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数字に惑わされない生き方

数字に惑わされない生き方
 他者から見て、完璧であることは止めよう。「未唯への手紙」更新、新刊書争奪戦
奥さんの料理、どうにかしてほしい
 外食はうらやましい。奥さんが用意したものを食べなくてすむ。
明日は外へ行こう
 三日間、一歩も外に出なかった。生活費を使わないで済んだ。食糧も尽きたので、明日の朝からスタバへ行こう。

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OCR化した7冊

『チェムスキーの言語理論』
 哲学的実在論
 チョムスキーが与する立場とそれをめぐる論争
『消費者教育の未来』
 諸外国にみる消費者教育の推進体制 スウェーデンの専門的人材による「実践コミュニティ」
 第1節 分析の枠組み
 第2節 OECD政策提言にみる消費者教育の推進体制
 第3節 スウェーデンにおける消費者教育の推進
  国の概要
  国における消費者教育の推進体制
  地方自治体における消費者教育の推進体制
『アウトバーンの歴史』
 18世紀末から第二次世界大戦終了まで
  18世紀末から第一次世界大戦終了まで
  第一次世界大戦終了後ヒトラーの政権掌握まで
  ヒトラーの政権掌握以降第二次世界大戦終了まで
 第二次世界大戦終了後東西国境開放前まで
  戦後西ド怖ツの状況:1960年代まで
  道路財源の確立等
  レーバープラン
  戦後西ドイツの状況:1970年代から80年代前半
  ・第1次5ヵ年計画(1971-1975、第1次需要計画に対応)
  ・第2次5ヵ年計画(1976-1980、第2次需要計画に対応)
  ・第3次5ヵ年計画(1981-1985、第3次需要計画に対応)
  ・第4次5ヵ年計画(1985-1990、第4次需要計画に対応)
  戦後の東ドイツの状況
 東西国境開放・ドイツ再統一後
  東西ドイツ国境開放直後の情勢への対応と21世紀に向けた動き
  ・第5次5ヵ年計画(1993-2000、第5次需要計画に対応)
  民間資金(PPP)導入への動き等
  ベルマン委員会報告とその方向
 重みを増す維持管理
 過去の課題と今後の乗用車課金
『生命の発達学』
 チョムスキーの登場
 歴史的存在としての「私」の形成とはなにか
『生活を支える社会のしくみを考える』
 公共交通政策とナショナル・ミニマム
  公共交通政策におけるナショナル・ミニマム
  交通政策基本法の制定過程とナショナル・ミニマム
  公共交通をめぐる財政支援の現状
  むすびに代えて
『映画で考える生命環境倫理学』
 『2001年宇宙の旅』にみる「人間の条件」
  はじめに--「地球(大地)の外」に生きるということ
  「二一世紀のオデュッセイア」は何を歌うのか
  名と目--ロゴスヘの挑戦
  「幼児」の二義性--人間像の脱構築
  おわりに--「考古学」としてのSF
『東欧の崩壊1944-56 鉄のカーテン』
 序章
 エピローグ

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東欧の崩壊1944-56 エピローグ

『東欧の崩壊1944-56 鉄のカーテン』
一九八九年のベルリンの壁崩壊に至るまでの三十年以上もの間、東欧の共産主義指導者たちはスターリンの死後に抱いた同じ疑問に対して自問を繰り返してきた。この体制がこれほどお粗末な経済実績を重ねたのはなぜなのか? プロパガンダが説得力を欠くのはなぜなのか? 異論が収まらない原因は何なのか? これを鎮圧するのにいちばん効果的な手立てとは何か? 共産党を権力の座にとどめ置くには、逮捕、抑圧、テロルに訴えれば足りるのか? あるいは、よりリベラルな戦術--一定の経済的自由や若干の自由な言論--を講じれば将来の爆発をもっと効果的に防げるのか? ソ連はどのような変革なら受け入れるのが、ソ連指導部はどこに線を引こうとするのだろうか?
異なる答えがそれぞれの時代に出された。スターリンの死後はどの政権も一九四五年から五三年にかけての時代ほど苛酷ではなかった。しかし、スターリン以後の東欧でさえ、厳しい独裁的な体制が続き、恐ろしいほど抑圧的にもなった。ウワディスワフ・ゴムウカのポーランドはリベラルな計画を掲げ国民的人気を得て始動したものの、たちまち硬直化、保守化し、最後は反ュダヤ的になった。ヤーノシュ・カーダールは一連の血塗られた報復策によりハンガリー統治に乗り出したが、のちに一定程度自由な企業活動、旅行、商業を認めることで正統性と人気を獲得しようと努めた。チェコスロヴァキアは六八年にプラハの春が展開する中で真の文化的開花--作家、監督、劇作家が国際的名声を得た--を享受した。だが、ソ連による侵攻を受けてチェコスロヴァキア政府は東欧圏で最も暴力的な体制の一つとなった。一九六一年、東ドイツは市民を閉じ込めておくため壁を建設する。しかし八○年代に政権は、西ドイツ政府から外貨を得るのと引き換えに異論派の出国を目立たない形で認め始めた。ルーマニアとユーゴスラヴィアはほかのソ連圏とは一線を画し、時期は異なるものの対外政策における個々の役割を確立しようと努めた。とはいえ、非常に意味のあるやり方とは必ずしも言えないものだった。
東欧各国はソ連の定めた枠内に常にとどまりながらも、協同組合の役割を強化、あるいは教会への規制や秘密警察の人員増を行ったり、芸術面の自由を許容したりして、さまざまに実験を試みた。時にはリベラルな改革が行われたこともある。例えば、ポーランドの共産主義者は二九五六年以後、社会主義リアリズムを放棄した。ハンガリーは八○年代に合弁事業を合法化した。またある時は自由化が暴力により終息したこともある。プラハの春の際は、アレクサソデル・ドゥプチェク指導下のチェコスロヴァキア共産党が漸進的改革、脱中央集権化の経済、民主化した政治体制を呼び掛けた。ソ連戦車がプラハになだれ込み、改革運動を数ヶ月後に粉砕、ドゥプチェクは権力の座から追われた。八○年八月、ポーランドの共産党は「連帯」労組を合法化した。草の根型運動はやがて労働者、学生、知識人を糾合し一千万人規模に膨れ上がる。その実験は二年半後に終わる。ポーランド共産党が戒厳令を布告、「連帯」を非合法化するとともに、街頭に戦車を配備した。
東欧諸国は時が経つにつれて徐々に共通点が薄れていく。一九八〇年代までに東ドイツは最大の警察国家に変貌、ポーランドは最高の教会信者を数える。ルーマニアは最も劇的な食料不足に直面、ハンガリーは最高の生活水準を享受する。ユーゴスラヴィアは西側との緊張緩和を最も進めた国となる。とはいえ、狭い意味では、いずれも依然として極めて似通っているところがあった。どの体制も本質的に不安定であることを自覚しているようには思えなかったことである。東欧諸国が相次ぐ危機に揺らいだのは政策を微調整できなかったからではなく、共産主義の計画自体に欠陥があったためだ。体制側は社会のあらゆる側面を統制しようとしたことで、社会的要素の一つひとつを潜在的な抗議形態に変えてしまったのである。国家は労働者に日々の高いノルマ達成を命じてきた--そのため東ドイツの労働者が毎日の高率ノルマに抗議のストライキに打って出ると、たちまち国家に対する抗議行動を拡大させる結果となった。国家は芸術家が何を描き、作家が何を書けるのかを指図してきた--従って何か別のことを取り上げる芸術家や作家も政治的異論派になってしまうわけだ。国家はなにびとも独立の組織を結成することはできないと命じてきたーそれゆえ、いかに取るに足りない組織であれ、これを設立した人物は体制反対派となる。さらに、多数の民衆が独立組織に加わると--例えば、ほぼ二千万人のポーランド人が連帯労組に加入すると--、体制の存立自体がたちまち危うくなった。
共産主義のイデオロギーとマルクス・レーニン主義の経済理論は別の意味で自壊の種を内包していた。東欧の各国政府が正統性を主張する根拠としていたのは将来の繁栄と高い生活水準という約束であり、それは「科学的」マルクス主義によって保証されるはずだった。横断幕やポスター、もったいぶった演説、新聞の社説、やがてはテレビ番組もすべてがますます急速に進む成長について語った。ところが、ある程度の成長は果たしたものの、プロパガンダの公約した高成長が実現したためしはない。生活水準にしても西欧が達成したほどの急速かつ劇的な向上はついぞなかった。これをいつまでも隠し通せるはずもない。一九五〇年代、ポーランドとスペインは国内総生産(GDP)では非常によく似た規模だった。八八年までにポーランドはほぼ二倍半の上昇を遂げる--しかし、スペインは十三倍の伸びを示した。自由ヨーロッパ放送や旅行、観光がこの格差を痛いほど思い知らせた。これは西欧の技術革新が加速化するにつれ拡大する一方だった。それとともに冷笑主義や幻滅が増幅、当初は共産体制に信頼を置いていた人々にさえそうした感情が広がった。五〇年代のにこやかな共産主義青年同盟幹部は、七〇年代の不機嫌で無気力な労働者に、八○年代の辛辣な学生、知識人に、国外移住や不満の波に取って代わられた。体制側はもちろん、確かに支持者をつなぎとめた。とりわけ、一部の東欧政権がより高い消費水準を維持するために、西側銀行団から多額な資金借り入れを始めて以降はそうだ。受益者たちは体制側に口先だけの支持を続ける。共産主義の社会的登用政策の恩恵を受けてきた人々は官僚制を通して出世を続けた。東欧諸国にはその後、共産主義の理念や理想主義に郷愁を抱いた市民もいたが、一九八九年以後も共産主義経済の復活を試みる政党がひとつもなかったことは注目に値する。
とどのつまり、現実とイデオロギーとのギャップは、共産党が自ら無意味と分かっていながら空虚なスローガンを垂れ流す羽目になることを意味していた。哲学者ロジャー・スクルートソが論じたように、マルクス主義はオーウェルがかつて「ニュースピーク」と呼んだものに包み込まれたため論駁を受けることなどあり得なかった。「現実はもはや理論とは接点を持っていない。その理論とはむしろ神学大系のように虚言の雲の上で事実を超越してしまったのだ。要するに、理論は信じることではなく、儀式的に繰り返すわけだ。そうすることで、信じることと疑うこととは無関係になった。……こうして真理という概念は知的風景から消え、権力という概念に取って代わられた」。しかし、ひとたび民衆が真理とイデオロギー的虚構との区別がつかなくなると、彼らが動かす社会の中で悪化する社会的、経済的諸問題を解決するどころか説明することすらできなかった。
時の経過とともに共産主義体制の政治的反対派の一部はソ連型全体主義に固有の弱点を理解するようになった。チェコの異論派ヴァーツラフ・ハヴェルは一九七八年の優れたエッセー『権力なき者たちの力』の中で、支配者たちが取り付かれた全面的統制への強迫観念に付け込むよう国内同胞に訴えた。国家が人間活動のあらゆる分野を独占したいと望むのであれば、思慮深い個々の市民は別の可能性を生み出すよう努めるべきだと、ハヴェルは書いている。同胞に対し「独立した社会生活」を保持するように求めたのである。ハヴェルの定義によれば、そうした社会には「世界について独自に学び考えることから始まって、自由な創造的活動と他者との対話を通じ、独立した社会的自治組織など最も多様で自由な市民的態度に至るまでありとあらゆることが含まれる」。彼は偽りの無意味な専門用語を捨て去り、「真実に生きる」--言い換えれば、あたかも体制が存在しないかのように語り、行動することも呼び掛けた。
やがて、この「独立した社会生活」--「市民社会」--は何らかの形を取って異例なほど多様な広がりを見せ始める。チェコ人はジャズバンドを結成し、ハンガリー人は学術的な討論クラブに参加、東ドイツの人々は「非公式」な平和運動を創設した。ポーランド人は地下組織のスカウト隊を組織し、これが最終的に独立労組に発展した。至るところで民衆は口ック音楽を演奏、詩の朗読会を組織したほか、非合法のビジネスに着手、地下の哲学セミナーを開いた。闇市で食肉を販売し、教会に通った。体制の異なる社会ならば、これらの活動は非政治的とみなされたはずだ。東欧ですら、そうした活動は必ずしも「体制反対派」を構成したわけではないし、受動的反対派でさえもない。しかし、この活動こそが本質的な--それゆえ決定的なー-体制への挑戦となった。ムッソリーニの言葉を借りれば、体制側は「すべてを受け入れる包括的な存在」たらんと努めていたからである。
「卵を割らずしてオムレツは作れない」。誤ってスターリンの言とされることもある冷酷なこの標語は、共産主義を建設し、自らの高邁な目標が人間の犠牲を正当化すると信じた男女の世界観を端的に示している。しかし、ひとたびこのオムレツが最終的に瓦解し始めると--より正確に言えば、そもそもオムレツが作られたためしがないことが明らかになると--、どのようにして卵を元の形に戻したらよいのだろうか? 数百もの国営企業をいかに民有化するのか? ずっと前に解体した宗教的、社会的組織をいかにして再構築するのか? 長年にわたる独裁体制により受身となった社会をどのようにして再び活性化しようというのか? 民衆に隠語を使うのをやめて思い切って語らせるようにするにはどうすべきなのだろうか? 安易に使われることが多いとはいえ、「民主化」という言葉は一九八九年後にポスト共産主義の欧州や旧ソ連で起きた変革--国によって一様ではなく、進捗状況はまちまちで、ほかより速いところもあれば遅々として進まなかったところもあった--を本当に正しく言い表していない。
民主化は実のところ、世界中のほかの革命後の社会で起きてしかるべき類の変革を定義付けているわけではない。二十世紀最悪の独裁者たちの多くは本書に述べた手法を用いて権力を握った。意識的にそうしたのである。サダム・フセインのイラクやムアンマル・カダフィのリビアはソ連や東ドイツの支援を得て、ソ連式の秘密警察力を含めてソ連システムの要素を直接採用した。とりわけ中国、エジプト、シリア、アンゴラ、キューバおよび北朝鮮は、時期的には異なるものの、すべてソ連の助言や訓練も受けた。しかし、ソ連は経済、社会、文化、司法、教育の機関や政治的反対派に統制を加えるため執念を燃やしたが、多くの国々はそれを見習うために厳密な助言を受ける必要もなかった。一九八九年に至るまで、ソ連の東欧支配は独裁者たらんとする者にとっては優れたモデルであったのだ。だが、全体主義が東欧で想定されたように機能したためしはなかった。ほかのどこであれ機能したことは一度もない。スターリン主義体制が一人ひとりを洗脳し、これによって異論をすべて永久に撲滅しおおせた国も皆無だ。アジア、アフリカ、南米におけるスターリンの門弟やブレジネフの友人にしても然りである。

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東欧の崩壊1944-56 序章

『東欧の崩壊1944-56 鉄のカーテン』より
何よりも一九四五年が際立たせたのは、欧州の歴史でも最大級の一つだった桁外れな人口移動である。欧州大陸の全域で数十万の人々がソ連亡命から、ドイツの強制労働から、強制収容所から、捕虜収容所から、潜伏先から、あらゆる類いの避難先から帰還する途上にあった。道路という道路、歩道、小道、列車は、ぼろをまとって腹を空かせ、汚れにまみれた人々でひしめき合っていた。
各地の鉄道駅の光景はとりわけ見るもおぞましいものだった。飢えに苦しむ母親、病を抱えた子供たち、そして時には家族全体が次に来る列車を待って、何日も非衛生的なセメントの床に寝泊まりしている。伝染病や飢餓に巻き込まれる恐れがあったのだ。しかし、ポーランド中部の街ウッチでは、女性たちの一団が悲劇の拡大防止を決意する。一九一三年に設立された慈善と愛国主義の組織リーガ・コビエト、すなわちポーランド婦人同盟だったメンバーたちの主導で、女性たちが活動に乗り出した。ウッチ駅で、婦人同盟の活動家が女性や子供たち向けの避難所を設置し、ボランティアや看護師を差し向けるとともに、温かい食料や医薬品、毛布を提供した。
一九四五年春、これら女性たちの動機は一九二五年、あるいは一九三五年当時とまったく変わらなかった。彼らは社会の緊急事態に立ち会ったのである。結集したのは手助けをするためだった。だれかから要請、命令されたのではない。報酬が支払われたわけでもない。わたしが会ったとき八十代後半だったヤューナ・ススカ=ヤナコフスカは、ウッチで取り組んだ当初の活動が政治とはまったく無縁だったことを覚えていると語った。「慈善活動で金銭を受け取った人はひとりもいません。……少しでも時間の取れる人は助けに出たのです」。ウッチの婦人同盟にはそもそも、死に物狂いの旅人に救助の手を差し伸べること以外に、いかなる政治課題も持たなかった。
五年が経過した。一九五〇年までに、ポーランド婦人同盟はまったく異なる組織に変貌する。ワルシャワに本部を置き、中央集権化された全国的な運営機関を備えた。命令に従わない地方支部を解散させることもできたし、実際、そのようにした。事務局長のイゾルダ・コヴァルスカ=キリルクは慈善活動や愛国主義の言葉でなく、政治的、イデオロギー的な言語を用いて連盟の主要な任務を説明した。「われわれは組織的作業を深め、活動的な女性でつくる広範なグループを動員し、彼らを教育するとともに、自覚ある社会活動家として育成していかなければならない。われわれは日々、女性の社会意識の水準を高め、人民ポーランドを社会主義ポーランドに変える社会再建という壮大な任務に参画していかなければならない」。
婦人同盟は一九五一年大会のときのように、全国大会を開催した。当時の副議長ゾフィア・ヴァシルコフスカは公然と政治を打ち出した。「連盟の担う主要な、かつ制度的な形態とは教育的、啓蒙的な活動である。……すなわち、女性の意識を比較にならないくらい高度なレベルに押し上げ、六ヵ年計画の目標を最も完璧な形で実現させることに女性を動員するのだ」。
言い換えれば、ポーランド婦人同盟は一九五〇年までに、実質的にポーランド共産党の女性部門になったのである。同盟はこの資格により、女性たちに対し政治や国際関係の問題に関しては党の路線に従うよう促したほか、メーデー行進への参加や西側帝国主義を非難する請願書への署名を働きかけた。また、教宣活動家たちのチームをいくつも抱えた。彼らは教習に出席し、党のメッセージをさらに広める方法を学んだ。このうちどれかに反対する者は--例えば、メーデー行進とか、スターリン生誕式典への参加を拒否でもすれば--婦人同盟から追放されることになりかねなかったし、一部メンバーは確かに組織を追われた。ほかには脱退組もいた。組織に留まったメソバーはもはやボランティアではなく、国家と共産党のために尽くす官僚であった。
五年が経過したのである。この五年間にポーランド婦人同盟、および無数の類似団体は全面的な組織替えを強いられた。一体、何が起きたのか? 変転を引き起こしたのは誰なのか? だれもがそうした事態に同調したのはなぜなのか? こうした問いに答えることが本書のテーマである。
「全体主義」という言葉はナチス・ドイツやスターリンのソ連を説明する際によく使われてきたが、イタリアのファシズムとの関連において用いられたのが最初であった。この用語はベニート・ムッソリーニに対する批判者の一人が生み出したが、ムッソリーニ自身が熱狂的に取り入れた。ある演説で彼が示した説明は今日でも最も適切な定義となっている。「いっさいは国家の中に。国家を外れては何もなし。国家に敵対しては何もなし」。厳密に定義すれば、全体主義体制とはこの体制が公式に認めたもの以外、すべての組織を禁じる体制である。こうして全体主義体制はひとつの政党、ひとつの教育制度、ひとつの芸術的教義、ひとつの中央計画経済、ひとつの統一されたメディア、ひとつの道徳規範を備えることになる。全体主義国家においては、独立した学校も、私企業も、草の根組織も、批判的思想もいっさい存在しない。ムッソリーニはかつてお気に入りの哲学者ジョヴァンニ・ジェンティーレとともに「国家の概念」に関する著作をものにし、「国家とはすべてを包摂するものである。すなわち、国家の外にいかなる人間的、精神的価値観も存在し得ない。まして値打ちもあり得ない」とした。
「全体主義」という言葉はイタリア語から欧州、および世界のあらゆる言語に広まった。ムッソリーニの失脚後、この考え方を公然と擁護するものはほとんどいなくなったものの、言葉そのものは批判者たちによって最終的に定義されるようになる。二十世紀最大の思想家たちはそうした批判者の中に多く見いだせる。フリードリヒ・ハイエクの『隷従への道』は全体主義の挑戦に対し哲学的な回答を示したものだ。カール・ポパーの『開かれた社会とその敵』もしかり。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は全体主義体制によって完全に支配された世界の反ユートピア像である。
全体主義政治に取り組んだ最も偉大な学究と言えば、おそらくハンナ・アーレントであろう。彼女は一九四九年の著作『全体主義の起源』で、全体主義を近代化の始まりによって可能となった「新規の統治形態」と定義した。伝統的社会と生活様式の破壊が「全体主義的人格」、すなわちよりどころを完全に国家に依拠する男女が進化する諸条件を創出したと彼女は主張する。よく知られているように、アーレントはナチス・ドイツとソ連がともに全体主義体制であり、従って相違よりも類似性が多いと論じたのである。カール・J・フリードリヒとズビグニュー・ブレジンスキーは一九五六年出版の『全体主義独裁と専制』でそうした議論をさらに推し進め、適用可能な領域を広げた定義を追求した。二人は力説する。あらゆる全体主義体制には少なくとも五つの共通点がある。支配的イデオロギー、単一の政党、テロ行使も辞さない秘密警察力、情報の独占、計画経済がそれであると。これらの基準に従えば、ソ連とナチス・ドイツだけが全体主義国家というわけではない。ほかにも--例えば、毛沢東の中国--該当するところがある。
しかし、一九四〇年代末から五〇年代初めにかけて、「全体主義」は単なる理論にとどまらなくなる。冷戦初期の時代を通じ、この用語は具体的な政治組織をも獲得する。米大統領ハリー・トルーマンは一九四七年の画期的な演説の中で、米国民は「自由な人々が自由な組織と全体主義を押し付けようとする強引な動きに対し、自由な制度と国家としての保全を図れるように、米国民は進んで支援」しなければならないと言明した。この構想は「トルーマン・ドクトリン」として知られるようになる。大統領ドワイト・アイゼンハワーも一九五二年の大統領選遊説でこの言葉を使い、韓国に赴き朝鮮戦争を終結させる意向を明らかにした。「わたしにはこの全体主義的思考について何がしかの知識はある。第二次世界大戦の歳月を通じ、当時のわれわれ全体を脅かした専制に対し自由世界の十字軍として決断する重責を担ったからである」。
米国の冷戦戦士は公然と自らを全体主義への対抗者と位置付けた。それゆえ、冷戦への懐疑論者がこの用語に疑問を抱き始め、その意味するところを尋ねたのは当然であった。全体主義とは真の脅威なのか、それとも誇張にすぎないのか、すなわち、上院議員ジョセフ・マッカーシーの造語であるブギーマンでしかないのだろうか? 一九七〇年代、および一九八〇年代を通して、ソ連の歴史修正主義者はスターリンのソ連でさえ実際は決して全体主義ではなかったと論じた。彼らの言い分はこうだ。実のところ、ソ連における決定がすべてモスクワでなされたわけではない、地方警察が最高指導部とまさしく同じようにテロルに着手したこともあり得る、経済統制を試みた中央の経済立案者が必ずしもうまくいったわけではない、大規模なテロルは結果的に社会の多くの人々に「機会」をもたらした、というのである。これに対し「全体主義」なる用語は粗雑にして曖昧であり、あまりにもイデオロギー的だと受け止める向きもあった。
事実、全体主義に関する大勢の「正統派」理論家が同じ点を多々指摘した。全体主義が機能したとする論者はほとんどいない。むしろ逆に、「全体主義体制は不可能を追い求め、個人や運命を意のままにしたいと望むがゆえに、中途半端な形でしか実現し得ない」とフリードリヒは指摘する。「全体主義の権力要求がもたらす結果が危険極まりなく、抑圧的であるのはまさしく、このためである。その帰結は捉えどころがなく、計り知れないものであり、提示しがたいからである。……この歪みは権力願望が達成不可能なことに由来する。それがこうした体制下の営みを特徴付け、部外者すべての理解を極めて困難なものにしているのだ」。
政治理論家たちは近年、修正主義の議論をさらに推し進めた。一部は「全体主義」という用語が真に有用なのは理論上にすぎないと論じる。自由民主主義者が自分たちを定義することのできる負のテソプレートとして、である。他方、この言葉は全く意味を持だないとする論者もおり、「西側社会に対する理論上のアンチテーゼ」でしかない、さもなければ単に「われわれの嫌いな人間」にすぎないと説明する。もっと意地悪い解釈では「全体主義」という言葉は独善的であるとする。われわれがそれを使うのは西側民主主義の正統性を高めるためにほかならないというのである。

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