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PaperWhiteの活用

ICレコーダー一つで出掛けます

 バックデータを読めないといけない。考える時間を得るために。書くことよりもICレコーダーに入れる方を優先します。

PaperWhiteの活用

 キンドルは6台持っている。PaperWhite3台の内の二台を使いましょう。何しろ、バッテリーも画面も安定しているから。

 キンドル側とコンテンツを入れ替えましょう。なんなら、キンドルをイニシャライズしてでも。文章用とプレゼン用とに分けます。つまり、縦方向と横方向です。文章側には雑記帳の文献を分けておきます。それで使えるかどうかを試します。

 プレゼンの方は縦スクロールが必要ですので、タブレット側を中心とします。だけど、同期化して入れておきます。

名古屋への計画

 Iさんの所に行くのは、最終金曜日にします。生活費確保のあとです。そうなると、調整のために居ないことも半分ぐらいあるでしょう。

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ネット時代の図書館 変革への一〇のステップ

『ネット時代の図書館』より 危機に瀕しているもの

いまもこの先も使える、図書館を気にかけるすべての人々のための、変革への一〇のステップ

 1.デジタル・プラス時代に向けて図書館を再定義し、プラットフォームとして作り直す。〝デジタル・プラス〟とは、資料がデジタル形式で作られ、その後さまざまなフォーマットに直されることを意味する。あるものは印刷され(伝統的な本や、画像のハードコピーなど)、あるものはデジタルのままである(電子書籍、双方向型のゲーム、画像ファイル、デジタル形式の視聴覚作品など)。〝プラットフォーム〟とは、それぞれの図書館は個別の存在であり競争相手であるよりは、高度なネットワークで結ばれたデジタル社会で、ネットワークの接点として機能すべきだということを意味する。

 2.図書館は、意欲的なネットワーク機関としての役割を果たさなくてはならない。それには大規模で動き、利用者のためにその規模を有効に使えることが必要である。図書館は、アーカイブや歴史協会や博物館やその他の文化遺産組織などの提携機関と効果的にネットワークでつながらねばならない。

 3.この再定義の基本は、需要主導型でなくてはならない。過去がどうだったかというノスタルジーに陥るのではなく、人々や地域社会が現在、そして未来の図書館に何を求めているかが基本である。地域社会のニーズと協調することで、問題解決の手助けがよりうまくできれば、図書館の資金問題も緩和されるだろう。ブライアン・バノンと彼の仲間たちは、シカゴのラーム・エマニュエル市長の熱い支持を受け、それを成功させた。

 4.図書館の再定義の段階で、フィジカルとアナログを排除してはならない。未来の図書館には、資料や空間のための場所と、利用者が経験するための場所がある。

 5.司書はただ公共の利益のために、必要なことだけをして、立地条件を生かすよう努めるべきである。

 6.図書館は著者やエージェントや編集者や出版社と連携すべきである。知識を生み出すエコシステムの二鄙として、図書館は存在する。こうした役割は変わるかもしれないが、その機能の価値は変わらない。

 7.図書館の空間は、むしろ研究所や〝共同制作機関〟に近い機能を果たすべきであり、人々はそこで情報に触れ、新しい知識を利用する。本が学術探究の素材として利用された一九世紀末には〝本の研究所〟として知られていたが、共同生産が基準であるデジタル・プラス時代には、図書館は真の研究所であるべきだ。

 8.司書たちは協力し合い、オープンに共有された大規模なデジタルインフラを作るために技術者と連携すべきである。このデジタルインフラを生み出すインターネットを作ったハッカー精神を参考にする。これにはいま以上の資金と時間の投資が必要である。

 9.知識の保管には、いま以上の連携が必要である。図書館は物理的スペースを維持すべきだが、それを資料の保存以外のさまざまな目的に使うべきである。根本的に、われわれは長期デジタル保存への投資が不足している。

 10.一九世紀末から二〇世紀はじめにかけて慈善家や地域や大学が力を入れたように、図書館が新たな時代へと移行するには投資が必要である。アクセスにも保存にも力を注ぐ、図書館の研究開発に取りかかったこれらの資本コストは、民主主義に大きな利益を生むだろう。

図書館を機関として、そして司書の役割を専門職として見直した結果、重要なのは伝統と革新のバランスになるだろう。先見の明のある司書は、長いあいだこのバランスをとろうとしてきた。司書の昔からの行動指針--情報への普遍的アクセス、個人のプライバシー、表現の自由、そして何より誠実であること--はいまも変わらず必要であり、それを持続させなくてはならない。同時に、図書館のリーダーとしては、より力強く新たな方向へ向かう必要がある。そうでなければ図書館はアメリカの一般大衆への影響力を失ってしまうだろう。このバランスが必要なのは図書館だけではない。たとえば学校や新聞は、同じように危機や改革の瞬間に直面しており、未来を描く中心的役割を果たしている。こうした機関はすべて、大衆に情報を与え、教育し、共通の利益に従事させる役割を持つ。われわれはこの三つすべてを正しく理解しなくてはならない。

図書館の世界がもっともうまく発展するのは、個々の図書館を独立した機関ではなくネットワークとして機能させる、革新的なシステムが成長するときである。このネットワークの構成分子は、すでに整っているか、長い時間をかけて発達しているかのどちらかだ。ネットワークの人的部分である司書自身は、効果的な方法で提携への道を探してきた。それに世界じゅうの図書館への高速ネットワークアクセスが加わり、すばらしい技術ネットワークが確立した。いま加わろうとしている次の構成分子は、こうしたネットワークを最大限に活用する方法を知っている有能な司書たちだ。彼らはソーシャルネットワークや、オープンソースのプラットフォームや、オープンアクセスの資料を、現在や未来の図書館利用者にとって重要なやり方で利用する方法を知っている。最終的には、利用者の要望により迅速に応えられ、図書館分野と社会の長期的なニーズに応じる大規模なコラボレーションに携わる、地方機関になるだろう。

さらなる公的支援がなければ、司書はこのスイッチをネットワーク化された協調モードに切り替える立場にはなれないだろう。とりわけこの変化の時代には、個人であれ組織のリーダーであれ、われわれすべてが、図書館の支援にもっと多くの資金と時間を捧げる必要がある。公的投資、私的投資の増加を主張するために、図書館はノスタルジー以上のものを利用できなくてはならない。これは価値ある取り引きであり、公共図書館のもともとの使命に忠実なものだ。

こうしたサービスは、なぜ民間企業でなく、公共機関が提供しなくてはならないのか? 一九世紀なかばのボストンなどで起きた議論同様、真の〝公共の選択肢〟という概念こそ、わたしの議論の中核をなすものだ。民主主義システムが依存する知識や情報に関しては、地域社会のニーズに応じるのに市場だけに頼るべきではない。民間企業はデジタル革新で大成功をおさめており、たとえば企業の電子メールシステムの供給のように、民間企業がするのがふさわしい分野もある。けれども社会の文化的、歴史的、政治的、科学的記録に関しては、公共機関が主導的役割を果たす必要がある。その役割は、短期的に見れば、人々がよき市民となりますます情報化の進む経済社会で成功するために必要な、公平で普遍的な知識を利用できるようにすることである。そして長期的には、火災や技術の変化や政治上の悪意、そのほか重要資料の保存を脅かすものなど、歳月による避けられない損害から記録を守り、それを残すことである。

情報豊かで、開放的で、自由な共和国の運命は、図書館の未来で決まると言っても過言ではない。アメリカ図書館協会の当時の会長であり、わたしに希望を与える偉大な司書であるモーリーン・サリバンは、わたしにこう言った。「図書館の未来がとても重要だと思うのは、アメリカのすべての子どもたちが、投票できるようになる前に、必要な情報にアクセスできるようにしたいからだ」。輝かしく喜ばしいデジタル時代の未来に、われわれ公共機関が協力し合う理由は充分にある。図書館は民主主義にとって非常に重要なので、この任務に失敗するわけにはいかないのだ。

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ネット時代の図書館 バーチャルとフィジカルの結合

『ネット時代の図書館』より アナログとデジタルが共存するハイブリッドな空間を作り出せ。--ジェフリー・シュナップ、ハーバード大学メタラボ

学期中にハーバード・ロースクール図書館の閲覧室を歩いていくと、だいたいいつでも、多くの座席が学生で占められていることに気づくだろう。学生たちは天井の高い部屋の中で、はるか昔の法律の大家たち(ほとんどが白人で、かつらをつけている者もいる)の揺るぎない視線に見おろされながら、長いテーブルに並んで座っている。学生たちがこの大きな部屋に集まっているのは、たいがい法律を学ぶためだろうが、絶対にそうというわけでもない。いろいろな分野の学生が大学じゅうから、リサーチあるいは試験に向けての勉強のために、気持ちを奮い立たせるこの部屋へやってきたのだ。ときには学生にまじって教授たちが何人か座っていることもある。おそらくはかつて学位の取得をめざして試験勉強をしていた、その同じ座席に。

多様な背景を持ち、年齢もさまざまであるにもかかわらず、この特別な図書館で勉強に精を出す人々は、自分の座る長い木製テーブルの上に、同じようなものを置く傾向がある。まず、コーヒー(中身がこぼれて図書館や本を汚さないように、しっかりフタが閉まる、学校が認可した特大のマグカップに入れて)は一般的だ。そしてほとんどすべての学生が、目の前にノートパソコンを置き、図書館のワイヤレスネットワークに接続している。ノートパソコンとコーヒーは、勉強熱心な若者世代と聞いて、われわれがすぐに思い浮かべるものかもしれない。

だが、共通する特徴はもうひとつある。法学部の学生のほとんどが自分の前に置いているのは、何インチも厚みがあって、ずっしり重そうに装丁された法律の判例集だ。法律書というものは数百年間見かけが変わっていないが、この判例集もよく似ている。法に携わった歴史上の人物--リトルトン、コーク、ブラックストン、ストーリー、ホームズといった、閲覧室で学生たちを見おろす肖像画に描かれるような名士たち--がかつて自らの見解を述べていたのと基本的には同じ形式で書かれ、よく目にするものである。ますますデジタル化か進むこの時代でさえ、昔ながらの紙の判例集は、法学の変わらない特徴なのだ。

判例集のほかにも、法学部生はもう少し小さなものをいくつか置いている。彼らの大部分が、何かしらのボールペンと太い黄色の蛍光マーカーを持っているのだ(調べたことはないが、実証的研究の見地から考えて、法学部の書店のほうがキャンパスの反対側にある同じタイプの書店より、黄色い蛍光マーカーが間違いなくよく売れているはずである)。熱心な法学部の学生は、同じ判例を何度も何度もじっくり調べ、判例集のページを黄色いインクだらけにする。ときには二重に強調するために、同じ個所にアンダーラインを引くこともある。余白には、判決や判決理由に組み込まれた付言に対する解説が、手書きでびっしり書き込まれている。

デジタル時代が到来してもこれらの判例集が生き残ったのには理由がある。学生に情報を伝える効果的な方法だからだ。判例集は便利なカンバスであり、学生たちはそこで法律情報の中核である生のデータを学ぶことができる。しかし、これらの判例集も完璧ではない。重くて高価な上、双方向性、注釈の共有、共同の作業空間、コンセプト間の新たな結合といった、デジタル形式ならすぐに提供できるものが得られないからだ。

これから数年はまだ、法学部の学生は重い判例集を苦労して持ち歩くことになりそうだ。ひとつには、おそらく流れは変わっていくに違いないが、一般には若者のあいだに電子書籍がいまだ根づいていないからである。もうひとつは、法学部の学生という大きな市場に対して、いまのものに勝るロースクール向け判例集を誰も考案していないからだ。だが、この状況は変わるだろう。デジタル形式の判例集の利点は多く、現状のまま紙の本を使い続ける意味はない。装丁が施され、著作権が切れて誰でも利用できるデータが大部分なのに一冊一五〇ドルもする判例集は、デジタル革命を生き残れないだろう。学生たちは法律を学ぶのに、もっと改善されて値段も安く、弓乱のアプリやノートパソコンのウェブブラウザを経由してアクセスできる双方向型の教科書に移っていくに違いない。

現在のハーバード・ロースクール図書館のような学生が館内で熱心に勉強する光景を見て、司書たちがどれほど安心し、未来に望みをかけたとしても、目前に迫る変化は次々と難しい質問を投げかける。なぜあの学生たちは、下調べをするのに図書館のこの場所へ来たがるのだろう? 彼らが重くて運びづらい本を使うのをやめたら、いったい何か起こるのか? デジタルの時代にわれわれは、彼らが学習に使っている資料をもっと改善できるのだろうか? もし紙の本を除外すれば、学生たちはわれわれが彼らのために多額の金を使って苦労して築き、維持している、美しい図書館の空間から離れていってしまうだろうか? これらの疑問に明白な答えを考えつかないかぎり、われわれは営利主義に捧げられていない最後の公共スベースのいくつかを失うことになるだろう。

成功している図書館の空間は、利用者がさまざまなフォーマットで情報を利用できるように支援するものだ--たとえ今後、フォーマットやユーザーアクセスがどのように進化しようとも。司書は--ついでに言えば図書館の設計者も--現実のアーキテクチャと情報アーキテクチャの結合に真剣に取り組んでいる。ひとたび書籍がアナログ形式で出版されなくなれば、図書館という場所も必要なくなると推測する人がいるかもしれない。だが、その推測は間違っているとわかるだろう。

ハーバード・ロースクール図書館の閲覧室から法律書がなくなった場面を想像してほしい。黄色い蛍光マーカーも黒いボールペンもない。残っているのは学生たちと、彼らのノートパソコン(もしかすると弓乱のような、もう少し小さい型のタブレット端末に代わっているかもしれない)、それにコーヒー(こちらは変わらずフタつきの大きなマグカップで)。その若者たちは現在のように、昼も夜も図書館の長い木製テーブルに並んで座っているだろうか?

そのはずである--もし司書や、彼らを支援するわれわれがうまく立ちまわれば、きっとそうなるだろう。学生たちが紙の本をせっせとめくろうが、デジタル版の判例集をら乱で調べようが、図書館が提供するサービスには関係がない。

ひとつには、大半の図書館は、騒がしくて気が散りがちなこの世界に必要不可欠な、黙想にふけることのできる空間を作り出しているからだ。図書館の閲覧室独特の雰囲気は--研究者向けであろうと一般向けであろうと--学習を促してくれる。その空間の主な機能は一目瞭然だ。本を読み、じっくり考え、書き、試験の準備をすること。多くの生徒が、自分のアパートメントや寮の部屋で勉強すると生産性が低くなることに気づく。途中でほかの活動にかかわったり、気をそらされたりする可能性があるからだ。ところが図書館は、勉強するために行く場所なのだ(とにかく理論上はそういうことになっている。たとえば人目につかない奥の書架の周辺があまり学問とは関係のない使われ方をしていることは、よく報告されているが)。

デジタルの時代、学習や読書や考え事をしに来る場所は、地域社会と個人が成長するために必要不可欠である。これまでそのような開かれた公共スペースはあまりにも少なかった。図書館の中には、Wi-Fiもイーサネットも届かず、デジタルに慣れた脳をネットワークやそれにともなう雑念から切り離せるデジタルフリー区画を試験的に設けているところもある。活動の種類に合わせて館内をいくつかの区域に分け、ある場所では音が出る活動(共同作業など)、別の場所では黙ってする活動(うるさい侵入者には、昔の図書館のように司書が沈黙を命じることもある)が行われている図書館もある。図書館の中で、黙想にふけることのできる場所は残す価値が充分にあるだろう。それが心地よいからというのもあるし、いつもスイッチが入ってネットワークに接続したままのようなデジタル時代のペースには、圧倒されてしまうことがあるからだ。

紙の本が目的でなくとも学生が図書館という空間へやってくるふたつめの理由は、他者から得られる支援と仲間意識である。たとえひとりで取り組んでいても、学習は社会的な活動だと感じることがある。ロースクールに入った最初の年に、契約法や不法行為法や民事訴訟手続きーさらに言うなら、ほかのどんなテーマでもーを身につけるには長い時間がかかるが、同じ経験を共有し、近くで勉強し、同時に休憩をとってコーヒーを補充するような友人がいれば、ひとりのときより進みが速く感じるだろう。

それだけでなく、図書館という空間にはまだほかにも役立つ人がいる。もちろん司書だ。最近の調査では、リサーチの途中で司書に相談する学生は想定より少なくなっているが、だからといってレファレンス・サポートという図書館のもっとも重要なサービスをやめる理由にはならない。じつのところ、過去のアナログ時代にはつねに便利な存在であった図書館司書だが、デジタル時代のいまはさらに役立ってくれるのだ。
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アメリカにおける市立の無料公共図書館

『ネット時代の図書館』より

万人に無料で--ボストン公共図書館の正面入り口上に記された銘文

一八五二年、ジョシュア・ベイツは世界初の大規模な公共図書館を作ろうとするボストン市の計画に手を貸したいと考えた。ビジネスマンであり、公共心に富む市民であったベイツには、支援にあたっていくつかの条件があった。その図書館は〝市の誇り〟となるべきである。また、一度に一〇〇人から一五〇人が入れる広々とした閲覧室がなければならない。そしてもっとも重要なのは、〝万人が無料で利用できる〟ことである。新設される図書館の理事たちがこれらの条件に応じるならば、本の購入資金として五万ドルを喜んで提供しようとベイツは手紙に書いた。

ベイツやほかの篤志家たちの援助により、ボストン公共図書館(BPL)は、アメリカ合衆国の主要都市の住民なら誰でも本や資料が借りられるはじめての図書館となった。今日では当然に思えるが、一八五二年当時は急進的なアイディアだったのだ。もちろん、図書館そのものは何千年も前から存在していた。たとえば現在のエジプトにあったアレクサンドリア図書館のような初期の図書館は、非常に狭い範囲の利用者たち、たいていは修道院か法曹関係者のものだった。オックスフォード大学のボドリアン図書館は一六〇二年に、学者たちのために開設された。私立図書館--一七三一年にベンジャミン・フランクリンが創設したフィラデルフィア図書館会社や、新しいBPLから通りを少し行ったところにある一八○七年創設のボストン・アシニアムもその一部である--は、裕福な人々がお互いに本を共有することを可能にした。しかし一九世紀なかばになるまで、大都市がそこに住むあらゆる市民のための図書館をオープンさせることはなかったのだ。この新たな図書館の精神をたたえ、さらにはベイツ氏と彼の贈り物への感謝の意を表して、ボストン公共図書館を象徴する本館の正面入り口の上には銘が刻まれた。「万人に無料で」である。

こうして、アメリカにおける市立の無料公共図書館は、ボストンのコプリー・スクエアに誕生し、いたるところに普及していった。ボストン郊外のウォーバーンからニューヨーク州の小さな町まで、たちまち国じゅうに無料公共図書館が出現した。一八九五年には、マンハッタンの中心に巨大なニューヨーク公共図書館を作る計画も生じた。慈善家のアンドリュー・カーネギーはこのアイディアを全国的に取り入れ、いくつかの条件に合えばどんな町にでも、公共図書館建設のための費用を提供すると申し出た。一九六七年までにカーネギーは、アメリガじゅうの一四⑫の町に一六七九の図書館を建てることを約束した。無料で、どこにでもあり、彼自身によく似た人々、すなわち勤勉で野心的で学ぶ意欲にあふれた人々が利用しやすい、そんな図書館の設立をカーネギーは求めたのだ。

今日ではアメリカ合衆国の主要都市すべてに、そして世界じゅうのほとんどの都市に、知識を幅広く入手可能にすることを目的とした公共図書館システムが存在する。ほかの自由主義国もたいてい、大規模な公共図書館システムを備えている。アメリカと同様イギリスでも一九世紀なかば、とくに一八五〇年に公共図書館法が議会で承認されて以降、公共図書館が全国に普及した(ヨーロッパではすでに、ごくわずかだが公共図書館--イギリスのマンチェスターにあるチータムズ図書館、フランスのソーリュー図書館、ポーランドのワルシャワにあるザルスキー図書館など--が設立されており、いくつかの都市はわれこそが最初に公共図書館を設けたのだと主張している)。現在ではどこへ出かけていっても、図書カードがあれば誰でも本や雑誌やDVD--さらにもっと多くのもの--を自由に見ることができるだろう。ほぼすべての地域社会の中心部には図書館があり、子どもたちのためにお話会を開き、新たな住民のために納税申告や有権者登録に必要な書類を置いている。暑い日に涼む場所を求めてやってくる人々をやさしく迎えてくれる司書たちがいる。アメリカに何千とあるこうした図書館がどれも同じに見えるのは、アメリカの小さな町の暮らしに欠かせない癒しの空間であった、カーネギーの図書館に影響を受けているからだ。

しかしデジタルの時代になると、そういう昔ながらの公共図書館はずいぶん時代遅れになってしまった。図書館本来の構想--本や資料をおさめる輝かしい宝庫であり、それを読むための快適な場所--だけでは、もはや充分ではない。いまの人々には知識を得るための選択肢がはるかにたくさんあるからだ。この新しい時代、司書の仕事は足元から変わろうとしている。

ボストン公共図書館も例外ではない。まず手はじめに、図書館の空間を変える必要がある。一九七二年にBPLは、著名な建築家フィリップ・ジョンソン設計の新たな建物を増築した。そのジョンソン・ビルディングは当時、モダンデザインの成功例として歓迎された。だが現在では、ばかでかくて人間味がない、遠い時代の産物--その時代は図書館のデザインが人間の経験に着目したものではなかったらしい--という印象を与えている。もともとのマッキム・ビルディング、歴史的に有名な正面入り口を持つあの建物の崇高で開放的な精神は、ジョンソン・ビルディングからはほとんど伝わってこない。マッキム・ビルディングの正面入り口を通る利用者たちは、畏敬と感嘆の念を呼び起こされる。中に入れば、ジョン・シンガー・サージェントの連作壁画に出迎えられる。三〇年以上を費やして製作されたこの壁画『宗教の勝利』は、まさしく天に向かって描かれているのだ。だが、コプリー・スグエアからではなくボイルトン・ストリートから図書館に入る人々は、ジョンソン・ビルディングの入り口にまったく違う印象を抱くだろう--最大限に寛容な言い方をすれば、実用的なのだ。

二〇一二年、ボストン公共図書館の館長エイミー・ライアンと、同僚のマイケル・コルフォード、ジーナ・ペリル、ペス・プリンドルは、ジョンソン・ビルディングをどうにかしようと決意した。彼らは建物の改修計画に着手し、何を変えるべきだと思うかボストン市民に問いかけた。市民からの回答は、これまで表面に出ていなかった批判的な意見を明らかにした。ジョンソン・ビルディングはとてもわかりにくく、〝読みたい本が見つからない〟という。また、図書館の空間は若者--多くの社会においてそうであるように、ボストンでもっとも図書館を必要とし、利用する可能性が高い層--にとって快適ではないと訴える意見もあった。レイアウトが複雑な上、一貫性に欠けるのだ。利用者が一番使いたい、そしておそらく一番借りたいものが置かれたスペースは、大きな建物のずっと奥の、迷路のように入り組んだ壁の向こうにある。この建物が伝えているメッセージは、ライアンが利用者に受け取ってほしいと願うものとは違っていた。心地よく活気にあふれた場所だとは伝わってこないのだ。こうした明確な意見を無視することはできないと、BPLのリーダーたちは悟った。

ライアンおよび、司書と建築士--この場合はウィリアム・ローン・アソシエイツに所属する人々--のチームは、市民が支援したいと思うほど胸躍る、新しい公共図書館のデザインを考え出した。この新たなデザインは、あたたかみの感じられないジョンソン・ビルディングをもっと魅力的で、しかも周辺の地域社会と結びついた建物にするものだ。床から天井まで届く窓は、かつては倉庫のようだった空間を、歩道を歩く人々が思わず中へ入りたくなるような場所に変えてくれるだろう。新しいBPLには、一〇代の若者たちが本を読んだり宿題をしたりくつろいだり物を作ったりできる、使いやすいデジタルメディア室が求められている。さらに、そこを利用するにはまだ早そうな一〇歳前後の子どもたちのためのスペースも作られるだろう。幼児を対象とするチャイルドセンターには、本や音楽などのほかに、発育に応じたおもちゃも備えられる。大人の利用者たちが閲覧する小説や映画や音楽は、これまでは何もなかった寒々しい入り口の近くに持ってこられる予定だ。そしてコーヒースタンドは、カフェインを必要とする人々を引きつけるに違いない。

市もこの案を支持した。ボストンで長く市長を務めたトーマス・メニーノは、改修に予算をまわすことを確約した。実際、市議会は第一段階の費用として一六○○万ドルを承認している。二〇一四年には、メニーノの次の市長で、やはり強いリーダーシップを発揮しているマーティ・ウォルシュのもと、さらに六〇〇〇万ドルが追加された。新時代に向けてBPLが行う全面的な見直しを、ボストンは市をあげて支援するという賭けに出ているのだ。

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ASEAN 中国の経済攻勢をどうはね返すか

『ASEANを知るための50章』より 対中経済関係

ASEAN加盟国の経済における中国のプレゼンスは今世紀に入って急激に高まった。その背景はもちろん中国経済の高成長である。中国の目指す経済体制は、1992年以来社会主義市場経済と呼ばれてきた。2008年以降の世界金融危機に際して、4兆元の財政支出を行なって以降は、国家資本主義と呼ばれる体制で政府主導の経済成長を目指した。

中国経済の高成長の特徴の一つは、消費よりも投資先導で成長したことである。生産に占める投資の比率が高く、消費の比率が低い。いい換えると、購買力よりも生産力のほうが先行して拡大したのである。国内市場の超過供給分を外国に輸出するのである。中国がとりわけASEAN加盟国に向けて輸出攻勢に出ているわけではない。中国経済がASEAN加盟国の経済と比較して圧倒的に大きいために、一国単位では中国の経済攻勢とみえるのである。

ASEAN加盟国のなかで、中国を最後に承認したのはシンガポールで、1990年のことであった。その翌年ASEANと中国の公式の交流が始まった。ASEANは中国を1996年以来対話相手国としてきたが、1997年からは、日本と韓国と並んで中国をASEAN+3のメンバーとした。

2000年には、当時の朱鎔基総理がASEANに対して自由貿易地域形成に向けた作業部会の設置を提案した。この提案に対してASEANは、日中韓3カ国の自由貿易地域でどうかと返答した。しかし、日本と韓国は、このASEAN提案には同調しなかった。そこで、中国とASEANはいわゆるASEAN+1の財貿易協定締結に向けた協議を始め、2002年にASEAN中国FTAに署名した。

このFTAによる域内関税引き下げは、2004年のアーリーハーベスト(早期実施)措置から始まり(タィだけは、2003年10月に先行実施)、ASEAN内先進6カ国が先行し、カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナムがそれに続く形で進められている。2015年には、センシティブ品目を除いて域内関税が撤廃されることになっている。

2013年のASEAN中国首脳会議では、財貿易協定の改訂を進めることが合意されたが、関心は東アジア地域包括経済連携締結の方に移ったといってよい。

サービス貿易についても、中国とASEANとの間で2007年にサービス貿易協定が締結され、同年発効した。サービス貿易協定は、中国とASEAN加盟国が国別に締結したもので、世界貿易機関のサービス貿易に関する一般協定に準じたもので、サービス貿易に最恵国待遇を適用するのではなく、できる分野から自由化するというアプローチである。具体的な自由化については、サービス貿易協定発効と同時に第一次議定書が発効し、2012年に第二次議定書が発効した。

投資については、2009年に署名された投資協定は、内国民待遇と最恵国待遇を認めたものである。中国からASEAN諸国への投資で考えると、ASEAN諸国に進出した中国企業が労働者を雇用したり、土地を賃貸・取得したり、納税したりする際に、進出先の企業と差別されることはなく、また他の外国企業と比較しても不利益をこうむることはないという条件である。

財貿易、サービス貿易、投資の三つの協定がASEANと中国との間で結ばれたわけだが、これらがすべてASEAN中国包括的経済協力協定という傘の下に結ばれたことに中国の深謀遠慮が感じとれる。日本もASEANと経済連携協定を締結したが、分野別に協定を結ぶのでなく一つの協定のなかにまとめた。

また、中国は、包括的経済協力協定という大きい傘をかぶせたが、ASEAN加盟国の経済発展水準が異なることから、国ごとに自由化に違いを認めた。日本は、ASEANとEPAを締結するとともに、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、ベトナムと個別にEPAを締結して、各国固有の事情を反映しようとした。

ASEANと中国の間の以上のような制度的な相互依存の深化は、中国の経済援助によっても特徴づけられる。財貿易協定締結時に、援助の重点分野として農業、情報通信技術などを掲げた。そして、2009年のASEAN中国首脳会議では、中国ASEAN投資協力基金の設立が決まり、中国から150億米ドルにのぼるASEAN諸国向け借款の供与が決まった。2011年には、さらに100億米ドルの借款供与が決まった。

この動きからも分かるように、包括的経済協力協定は、経済援助促進という一面ももっているのである。これは、日本や他の域外国とも事情は共通しているが、ASEANとはいっても、ASEAN加盟国に直接便益が供されるプロジェクトを含んでおり、2015年に共同体を形成する地域制度としてのASEANが資金配分などに主体性をもっているわけではない。

個々のASEAN加盟国と中国との経済関係は緊密化、深化しつつあることは疑いがないが、地域制度としてのASEANの実質的な経済的役割を評価するのは難しい。ASEAN加盟国にしても、中国にしても、ASEANという地域制度を都合のよいようにもてあそんでいるようにもみえるのである。                                
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