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未唯空間第4章 歴史編

未唯空間第4章 歴史編

 第4章歴史編。分け方が難しいですね。社会よりも縦軸があり、さらに広大です。今考えると、大学の入った時からのテーマです。

民主主義の歴史

 民主主義の歴史。全体主義がドイツで起こったのか。何を狙ったのか。何をしたかったのか。民主主義が発端です。民主主義が自由を求めて、全体主義になった。更なる格差是正を求めて、共産主義に走った。

 その二つは同じ時期に大きくなって、ぶつかって、それよりも先に行くことが出来ずに、亡くなった。残された民主主義は方向を失っている。

国民国家の歴史

 次は国民国家の形態の歴史。19世紀まで、国民国家を作る体制にはなかった。フランス革命、共和制、そして、ナポレオンの独裁制。それに対抗する周辺国。民衆の矛先は国民国家に向かった。それは国家間の争いから国民を含めた戦争に拡大していった。

 国民国家はグローバル化と多様化に晒されている。民主主義と資本主義も揺らいでいる。これらは共に、ハイアラキーの元に在る。

歴史認識

 歴史は認識によって、多く異なってくる。国家の意識にしても、民族とか宗教とかで、様々な様相を作り出す。それが経過でまた、異なってくる。歴史には時間軸がある。ローマ帝国の盛衰を繰り返す。

 歴史の要素を考えると、ローカルとグローバルに分かれるけど、他の要素が入り切れていない。カリスマとか指導者とか戦争の形態とかが主人公になっている。その時に現れるツールによって、絵が変わってくる。偶然によって、いくらでも歴史は変わってしまう。

 根本となる歴史認識があるけど、それは民族によっても、宗教によっても、層によっても異なる。どうなっているのか。

 そこから歴史の動きを見ていく。多くの人の幸せを求めるための変化。動きそのものも誰が主導権を取るのか。新しい動きとして、分化と統合を入れたい。そういう見方そのものです。ハイアラキーで歴史が動かない。これが確かになったのは十九世紀以降です。二十世紀の大衝突をどこに持ったらいいのか。

未来方程式

 そして、未来方程式を作り出した。ベースとなる考えは、何が変わったのか、何を変えるとどうなるのか。世の中で変わってきているのは情報共有です。それを先人が作り上げてきた。個人ベースで武器を持っているけど、方向は持っていない。

 今までの意思の力が存在の力になることで、未来は大きく変わってくる。歴史の進化がどういうカタチになってくるのか。個人が力を持ってくる。その時に個人は覚醒していないといけない。一人ひとりが自分で分化して、変わっていくという、シナリオを自分に当てはめて考えてみた。それが未来方程式。

 歴史哲学が変わる

 そして、歴史の底辺にあるのは、ヘーゲルが示したように、歴史哲学。意思の力から存在の力に変わって、分化して、新しい進化をとげるというシナリオ。

 これはマルクスと同様に、歴史をどう見ていくのか。国家とか人民とかの認識が与えられた。それには答が出ている。ヘーゲルは国民国家であり、マルクスは共産主義であった。それらは異なった形で実験は終わっている。新しい実験が始まろうとしている。個人が覚醒するためには、知の世界が無ければならない。

 そんな面倒なことが人類にできるかどうか。出来なければ、バラバラになって、壊れていく。結局、他人事になります。

新しい循環

元々、社会は分かりにくいので、新しい循環が出て来た。家庭と会社と学校の循環です。イメージとしては分かりやすい。それぞれの結びつきが個人レベルで、国家レベルになっていない。

だからこそ、循環でなければならない。一カ所だけを変えることはできない。例えば、就職することを考えても、そこだけ変わることはできない。企業そのものが何で儲けるかが変わってこないといけない。マーケティングが変わるには、ライフスタイルが変わらないといけない。と同時に、何を皆が学んだらいいのか。教育も学校だけでなく、もっと大きなレベルの教育が必要になってくる

国の規模は500万人

 日本のように、民族と地理的な要素が国家のカタチで一つになっているのは珍しい。500万人規模に分けていかないといけない。それを誰がやるかは知ったことではない。

 企業が変われば、国家の形態が変わってくる。国家も1億人では動きが取れない。500万人の国家に分割されていく。それを組み合わせて、国家連合に変わっていく。国家そのものが「中間の存在」になってくる。

個人と超国家が一緒になる分岐点

 先の先から考えると、歴史的には、ムスリムの世界のように個人と超国家が一緒になっていく。その間に「中間の存在」として地域がある。地域といっても、論理的な単位でもいい。個人をまとめると同時に、一番上の超国家と個人がつながっている。そのようなバリアブルなカタチでありながら、全体の安定性を求める。その時に、どのような商売になっていくのか、どのような教育になっていくのかは新しい循環で考えていく。歴史的に見たら、それが一つの分岐点です。

戦争と平和

 歴史というのは、戦争から見ていくカタチになりそうです。何万人も動員できて、動いていく。国家というものを歴史的に見ていく。それって、本当に歴史なのか。ハンニバルはローマに入り込んで、何が起こったのか。歴史の一つのページができただけ。

 ハンニバルの気持ちになって、考えて、ローマを守って、挙句にカルタゴを滅亡させた、スキピオも歴史の流れの一つ。個人があまりにも無くなってしまう戦争の時期、個人が主役の平和の時期。ソクラテスは何人のアテネ市民に話をしたのか。

 アテネの民主制は無に帰して、ローマ共和制・帝政に渡されなかった。個人はそんなに重要なのか。無視されるべきなのか。

このままでいくと

 今の時代も個人はクレームを付けるだけの時代になっている。それも碌でもないことだけに。その碌でもないことで、モノが変わっていってしまう。やがて、憲法が変わり、大量動員の世界がやってくる。

 個人個人が考えることで維持する民主制が無くなり、全体主義的な傾向になっていく。そういう、一つの世界。時間の世界。

 やはり、一人ひとりが覚醒しないといけない。そうしないと、今のように依存していては方向性を持ちえない。覚醒するとなると、皆、バラバラの思いをどのように統合させていくのか。不安定でありながら安定なカタチをどう取っていくのか。まだまだ、歴史を知らな過ぎる。歴史から学ぶもの。歴史を創るもの。
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未唯空間第三章 社会編

名古屋へ行く計画を取りやめ

 「昨日の私」は名古屋地下街サンロード店へ今日、行く計画を立てた。4か月になります。今日、出掛ける5分前に、「今日の私」は止めることにした。非連続な日々。

 全く別な空間を感じています。今日のことは今日の俺が決めていいんだ。

 名古屋のサンロードにIさんを見に行くことを昨日の私が決めていた。そのために、朝、6時半からスタンバイしていた。今日の私は止めることにした。

 かわりに、未唯空間の見直しをすることにした。

02月26日(金) 2016/02/26 6:49 午後

未唯空間第三章 社会編。

 ここは外の世界だから、面倒くさいです。余りにも膨大に見えてしまう。皆がバラバラで動いている。それをいかに見ていくのか。そこで生活視点、情報をどのように見ていくのか、対象を絞っていく。メディアと経済と行政と政治、それと家庭と絞っていく。

 新しい循環では家庭と会社と教育で見て行きます。そこにおける循環をどう変えるかを考えていきます。その前に、政治とか経済を見ていきます。

地域の行動から見ていく

 それを国レベルではなく、身近に見える地域の行動からみていくということで、社会を知ることから始めた。

 一番、身近な地域の課題を見ていきます。行政も仕事していると思うけど、課題は訳が分からない。行政の力、ボランティアの力から地域の課題を見ていく。社会の実体をどう表すかを詰めないといけない。

 NPOとか社会を変えようという連中はいるけど、一部分だけを担っているだけで、全体が見えていない。その中で自分の仕事を探している。あまりにも姑息です。そんなことを言っていてもしょうがないから、課題をハッキリさせないといけない。

ハメリンナモデル

 環境というものを考えた時に、最初に出会ったのが、ハメリンナモデルです。環境の悪さは分かるけど、何がどうなっているか分からない。世界をどう持って行くのかをフィンランドのハメリンナのDR.ヘリが考えたモデルから考え始めた。

 彼らが考えたものは、地域での活動、そこでは守るもの、フィンランドなら湖を守るための活動があります。市民が参画すると同時に国を超えて、EUともつなげていく。これはThink Globally, Act Locallyの世界です。

 そこから出て来たものは、グローバルとローカルとの関係、思考と行動との関係、その組み合わせからサファイア循環そのものです。これを私にとっての社会モデルとします。ハメリンナはThink Globally, Act LocallyというEUのモットーに従って動いています。それを具体化しています。

 地域というものを国の末端としてではなく、配置として考えて、数学モデルを入れ込んだのが、地域配置です。

地方行政のあり方

 日本のように、国から与えられたものを地方行政としてやっていくのではなく、北欧では地域が主体的になって動いています。中央からの分配ではなく、配置の体制を取っています。そのモデルが今後の世界に合っています。

 それを「静脈の活性化」としました。心臓から持ってくるのではなく、静脈から考えていく。そのためには、地域に権限を持ってくる形になっていきます。これが社会の大きな観点ン委なります。

「中間の存在」がきーになる

 だけど、地域を配置した時に、個々の人と行政をつなぐのに、役割が見えない。バラバラに動いてはダメです。数学のやり方から考えると「中間の存在」が必要になってきます。

 これは仕事での販売を携わった時に一生懸命に考えたところです。販売とは何か。彼らは何をしているのか、何をさせようとしているのか。パートナーは今も悩んでいることです。そこで出て来たのが「中間の存在」です。コミュニティからも出てきます。これを中心に社会を考えていきます。

 部品表を考えた時に、腰の部分をどのようにするかで、全体が変わっていきます。クルマのイメージがあるからと言って、車はできません。色々なコンポーネントがあって、その組み合わせで全体の作り上げていく。その大きさが変わるだけのことです。

 それぞれの人間が「中間の存在」として考えるのであれば、下の部分と上の部分は変わっていく。この考え方は、部品はすべて、ヘッドになれるので、当時はヘッドロジックと呼んでいた。

 これは上からの支配ではない。モンゴルのように十進数でもって、10人組、100人組があり、その10人を一つの塊にして、上に持って行くだけでなく、逆を含めて考えていきます。

 いかにして、組合せを多様化していくのか。上はそこまで見えない。「中間の存在」で多様化していかないと。

「中間の存在」の役割

 では、「中間の存在」は何をすればいいのか。知識と意識をまとめ、下と上の状況把握を行う。ベースとなるのは情報共有です。パートナーには寄り添う気持ちと説明しています。

 あくまでも、知識で動いていく世界にならないと、「中間の存在」は成り立ちません。今までできなかったけど、今後の世界では可能です。その為の個人の覚醒と情報共有です。

地域インフラ

 そう考えた時に、地域に必要なものはインフラです。地域でのインフラを多様にしていく。余分なものは省けばいい。

 原子力のような中心型のモノは地域では使えない。もっと、多様なモノにしていかないと。エネルギーも作り出すことよりも、地域でどのように使うがが中心になります。それを地域でどのように意思決定していくかが中心になります。それをコントロールするためには、個人から持ち上げていくしかない。これはヨーロッパでのインフラのあり方とよく似ています。

合意形成が変わる

 そこで必要になってくるのが合意形成です。ある集まりの合意形成を多数決方式とか代表制ではダメです。如何に多様な意見から、いかに行動につなげていくのか。そこには海賊党などのパーティとかベーシックインカムのような考え方も出てきます。

 企業の考え方も一枚板ではいかないから、ボランティアとかNPOもこの辺に出てきます。合意形成の仕方で人間は動くのか動かないのか。

サファイア社会

 仕事篇の中締めで、サファイア社会という、循環の社会を定義していきます。あくまでも分化と統合です。如何にまとめていくのか。それは一つの社会として成り立つ条件をまとめておきます。
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豊田市図書館の24冊

596.21『和食の常識』じつは知らない

410『高校数学の美しい物語』

383.1『図説 初期アメリカの職業と仕事着』植民地時代~独立革命期

222.01『概説中国史 上-古代-中世』

222.01『概説中国史 下-近世-近現代』

319.8『アメリカ人が伝えるヒロシマ』「平和の文化」をつくるために

375.19『インターネット活用法』学校と図書館で学ぶ

913.6『シェア』

290.93『arucoバリ島』地球の歩き方』

230.54『世界史劇場 駆け抜けるナポレオン』

908.8『名作うしろ読みプレミアム』

377.1『学問の自由と大学の危機』

369『社会福祉の動向2016』

147『100の神秘から読み解く世界のシンボル』

762.8『怖いクラシック』

535.2『赤瀬川原平のライカもいいけど時計がほしい』

914.68『ラヴレターズ』

157.9『歴史に学ぶ自己再生の理論』

757.04『だからデザイナーは炎上する』

367.7『自分らしく生きる「老後の終活術」』精神科医が教える

070.16『ジャーナリストという仕事』

309.02『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』

293.7『イタリアからイタリアへ』

943.7『暦物語』ブレヒト

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孤独--ラフマニノフとマーラーの「抽象的な恐怖」

『怖いクラシック』より

孤独

 二十世紀最初の年、一九〇一年十一月九日(当時のロシアの暦では十月二十七日)、モスクワのフィルハーモニー協会の演奏会で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番が作曲者自身のピアノ、その従兄でもあるアレクサンドル・ジロティの指揮で初演された。

 このピアノ協奏曲第二番も「怖い音楽」だ。冒頭は弔いの鐘のような重厚なピアノの響きの連打で始まる。

 マーラーの交響曲も、そのほとんどが悲劇的音楽であり、死や孤独の恐怖にのたうちまわっているかのようにも聞こえる。彼が二十世紀になってから書いた最初の交響曲は第五番だが、この曲も新世紀の始まりを喜ぶのではなく、弔いの葬送行進曲で始まる。続いて書いた第六番は「悲劇的交響曲」と自ら呼んだ曲で、これも冒頭は不気味な激しいリズムの連打で始まり、悲劇的なイメージに終始する。

 だが、二人とも何か具体的な恐怖を音楽として描写したわけではなかった。

最後の日々

 マーラーは一九一〇年春までニューヨークで指揮の仕事をすると、ヨーロッパヘ戻った。翌シーズンもニューヨーク・フィルハーモニックを指揮する契約を結んでいた。

 一九一〇年の夏、マーラーは多忙だった。大作の第八番の初演があり、さらに第十番にも取り掛かっていた。第九番の出版の打合せもある。そんなところに妻アルマの不倫が発覚した。苦悩したマーラーは神経を病み、フロイトの診断を受けた。さらに扁桃腺も炎症を起こし、しばらく寝こむほどだった。

 それでも秋にはすべてが解決した。アルマとは和解し、第八番の初演も成功し、マーラーは満ち足りた思いでニューヨークヘ向かった。到着は十月二十五日で、フィルハーモニックの新しいシーズンを精力的にこなしていった。

 だが年が明けて一九一一年二月、マーラーは体調を崩し、重症となる。溶血性連鎖球菌による感染症だった。いまならば抗生物質ですぐに治るが、当時はまだペニシリンが発見されていない。安静にしていたが、容態は快方に向かわず、マーラーは死を覚悟した。

 どうせ死ぬのならニューヨークではなくウィーンで死にたいと言い、マーラーは四月八日にニューヨークを発って、パリを経由して五月十二日にウィーンに着いた。そして十八日に亡くなった。五十歳だった。第十番は未完となった。

 マーラーはニューヨークは異国、異郷と感じていた。だから、そこで死ぬのを嫌がった。そして彼はウィーンヘ還った。ではウィーンは彼の故郷だったのだろうか。

 ウィーンはマーラーが十五歳から暮らし、その他の都市で働いていた時でも常に根拠地としていた場所だ。そして彼のキャリアの頂点の地でもあり、最も長く常任の指揮者として活躍した都市でもある。彼には、この地しか帰るところはなかった。

 ラフマニノフが故郷を喪うのはマーラーと共演した七年後だった。

 ラフマニノフの人気はますます高まっていった。ロシア国内はもちろん、ヨーロッパ各地で演奏した。しかし、彼の人生は第一次世界大戦とそれに連動して起きたロシア革命で大きく変わる。

 一九一七年、ロシア革命が勃発し、社会主義国家が誕生した。革命から数週間後にスウェーデンの興行師から出演依頼の電報が来ると、ラフマニノフは妻と子どもを連れて、口シアを離れることにした。反社会主義という思想的な理由もあったが、一九〇五年の革命の時もドレスデンに疎開したように、彼は混乱を避けたかったのである。

 彼はこのまま生涯にわたりロシアに戻らないという決意をしたわけではなく、一時的に避難するつもりで、出国したと思われる。スーツケースひとつだけという軽装で、ラフマニノフとその家族は十二月二十三日(十二月十日)にロシアを出た。国境でも「亡命」とは疑われず、無事にストックホルムに到着した。

 その後、ラフマニノフはヨーロッパ各地を演奏する生活となった。一九一八年十一月にアメリカヘ渡ると、そこに永住することを決意した。

 アメリカでのラフマニノフは作曲家ではく、コンサートーピアニストに転身した。それでなければ生活ができなかった。自作だけでなく、ベートーヴェンやショパンの作品も弾いて、喝采を浴びた。ラフマニノフは人気・実力とも当代一のピアニストとなった。時には指揮者としても活躍した。レコードが発明されると、録音もした。一年の半分はフランスやスイスなどヨーロッパで暮らすことにもしたが、ソ連へは演奏旅行でも行かなかった。国外へ出たラフマニノフをソ連政府は反国家的音楽家として批判していた。

 演奏家として活躍すればするほど、作曲の時間がなくなったが、ラフマニノフは一九二六年にはピアノ協奏曲第四番を完成させた。

 第二次世界大戦が始まると、ラフマニノフはソ連の戦争犠牲者を救済するためのコンサートを何度も開き、収益を故国へ送金した。この戦争では米ソは共闘していたので、ソ連も、亡命した音楽家であるにもかかわらず、ラフマニノフを自国が誇る偉大な音楽家として扱うようになっていた。

 一九四三年、ラフマニノフはようやくアメリカ市民権を得たが、三月二十八日、七十歳の誕生日の四日前に亡くなった。祖国を旅立ってから二十五年と三ヵ月が過ぎていた。ラフマニノフは生涯の半分を祖国喪失者として生きたことになる。

「怖い音楽」の変質

 十九世紀までの「怖い音楽」は、先に「怖いもの」があり、それを音楽で表現したものだった。

 《ドン・ジョヴァンニ》や《レクイエムyは歌詞もあるので、怖い物語が誰にでも分かる。《田園交響曲》や《幻想交響曲》もタイトルとプログラム(標題)とがあるので、聴き手は、その音楽が何を描いている音楽なのかを知った上で聴けた。「葬送行進曲」にしてもそう呼ばれているわけだから、それが葬列の音楽であり、そこから転じて死への旅をイメージしているものだと推測できた。

 だが二十世紀の「怖い音楽」は何ら具体的なタイトルや標題を持たない。ただ、ひたすら怖い。

 マーラーやラフマニノフが結局のところ、何を表現したのかは、本人にしか、あるいは本人にすら分からない。二人がともに故郷喪失者なので、「孤独」「郷愁」「絶望」「怒り」「哀しみ」がその音楽にあると解釈するのは簡単だが、そう単純なものではないだろう。

 二人とも実生活において最も幸福な時期に、暗く深刻な音楽を書いているのも、謎と言えば謎だ。幸福な家庭を持ったが、いつか壊れることを予感していたという解釈も成り立つが、これもまた、もっともらしいが故に、真実ではないだろう。

 藝術家は炭鉱のカナリアだという。炭鉱では空気の変化に気付かないと鉱夫たちは命取りになる。そこでカナリアをカゴに入れて鉱内で飼う。酸素が減ってくるとカナリアがバタバタして死んでしまい、危険を知らせる。探知機の代用だ。そんな話から、蕪術家は社会の空気の変化に敏感で、誰よりも先に戦争や独裁政権の弾圧を感じ、それを作品にするのだ、いやするべきなのだ、という考えが生まれた。

 マーラーとラフマニノフが、暗く、重く、そしてメランコリックな「怖い音楽」を書いたのは、戦争と革命と粛清の世紀が来るのを蕪術家の本能で感じ取り、その言葉では表現できない恐怖を音楽で提示した--これもまた深いようで表層的な見方である。

 ラフマニノフはつい最近まで通俗だと批判され、マーラーも一九六〇年代まではキッチユ(安っぽい、けばけばしい)だと攻撃されてきた。多分、二人の音楽は演出過剰と感じられたのだ。だが二十世紀も後半になると、世の中全体がもっと演出過剰になったので、受け入れられるようになったのかもしれない。ともあれ--二十世紀の音楽は二人の孤独な故郷喪失者による、具体性のない、怖い音楽で始まったのであった。


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抗日戦争が中国にもたらしたもの

『中国史』より 抗日戦争 戦争の勃発と社会の変貌

1937年に始まった日中戦争は、中国の人々に計り知れない苦難を与え、途方もない戦禍を産み出した。この戦争は期間にして8年、地理的には中国本土の主要部分に及ぶことになり、結果的に中国の社会・政治・経済の全体にも大きな変容をもたらした。この戦争がなかったら、「南京の10年」(国民政府による1927-37年の統治)で大きく前進した中国の経済建設や国民統合はさらに進展し、のちの中国史はまったく違ったものになっただろう、中国共産党の勝利もなかったかも知れないということが、しばしば歴史家の口に上るが、それほどまでに日中戦争は中国の運命を変えたのである。戦局の推移を概述する前に、この変容について説明しよう。

まずは政治面である。緒戦における奮戦にもかかわらず、中国(国民政府軍)は華北の主要都市、長江中下流域の経済先進地を短期間で失った。ただし、それによってもたらされた威信・求心力の下落は限定的で、むしろ抗日を求めてきた世論の声にようやく応えたという戦時の高揚感が国民党と国民政府を支えた。西安事変後に関係改善の交渉が続いていた共産党も、日中戦争開始後の9月に三民主義を奉じて国難に対処するという宣言を出し、蒋介石も共産党の合法的地位を認め、その宣言の受け入れを表明することで、国共両党の協力体制が実現した。これを第二次国共合作と称するが、両党の間に合意文書や政策協定が交わされたわけではない。当面は協力しあうが、それはあくまでも--そう遠くないはずの--日本との戦争の終結までのことだとの含意がそこにはあった。事実、共産党の軍隊(紅軍)は八路軍、新四軍などの名称で、中国軍に改編されて軍需物資の支給を受け、共産党の支配地域(ソヴィエト区)も「辺区」という国民政府下の特別行政区に繰り入れられたが、両者の協力関係は、戦争が1年を超え、戦時が日常化するころには、急速に冷え込んでいくのである。

全民抗戦を謳う国民党に他党派がどのように協力していくのかという問題も、当初の国民党の公約が一時的に世論の支持を得たものの、やがて骨抜きにされ、逆に諸党派の反発を招くという推移をたどった。すなわち、1938年3-4月に武漢で開催された国民党の臨時党大会では「抗戦建国綱領」が採択されて、抗戦と並行して「国家建設」を進めることが謳われ、抗戦終結後における憲政実現の構想も示されていた。本来なら1937年には「訓政」が終わることになっていたのに、準備不足や抗日戦争のせいでそのスケジュールが狂ってしまったわけで、その意味では日中戦争勃発後に発足した国防最高会議、あるいは国防参議会(のち「国民参政会」--いずれも民意を反映する国民政府の諮問会議で、「戦時国会」とも形容された)に国民党以外の政党政派の代表が招かれたことは、戦時にあっても決して憲政への移行を足踏みさせないという国民党の決意を印象づけるものであった。だが、これもまた戦争の長期化に伴い、国民党が総力戦体制の確立にあたって集権型政治指導の是認を強く求めたため、これに反発する知識人・政治家グループが総力戦体制には逆に国民党の政権開放が必要だという主張を展開するに至った。我々は「戦時」と聞けば、政治の世界も抗戦完遂一色に塗りつぶされたかのようにイメージするかも知れないが、将来の憲政を見越した政論や議論は、実はこの抗日戦争の期間も止むことなく続けられたのである。

経済の面で戦争が中国にもたらしたのは、多大な損失のみである。日本軍の攻勢は広大な農村部にまで及ぶということはなかったものの、武漢、広州を占領した1938年末時点までに、中国のかなりの地域が戦禍に巻き込まれ、日本軍に占領された。前線から離れた国民政府支配地域は「大後方」と呼ばれたが、それら内陸地域、すなわち西南6省(四川・西康・雲南・貴州・広西・湖南)と西北5省(院西・甘粛・寧夏・青海・新疆)は、経済後進地域である。抗戦前のこれら奥地の近代的工場の比率は全国の8%にとどまっており、発電量に至ってはわずか2%に過ぎなかったと言われる。むろん、政府収入も厳しい。税源ひとつをとってみても、戦前の国民政府は税収の大半を輸入関税や統税など流通税に依存していたのであった。沿海部の主要地を失うことは、これらの税収が軒並み激減することを意味したのである。国民政府はやむなく、1941年にそれまで省の財源とされていた田賦(土地税)を中央政府に移管し、あわせて金納から物納へと切り替える措置をとることになる。金納から物納という一見時代を逆行するようなことが行われたのは、これが戦時食糧統制の役割を併せ持ったからである。だが、こうした食糧統制による物資不足と紙幣・公債の増発は、必然的に激しいインフレを呼ぶことになる。1940年の食糧価格は戦前の5倍に、翌年には20倍を超えるに至り、都市生活者の困窮は耐え難いものになっていった。むろん、日本軍占領地や日中両軍の対峙する地域では、戦闘自体による生産施設・資材の破壊は言うまでもなく、調達という名の略奪が横行し、民衆を苦しめた。

では、戦争によって中国社会には如何なる変化が生じ、それはその後の中国にどのように影響したか。戦場が中国全土に広がって泥沼化したことにより、中国は空間的に、日本占領地域(および親日傀儡政権支配地域)、戦闘地域、中国政府支配地域(大後方)に分かたれた。日本の侵攻に伴い、避難、あるいは従軍・抗戦のために大後方へ移動する人の流れはあったとはいえ、日本占領地に住まう人々の多くは、そのまま敵の支配下に暮らさざるを得なかった。むろん、中には積極的に日本軍や傀儡政権に協力する者もいたが、そうでなくとも、そこで日常の生活を送ろうとすること自体が敵軍の占領の受忍を意味したため、かれらは精神的に僻屈した状態に置かれた。一方、前線に近い地域の苦難--軍による徴発、収奪や殺戮、暴力--についてはいうまでもなく、他方で大後方にいるからと言って、戦争の影が遠かったわけではない。大後方の在地社会に対して、国民政府は統治に必要な地方組織や統計データを充分に持っていなかった。早い話が、兵役法や徴兵令は出されたが、戸籍は整備されていなかったのである。それゆえ、実際の徴兵や食糧買い上げといった業務は、下へ下へと丸投げされた。かくて、有力者による権力濫用とそれに伴う汚職・腐敗が蔓延し、基層社会では、支配にせよ、それへの抵抗にせよ、暴力や武力を頼みとする傾向がいっそう強まったのだった。いわば、戦時下の中国社会は、空間的に彼我の支配する地域に引き裂かれただけでなく、それら地域内部でも、大小の緊張、競争、衝突が常態化する様相を呈していたわけである。

この戦争が中国の人々に災厄以外のものを与えたとするならば、その筆頭に来るのがいわゆる「ナショナリズム」であろう。何と言っても、日本軍はそれまでのどの列強よりも広い範囲に、大量に、長期間にわたって、それも単一国による侵略軍として現れた。生の目でそれを見た人の数は言うに及ばず、様々な宣伝・広報によって間接的に接した者も入れれば、「日本鬼子」の存在が中国の人々に圧倒的な印象や反発を与えない方が不思議である。むろん、そうした素朴な反発の感情は、「ナショナリズム」と呼ぶにはまだまだ原初的だっただろうし、祖国や民族の存亡のために我が身を捧げるという域にまで達した例となると、同時代の日本とは到底比較になるまい。だが、日本との戦争が、それまでの中国にはなかった民衆の「共通の記憶」となったこと、そしてそれが中国「ナショナリズム」の結晶核となったことだけは、争えない事実なのである。
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中国・中華思想

『中国史』より

今日、我々が普通に「中国」と呼んでいるアジア大陸の東部に位置し、13億以上の人口を有する国家の正式名称は、中華人民共和国(People Republic of China)であり、この国号は1949年9月に決められた。同時に現在の国旗(五星紅旗)と国歌(義勇軍行進曲)も成立する。

それ以前に「中国」という国名があったのかといえば、そうではない。各時代の王朝名、それを「国名」と考えれば、それらは秦、漢、魏から明、清と称したことは、周知のことであり、「中国」といった国家は悠久の中国史を通じて、存在しなかった。

確かに「中国」という国名はなかったが、この2字の言葉自体は紀元前の文献、たとえば『ネし記』『詩経』『春秋左氏傅』『春秋公羊伝』などのいわゆる儒教の教典に「世界の中心」「中心の国」という意味で登場する。しかし、それは場所、地域をさす言葉ではなく、極めて観念的、抽象的な意味であり、「中国」の対語は「夷秋」「四夷」であった。

前漢時代始めに成立したと考えられる『礼記』の王制篇には、四夷つまり東夷・南蛮・西戎・北秋といった夷狭と中国は、もともと異なった相容れない素質をもつ存在という。

 --中国、戎夷の五方の民、皆な性あるなり。推移すべからず。

中国は別に中華、諸夏との称謂もあるが、その夷狭と中国の間に引かれた超えられない一線は、文明と野蛮、より具体的にいえば、道義、倫理、礼儀と、そうでない非文明・未開である。

 夷秋の君あるは、諸夏の亡きに如かざる也--夷狄はたとえ君主がいて統治されていたとしても、君主がない混乱の中国には、及ばない。(『論語』八伶篇)

 中国に芭みて、四夷を撫んず--中国に君臨して、夷狄を懐柔する。(『孟子』梁恵王)

かの孔子や孟子も懐いていた強烈な中華思想、「中国」とは、世界の文明の中心という意味に他ならない。

かかる中国、そして中華思想は漢武帝期に名実ともに現実のものとなる。儒教思想が政治・制度のうえで、影響力をもち、また積年の敵であった匈奴を駆逐して西はタリム盆地、東は朝鮮半島全域を領土とした漢帝国は、まさに世界の中心に君臨する「中華帝国」を成し遂げたのであった。歴代の王朝はこの漢武帝の時代を理想とし、最も崇敬してやまない。

漢帝国が古代史の舞台から退場し、魏晋時代そして南北朝にはいるとともに、中華世界の性格は変化していく。

その第1段階は、五胡十六国から南北朝時代、つまり4世紀初頭か・、6 11t紀末にいたる300年近い分裂の時代である。分裂と統一が繰り返される中国史において、この4世紀にはじまる混乱は、それまで漢族が支配していた中華世界が異民族(胡族)により占領され、華北黄川流域に胡族の国家が登場したことによって生じた。

胡漢融合とは、単に同じ空間を共有するということではなく、文化、思想、制度等において、胡族、漢族が互いに影響を受けて、時代が変化し歴史の原動力になっていくことを意味する。そのもっとも大きな、ことがらとして、胡族の首長のなかには漢人の教養を身につけたものが少なくなく、彼らはむしろ漢人よりもより漢人士大夫的であった。漢人国家の衰退と堕落を目にし、胡族国家が新たな「中華帝国」を再建するという大義名分のもと西晋を打倒し、河北に胡族国家が起こったのである。

後述する遼・金・元は、歴史家が「征服王朝」と呼んできたが、この4世紀から6世紀の五胡十六国そして鮮卑族の北魏を私は「孵化王朝」と呼びたい。それは、内部に巣をつくりそれが孵化して取って代わったからである。

五胡十六国を統一して華北に登場した胡族孵化王朝が鮮卑族の北魏であった。後の隋唐帝国の均田制、律令などの隋唐帝国の制度の骨格は、実はこの鮮卑族の北魏で作られ、それが北斉、北周へと受け継がれる。そして北周王朝に仕える随国公楊忠の子であり、北周宣帝の外戚となる楊堅(隋文帝)が起こした国が隋に他ならない。その後、20年も経たないうちに、楊堅と姻戚関係にあった唐国公李淵は、場帝に反旗を翻し唐王朝が成立するのだが、隋、唐は北朝つまり異民族の系列をひくもので、事実、楊氏は訣西(弘農華陰)を出自とし、唐李氏は甘粛(朧西)を出自とする。それゆえ李氏は鮮卑族であるとの説もある。つまり、秦漢にはじまる漢民族の王朝の流れは、南朝の滅亡とともに終焉した、と言っても誤りないであろう。教科書では、北魏の漢化政策が必ずとり上げられ、そこから、鮮卑族が漢民族の制度、習慣を全面的に採用したと思われがちであるが、律令という法制一つを取ってみても、そこには、秦漢の制度とは異なり、異民族の影響が色濃く反映されているのである。ここで、次のことを指摘しておかねばならない。一つは、秦漢帝国の時代の中華思想・華夷思想と隋唐帝国のそれとは、異なるということ。そして今ひとつは、遣隋使、遣唐使を通じて我が国が受容した中国の政治制度、思想、文化は、西北異民族の影響が強いということを。

第2段階は、遼、金、元の中国支配である。916年に契丹族の耶律阿保機が潮海を滅ぼし遼を建国して、華北燕雲十六州を宋に先だっ後晋から獲得した。その遼を女真族の完顔阿骨打が建国した金が滅ぼし、その勢いで、1127年には宋の都開封を陥落させ滅亡にみちびく。

1234年モンゴルが金を滅ぼし、1279年に広州圧山にまで追い詰められた南宋の命運は、南海の海中に果てるのである。

中国に侵入し支配した遼、金、そして元の王朝に、歴史家は「征服王朝」という呼称をあたえている。名称はドイツのハイデルベルグ大学でマックス・ウェーバーに師事したウイットフォーゲルの命名による。

第2段階のこの征服王朝は、第1段階の「孵化王朝」とは、異なった特徴を有している。第1段階の異民族王朝は禅譲という形で政権を委譲したのであったが、第2段階のそれは、その名の通り、中国を武力でもって攻撃支配し、いわゆる漢人--上述のごとく、隋唐以降は漢人王朝とはいえないのだが--の国家を滅ぼして成立した王朝であった。

さらに、胡漢融合を目指した孵化王朝とは異なり、政治制度、軍事、経済の面で部族制遊牧社会と州県制漢人農耕社会との二元的世界を征服王朝は志向する。先の孵化王朝の鮮卑族は独自の文字はなかったが、征服王朝では契丹、女真、そして蒙古はいずれも文字をもち、漢字と併用したことは、その二元性の表れといってもよい。

征服王朝という学説、およびその分析にかんしては、今日いくつかの賢論が出され、特に二元的世界の貫徹ということは修正され、むしん異民族国家の中華思想、自身を中華と見なす正統性の存在が指摘されている。いずれにしても10世紀~13世紀にかけて、「中国王朝」が民族によって再度滅亡をきたし、これが中華思想の第2段階の変化であったことは、否定できない。

第3段階は、1616年から1911年まで290年続いた最後の中華帝国の清である。清は中国北部ツングース系満洲女真が建国した王朝でありいわゆる征服王朝であった。漢民族に強制した弁髪は、他でもないその異民族の習慣であったのだが、「最後の中華帝国」と述べたように、清が漢民族国家と誤解し、中華帝国と称することに違和感を覚えない人は少なくないだろう。

それは、1644年、北京に遷都して以降、康煕、雍正、乾隆の三代の皇帝の政治と政策による。康煕帝をはじめとする皇帝たちは、北魏の胡族が漢族の政治制度に接近するといった胡漢融合の漢化政策とは異なり、またモンゴルが漢民族との差別化を図った胡漢二元体制とも違っていた。清王朝の皇帝達は、清を「中華」と「夷秋」を止揚した多民族国家と位置づけ、そこに正統性を求めたのである。皇帝は天の命をうけた地上の支配者であり、天は徳を有する清の皇帝を天子として認める。そこには夷秋も徳があれば中華となることができる、「夷狄の君あるは、諸夏の亡きに如かざる也」というかの『論語』の条文は、清儒においては、「夷秋の君あるは、諸夏の亡きが如きにあらざるなり--夷狄に君主が存在するのは、混乱の中国に君主が存在しないよりもずっと優れている」と解釈するにれは南宋朱熹の解釈である)ことは、このことを象徴すると言わねばならぬ。天、天命、徳治政治を標榜し、皇帝は中華文明、儒教政治の継続者として「治国平天下」を目指したのである。

第3段階は、新たに侵入してきた異民族と、すでに名実を喪失した漢民族の両者が伝統的中華文明、儒教国家の完成の大義名分のもとに昇華した中華帝国であったのだ。それは東洋的中華国家といってもよく、それに対面するものは、西洋国家、西洋の列強であった。

かくして、文明の中心としての観念的「中華」とは別の地域的「中国」つまり中華民国、中華人民共和国が誕生する。
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安倍政治はなぜ猛威を振るうようになったのか

『学問の自由と大学の危機』より 民主主義と学問の自由

フルデモクラシーヘの挑戦と挫折

 民主主義の変異という話を少し現代史的に整理しておきたいと思います。政治の雰囲気を振り返ってみますと、安保法制の話に関連してよくするのですが、この二〇年間の変化というのは著しいものがあります。二〇年前は戦後五〇年の節目でありまして、あのころは自民党にもまだまだ戦争を知っている立派な見識を持った政治家がおられまして、例えば、戦後五〇年村山談話を出した時に村山さんを支えました。つまり歴史観に関して世界標準を日本も共有する、そして、罪を反省し謝罪をするという知性があったわけです。それから二〇年前というと、例えば男女共同参画社会基本法とか情報公開法とかNPO法とか、市民社会を強化するようないろいろな法制度ができたわけです。その意味で日本の政治はかなりデモクラタイズ、民主化されたと私は思います。

 その頃、政治・行政の制度の改革というのがありました。つまり、政権交代のない自民党の一党優位体制、政治学的に私が最近使っている言葉で言えば、セミデモクラシー、半分の民主主義というものを、もっと民主化していこうという話か出てきます。要するにフルのデモクラシーにしていこうということで、政治改革や政党再編に取り組んだ。しかしながら、二〇〇九年にはつかの間政権交代が起きて、フルデモクラシーができたかなと思ったのですが、全然そんなことはなかった。民主党政権の瓦解が今の安倍政権に道を開いたわけです。人々は政治の変化にはむしろ飽きまして、何でもいいから安定持続の方がいいというような現状肯定的な見方を取る。その時に選択肢として浮上した自民党というのはある意味ではとんでもない、これはまさに進化ではなく退化を遂げていたわけであります。野党時代に金も権力もない自民党を支えてくれた例えば日本会議みたいなイデオロギー団体、石川さんの話で言えば蓑田胸喜みたいな類の連中がいっぱいうようよしているような狂信的なナショナリズムを持った団体が自民党のいわば草の根レベルの支持組織になり、政治家に対する影響力を非常に高めていた。そういう右傾化し、反知性的になった政党がいわば消去法として、これしかないかという形で政権に戻るという展開です。

二一世紀型全体主義

 ある種の変異・進化を遂げた民主主義がもたらす弊害という話に移ります。民主党が政権を取ったころから、政治主導ということが盛んに言われておりました。つまり、今までの日本の政策決定というのは専門性をよりどころにする官僚、あるいはその取り巻きの専門家が全部牛耳ってきた。民意というものが届いていなかった。それゆえに、例えば無駄な公共事業にしても原発政策にしても、一握りの専門家と称する官僚や学者たちがお手盛りで政策を動かしてきた。そのことが大いに国民の利益を害した、損なったのだという認識が政治主導の根底にあります。だから選挙に勝った政権が民意を背景に政治的リーダーシップを発揮して、政策を動かしていく、変えていくという主張が二〇〇九年以降急速に強まったわけです。大阪の橋下という人も、その意味では政治主導をある意味でフルに体現しようとした政治家だったでしょう。

 専門家による独裁を排して、民意を背景に政策を展開するということは別に悪いことではない。しかしながら、民意を背景に多数の力で政策を動かすことができる領域と、それから単純な多数者の意思ではあまり安易に変えてはいけない領域があるという、識別という話は二〇〇九年以来の政治主導の中では、実はなかったわけです。例えば、小沢一郎という人も政治主導を割と早くから言っていた人ですが、この人は内閣法制局を目の敵にしていました。憲法解釈について責任を持つのは、やはり国民から選ばれた為政者だということを言って、それはその限りでは安倍首相にも共通している発想です。

 そこのところをどう考えるか。確かに専門家の権威が政策決定を非常に閉ざされたものにし、国民の利益を損なった政策をいっぱい作ってきたことは事実です。だから専門家なんかいらない、ここが反専門家主義から、さらに反知性主義へ突き進んでいくいわば糸口だったわけです。政党政治という意味での政治が侵入してはいけない領域というのは、実はあるということについて、最近かなり痛切に私なんかも感じるようになりました。私はどちらかというとやはり能天気に、民主党政権ができたときは政治主導でいろんな政策決定は政治のイニシアティブで転換していけと言っていた側なので、まことに恥ずかしい部分もあるのですが、少数者であっても保障されなければいけない人権みたいなものはあるわけでありまして、そこに民意とか多数の意思とか、あるいは選挙で勝った権力者のりIダーシップみたいな原理を持ち込んでいくということが、やはり多元的な、あるいは寛容な社会を壊していく。あるいは人間の精神的活動の自律性を壊していくという問題があるわけです。

 安倍政権は民主党政権が崩壊した後、ある意味で政治主導を引き継いでいるわけであります。今回の安保法制における憲法解釈の政治的捻じ曲げ、内閣法制局の人事の政治的な決定とか、あるいは日本銀行に対する政治的なコントロール、メディアに対する政治的なコントロールなど過度な政治主導の例が相次いでいます。やはり専門家が自律的に活動してきたことに意味があった領域を政治化する、政党政治の色で染めるという意味での政治化を進めていくということは、この政権において顕著な現象です。

反知性主義と政治主導

 それがとうとう研究教育の世界にも入り込もうとしているということです。そして大学における国旗国歌の掲揚・斉唱というのは、国民であるということを常に意識しなさいという意味を持つわけでありますが、ここで考えなければいけないのは、反知性主義と政治の関係であります。反知性主義の定義ですが、佐藤優さんが最近出した『知性とは何か』(祥伝社新書)で非常にクリアに説明されています。「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分か欲するように世界を理解する態度」が反知性主義です。頑固な人はいつもいるのですが、意図的に事実を見ない、あるいは自分の持っている先入観とか偏見で客観性を無視して物事を理解し、それを他人に押し付ける、さらには国の政策にするという組織的な動きが広がってきたというのが最近の政治の大きな変化であります。

 別段選挙の時に、歴史認識とか教育についての国家統制とか全部細大漏らさず国民に説明して、これでいいですねみたいな話は実際には不可能です。しかし、今の為政者は、自分たちが選挙で勝った、議会の多数を持っているということで自分たちのあらゆる考えを正当化できるという風に考えているわけです。だから、今の為政者の知的な意味での好き嫌い、偏食を正当化するためにも、政治主導という理念、理屈が利用されています。つまり自分は選挙で勝って国民に支持されているのだから、報道機関に対してコントロールするのも民意、今の報道機関が反政府的な二ュースを報道して、国益を損ねているのなら、それに対して政治がきちんと介入することは、むしろ国民の利益に資するみたいな発想で動く政治家がいるわけです。この間の自民党の文化芸術懇話会なる会合における本当に馬鹿げた報道統制みたいな話も、彼らは本気で言っているのです。あれは冗談で言っているわけではないのです。そこにやはり今の時代の問題があるといわなければなりません。
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