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未唯への手紙

未唯への手紙

古代ギリシャにおける民主主義とは、どんなものだったのだろう?

2016年03月06日 | 4.歴史
『ヨーロッパから民主主義が消える』より

現代のギリシャ人が誇りに思っているアテネの民主主義は、当然のことながら、現代人が最良の政治形態だと信頼を寄せているそれとは異なる。市民が主権をもち、多数決で事を決めるところまでは同じだが、あとはことごとく違う。似て非なるものとさえもいえない。おそらく似てもいないし、相違点のほうがずっと多いだろう。

まず、アテネの民主制は、完全な直接民主制であった。これにより市民の意思かくまなく政治に反映するし、権利や義務もおおむね平等に保てるという長所はある。ただ、肝心の有権者である市民の定義が、いまとはまるで違った。

アテネでは、政治に参加できるのは十八歳以上の成人男子のみで、紀元前四三〇年当時、その数は三万人ほどだったという。アテネ市民の人口は一二万人なので、あとの九万人は女性と未成年だったのだろう。そしてそのほかに、外国人が三万人、奴隷が八万人いたが、もちろん彼らは参政権とは縁がなく、奴隷には人権さえなかった。いまならこんな制度を民主的とはいわない。

近代民主主義の直接の起源はどこらへんにあるかといえば、これはまぎれもなくフランス革命である。十八世紀末、点として始まったそれはヨーロッパ各地に市民革命として広がって線となり、みるみるうちに面となった。フランス人は、彼らが導いた人民の革命が、世界に近代化を促し、民主主義という果実をもたらしたと信じている。ボロボロになったオランド政権が率いてさえも、フランスという国がEUでからくも指導的立場を維持できているのは、二百年以上前のこの功績のおかげかもしれない。

ちなみにこのころのギリシャは十五世紀半ばよりオスマン帝国の支配下に入ったままだった。それ以前も、すでに紀元前二世紀ごろからローマ帝国に組み込まれてしまっていたので、ギリシャという国家は長らく世界史から消えていたことになる。一八二九年、ギリシャはほぼ二千年ぶりにようやく国として復活するが、当時の首都アテネは荒廃し、人口がたった四〇〇〇人の寒村だった。しかも、ギリシャ王として即位したのは、ドイツのバイエルン王国の王子だったのだから、この独立はギリシャ人の意向というよりも、列強の都合だった。国民自体も、主にバルカン半島のスラブ民族、それにアラブ民族やらラテン民族などいろいろな人種が混ざり合って、古代とは違った新しい民族となっていた。

フランス革命はあまりに複雑だ。生まれや身分に関係なく、自由で平等な社会を夢みて始まったそれは、ひどい混乱に陥り、途中で目標を見失い、膨大な数の犠牲者を出しながら、遅々として進まなかった。とはいえ、これが西洋の現代社会の出発点となったことは間違いない。いまある「国民主権」という概念は、ここから始まった。

フランス革命以前、フランスという国は国王のものだった。当時、王侯貴族と民衆の貧富の差には、激烈なものがあった。私は、『なぜ日本人は、一瞬でおつりの計算ができるのか』(PHP研究所)のなかで、それについて次のように書いた。

王侯貴族と民衆が接する機会はなく、もちろん心のつながりもなく、民を思う貴族はいなかった。民衆は貴族にとって、税金を搾り取る対象ではあったが、彼らが人間として認識されていたかどうかはつとに怪しい。

ヨーロッパの僧侶はさらに悪辣で、民衆の搾取に関しては、貴族に決して劣らなかった。特に高位聖職者になると、王侯貴族並みの贅沢をし、王侯貴族並みの数の愛人を囲っていた。貴族と聖職者には、納税の義務はなかった。

18世紀の後半、フランス革命の前夜、貴族と聖職者という特権階級の人間を養い、さらに教会に掛かる莫大な経費を支えていたのが民衆だった。民衆の8割は農民で、彼らは重い年貢だけではなく、地代、塩税、人頭税、賦役労働を課せられ、そのうえ、水車や竃の使用料まで請求された。貴族は、裁判権や狩猟権をすべて独占しており、何かあっても安泰だったが、農民は、翌年蒔く種を残すと、自分たちが食べる物にも事欠いた。フランス革命は、起きるべくして起きたのである。

フランス革命の根元を支えたのは、十七世紀後半に萌芽し、ちょうどこのころ、開花した啓蒙思想である。啓蒙思想を掲げた哲学者、文学者は数多くいる。ヴォルテールも、ロックもそうだった。しかし何といっても、フランス革命にいちばん影響を与えたのは、ジャン=ジャック・ルソーである。ナポレオンが彼に傾倒していたのは、有名な話だ。

一七一二年生まれのルソーは、多才な人だった。小説を書き、オベラを作曲し、そして『社会契約論』を著した。近代思想の基礎となった論だ。『社会契約論』でルソーがいっているのは、国家の主権は国王でも貴族でもなく、国民にあるということだ。だから特権階級は廃止し、私有財産は制限し、国民は皆、平等でなくてはならない。そして、国民が自己の意思に基づいて互いに契約を結び、国家を構成すればよい。

いまでこそ当たり前だが、当時の人間にとって、これは驚くべき理屈だった。なぜなら、それまでの民衆にとって国王とは神であり、どんなに不平等であっても、それは修正できるものでも、批判するものでもなかったからである。

ところが、フランス革命では、その神であったはずの王やお妃がギロチンの露となって消えた。社会に走った衝撃というのは、口では言い表せないほど大きなものだったにちがいない。民衆が神を引き摺り下ろして、荷車に乗せて引き回し、首を落とし、喝采した。彼らは、自分たちの世界観を熱狂のうちに、根本から変えたのである。

フランス革命の精神とは、「下克上」への熱狂と、その正当化である。いや、神聖化といってもよいかもしれない。そして、その「下克上」のフランス革命が、ヨーロッパでは誇らしいものなのである。ドイツの学校でも、歴史の授業でフランス革命に割かれる時間は長い。

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