化は、どれほど些細な変化であれ、事実の変化を伴うのではないか。
 「事実」と「事態」との区別を改めて明確にしておこう。諸命題によって写像されるのが諸事態であり、そうした諸事態のうち真なる諸命題によって写像されるのが諸事実である(そして諸事態の残りのものは偽なる諸命題によって写像される)。それゆえ、もし「私の言語」の変化が真なる諸命題についての変化を伴わず、偽なる諸命題についての変化のみを伴うものであったなら、「私の言語」が変化しても事実の総体(世界)は変化しない。その際には、何か事実であるかは変わらず、何が事実でないかだけが変わる。前節の議論をふまえるなら、反事実的な可能性として示されるものだけが変わるわけだ。
 「机の上に鍵がある」「手紙の下に鍵がある」等の真なる諸命題をもとに「手紙の上に鍵がある」のような偽なる命題を構成するとき、このような構成を可能にする--語の有意味な配列を定める--論理形式は語りえない。これはつまり、言語によって示される反事実的可能性の領域がいかに定まるかは語れない、ということだ。ならば「私の言語」の変化が、事実の総体をいっさい変えずに、偽なる命題の構成に関わる論理形式のみを変えることは可能だろう。「机の上に鍵がある」「手紙の下に鍵がある」等の真なる諸命題を維持しつつ、「手紙の上に鍵がある」をナンセンスとするような仕方で。
 だが、このような変化については、事実の総体は真に維持されてはいないという反論があるに違いない。事実の総体は、いわば文字面において変化していないものの、実質的には変化しているのだ、といった。さきほどの例文を使うなら、「手紙の上に鍵がある」が偽である言語と、それがナンセンスである言語とでは、それぞれの言語のもとで「手紙の下に鍵がある」が真であったとしても、同一の事実が成り立っているとは限らない。それは文字面の一致かもしれず、「手紙」や「下」の意味するものは両言語で異なっているかもしれない(たとえば、「手紙の上」という語配列が無意味化する言語があったとして、その言語における「手紙の下」は私の理解するそれと同義か疑わしい)。
 「私の言語」が偽なる命題の構成に関わる論理形式のみを変えることは可能か。「私の言語」の変化という視点がすでにして『論考』から逸脱的であり、そのため、この問いに『論考』内部から答えることは難しい。しかし、『論考』から少し身を引いて、いま記したことが可能だとすれば、そのことにおいて解消される生の問題はたしかにある。諸事実はいっさいそのままで、ただ、背後にある諸可能性が変化することで解消される問題が。本章の前半はまさに、何がそうした問題の候補になるかを見ていくものだった。
 残された紙幅にて、「意志」について述べておこう。世界の限界を変えることで幸福な生を可能にするものは、『論考』において「意志」と呼ばれた。とはいえ、それは世界内の事実として現れるような何らかの心理現象ではない。ここで私は、二種類の語りえなさを架橋しつつ、前段落での問い(「私の言語」が偽なる命題の構成に関わる論理形式のみを変えることは可能か)に中立的なかたちで、次の解釈を与えたい。『論考』における「意志」とは、先述した私的倫理の中核に在るものであり、すなわち、言語によって示された反事実的な諸可能性を前に、この現実の生を私が選んだものとして肯定させる力である。もちろん、そのような力など世界のなかには存在しない。にもかかわらず、そのような力が存在しないなら、世界に幸福はありえない。
 以上の『論考』解釈がウィトゲンシュタインの真意を擦っているなら、そこにはやはり宗教的な精神性があっただろう。結局のところ、すべては起こるままに起き、自由意志は存在しないのだかい。しかし、上記の解釈は、『論考』での倫理を未分析のまま天上に預けるものではなく、かなりの程度まで内在的にそれを分析した末のものである。けるものをなぜ「意志」と呼びたかったのか、つまり、ウィトゲンシュタインが、世界全体を価値づそのことについての一つの回答を上記の解釈は与えている。そして冒頭に記したように、本章後半での『論考』解釈がたとえ牽強付会であっても、反事実的可能性、私的倫理、そして「意志」についての本章の論点は、それ自体としての重要性をもつだろ存在を問う

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