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「本と図書館」のロジック

「本と図書館」のロジック

 第6章「本と図書館」のロジックはあまりにも単純すぎる。色々な問題があります。それを提起するのに本から見ていく。

 図書館戦争のように、本と図書館をいかに守るかもしっかり考えないといけない。これらを軸にして、社会そのものを変えることができる。

 本屋と図書館の関係も読者の方から見ていく。総合的な体系を作り出す。これはクルマ社会を車とか自転車とか公共交通手段を合わせて考えるのとよく似ている。

 読書会とかTRCとかの具体的な問題は多くのあります。一番大きいのはデジタルをどうするのか、ネットワークをどう張っていくのか。これだけでも多くの本が出されています。この間の本の問題提起もそうでした。

 ネットワークを誰が張るのか、どういう発展形にしていくのか、それらも入れないといけない。

知の三部作

 幸いにも、第6章では後半で知の三部作を示しています。知の入口、知の共有、知の未来。その中に教育を変えることも出ています。これらを流すのではなく、キッチリ、イメージをハッキリさせて、誰が何をするのかを示します。

教育をいかに変えるのか

 最大のテーマは教育をいかに変えるのかです。上からの指示ではなく、配置として、どうしていくのか。

 それは仕事のあり方とか家庭のあり方にも関係します。今はあまりにも仕事に捉われています。仕事といっても、自分のミッションから起こっているのはない。他人の金もうけのためです。金もうけが中心になっている資本主義にも関係します。それで何が残るのか・

 メーカーはもっと、皆の幸せを願うものでないといけない。がずーなんて、もってのほかです。販売の方が中心にならないといけない。技術ではどうしようもない。車をこれ以上、増やすわけにはいかない。新車を作っても、それを展開する方の弊害が大きい。なぜ、旧車を潰さないといけないのか。がずーは走りの方に持って行こうと思っています。走るというのは、次の社会では要らない。

メーカーは次の社会が見えていない

 メーカーの最大の欠点は次の社会が見えていない。なぜ、車を創造したのかの結論を出す時です。内燃機関のために作った会社ではないのだから。

忘れ物が頻繁

 ICレコーダーを忘れてきた。この最近、色々なものを忘れる。

岡崎市図書館と豊田市図書館

 岡崎図書館はハードカバーが新刊書として、選んでいる。大振りが多い。ということは、最低でも二つの図書館に行かないと、違いがわからない。選書が恣意的になされていることにも気づかない。

 選択によって、内容が変わってきます。これは怖いですね。これは新聞と同じです。新聞の世界とネットの世界では大きく異なります。

メーカーの終わりの始まり

 来週はメーカーの工場はお休みだそうです。いよいよ、このメーカーの最後が始まりました。シャープ・東芝を見ていると、数年後のメーカーを見ている感じがします。

 社長のせいで、有能な人間がどんどん出て行っています。彼は自分のレベルで遊んでいます。本来やることを棚上げにして。末端がまるで動いていない。一番重要なのはどこなのかをハッキリさせていない。

 どう見ても、重要なのは販売でしょう。お客様とどうつながるのか、地域をどうしていくのか、クルマ社会をどうしていくかを考えていない。以前ならば、22世紀を考えて、そのために何をしたらいいのかのポリシーはあった。今はそれがない。レースはムダの塊であり、自己満足だけの世界。

 預言者として、メーカーの最期を記しておいた方がいいかもしれない。

ブログのアクセス数分析

 ブログのアクセス数が変なカタチになっている。原因は「ホンハイ」の記事みたいです。カウントが上がってきている。かなり前に記事です。東芝との関係でしょう。

 9千件以上あると、どんなキーワードにも引っかかる。それにしても、バラバラですよね。ココに上がっているものも、「定年退職制度」「エヴァンゲリオン」「小平邦彦」「貧困」「国民国家「「騎馬民族」などです。ようもこれだけバラバラですね。

水素ではなく水車の時代

 なぜ、水素の時代が来ないのか? 端的に言うと、ローテクでないからです。難しいですから。原子力の時代が来なかったのと同じです。中央で管理して分ける時代ではなくなります。

 それぞれの中間の存在が自分で扱えないとエネルギーではない。その意味で、一番わかりやすいのは「水車」でしょう。水車ならエネルギーになれます。他の自然エネルギーはエネルギーになります。皆が扱えるから、地域で扱えるから。

地域インフラの考え

 今後のインフラは自分たちで使えないとダメです。それを感じたのは、ゲッティンゲンの街です。町は石畳になっているので、自分たちで道路工事ができます。その風景を30分ぐらい見ていました。

 ヨーロッパはこの文明できました。街の中はそれでやっています。駐車場もアパートの下に埋めています。日本のように、高所作業車が必要な時代は過ぎました。

 その時には、政治形態も変わります。中央に集めて、それを分配するするのではなく、自分たちで作り出すことになる。メーカーは自分たちで原発を使うのは勝手です。自己責任で行えばいい。ただし、その時点で資本主義ではないので、メーカーに主導権はない。

未唯がやっと来た

 二か月間、姿を見せなかった未唯が昼過ぎにやってきた。やっと、今年が始まります。「4か月」ということで一回り、大きくなっていた。
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全体主義プロパガンダ

『精読 アレント『全体主義の起源』』より 全体主義の成立--『全体主義の起源』第三部「全体主義」 運動としての全体主義

 モッブとエリートが全体主義運動に--運動のもつ行動主義やテロルなどに惹かれて--自分から飛び込んでいくのに対して、大衆はおよそそうした行動の動因となるような自己への利害関心をもたないのであるから、誰かが外から動員し、組織しなければならない。そのための手段がプロパガンダである。

 全体主義は特定のプロパガンダの技法や宣伝内容をみずから開発したわけではない。「全体主義は大衆プロパガンダの技術を完成させたが、それを自分で発明したわけでもないし、その主題を創りだしたわけでもない。それらは帝国主義の興隆と国民国家の崩壊にいたる五〇年間に、モッブがヨーロッパ政治の舞台に登場した時に準備されてきたのであった」。全体主義はただそれを徹底して大衆に適用したにすぎない。

  大衆は目に見えるものは何も信じない。自分自身の経験のリアリティを信じないのである。彼らは自分の目と耳を信頼せず、ただ想像力のみを信ずる。彼らの想像力は普遍的で一貫しているものなら何でもその虜になりうる。大衆を納得させるのは事実ではないし、でっち上げられた事実でさえない。彼らがその一部となるだろうシステムの一貫性だけを信ずるのである。繰り返しの重要性がしばしば過大評価されるのは、大衆が理解能力や記憶力に劣ると一般に信じられているからだが、それが重要なのは繰り返すことで最後にはその一貫性を納得させるからにすぎない。

 階級社会の崩壊によって生活の基盤を根こそぎ奪われて「故郷喪失」の状態におかれ、バラバラに孤立した大衆の願望、もはや彼らが適応できなくなった世界から逃避する一方で、何らかの一貫した拠り所を求める願望こそが、全体主義のプロパガンダを可能にする前提である。「権力を掌握して彼らの教義に合致した世界を作り出す前に、全体主義運動は現実そのものよりも人間の心の必要に適した一貫した嘘の世界を呼び出す」のである)。

 もとより全体主義運動か完全に権力を掌握して、鉄のカーテンで外界からの騒音、ごく僅かなリアリティの衝撃をも遮断できるようになるまでは、やはり何らかの現実との通路が必要になる。

  統合されずバラバラにされた大衆--不幸に見舞われるたびにますます編されやすくなっている大衆--がそれでもなお理解することのできる現実世界の徴は、いわば現実世外の裂け目、つまり誇張され歪曲された形ではあれ急所を突いているがゆえに誰もあえて公然と議論しようとはしない問題、誰もあえて反論しないような噂である。

  そうした急所から全体主義のプロパガンダの嘘は仮構と現実との間の溝を埋めるのに必要な真実らしさ、現実的な経験を引き出してくるのである。

 全体主義のプロパガンダの嘘を完結させるリアリティの欠片、あるいは現実世界の裂け目を示す噂として最大の効果を発揮したものこそ、「ユダヤの陰謀」というフィクションであった。世界支配をめぐるユダヤ人の陰謀の噂はドレフュス事件以来ひろく流布してきたし、世界中に分散して国際的に連繋しているユダヤ人の存在という事実によってそれは裏付けられていたのであった。皮肉なことにユダヤ人の存在が人目を引くようになったのは、国民国家体制における彼らの影響力が減退しはじめてからである。第一次世界大戦による国民国家の解体とそれにともなうユダヤ人社会の解体は、一九世紀末の繁栄とともに一時的に影を潜めた反ユダヤ主義をあらためて噴出させることになるが、ナチスの反ユダヤ主義プロパガンダはこれを継承して発展させたものであった。そのスローガンの内容自体はこれまでの反ユダヤ主義の焼き直しにすぎない。彼らが付け加えたただ一つの新しい要素は、ナチ党員に非ユダヤ人の血統証明を要求したことであった。

  ナチスはユダヤ人問題をプロパガンダの中心に据えたが、その意味するところは、反ユダヤ主義がもはや多数者とは異質な人々についての意見の問題でも民族政策の問題でもなく、党員一人一人の個人的実存に関わる切実な問題になったということである。「家系図」に問題がある者は一人として党員にはなれないし、ナチスでの位階が上昇すればするほど血統を昔にさかのぼって証明しなければならなかった。

 反ユダヤ主義は、孤立した大衆に「自己規定と自己同二化」を与えて、彼らにある種の自尊心を回復させて組織するための手段なのであった。ナチ・プロパガンダはいわば「反ユダヤ主義を自己規定の原理に転換」したのである。

 『シオンの賢者の議定書』

  ナチスのプロパガンダとその反ユダヤ主義の特徴をよく示しているのが、『シオンの賢者の議定書』についての応答である。ナチスはこの偽書をユダヤ人の陰謀の証拠として攻撃の材料に用いるだけでなく、自らの構想のプロパガンダの手段として用いたのである。

   純粋なプロパガンダとして見た場合に、ナチスが発見したのは、大衆はユダヤの世界支配の陰謀に驚くよりもむしろどうしてそのような支配が可能になるのかに興味を持つという事実であった。この議定書が評判になったのは憎悪というより賛嘆とその方法を知りたいという熱望からであって、だからその際だった定式のいくつかにできるだけ近づくのが賢明だということにナチスは気づいたのだった。例えば「ドイツ民族にとって良いことが正義である」という有ちなスローガンは、議定書の「ユダヤ民族にとって利益となるすべては道徳的に正しく神聖である」を写したものなのである。

  ナチスは『シオンの賢者の議定書』に示されたユダヤ人の世界帝国の構想--それに向けられた大衆の驚嘆や好奇心--を逆手に取る形で、いわばユダヤの世界支配の陰画としてドイツ民族の「民族共同体」による世界支配の構想を提示したのである。もとよりすでに述べたように、全体主義運動にとってプロパガンダはあくまでも大衆を組織するための手段であり、大衆を獲得できるかどうかによってその実効性は試される。

   全体主義プロパガンダの真の目的は、人々を説得するのではなく組織すること--「暴力という手段をもたずに権力を蓄えること」--にある。イデオロギーの内容が独創的であることはこの目的のためには不必要な障碍にしかならない。われわれの時代の二つの全体主義運動は支配の方法では驚くほど「新しい」し、組織の方法の点では独創的であったが、決して新しい教義を説いたり、一般に流布していないイデオロギーを発明したりしなかったことは偶然ではない。大衆を獲得するのはデマゴギーの束の間の成功ではなく、「生ける組織」の目に見えるリアリティと力なのである。

  仮構のリアリティをもって大衆を組織する、そのためのプロパガンダの手段に対する嗅覚こそが、全体主義のリーダーの権力の基礎となる。その意味において全体主義のリーダーは単なるデマゴーグ、煽動家ではなかった--ヒトラーの雄弁の才能さえ必須の要素ではなかった--というのである。全体主義の権力の核心は、「生ける組織」としての運動そのものの展開の内にある。「プロパガンダのスローガンがひとたび『生ける組織』に具現されてしまえば、組織の全構造を破壊することなしにそれを取り除くことはもはや不可能となる」。組織の中に組み込まれた虚構そのものは一人歩きを始めることになる。ということは逆に言えば、組織の自己運動なくしては全体主義的プロパガンダの虚構は崩壊するということでもある。

   全体主義プロパガンダの内在的な弱点が露呈するのは敗北の瞬間である。運動の力がなくなれば、構成員は直ちにそのドグマを信ずるのを止めてしまう。昨日まではみずからの生命も捧げるつもりでいたそのドグマをである。運動、すなわち構成員を外界から保護していた虚構の世界が破壊された瞬間に、大衆はバラバラの個人というもとの立場に戻り、変化した世界を喜んで受け入れるか、余計な存在であるというもとの絶望的な状態に沈み込んでいくのである。……

   連合国はドイツ国民のなかに確信犯でナチスを自認する者を探し求めたが見つけることができなかった。国民の九〇%〔ドイツ語版=邦訳では「八〇%」となっている。なお、英語版は第二版以降も「九〇%」のままであ亘はおそらくある時点では本気でナチスに共感していたにもかかわらずである。このことはたんに人間の弱さやまったくの日和見主義の印として理解すべきではない。
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未唯空間小項目見直し 6. 本と図書館

本と図書館

 本と図書館
  出会い
  著者の思い
  本の蓄積
  全ジャンル

 多読
  役割
  2万冊達成
  本を処理
  言葉を与える

 図書館のあり方
  図書館の形態
  ロヴァニエミ
  図書館の活用
  豊田市図書館

 図書館に提案
  内を知る
  停滞は退化
  協議会に参画
  コミュニティ提案

知識と意識

 本の意味
  哲学思考
  未来の歴史
  社会を観る
  愛を求める

 読む意味
  多様な考え
  先の世界
  未唯空間
  歴史観

 知識と意識
  生涯学習
  中間の存在
  電子書籍
  デジタル図書館

 まとめる
  共有意識
  シェア社会
  寄り添う
  知恵の集積

公共図書館

 本がある
  新刊書
  還付金
  本屋にもある
  全てを知る

 公共図書館
  米国の図書館
  フィンランド
  八重山図書館
  豊田市図書館

 本を処理
  図書館の役割
  本を処理
  読書風景
  サードプレイス

 図書館を守る
  社会変革拠点
  町の活性化
  図書館経営
  図書館防衛隊

教育を変える

 先を見る
  先を見る
  全体を考える
  本のすごさ
  図書館の範囲

 未唯空間
  本にまとめる
  問題意識
  存在の力
  時空間を超える

 生涯学習
  見る、知る、考える
  学ぶ環境
  学校・会社・家庭
  新しい循環

 教育を変える
  市民の覚醒
  コラボ環境
  共有ツール
  持続環境学習

地域に配置

 ポータル
  メッセージ共有
  市民の分化
  コンシェルジュ
  ソーシャルネット

 コラボ
  議論の場
  事例展開
  意思決定
  知の入口

 アウトリーチ
  範囲拡大
  考え抜く
  先を見る
  地域を超える

 配置
  現場
  どこでも図書館
  分化と統合
  インフラ

知の入口

 知の入口
  デジタル化
  デジタル空間
  個人環境
  ライブラリ配置

 学ぶ環境
  学ぶ意味
  状況把握
  チーム学習
  多様な現場

 コンセルジュ
  情報を集約
  調べる
  本を書く
  交流館と連携

 意思決定
  アゴラ
  考えられる場
  悩みをなくす
  意見を聞く

知の共有

 愛される図書館
  市民アピール
  オープン
  パッション
  文化

 電子書籍
  テキスト化
  未唯宇宙
  分岐点
  知の体系化

 クラウド
  中間の存在
  集め、整理、調べ
  ザナドゥ空間
  スキップ思考

 知の共有
  ライフログ
  社会ライブラリ
  分化と統合
  バーチャル空間

知の未来

 全体を知る
  意識を向上
  市民が行動
  集合知
  知の空間

 今を知る
  多くの本がある
  未唯宇宙
  電子書籍の変革
  政治形態の変革

 先を知る
  存在の力
  未来を語る
  集合和
  歴史の変節点

 知の未来
  情報整理
  預言
  知のカプセル
  知の変革
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岡崎市図書館の10冊

311.8『精読 アレント『全体主義の起源』』 ⇒予約して入手 

141.5『馬を飛ばそう』IoT提唱者が教える偉大なアイデアのつくり方

491.4『性と愛の脳科学』新たな愛の物語

361.3『友情化する社会』断片化のなかの新たな<つながり>

611.4『農林漁業の産地ブランド戦略』地理的表示を活用した地域再生

332.1『日本資本主義の大転換』

332『お金の流れでわかる世界の歴史』富、経済、権力……はこう「動いた」

538.9『スペースデブリー』宇宙活動の持続的発展をめざして

210.7『「平和国家」の誕生』戦後日本の原点と変容

115.3『不合理性の哲学』利己的なわれわれはなぜ協調できるのか
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