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未唯空間第6章 本と図書館篇

書き起こしが進まない

 やっと、書き起こしを始められました。10日分ぐらいあります。

 入力が難しいのは、やはり、視力ですね。パソコンを見ているのはきついです。観る分にはタブレットにして、目を近づければいいけど、入力はそういう訳には行きません。

多読で得たもの

 多読で何を得たのか。何を失ったか。一万冊で多読と本を処理することを習得。孤立と孤独を保てるのは多読のおかげです。知りたいことがあって読むというよりも、読むことで知りたいことがわかる。それらの本は私のために用意されていることを実感が大きくなった。自分が関心を持ったこと、持たされたことは本として現れます。

 本は探すのではなく、目の前に与えられるもの、なるべく偶然を活かして、読んできた。その結果、言葉が与えられたのは確かです。独我論にしても、数年前には私の中にはなかった言葉です。

図書館関係者に言いたいこと

 環境としての図書館のあり方を探し始めて、16年ぐらいになります。ロバニエミ図書館にも行きました。図書館の関係者に言いたいことは多くあります。次の時代をキッチリ見ていかないと、世の中はどんどんダメになっていく。

 色々なことを彼らは話すが、自分の所のことしか考えていない。これはメーカーと同じです。それではダメです。市民のことを考えないと。図書館に来る人だけではなく、来ない人、そして図書館の未来をどう見出していくのか。

 本と図書館で中間の存在を盛り上げていかないといけない。そのベースが知識と意識。メディアも多くあります。本だけでできるわけではない。

本には意味がある

 だけど、本には意味があります。読む価値があります。それは面倒で、リテラシーが要ります。その先に在るものから言及しないとダメです。先に在るものは知識と意識を得て、どう行動するか。

 世の中の傾向はすべて、逆に走っているけど、それをいかに止めるか。その時にキーになるのは存在です。何のために読むのか。自分の存在のためです。池田晶子はその辺りをキッチリ説明できる。今、彼女が居ないのは残念な世界です。もっと、色々なことを言っていけばいいのに。だけど、本は残り、思いが残った。本の素晴らしさはそこです。

 知識と意識にしても、まとめること、伝えること、つながることです。それが本来の意味です。

公共と図書館

 公共図書館。公共というものと図書館がつながっていること。英国から始まった制度。日本には定着していない。お上から与えられたものではダメです。自分たちで作り出さないとダメです。

 小布施ではないけど、街をいかに変えていくかというレベルで止まっています。世の中を変えるところまでいっていない。公共図書館は未来のカタチです。

 行政の中にいる、教育委員会の下にいる公共図書館がいかに独立するか。数学と同様に、道具から抜け出して、図書館が主体となって、市民と連携すると同時に図書館同士で連携をしていくことが重要です。中間の存在として大きなキーになります。

 何しろ、大きな武器を持っています。そこに本があります。本自体もデジタル化が進んでいきます。著作権も変化していきます。本は読まれて、なんぼ。読まれて、人が覚醒して、行動が変わって、なんぼ。個人のレベルでまとめて、内なる世界を作り、外に出していく。それをシェアしていく。

図書館を防衛する

 読書会が必要かどうかわからない。内なる世界ではなく、単なる外の世界です。図書館をいかに守っていくのか。これは生半可なモノではない。図書館戦争ではないけど、本当に防衛しないと潰れかねません。外圧は大きい。本を読まない人たち、変えたいない人は多く居る。

 ハイアラキーと配置の戦いの最前線です。上からの指示で動く人間にとって、本は必要ない。江戸時代に女に教育は必要ないと言っているのと同じです。

覚醒し、伝播する

 選挙権が与えられて、考えるための道具を個人から発していくためには本が必要です。配置されたものがその時点から変わっていくには、メディアに頼れない以上は本です。そこからメディアを変えていって、伝播ルートを作り出す。

 ムハンマドにしても、クルアーンを早めに作って、中間の存在であるコミュニティで個人の覚醒を促していった。それで伝播した。

教育を変える

 一番身近な所では、教育を変えることです。教育を変えるために、それぞれが目的をハッキリさせないといけない。どういうカタチにしたのか、その意思統一をしていく。その為には、いかに本のまとめるか、それを自分の世界に持ってくる、内なる世界の図書館が必要です。私には未唯空間があります。

 そこから生涯学習、教育を学校に捉われるのではなく、就職を変え、会社を変え、家庭を変えるためには生涯学習が必要です。教育を変えることで他のモノが変えられる。循環の初めが教育です。

 全体主義にしても、共産主義にしても子どもの教育から始まった。環境学習も子どもの学習から始めようとしている。本来は大人から変えないといけない。大人を変えるにはどうしたらいいのか。それぞれが覚醒するしかない。覚醒する場をどう持ってくるのか。それが中間の存在の場である。

地域配からのアウトリーチ置

 中間の存在と本と図書館がつながることで、地域への配置になります。そういうコミュニティをどう作り上げるのか。何処でも図書館を考えていく。それで分化と統合を行っていく。それが地域インフラにつながる。

 そこで何が必要なのか。図書館の意味は何なのか。販売店の仕組みから考えてきた。ポータルとコラボがある。それで武装化していく。今後はコラボです。そうしないと、それぞれが覚醒しえない。

 ここ一年で得たのはアウトリーチです。図書館も来てくれるのを待って、本を腐らしてもしょうがない。本を持って、出掛けていく。それを対面で伝播していく。その場所をどうしていくのか。この努力が足りない。

 図書館の本でアウトリーチすれば、バザーも変わってくるし、色々なところに配置する。何処でも図書館もその一環になる。それを推し進めるために、本で影響された人々をつなげていく。本の魅力をアピールしていく。その場をどう作っていくのか。

シェアをイメージする

 個人的にはスタバでのカウンセリングとしてやっていきたい。対面講義の形式も魅力的です。それは20年前に考えた、どこでも図書館につながってきます。富良野の美瑛には美瑛の図書館。旭川空港には旭川図書館。皆、違います。本の威力は変わらない。販売店にしても花屋さんにしても、主張を持っています。その主張を的確に伝えるために本が必要です。

 例えば、今、ランドリーがあります。ランドリーには大型の機械を置くことが出来ます。スニーカー専用の洗濯機もあります。個人所有の洗濯機とランドリーの世界を結び付けていきます。それがチェアの世界の一つです。

 ニューヨーク市には個人が洗濯機を持てる環境がない。だから、ランドリーを使う。歩いて行って、ランドリーでおしゃべりしながら、洗濯をする。一つのコミュニティです。中間の存在です。それぞれが所有するのではなく、シェアしていく。
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「公共的に生きていくための術」を支える「他者」の存在

『悪という希望』より ⇒ 中間の存在とか「他者」の存在でアップ

新しいコミュニケーションの可能性

 ペックやギデンズの議論を参照して分かったのは、キョウヨウ主義の自己意識システムは決して絵空事ではなく、各人の生きる指針として機能する余地があるということである。しかも、ここまでの検討から、現代における宗教・スピリチュアリティは決して個人の意識の中に「閉じこもっている」ばかりでなく、新しいコミュニケーションの可能性へと開かれたものであることが確認された。竹内はキョウヨウ主義を批判的に論じていたが、その宗教的コミュニケーションとしての意義を活用することで、現状からの脱出口を見出すことができる。

 もっとも、先に示した社会人基礎力の自己意識システムが優勢となっている現代社会において、キョウヨウ主義の自己意識システムは(どちらのヴァージョンでも)いかにも弱々しい。特にヴァージョン↓は「生きていく術」の追求の仕方によっては、容易に社会人基礎力の自己意識システムに取り込まれてしまうだろう。だから、せめてヴァージョン2の方だけでも強力にするべく、キョウヨウ主義を新しいコミュニケーションヘと導くように、具体的なコミュニケーション様式を考えていく必要がある。そこで、先に村澤で参照されていた斎藤による別の議論を参照する。それは、斎藤が精神科医として「ひきこもり」や「うつ病」の臨床に携わり続ける中で、そのような人々が社会生活を過ごせるようになるための方策について考察したものである。

自己愛と他者

 斎藤によれば、「ひきこもり」と「うつ病」はその臨床のあり方において、似た点が多い。そして、長年「ひきこもり」の臨床に関わってきた者として、うつ病の回復過程における人間関係のありようが、きわめて大きな意義をもっていることを確信しているという。場合によっては、どの薬を選択するかということ以上に、人とどう関わるかが重要になっているというのである。

 では、斎藤がそのように論ずる「医学的背景」とはどのようなものだろうか。斎藤は「客観的な検証は原理的に困難」と断りながらも、自らが医師として臨床の指針として依拠している「自己愛システム」という枠組を、自らが作成した図とともに論じている。

 斎藤は、「他者への愛の根底には自己愛があり、しかしその自己愛を育むのは他者への愛である」というかたちで、「自己愛」を一つのシステムとして想定している。そのように考えるのは、自己愛の維持において「他者」の存在がいかに重要であるかを強調するためである。この図式では、自分の「野心」と自分の「理想」という二つの極を、自分の「スキル」がつないでいる。「スキル」とは、人を駆り立てる「野心」と人を導く「理想」を上手くつなげる術である。そして、この「スキル」を維持・発展させていくための存在として、「他者」が位置づけられている。「他者」はまず、自分の「野心」にエネルギーを供給する存在である。なぜなら、「他者」との接点がなくなってしまえば、「野心」も次第に衰弱するからだ。次に、「他者」は「理想」のありように対して、常に微妙な軌道修正をかける。例えば、ある「理想」がもはや現実的でないと判明したら、「他者」はより実現可能性が高い努力目標に設定を変更するように、自分へと働きかけてくる。ちなみに、ここでの「他者」は、一期一会的な出会いや、人ではなく記?や↓アイディアタとの出会いなど、多様な人物やものごとが含まれる。

 いくつかの用語の意味を確認しておくと、斎藤によれば「野心」とは「自分を駆り立てるエネルギー」のことであり、「理想」というのは「自分にとってのゴール」である。成長のためにはゴールとエネルギーの双方が欠かせず、この二つの極の間の緊張関係によって発達が起こるという。その上で、とこで重要なのは「スキル」と「他者」に関する議論である。まず「スキル」であるが、これは先のキョウヨウ主義の自己意識システムにおける「自分なりの『公共的に生きていくための術』」と重なるだろう。なぜなら、斎藤のいう「スキル」も単に自分のための閉じた「理想」のためでなく、むしろ「他者」との交わりを通じて修正していくことを想定しているからである。

 また、斎藤の議論を参照して分かるのは、「自分なりの『公共的に生きていくための術』」を磨いていくには、「他者」とのコミュニケーションが不可欠だということである。「他者」が必ずしも「人」である必要はない。蒐集癖のある人にとっては、自分の集めたコレクションが自己愛の支えになり、作家やアーティストにとっては、自分の作品がその位置に来る。つまり、自分にとって「他者性」を発揮してくれる対象であるなら、何でも構わないという。そして、「他者性」とは「自分にとって重要でありながら意のままにならないこと」を意味しているという(斎藤呂コニ笞。

他者から社会へ

 斎藤もいうように、「他者」という存在の客観的な検証は原理的に困難である。だから、「他者」が人にとって必要だという議論も、それ自体をそのまま受け入れるしかない。すなわち、この「他者」とのコミュニケーションも、ある特定の存在を信仰する宗教的なコミュニケーションだといえる。では、ここでいう「他者」とは何を指すのか。それは、自分の「理想」(=主観的に解釈された「理想の自己像」)を「理想」として維持しながら、決して全てを約束してくれているわけではない存在を指す。「他者」は、自分を「理想」へと進むように誘ってくれるが、決して結末が保証されているわけではない「未来」を、自分に与えてくれる存在である。そして、そのような「他者」とのコミュニケーションが、各人の自己愛を支える。その自己愛のあり方は、宗教的コミュニケーションとしての意義が確認されたキョウヨウ主義と、その自己像のあり方に共通点が見出される。

 最後に付け加えると、このように考えていくことで、「社会の一員としてのあり方」にある「社会」についても、別様に解釈する可能性が開かれるだろう。この場合の「社会」とは、単なる「道徳的・常識的なルールの集積体」ではなく、ましてや「人々を打ちのめすような現実の集合」でもない。それは、「また生きていこう」という希望や未来を、人々に与える「理想のイメージ」を含むと考えられる。その結果、「社会」は多くの「自己から他者への偏愛」であふれるが、そのことを非難するべきではない。現代は、「普遍的な人間」という観念を信仰し過ぎているのだから。
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