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文学の延長として『パンセ』を読み、考える

『名著の読書術』より 思想書を読破する 課題図書:『パンセ』(ブレーズ・パスカル)

理性は有限か、無限か?

 では、『パンセ』を見ていきましょう。パスカルは、1623年生まれのフランスの哲学者です。パスカルが生きた時代は、現代とは随分開きがあるにもかかわらず、『パンセ』の言葉は今の人にも親近感をもって受け止められています。

 最もよく知られているのが、次の言葉でしょう。

  「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である。」

 パスカルは、思考こそが人間の尊厳であり、偉大さだといっています。しかし、人間は考えることができるから偉いといっているのではありません。人間はどうしても、「考えて」しまうものです。自然の中で最も情けない存在だから、考えざるを得ないのです。そして、「思考」について、こういっています。

  「欠点から見れば、思考はなんと見下げはてたものであろう。」

 思考するといってもいろいろで、終わったことをいつまでもくよくよしたり、もっとラクして生きたいとか大儲けするにはどうしたらいいかとか、そんなことばかり考えてしまうのが人間なのです。

  「だから、正しく考えるようにつとめようではないか。」

 と投げかけています。

 パスカルは、哲学者のほか、科学者としての顔を持ちます。気圧の単位としてよく用いられる「ヘクトパスカル」は、彼に由来します。パスカルが生きた時代、科学は目覚ましい発展を遂げました。その一方で、「神」の存在を信じない人たちが出てきました。要するに、キリスト教の世界観が崩壊し始めたのです。

 しかし、この世の中のすべてを理性的にとらえることには限界があるとパスカルは考えます。一本のか弱い葦に過ぎない人間が、神なき世界に生きることができるのか? 理性だけでは、人間は幸福になれないのではないか?

 人間がいかに不確定な状態で生きているかということを、日々の観察から書き留めた断章が『パンセ』です。

人間の普遍性が凝縮された言葉たち

 『パンセ』は、パスカルが構想していた『キリスト教擁護論』の草稿を、死後、遺族がまとめたものです。新しい思想や概念、心に浮かんだ見解を書きつけたもので、たった1行のつぶやきのようなものから、数百文字を超えるものまで、多様な断片が14章に分けられています。

 その中でも特におすすめしたいのが、「二 神のない人間の惨めさ」と「三 賭けが必要であることについて」です。

 「二 神のない人間の惨めさ」は、まさに人間の愚かさや心の二重性についての断片です。いくつか挙げてみます。

  「二つの無限、中間--読みかたが早すぎても、おそすぎても、何も理解できない。」

  「退屈--情熱もなく、仕事もなく、楽しみもなく、精神の集中もなく、完全な休息状態にあるほど、人間にとって耐えられないことはない。その時、人間は、自分の虚無、自分の見捨てられたさま、自分の足りなさ、自分の頼りなさ、自分の無力、自分の空虚をひしと感じる。たちまち、人間のたましいの奥底から、退屈、憂い、悲しみ、悩み、怨み、絶望が湧き出してくるであろう。」

  「ちょっとしたことが、わたしたちのなぐさめになるのは、ちょっとしたことがわたしたちを苦しめるからである。」

  「いっしょにいる人たちから尊敬を受けたいという欲望について--わたしたちは、こんなにも惨めで、誤りだらけでいるのに、まるでそれが自然なありかたであるかのように傲慢のとりこになっている。わたしたちは、人の口にのぼるならば、よろこんで生命までも捨てる。」 

 惨めさ、ずるさ、二重性。人間の普遍性が、シンプルな言葉でまとめられています。文学作品から読み取るのと同じように、パスカルの言葉から人生のエッセンスを自分の視点で吸収できるでしょう。

この世の中を不確定なまま生きていくために

 次の「三 賭けが必要であることについて」でパスカルは、宗教心を持つことの大切さを説きます。不信者の心をどうやって動かすか、考えを巡らすのです。

  「とるに足らない物事に対する人間の敏感さと、もっとも重大な物事に対する人間の無感覚とは、奇妙な錯乱を示している。」

  「無神論者なら、何もかもすっかり明白なことを語るべきである。ところが、霊魂が物質であるということは、それほどすっかり明白なことではない。」

 なかでもおもしろいのは、次の断章です。

  「『神は存在する』とか、『存在しない』とかをはっきり言ってみることにしよう。(中略)一つの賭けが行われる。表が出るか、裏が出るかなのだ。(中略)神は存在するという表の側をとって、その得失をくらべ合わせてみよう。(中略)もし君が勝てば、君はすべてを得る。もし君が負けても、君は何も損はしない。だから、ためらうことなく、神はあるという側に賭けなさい。」

 神を信じる側にいながら、宗教を賭けの対象にしています。宗教に対して懐疑的な視点も見せつつ、なおかつ、こうも書いています。

  「確実なもののためでなければ何一つしてはいけないとすれば、宗教のためには何一つしてはならないことになる。宗教は確実ではないからである。しかし、どんなにかたくさんなことが、不確実なもののためになされていることであろうか。航海にしても、戦争にしても、みなそうである。」

 理性が万能だと信じる人たちに、警鐘を鳴らしているのです。しかし、やはり何が正しいのかはわからない、我々は不確定な中に生きているということを、さまざまな断章を通してわかりやすく伝えています。

 ただ、残念ながら、『パンセ』の後半は宗教色がぐんと濃くなりますので、「七 道徳と教え」までを、エッセー的哲学書として読むといいでしょう。

 パラパラとめくり、心に響く箇所を見つけるようにして、繰り返し対話していってください。
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豊田市図書館の27冊

361.5『日本文化事典』

723.37『名画の秘密 レオナルド・ダ・ヴィンチ モナリザ』

748『朝日新聞 報道写真集2016』

290.93『ペルー』ボリビア エクアドル コロンビア 地球の歩き方

220.6『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』東アジアにおける近代の幕開けはどのように展開していったのか?

227『世界史劇場 イスラーム三國志』揺籃と絶頂のイスラーム3強時代 オスマン帝国 ムファヴィー朝 ムガール帝国が覇を争う!

141.24『触楽入門』はじめて世界に触れるときのように

912.7『光と影を映』だからドラマはおもしろい

493.74『依存症の科学』いちばん身近なこころの病

493.76『夫婦という病』夫を愛せない妻たち

024『つなぐ技術』売りたい気持ちと買いたい気持ちを

547.48『インターネットと人権侵害』匿名の誹謗中傷~その現状と対策

493.72『ここまで進んだ心の病気のクスリ』少ない種類で最良の効果を目指して

498.8『職場のストレスチェック実践ハンドブック』

323.14『憲法と民主主義の論じ方』

236.04『古都トレド 異教徒・異民族共存の街』

331『経済原論』

164.1『日本の神々』

159.4『仕事の作法』

100『現代哲学キーワード』

159『マインドセット』「やればできる!」の研究

913.6『あなたの人生、逆転させます』{新米療法士・美夢のメンタルクリニック日誌}

159.3『松平家のおかたづけ』

493.76『「脳疲労」社会』ストレスケア病棟からみえる現代日本

596『小林カツ代のお料理入門』

019.12『名著の読書術』読んだつもりで終わらせない ⇒ 「重厚な世界文学作品に挑戦する」の課題図書が『罪と罰』になっていて、驚いた。中学の時に最初に読んだ本が『罪と罰』だった。深かったんだ。

292.7『メッカ巡礼記1』旅の出会いに関する情熱の備忘録
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その日の私

忘れクセ

 ついにタブレットを忘れました。忘れてばっかです。

その日の私

 掟上今日子。「その日の私」という表現。これを使えば、言いたい放題です。げんに、「明日の私」を使っています。名古屋に行くかどうかは金曜日の「明日の私」がどう判断するかです。

 そうでないと、この137億年との関係が付かないです。137億年を云う時には、少し気が引けています。本当は137億9千万年なんですね。9千万年を切り落としている。9千万年というのは、端折れる年数なんですかね。多分、その頃の1千万年は今の感覚で言うと1日か1週間だったと思われます。居なかったから分からないけど。

新刊書フリーク

 豊田市図書館の新刊書は大きな本がないですね。岡崎があるから、見落としは少ないけど。

 フリークの連中は本当に屑ですね。年寄りになるほど、たちが悪い。少ない本の取り合いになりつつある。私は15年間の実績?があります。

 新刊書が減っているのは、税収入減の影響か? 図書館協議会を傍聴して、確認しないと。
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全体主義と国家権力

『精読 アレント『全体主義の起源』』より 全体主義の成立--『全体主義の起源』第三部「全体主義」 体制としての全体主義 全体主義体制というパラドクス

 全体主義と国家権力

  あらゆる革命運動はいったん権力を握るやいなや、体制の論理に呑み込まれて当初の革命的な性格を失っていくというのは多くの経験の示すところであった。だが、権力を握った全体主義運動もいずれは日常化していくだろうという予想は覆される。全体主義の攻撃的な対外政策も、彼らが権力を握れば主権国家とその論理、国際関係のルールに従わざるを得なくなるだろうという外交筋の予測は裏切られる。暴力やテロルは権力掌握のためであって、政権に就いて反対派が抑圧あるいは根絶されれば終息していくだろうという、全体主義運動に対して比較的好意的な観察者やシンパサイザーの期待も失望に変わる。

  体制の根本規範としての憲法についての態度もまた、多くの観察者を当惑させることになった。ナチスは権力を掌握した初年に大量の法律やデクレ(政令)を発布して、事実上はワイマール体制を清算していったが、正式に憲法を廃止しようとすることはなかった。その意味においては、スターリン体制の確立期の--抵抗する農民を階級敵「クラーク」として強制移住・強制収容させる「農業集団化」が行われ、さらには党・ソビエトや軍の幹部を含めた「大粛清」がまさに進められようとしている--一九三六年に交付された憲法は、その実効性のなさにおいて、ナチ体制下のワイマール憲政九同様の役割を果たしたのである。

  「廃止しないが無視する」。憲法に対するこうした態度は、全体主義運動がナチ党や共産党の綱領に対してとった態度と軌を一にするものであるが、そのことは、全体主義がその本質において運動体であったことを示している。彼らは、運動そのものを規制するような規範を忌避すると同時に、公式の国家とその機構もあくまでも運動のための手段として利用する。そうした態度が典型的に現れるのが、国家機構のいわゆる「二重化(き唇・匹呂)」である。

  国家機構の二重化

   ナチスは権力掌握前から国家と並行して党を組織していた。たとえばワイマール共和制の邦や州の地域編成に対して、行政区分とは必ずしも一致しない独白の「ガウ」(大管区)を編成するというように。国家と党のそうした二重組織は一九三三年にナチスが権力を掌握した後も存続するばかりか、事実上は国家の公式機関を有名無実化することになる。

   たとえばフリック(一八七七-一九四六年)が内務大臣に、ギュルトナー(一八八一―一九四一年)が司法大臣に就任した時、この古い信用できる党員は権力を失い、他の公務員と同様に影響力を持だない存在になってしまった。両者は警察長官としてのし上がりつつあったヒムラーの事実上の支配下に置かれたのである。通常ならばヒムラーが内務大臣に従属すべきものであるが。外国によく知られているのはヴィルヘルム・シュトラーセの旧ドイツ外務省の運命である。ナチスはこれを廃止をすることはおろか人員にもほとんど手をつけなかった。だが同時にナチスには権力獲得前からの党の外務局がローゼンベルクの下に置かれていた。これは東欧やバルカン諸国のファシスト組織との連絡を維持することに集中していたので、ナチスはもう一つの機関を外務省と競合する形で設置したのである。これがいわゆるリッベントロップ事務所で、西方との外交関係に携わり、彼がイギリス大使として本国を離れるまで、つまりは外務省の公式の機構に彼が編入されるまで存続したのである。

   ソビエト・ロシアにおいては、表面上の政府と真の政府の二重化はナチス・ドイツとは異なる経過をたどった。ロシア革命によって確立される公式の政府機関は全ロシア・ソビエト大会をその起源とするが、内戦期にソビエトの諸機関は影響力と権力を喪失して、ボリシェヴィキ党が事実上の実権を掌握していく。一方で赤軍が自立化していくと同時に、秘密警察がソビエト大会ではなく党の機関として設立され、一九二三年にスターリンが党書記長に就任した時点でその過程は完了する。その意味ではロシアにおける国家機構の二重化はすでにロシア革命の時点にはじまっていて、革命と内戦の結果、公式のソビエトは完全に見せかけだけの存在と化してしまっていた。それゆえスターリンは本格的に全体主義的支配を確立する時点で、あらためてソビエトの記憶とその威光を呼び起こして、これを外面的なファサードとして利用せねばならなくなったのである。一九三六年に彼がソビエト憲法の制定に乗り出したのはそのためであった。運動をその本質とする全体主義は、権力掌握の後も、いや権力掌握の後にこそ、外部世界との緩衝装置として利用できる公式の国家を必要とするのである。

  二重化から多重化へ

   全体主義運動の組織構造が多層的でしかも流動的・不定形であったように、それに支配される体制の構造も必然的に不定形なものとなる。公式の権力と実質的な権力の二重化は、さらに多重化していくことになる。

   ナチスは旧来の州の区分に加えて「ガウ」を設立しただけにとどまらず、さまざまな党組織ごとに別の地域区分を実施した。その結果、SAの地域単位はガウとも州とも合致せず、さらにSSは別の区分を採用し、ヒトラー青年団の区域区分はそのどれとも対応しないという事態が生まれる。運動の組織構造の場合と同様に、職務の多重化は権力の恒常的な移動にとって非常に有効な手段となる。それゆえ、全体主義体制が権力にとどまる時間が長期化すればするほど、職務の数は増大し、それだけ実際の職務の運動への依存度は高まることになる。

   重複する職務や機関の意図的な創出の典型的な事例が、ナチスの主要イデオロギーであるはずの反ユダヤ主義についての研究機関の事例である。一九三三年ミュンヘンにユダヤ人問題研究所が有名な歴史家ヴァルター・フランク(一九〇五―四五年)を所長として設立される。ユダヤ人問題がドイツ史全体を規定することが明らかになるとともに、近代ドイツ史研究所に拡充される。これによって既存の大学は外見上のファサードに過ぎない存在となる。さらに一九四〇年にアルフレート・ローゼンベルクを所長とする別の研究所がフランクフルトに設置されると、ミュンヘンの研究所はその陰に隠れてしまうことになる。さらに数年後にはヒムラーのゲシュタポがユダヤ人問題の清算のための機関をアドルフ・アイヒマン(一九〇六-六二年)を長としてベルリンに設置する。かくして既成の大学を一番外側に、ミュンヘンとフランクフルトの三重のファサードにとりまかれた中心でゲシュタポの機関が実権を握るという構造が成立するのである。

   そうした不定形さは、まさに全体主義運動の権力のための手段、指導者原理実現の手段なのであった。「指導者原理は全体主義運動と同様に、全体的支配機構においてもヒエラルヒーを確立しない。ここでは権威主義体制におけるように権威は政治体の最上部から中間段階を経て最下層へと浸透してはいないのである。全体主義運動は権力獲得の後も、小リーダーがそれぞれの領域で自由に行動し、頂点の大リーダーを模倣して多数の小王国を生み出すようなことはないのである」。

   その意味においては全体主義とその体制は、通常の政治体制には常に存在するさまざまな党派や派閥とその権力闘争、権力をめぐるゲームとはまったく無縁な存在である。

   成功・失敗の如何を問わず宮廷革命が全く起きなかったことは、全体主義独裁の最も顕著な特性の一つである(一九四四年七月のヒトラーに対する軍部の〔暗殺〕陰謀には一人の例外を除いてナチの不満分子は含まれていなかった)。表面上は、指導者原理は流血を伴う個人的な権力の転換を招くが、これは体制の転換を伴わないように見える。だがこのことは、全体主義的な統治形熊が権力欲や権力増大のための機構、帝国主義支配の最後の段階の特徴であった権力のための権力かめぐるゲームとはほとんど関係がないことを示す多くの特性のうちの一つなのである。

   体制内権力集団としての支配的な徒党がまったく欠如していること、少なくとも運動と体制の運営に顕著な役割を果たしていないことは、体制にとっては確定した後継者の不在という深刻な問題をもたらすことになる。ヒトラーは後継者を次から次へと指名して自ずとそれを無効化することになったし、スターリンもまた後継者となりうる人物を次々に殺害している。明確に指名された後継者の存在は、リーダーと権力と知識を共有する党派の存在を前提とするからである。
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