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池田晶子『14歳の君へ』の戦争

朝活で元町のスタバ

 土曜日の朝活で元町のスタバに来ています。これだけは寒さにめげずに守っています。今回は35冊のうち、20冊に絞ってやってきました。今週は、OCR対象が多くなりそうです。日曜日を潰すことになりそう。池田晶子『14歳の君へ』にしても、以前よりも関心が変わってきています。

分化と複数性

 「複数性」が書かれた本を読んでいるけど、中々、実体がつかめない。ハンナ・アーレント以来、気になっています。分化と複数性が私の中ではつながっているけど、世の中ではつながっていないみたいです。

人口減少

 人口の減少は副島よりも秋田の方が大きい。生駒は大丈夫かな。その次が高知です。龍馬の性でしょう。同率で青森で-4.7です。

池田晶子『14歳の君へ』の戦争

 今回のテーマの一つは「戦争」になっている。だけど、ひとつ前の戦争を引き合いに出すのか。あれは本当に戦争だったのか。国だったのか。そういう意味では明治からの結果としての太平洋戦争。あれは、戦争というものではない。一つの結論です。それに巻き込まれてしまった。

 こういう時に池田晶子に会うと、得られるものが多いです。「戦争」という前に国を考えよ。一体性がどこにあるのか。なぜ、一体にならないといけないのか。

共和制から帝政へ

 ブレヒトによると、カエサルが「新秩序」というカタチで、ローマを共和制から帝政に変えた。ナポレオンにしても、5人の共和制の筆頭という名目から帝政に変えていった。並び立つには忍耐が必要なんでしょうね。

「春ですね」メール

 3月ですね。春ですね。いかがお過ごしですか。これで「春ですね」メールです。くれぐれも、返答を期待しないことです。また、トラウマに陥るから。相手の感情に立ち入ることになる
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外食国際化 牛丼店における食事空間問題

『外食国際化のダイナミズム』より

食文化問題は食材や調理法、昧といった問題に留まらない。日本言取初に海外進出を果たした外食フランチャイズチェーン店は、▽几七四年にニューヨークに出店した「どきん子」ラーメンであったことは前章で述べた。その翌年の二月になると、今度は「吉野家」が米国のデンバーに出店する。ところが、この出店で「吉野家」はいきなり二つの大きな食文化問題の洗礼を受けている。

一つは、牛丼という米飯主体の丼というメニューそのものが、米国人(とくに白人)にはあまり受容されなかったことである。その要因としては、肉の脂身の多さが見た目のヘルシーさを感じさせなかったことや、そもそも米飯食の文化がなかったことなどが挙げられる。さまざまな努力にもかかわらず、客足は思うように増えていかなかった。この問題は、後述するように米飯食の文化を有するアジア系や中南米系住民が多いカリフォルニアに移転することや、チキン丼という新商品開発を行うこと、そして野菜の量を増やしてヘルシーな印象を与えるといった改良を加えることなどで克服している。

二つ目は、それとはまったく異なる種類の「食事空間問題」であった。食事空間問題とは、どのようなものだったのであろうか。ここでは、この問題に焦点をあてていきたい。

さて、吉野家と言えば、「うまい、やすい、はやい」というキャッチコピーを思い起こす人も多いのではなかろうか(とくに中高年の人は)。この三つのなかでも、「はやい」はファーストフード店である吉野家の基本コンセプトを示す象徴的な言葉となっている。ファーストフード店としてチェーン化を推し進めた一九六〇~一九七〇年代は、「はやい、うまい、やすい」の順番となっており、「はやい」が前面に押し出されていた。

この「はやい」を体現するものが、店舗の中央に置かれた白いカウンターであった。さっと席に着き、さっと出される丼を、さっと食べて、さっと出ていく、というファーストフード性を実現させる重要な装置がカウンターであった。もちろん、店員の動きもカウンターによって合理的でより迅速なものになった。吉野家にとっては、カウンターのある食事空間こそが業態コンセプトの根本とも言えるので、カウンターは絶対に外せない存在でもあった。

米国・デンバーの1号店でも、このカウンターは当然のごとく店の中央に置かれた。写真は、当時の店内である。日本のカジュアルな白いカウンターではなく、重厚な木目調の大きなカウンターが中央に据え付けられているのが分かる。

ところが、このカウンターは米国人客にとっては存在の意味が理解できないものであった。米国でカウンターがある飲食店と言えばバーかダイナーであるが、いずれもカウンターを隔てて内側の従業員と客とのコミュニケーションが成立している。ところが、吉野家のカウンター内には誰もいない。従業員は、厨房から運んできた丼をカウンターの内側から出すだけですぐに立ち去ってしまい、顧客の話し相手にはなってくれない。

また、カウンター席だと二人の場合は別として三人以上では話がしづらいということもあって、結局、米国の店ではカウンター席に座る客はほとんどなく、周囲にあるテーブル席に座る客が圧倒的であったとされている。要するに、カウンターは「意昧のないもの」として米国人には受容されなかったのである。

一九七九年になると、吉野家はデンバーからロサンゼルスに進出をしている。その理由は、先述のように牛丼という米飯メニューがアメリカ人(白人や黒人)の間でなかなか受け入れられなかったためで、米飯の食習慣がある人々、すなわちアジア系住民と中南米系住民(ヒスパニック)が多く住むカリフォルニア州に進出したのである。

この進出とともに店舗も大幅に改装された。それが、ここに掲載した写真である。まず目につくのは、カウンターが消えていることである。この店舗では、最初にレジカウンターで注文をしてお金を払い、そこで牛丼やドリンクを受け取って、それをトレイ(盆)に乗せて好きなテーブル席に着くという手順を取っている。これは「ウォークアップ方式」と呼ばれるものだが、マクドナルドの店と同じ造りにしたわけである。また、顧客自身が重い牛丼をトレイに乗せて歩くのは危険という配慮から、瀬戸物の丼を発泡スチロール製の軽いものに変更している。

こうして、吉野家は米国的なファーストフード店に変身を遂げた。まさに「食事空間」の大転換であった。これによって米国事業は軌道に乗るようになり、現在ではカリフォルニアで一〇〇店舗を超えるまでに成長している。

ところで、このカウンターは、一九八八年に二つ目の海外市場として進出した台湾でも文化摩擦を引き起こしている。やはり、顧客の評判がよくなかったのである。台湾の人たちは、食事は一人でとらないことが多い。むしろ、大人数の家族やグループで食事に出掛けることが多い。ところが、店のまん中にカウンターを置いてしまった吉野家に戸惑う来店客が多かったとされる。

みんなで大テーブルを囲んで賑やかに食事をする文化にとっては、カウンターのある店は佗びしい食事空間としか映らない。台湾には日本びいきの人が多く、吉野家の進出も牛丼も大歓迎されたのであるが、その食事空間は受容されなかった。結局、台湾でもカウンターは撤去されてしまっている。

その後の吉野家における海外店舗では、カウンターは一切設置されていない。現在、吉野家の海外店舗は一〇か国に約六五〇店存在しているが、世界中でカウンターが置かれている吉野家の店は日本にしかない。海外の吉野家を知る訪日観光客にとっては、カウンターのある日本の店内は驚きの食事空間かもしれない。

吉野家の国際化は、国境を越えると、食事空間の意味も変化することを教えてくれたと言える。これも食文化問題の一つなのである。
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内的宇宙の不思議の輪を巡る

『14歳の君へ』宇宙 ⇒ ここから存在についての思考がはじまる

なるほど、科学は、観察と実験によって、天体のさまざまな法則を見いだした。その意味では、それは答えになってはいる。しかし、なぜその天体はその法則なのかという問いには、科学は答えることはできない。いや誰にも絶対に答えることができない究極の問いとは、こうなんだ。「そもそも宇宙なんてものが存在するのはなぜなのか」

「宇宙が存在するのはなぜなのか」。これはまったくとんでもない問いじゃないか。答えが存在しない問いなんて、とんでもないことじゃないか。「宇宙はどうなっているのか」と問えば、科学はそれなりの答えを出すことができる。しかし、「宇宙が存在するのはどうしてなのか」なんて問いは、人間にはまったくどうしようもない。これは本当にとんでもないことじゃないか!

全然そんなふうに思いません、と言う君、なぜ存在しているのかわからない宇宙に、君が存在しているなんてことが、なぜとんでもないことじゃないんだ!

「宇宙はいったいどうなっているのか」という問いは、これだけでも十分にとんでもない。だけど、「どうなっているのかわからない宇宙は、どうして存在しているのか」という問いは、それ以上にとんでもない。

こういう問いはとんでもない、人間にはどうしようもないと気がついた人間は、苦しまぎれに「神」という答えを思いついた。宇宙は神様が創ったものだから、それが存在しているのも神様の意志だとする考えだ。一般的に、これが宗教というものの始まりだ。そういう答えがある方が、人間は安心するものだからだ。

しかし、科学が発達し、科学的知識を身につけた現代の人々には、こんな答えはとても信じることができない。宇宙のどこか外側にいて、宇宙を創った神様なんて、想像にしたって無理がある。それなら宇宙はビッグバンによって、ある時突然始まったとする方が、まだ納得できるというものだ。だけどやっぱり納得できないのが、この「ある時突然」というやつなんだ。

たとえば、こんなふうに考えてみよう。天体望遠鏡で、百億光年向こうの星の姿を君は見る。光の到達時間差から計算して、百億年前の星の姿を、今見ていると、科学は説明するわけだ。しかし、ここでおかしなことに気がつかないか。百億年前には、君は存在していなかったはずだ。それなら、自分が存在していない世界を、なぜ今見ることができるのだろう。これはすごくおかしなことじゃないか。だって、言ってみればそれは、両親が結婚して君が生まれる前の世界を、生まれていないはずの君が今見ているということなんだから。これはどう考えても変じゃないか。どうしてこんな変なことが可能なのだろう。

こういうおかしな事態について、科学は説明することができない。これは当然だ。なぜなら科学は、宇宙と自分というものを、あくまでも別物とすることで成立しているからだ。そうでなければ、それを対象として観察、実験することができないからだ。しかし、なおよく考えてみれば、自分と宇宙を別物にすることなんか、できるわけがない。宇宙を客観的に観察しているつもりの自分が、まさにその宇宙の中にいるのだからだ。

宇宙を知りたい、宇宙とは何かを考えたいと願う君は、本当は、それを考えている自分とは何かをこそ、考えなければならないんだ。「自分とは何か」、これはその意味で、宇宙の不思議に匹敵する問いなんだ。だって、百億年前の宇宙を今見ている自分は、百億年前にも存在していたのでなければおかしいよね。そう考えれば、「ある時突然」ビッグバンから宇宙の時間は始まったとする、科学的な時間の観念も、実はおかしなものだと気がつくだろう。だいいち、「ある時突然」なんて瞬間を、いったい誰が見ていたと言うんだい。

そう、見ていたのは、ひょっとしたら、君だ。君というのは、ひょっとしたら、宗教が信じている以上に神様みたいなものかもしれないよ。それなら、そういう君は、なんだって存在しているのだろう。

宇宙を知りたいと思い、宇宙へ出かけて行く宇宙飛行士は、だから、「自分」というものの不思議について気がついていないということだ。「自分」というのは、ここに存在しているこの肉体のことで、数十年の一生を終えれば、消えてなくなるものだと思っているんだ。

それはそれで間違いではない。人間の肉体は有限だ。人間は半分はそういう存在だ。だけど、もう半分では、宇宙の始まりや終わりを問う存在だ。「始まり」を問えば、「始まりの始まり」を問い、「終わり」を問えば、「終わりの終わり」を問うてしまう。だから宇宙には始まりも終わりも考えられない、そんなものはない、ゆえに宇宙は無限なんだと理解できる存在だ。

このことの意味することを、ゆっくり静かに味わってごらん。いいかい、有限のはずの自分が、無限ということを理解できるとは、どういうことだろう。この「無限」ということ、つまり限りがなくて先があり、その先がどうなっているのかを決して知ることができない存在、それがそういう存在だということを、今まさにこの自分が理解できるということは、これまたとんでもないことじゃないか。それは、この自分が今まさにそういう存在だからに他ならないじゃないか!。

どういうわけだか、いやこれは本当に不思議なことに、人間というのは、有限であると同時に、無限である存在だ。宇宙飛行士を含む多くの科学者は、このことに気がついていない。だから、宇宙を知るためには宇宙へ行けばいいと思うわけだが、人間が本当に知るべきなのは、外界より先に内界なんだ。外界を知るための考えなんだ。考えている自分を知るために内界へ向かって行けば、なんとそれは無限へ通じていたことに、君はたちまち気がつくだろう。内へ向かって、外へ抜けちゃうんだから、おかしなことだね。宇宙について考える人間の考えというのは、必ずこういう筋道をたどることになっている。外は内であり、内は外なんだ。おかしな構造だ。

「どうして?」となお問うて、「神様」と答えてもいいし、答えなくてもいい。そんなのはまあ好みだね。いずれにせよ人間に答えられることじゃない。だって、その神様について問うているのも、やっぱりこの考え、この「自分」だからだ。この堂々巡りを打ち切るために、とりあえずそれを答えにしておくというのぱ、賢い手かもしれないね。

さて、「ディスカバリー」の話から始まって、最後は内的宇宙の不思議の輪を巡ることになったけれども、どうだろう、君はまだ宇宙飛行士に憧れているかしら。たぶんそれはとても魅力的なことだけれど、「未知」「不思議」「わけがわからない」ということでは、内的宇宙の冒険の方が、はるかにすごいことだろう。なぜって、そのわけのわからなさとは、今自分がそれを生きているというまさにそのことだということを、今や君は知っているからだ。生きているということは、本当に、すごいことなんだよ。
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なぜ人は戦争するのかということについて

『14歳の君へ』戦争 ⇒ 答は池田晶子にあり

いいかい、それは、すべての戦争、どの時代どの場合でも必ず、人間によって行われるすべての戦争は、必ず集団によって行われているということだ。戦争とは、必ず集団による行為だということだ。集団と集団との間で行われる殺人や破壊や略奪という行為、それを戦争と呼ぶのであって、戦争がひとりの個人で行われるということは決してない。それが国家であれ、民族であれ、宗教的結束であれ、戦争とは、人間が集団になって初めて成立する行為だということだ。

では、集団とは、何だろう。たんに複数の人間が存在するということとは区別して、この場合の集団のことを「共同体」と呼んでみよう。共同体とは、たんなる複数の人間の集団のことではなくて、それを構成する人々が、何かひとつの考えを共有している集団のことだ。たとえば、君の通っている学校はひとつの共同体だ。それを構成する人々が、自分たちはひとつの学校という共同体を構成しているという考えを共有している。同じように、日本国というのも、共同体だ。それを構成する人々が、自分たちは日本国という共同体を構成しているという考えを共有している集団ということだ。

さて、ここでよく注意しておいてほしい。共同体というのは、そんなふうに、あくまでも人々の「考え」だということだ。そんなふうに考える人々の考えだということだ。考えの中以外のどこにも、共同体なんてものは、物のように存在してはいない。学校の建物は、あくまで・も学校の建物であって、学校そのものではないね。同じように、日本国というものも、目に見える世界のどこにも、存在しているものではない。なぜなら、日本の国土は日本の国土であって、日本そのものではないし、日本の政府も、日本の政府、政府を構成する人間たちのことであって、そこにも日本そのものは存在してぱいない。

では、日本そのもの、日本という国家はどこに存在するかというと、人々の考えの中に存在する。ある国土やある政府をもって日本国としようという、その考えの中にだけ、存在するものなんだ。考えの中にしか、存在していないものなんだ。

考えの中にしか存在しないのだから、それを「作り事」と呼んでもいい。共同体というものはすべて、人間の考えが作り出した作・り事だ。それに基づいて集団が結束すれば、生きてゆく上で都合がいいという、そのために作り出した作り事にすぎないんだ。決して目に見えるものとして世界のどこかに存在するような何かじゃない。

国家という共同体は考えの中の作り事にすぎないとしても、民族というのは作り事じゃない、血がつながっているということは現実の事実じゃないかと言う人もいるだろう。

それは確かにその通りだ。だけど、血がつながっているという事実によって、人々をひとつの集団に結束させようというのも、やはりそういう考えだ。民族共同体というのも、あくまでも考えによる作り事だ。血がつながっているから結束しやすいと思うのは、家族という共同体がそうであるのと同じことだ。家族ですら共同体、考えによる作り事だなんて、君にはなかなか思えないかもしれない。自分がある両親の子供として生まれたということは、完全な事実だからね。

だけど、ある両親の子供として生まれたところの、その自分とは、いったい誰なんだろう。そんなふうに考える習慣をもつといい。ある両親の子供であり、ある学校の生徒であり、日本国籍を所有する日本人である。さまざまな共同体に自分は所属している。しかし、そうであるところの、その自分とは、誰なのか。

ほとんどの人間は、ある共同体に所属するところの自分が、自分なのだと思っている。本当の自分とは誰なのかということを考えず、共同体のメンバーとしての自分が自分なのだと思い込んでいるんだ。わかりやすいし、安心だからね。そして、そう思いむことによって、共同体など、自分の考えの中の作り事だということを忘れてしまう。そうするとどうなるか、わかるだろう。作り事を現実と思い込んだ人間同十六共同体同士が、その利害や名誉を賭けて、争うことになる。共同体を自分だと思い込んでいるから、冷静でいられなくなるんだ。

具体的に考えてみよう。たとえば、日本がどこかの国に侮辱されたとする。君は腹が立つだろうか。どうして腹が立つだろうか。「日本人」が侮辱されても、君が侮辱されたわけじゃない。確かに君は日本人だ。でも日本人であるところの君そのものは、そうじゃない。だいいち、侮辱されたところの「日本」なんてそんなもの、いったいどこに存在しているんだろ。

有史以来戦争を繰り返してきた人間は、すべてこの勘違いを犯しているんだ。存在しないものを存在すると思う、作り事を現実だと思う勘違いだ。その根本にあるのが「私は○○人である」「私は○○国に所属する」という思い込みだ。なるほどそれは事実ではある。しかしそれは、生きてゆく上で、とりあえずそうしておこうという作り事だとわかっているなら、どうしてその作‐り事のために命を捨てたりするだろう。それでは話が逆じゃないか。頭の中のもののために殺し合うなんてばかげたことをするのは、生物の中でも人間だけだ。

いったん殺し合いが始まれば、憎悪が憎悪を呼ぶだろう。アメリカ人はイラク人を憎んでいる。だけど「アメリカ人」「イラク人」なんて、いったいどこに存在しているんだ?

試みに、「私は日本人である」「私は日本国に所属する」と言ってみるといい。そう言うだけで、当然、「日本人ではない人」「日本国に所属しない人」のことをも言っていることになると、気がつくだろう。自分を何者かであると規定するということは、同時に「自分以外の者」をも規定するということなんだ。

それだけのことなら、それだけのことだ。しかし、「自分」と「自分以外の者」というこの気持ちは、利害や名誉といった何かをきっかけとして、容易に「敵」と「味方」という対立へと変化する。それが個人と個人の間の対立なら、ただの喧嘩だ。しかし、その喧嘩が共同体規模へと拡大したのが、戦争というものだ。戦争とは、「自分たち」が「自分たち以外の者」を、「敵」として武力で排除しようとする集団的な心の動きだと言うこともできる。

しかし、共同体というのはあくまでも作り事だ。作り事を現実と思い込むところに戦争が起こるのだということを、これまで考えてきたのだったね。

でも、共同体は作り事でも、現実に肉親を殺された人の、その憎悪は現実ではないかと言う人もいるだろう。

まったくその通りだ。だからこそ、人は共同体という作り事を必要とするんだ。そういう個人の感情であるものを、共同体の正義だと言い換えれば、殺人も報復も、正しいものにすることができるからだ。個人では犯罪になることも、正しいことになるし、正義の名の下に、団結を固くすることもできる。共同体は戦争という行為を正しいものにしてくれるのだ。

しかし、戦争それ自体に正しいも間違っているもあったものだろうか。なぜなら、戦争というのは一律に、共同体を自分だと思い込む根本的な勘違いから起こるものだからだ。

戦争している国同士は、必ず、自分たちの国が正義で、相手の国が不正なのだと思っている。しかし、国なんて存在しないもの、各人の頭の中にしかない作り事の、正、不正を、どうやって判断することができるだろう。人間にできるのは、現実に存在する人間、現実に存在する個人が、その置かれた現実の中で、いかに正しく行為できるか、それだけなんだ。

たまたま君は、戦争していない国に生まれた。ということは、している国に生まれることもできたということだ。もしそうだったら、君はどう行為するだろう。それができる今のうちに、うんと考えておくといい。現実の戦争で、そう、肉親を殺されるか、自分が殺すか殺されるか。その時、君はどう行為するか。

戦争に反対すると、口で言うのは簡単だ。起こっている戦争に加担するのも簡単だ。難しいのは、そもそも戦争とは何なのか、なぜ人は戦争するのかということについて、どこまでも深く見抜いてゆくことだ。考えることだ。考えるほどに、いろんなことが見えてきて、君は考えるのをやめられなくなるはずだ。それで、いいんだ。それは、平和は善で、戦争は悪だと思い込んでいるよりも、はるかに賢いことなんだ。
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終末期にある患者への看護援助

『臨床看護総論』より 終末期における看護 終末期にある患者への看護援助

終末期にある患者への看護援助は、終末という病像に加え人生の終末に生じるトータルペインに対する緩和ケアをしながら生活全般を支え、患者が自分らしく生き抜くことができるように、チームで取り組む専門的ケアである。ナイチンゲールが述べている「看護は、患者の生命力の消耗を最小にするようすべてを整えること、つまり、患者の生きる力の消耗を最小限にすることが看護の基盤となる。

援助の方法は、患者と家族にとっての健康問題を共有し、望ましい状態をともに決定することで目標を共有し、具体策をともに立案する。終末期患者への安心・安全・安楽を最大限配慮しながら、セルフケア能力に応じて援助し、個別の状況に応じたトータルケア(全人的な援助)を実施する。

看護師の重要な役割は、患者が終末期にあっても、患者の成長を支援する、患者のQOLを支援する、患者の自己決定権を支援する、ことである。そのために看護師は、看護の専門職者として、患者の存在を尊重すること、患者のそばにいること、患者の死ではなく生への援助であることの大切さに気づくことが必要である。

①援助の基本

 ・アセスメント

  患者が自分らしく生き抜くことを支えるためには、身体の終末像を理解することが大切となる。看護師の正確なフィジカルアセスメントにより、先を見通したケアを計画的に提供することができる。また、その患者にとっての自己実現の機会をもたらすことにもなる。

  そのためには、よく観察することが大切である。終末期には複数の症状があるため、それぞれの症状について詳細に患者の話を傾聴し、ありのままを受けとめる。視覚・聴覚・嗅覚・触覚などの五感を敏感にはたらかせて、刻々と変化する状態を見逃さないように継続して観察する。さらに、家族からも情報を得て、患者の症状体験を深く理解する。さらに、患者はトータルペインをかかえているため、患者の苦痛を全人的に理解する。

  トータルペインの視点もふまえて、発達段階、全身状態(パフォーマンスステータス)、栄養状態、疾病や治療による症状の有無・程度、日常生活への影響、心理・精神面、社会・経済面など系統的に、客観的・主観的情報を収集し統合して、個別の生活者としての全体像と看護上の問題を理解する。

 ・信頼関係とコミュニケーション

  終末期にある患者や家族は、ストレスが多い状況におかれることが多いため、医療職者の一言ひと言が重く心に響く。看護師は、患者と家族の主体性を尊重し、思いやりと誠意のある言動や態度を示すことが大切である。信頼関係の形成には、時間をかけられない場合もあり、出会ったときの1回1回の対応やコミュニケーションが非常に重要となる。このときには看護師の専門性だけでなく、自分の人間性が全面に出ることを、看護師は自覚しておく必要がある。したがって、日々コミュニケーション技術をみがく努力は必要であろう。

  患者も看護師も同じ人間なので、場合によっては柑|生が合わないこともある。そのような場合には、互いのストレスが高まることを回避するために、相性の合うほかのチームメンバーが対応する、ボランティアや宗教家などの社会資源を活用する、などチーム全体で患者を支えることが大切である。

②状態に合わせた日常生活の援助

 終末期になると、疼痛、倦怠感、食欲不振、吐きけ・嘔吐、息苦しさ、などさまざまな身体症状が出現するようになる。症状をコントロールしながら患者の状態に合わせた日常生活の援助が、患者の安楽とその人らしい生活をもたらす。とくに終末期には、基本的ニードの充足への援助、とりわけ、食に関する苦痛への援助、排泄に関する苦痛への援助、清潔に関する苦痛への援助がとても重要となる。ヘンダーソンが『看護の基本となるもの』で「患者が基本的ニードを満たし、生活行動を行うことを援助する」と述べていることである。

 このような確かな理論に基づく援助が、患者の生活の質を高めることにつながる。看護師には、患者が求めているニードを見きわめて寄り添う姿勢が大切である。

③症状に関する苦痛への援助

 身体的苦痛は、ほとんどの終末期患者に生じる苦痛で、身体の機能低下・停止が原因であるため患者の努力だけでは解決できない問題である。この身体的苦痛は、トータルベインの構成要因の1つであり、ほかの要因と影響し合う。患者が痛みなど苦痛症状を訴える場合には、その症状に関する系統的な観察とトータルペインの視点からのアセスメントを行い、全体像を把握することが大切である。痛みや息苦しさなどの症状に対しては、患者の訴えを最優先し、患者にがまんさせないことが重要である。看護師には、患者の病態を正確に理解し、苦痛症状が増強する前に援助することが求められる。

④心理的安寧への援助(生き抜くことを支える)

 終末期の患者は、トータルペインをかかえながら日々過ごしている。身体的苦痛を訴えていても、その背景には、心理・社会的苦痛、霊的苦痛を伴っている。看護師は、前述した心理的・社会的ニーズを理解して、個別の患者のトータルペインを把握し、全体像をアセスメントして、その患者に適した心のケアを行う。

 重視されるおもなケアは、①患者自身が自分の生きてきた人生の意義を再確認できるようにする、②孤独にさせないように人と交わる機会をつくる、③心理的葛藤を解消または軽減するように患者のかかえている問題を一緒に整理する、④患者が語る死にまつわる話を共有する、⑤患者の希望や生きがいを見まもり支える、などである。患者の苦悩が深い場合には、精神科医や宗教家などの他職種と連携する。

 患者は、病気の過程や死にゆく過程で内面が揺れ動き、さまざまな感情を体験する。看護師は、このような状況にある患者をあたたかく見まもり、感情を受けとめる、共感的な態度でかかわる、などの情緒的な支援を行う。

 患者が療養する場は、病院、ホスピス、自宅など多様であり、患者が自己選択する意思決定を支援することも必要である。患者の状況によっては,バメディカルソーシャルワーカーや地域の社会資源を活用する。自宅で療養する場合は、必要時、家族への介護指導、症状チェックなどのセルフケア教育、死の準備教育を行う。

⑤家族への援助

 時代の移りかわりとともに家族の状況も変化している。核家族・1人世帯・老老介護の増加などの社会情勢からは、患者を含めた家族全体が潜在的・顕在的な健康問題をかかえているといえる。家族とは、通常は血縁関係にある者の集まりをいうが、患者のおかれた状況によっては血縁関係によらない場合もあるため、患者にとって家族とは誰をいうのか直接確認することも必要である。どのような立場にある家族も、死にゆく患者にとってはかけがえのない存在であり、患者を失っても存在しつづけることにかわりない。

 終末期にある患者の容態が経過するにつれ、家族の様相も変化する。終末期の患者をかかえる家族は、多岐にわたる苦悩・苦痛、いわゆるトータルペインを体験する。このような家族の状況は、看護師が意図的にわかろうと努力することで理解できる。ありのままの家族像を把握することがとても大切である。

 そのうえで、患者の残された人生の時間を患者とともに生きられるような予期悲嘆への援助、患者にとっても家族にとっても満足する看取りの援助、死別後の家族の成長をもたらし家族みずからの人生を生きつづけられるような悲嘆の援助と遺族ケアを実施する。
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未唯空間第5章 仕事篇

歴史のキーワード

 民主主義と国民国家だけだけど、歴史認識とかが曖昧になっている。支配とか政治形態は国民国家の中に入る。地方のことについては、社会の方で述べる。もう少し、流れの方を整理しないといけない。

 イスラム国とか北朝鮮などは民主主義とか国民国家に入ります。個人の覚醒に関するものはどこに位置づけようか。

歴史の動き

 4.3と4.4は融合した方がいい。一緒になっています。歴史の動き、歴史から学ぶもの、戦争とか武器とか指導者とかの類のモノは片一方に置きましょう。民族とか個人とかの意識に関するものは歴史認識に置きましょう。

 経済に関するモノとか知識に関するものは、社会とか図書館に置きます。では、教育はどこに置きましょうか。会社のこと、資本主義のこと、所有に関することは新しい循環にしましょう。それらのキーワードを作らないといけません。そういう意味では資本主義なのか。

「教育を変える」とは

 「教育を変える」というコマーシャルがあるけど、ICTで変わるものではない。ベースを変えないといけない。仕事を得るためならば、仕事を変えないといけない。家庭も変えていかないといけない。そこから、教育のお金も変えていかないといけない。自己負担なのか、あくまでも格差なのか、シェアする世界なのか。

歴史のなかに時空間

 歴史のなかに時空間を入れないといけない。特に時間軸ですね。ローマ帝国にしても興亡をキッチリ、押えないといけない。そして、歴史的な意識が何とつながっていくのか。歴史から学ぶものは大きい。

 今と四次元の世界、さらに超えて、無限次元の世界。歴史の流れに中に入れましょう。

新刊書争いが激化

 やっと、豊田市図書館に新刊書を収集するために出掛けた。タブレットを忘れた。外そうとしたところまで覚えているけど、なぜか、バックに入れていなかった。帰って、見たら、外してもいなかった。新刊書を入れるバックが気になって、すっかり忘れていた。

 今日は月末だから、新刊書の件数は少ないから、また、ムダな争いをしないといけない。なぜ、彼らは私の邪魔をするのか。

「春ですね」メール

 3月1日になったら、メールをしましょう。12月1日のように「春ですね」メールです。思い切って、一カ月以上も音信不通のパートナーにも出しましょうか。そんな勇気は私にはないから、Iさんの反応次第で調子に乗れるかどうか。

非連続な日々

 今日の私の行動を決めるのは今日の私です。それが名古屋へ行けなかった自分に対する言い訳です。何か心臓が反応しない、そんな感じです。

 散歩している時に、名古屋行のバスが来たから、それに乗るみたいな格好です。豊田市に行く10分と名古屋までの1時間との差だけです。同じように、スタバで休憩です。それが非連続日々です。前日に行動を規定してはいけない。

全てを知るの意味

 全てを知ると言っても、知るのが目的ではない。数学のすべて、歴史のすべてを知ることではない。特に、自分のすべてを知るのが一番難しいでしょう。

 女性に関しては、全てどころか、一部分さえも分かりません。まるっきりわかりません。他者の存在も分かりません。そんな状態で全てを知るとはどういうことなのか。

 その上に、全てを表すとなっています。どだいごと無理です。だけど、これが夢です。最終的には、生まれて来た以上はどうなっているかを知りたいということです。そうでなければ、この世界はどうでもいいです。

この世界への違和感

 なんか、こんな世界に違和感が多い。これ以外の選択肢がいくらでもあったという思いが多い。男女の役割にしても適当です。かなりの部分が中途半端です。私の周りだけを取りつくっている。それもかなり、レベルの低い状態です。

未唯空間第5章 仕事篇

 仕事篇は発見のプロセスです。自分の仕事はシステム設計というよりもシステムそのものです。数学を活かすには最適でした。井上さんからは、数学をしていたと言われた。研究開発部署では、対象は技術者に絞りました。彼らの夢をいかに形にしていくか、つなげていくか。自分の夢は彼らの夢です。

サファイア循環

 販売部署で得たのは、サファイア循環です。これで色々なことが見えてきた。すべてのことをこれで見ていこうとしました。

中間の存在

 その中で「中間の存在」を得ました。これはパートナーの問題意識が影響しています。ポータルとかライブラリとか売るということはどういうことなのかが分かりました。システムを担当したので、中間の存在の環境として、状況把握が必要だとか、いかに支援していくのか、全体のバランスをどうしていくのかを考えられた。

キーワードを見つける仮説・実証

 キーワードを見つけるために仕事をしていた。そのキーワードでシステムを作って、有効性を確認していた。これらは実験です。仮説に基づいて、それを実証してきた。会社の資源は使い出があります。会社の金と資源を使って、大々的にできた。6千拠点が一つのシステムに入り込んだ。Muの環境も6千拠点に設置した。

そして、地域への展開

 最後の5年間は、中間の存在の要望をまとめていた。要望をいかにして、カタチにするのか。その時にパートナーが寄り添う役割を見てきた。一つずつ動かしていたのでは、とても足りない。

 そこから出て来たのは、中間の存在が覚醒するのと同時に、地域の人たちも分化して覚醒しないと、全体は変わりようがない。中間の存在も動けないということです。

 そして、クルマを考えた時に、クルマという交通手段が地域の中で活用できるためには、地域の中でのクルマ社会を想定しないといけないことが分かった。そのために、仕事自体を変えないといけない。仕事というのは、キーワードを得るための30年です。そこから、歴史のキーワードが欲しいけど、まだ分かっていません。
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