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モンゴルの軍隊

『戦闘技術の歴史5東洋編』より

チンギスの帝国計画は、途方もない夢のようにも思われた。なんといっても、総人口三〇〇万にも満たないモンゴルが、五三〇〇万もの人口を有し、そのうち少なくとも五〇万人の兵が初期の小銃などの近代兵器を装備しているという、先進的な巨大帝国を征服しようというのである。

さらに金の皇帝世宗(位一一六一~八九年)は、モンゴル領内のかなり深いところに五〇〇〇キロメートルに及ぶ木製の砦や矢来、掘割を築き、満洲の防衛のためにも同様の第二の防衛線を築いていた。わずか九万五〇〇〇のモンゴル軍騎兵が、これほど堅固な防禦をどのように突破しようというのだろうか。

モンゴル軍の強みの一つは、チンギス白身が優れた司令官であり、組織者であり、訓練指導者であったうえ、スベエテイ(一一七六~一二四八年)やムカリ(一一七〇~一二二三年)など、優秀な指揮官が彼を補佐していたことである。チンギスが次々と敵を制圧しようとしたのは、部族同盟を維持するために勝ちつづける必要があったためだった。領土を拡大し、征服し、支配せよ、さもなければ死が待つのみ。これがモンゴル帝国のモットーだった。

もう一つの強みは、モンゴル人白身にあった。一六歳から六〇歳までの男子全員が従軍できる状態にあったのである。冷たく乏しい食料に慣れており、どのような天候でも悪路でも馬を乗りこなすことのできるモンゴル人は、生まれながらの戦士であった。彼らの戦闘技術は、年に二度行われる大ハンの狩猟(ジェルゲ、すなわち巻狩り)によって試された。この狩猟では、大きく弧を描きながら獲物を駆り立て、次第に範囲を狭めながら獲物を集め、最終的に谷間や峡谷に追い込む。そこで大ハンが殺戮開始の合図として最初の矢を撃ち込む。巻狩りはやがて行われる戦闘の、あらゆる軍事行動の手本としても役に立っていたのだ。

モンゴル人兵士は、他のどの軍の兵士よりも遠く長い距離を、馬を駆って走りつづけることができた。雑穀や乾燥させた凝乳、塩漬け乾燥肉、そしてクミス(発酵させた馬の乳)など、貧しい遊牧民の食事でも生きていくことができた。非常の際には馬の首の血管を切り開き、その血をすすった。幼いころから馬に乗り、弓矢を使い、さらにこの二つを同時に行うという最も難しい訓練を積み重ねていた。

モンゴル人が持つ唯一の「秘密」兵器は、遊牧民の合成弓だった。柔軟性のある木材で作られ、力のかかる部分は膠で補強され、角度のついた「耳」はより高い効果をあげるために骨で補強されていた。モンゴルの弓は飛距離も張力も、有名なイギリスのロングボウの二倍(一〇〇ポンドから一五〇ポンド)あり、弾道も低く、発射時の復元力も安定していた。経験豊富な騎射兵が接近戦で用いた場合、この弓は破壊的な威力を発揮した。

モンゴル軍の騎射兵には、いくつかの機能があった。偵察、斥候、波状攻撃、さらには機動砲兵隊の役割も果たした。各兵士は長射程と短射程の弓を二、三本持ち、戦闘中に矢を切らさぬように、三〇本の矢を収めた矢筒を三つ装備していた。行軍の際には、常に十分な休息を取った馬に騎乗できるよう、重騎兵はおのおの馬を二、三頭連れていた。

矢筒に収められた矢も、モンゴル軍を勝利に導く重要な武器の一つだった。赤くなるまで熱したのちに塩水につけて鍛えた鉄製の鏃が、すべての矢につけられていた。このような製法で作られた矢は、甲冑さえも貫き通すことができた。至近距離では鏃の幅が広い矢を、遠距離では鏃が小さくて短い矢を用いるのが最も効果的だった。もう一つの改良点は、弓弦をより強く引き絞るために、親指に板指(金属製の輪)をはめたことである。

騎射兵は敵と接近戦を繰り広げることをまったく想定しておらず、その代わりに絶えず矢の雨を降らせることで敵を悩ませ、足止めさせた。接近戦は、薄板を層状に重ねたラメールーアーマーを着て槍で武装した重騎兵に託されていた。彼らの甲冑は、軽金属や硬革に黒い樹脂の「漆」をかけた板で作られていた。また、馬にも同様の馬甲が着せられていた。各騎兵は金属製の小さな兜をかぶり、投げ縄、鋭いトルコ風の短剣か刀、鋼鉄の穂と敵を落馬させるためのひっかけ鈎がついた長い槍で武装していた。また、接近戦で敵の頭めがけて振り下ろす梶棒も持っていた。

騎兵以上に優れていたのは彼らの馬で、大きさと外見を除けば非常に優秀だった。体高わずか一三〇センチから一四〇センチと小柄な、現代のポニーにも似た草原馬あるいは蒙古馬は、驚異的なスタミナと移動距離を誇り、極めて乏しい食料でも生き延びることができた。このような馬にまたがったモンゴル兵は、二日間で最大二一○キロメートルを移動できたうえ、厳しい行軍の末に戦闘で勝利を収めることもできたのである。

モンゴルの騎馬隊は大ハンの親衛隊であるケシクを中心に構成されていた。二一〇六年以前には一五〇〇人だったケシクは、一二二七年のチンギスの死亡時には軍全体が九万五〇〇〇人から一三万五〇〇〇人に拡大していたのに合わせ、一万人に増加していた。彼らは皆トウメン(万人隊)や軍の指揮官候補であり、戦闘の流れを一転させる役目を担うことも多かった。ケシク内の規律は非常に厳格で、脱走、不服従、任務中の居眠りなどは即刻処刑されることもあった。

その他の部隊は十進法に沿って組織されており、アルバン(十人隊)を軍における兵士にとっての「家族」のような単位と位置づけ、一〇個のアルバンでジャウン(百人隊)、ス‥)個のジャウンでミンガン(千人隊)という、戦闘の基本単位となる部隊を形成した。ミンガンが一〇個集まったものがトウメン(万人隊)という師団となり、トウメンが二、三個集まったものが軍団となった。

モンゴル軍は、前方に重騎兵隊二個、後方に軽騎兵隊三個の、合計五個のミンガンから成る部隊で戦闘に備えた。騎射兵は重騎兵の隊列の隙間に配備され、敵に激しい矢の雨を浴びせる。それと同時に、敵の両側面から掃蕩攻撃を加えるトウルーマと呼ばれる戦法も行う。白黒の信号旗で統制されたこの展開は、不気味なほどの静寂の中で完璧に遂行され、戦闘開始の合図である巨大なナカラ(ラクダで運ばねばならないほど重い陣太鼓)がうち鳴らされた。

その合図とともに、モンゴル軍はオオカミのごとく雄叫びを上げながら攻撃を開始し、混乱し、傷つき、弱った敵に矢や投げ槍の雨を降らせた。敵は巻狩りのときと同じようにモンゴル軍の術中にはまった。モンゴル軍はどうぞ逃げてくださいとばかりに後方に逃げ道を残しておくが、この「逃げ道」が実は、モンゴル軍が仕掛けたもう一つの恐ろしい戦略上の罠なのだ。敵に逃げるチャンスを与えることで全面衝突を回避することができ、敗走する敵を何百キロメートルにわたって何日も、ときには何週間も追撃し、壊滅させることができたのである。

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相談は面接か、面接は相談か

『相談の力』より 相談とは何か--その哲学、理論、方法

相談論の入口を見つけるために、面接について考察したいくつかの文献を見てきた。そこでは、相談は面接を説明するためのことばである。熊倉の定義にもあるように、面接という構造化が行われる前に、相談者という普通で平凡な人間がいる。その平凡な出会いを強調するのは、医師が社会性を失わないためであるという。

それは出会う人を初めから患者としてとらえるべきではないという認識である。面接は相談者から患者になっていく「見立て」の方法として有効に活用されている。

相談論の入口は、平凡な一人の人間との出会いという、面接に進む前の場所にある。その入口は社会に向けて面接より前にある。私は、面接という方法を説明するだけではない、相談固有の意味をつかまえようとしているのである。

ソーシャルワーカーの前に現れる人も、相談者から生活保護の受給者になり施設利用者になって面接の対象になる。このように面接は平凡な人間同士である相談の曖昧さを塗り替える。実際、病院や福祉事務所、福祉施設などの構造化された場面で、面接は時に法律を根拠にして強制力をもって行われる。

そのために、相手との関係は上下関係になり、また金銭給付やサービス提供の根拠となる情報収集の面接になる。そこには相談者の主体性も相談員との対等性もない。そのとき、面接は相手にとって抑圧的な経験ともなりかねない。だからこそバイステックの原則が必要となる。

もう少しソーシャルワークにおける相談と面接ということばのあり方を見てみよう。窪田暁子は、ソーシャルワークの実践を福祉臨床ということばにして、面接のスキルを展開していく。援助専門職であるソーシャルワーカーの「基本技能は面接」と考えているからである。

援助専門職が援助という有効な結果をもたらすために、面接がスキルに基づき構造化されたものとして準備されなければならないという。その中心は共感である。それを「共感的理解」「共感的傾聴」と広げ、ソーシャルワーカーは「共感的他者」でなければならないとする。

ソーシャルワーカーの実践は、二者関係に限定された面接だけではないが、面接は対人援助の手ごたえを感じる場であり、援助専門職としての存在価値を確認するときである。ここでは「生の営みの困難」を抱えたクライエントを相手とする面接という状況規定をしている。そのため、クライエントとソーシャルワーカーという構造の非対称性を、「共感」という心的作用で乗り越えようと努力している。一方、相談はそのようなあらかじめ構造化された枠組みを持たないで二者関係に入ろうとするものである。

もう一人、医療ソーシャルワーカーとしてこの面接ワールドにのめり込んだのは奥川幸子である。その面接論を見てみよう。著書『未知との遭遇--癒しとしての面接』の第一部「面接の醍醐味」は、面接がいかに興味深い仕事かを伝える。第一部は「第1章 面接とは〈課題を達成すること〉」「第2章面接とは〈一期一会〉」「第3章 面接は〈ドラマを演じること〉」である。

本書は、これまでのソーシャルワークのことばや概念から徹底して離れている。その発想の自在さはF1レーサーの故アイルトン・セナのことばから、面接者の能力や努力の方向について示唆を得たということからもわかる

奥川は面接に「魅せられて」、その結果「ときとしてブラックホールに引きずりこまれてしまうことがあるj と言う。「だから面接はおもしろくもあり、恐ろしくもある。やればやるほど奥深い。そして不思議な世界を垣間見る」と面接を語る。

面接を「異界のフィールドワーク」に例える奥川は、「動物的な知に近づくこと」を目指しているとまで言い切る。10年後に出された700頁に及ぶ『身体知と言語一対人援助技術を鍛える』では、身体知を柱に自らの身体から湧き出すあらゆる実践知を書きつくそうと試みている。

それは熊倉の『面接法』が、できるだけ少ないことばで現実を整理し、シンプルな表現で面接を定義し、時には数式にして100頁足らずの小さな本にとどめたやり方の対局にある。一方が広い汎貯既を持っとしたら、奥川の本は一人の固有な人間の身体知の世界を掘り下げる。面接に対する考え方や姿勢には、これほどに大きな違いがある。

また、熊倉が面接を「相談に来た人」と「相談を受ける人」の出会いであると相談に重ねているのに対し、奥川は、対人援助の専門家が完璧に準備して待つ方法と位置づける。そこに、相談とは違う援助する人間のエネルギーのマグマがある。

さらに奥川の場合は、相談援助に面接までも加えて「相談援助面接」という6文字を一体として使っている。強烈なエネルギーがことばを濃くさせるのだろう。しかし、このように漢字句を乱暴に一つにまとめてしまうと、相談、援助、面接をそれぞれ考える手間が不要になるかわりに、方法的意識の深化をもたらさない。それは傾聴や共感、支持ということばがどのような行為や態度によって、何を実現しようとするかという理論的な前進がないソーシャルワークの現実につながっている。

それに対し、土居は「見立て」「共感」「わかる」「わからない」という一見、日常語として使われていることばを丁寧に掘り下げている。それはことばの問題でなく方法につながっている。ソーシャルワークにおいても相談、援助、面接のそれぞれのことばを一つひとつ丁寧に考え、方法的意識を深めなければならない。

援助という意識の中で人に関わる時、そこには非対称性がある。面接する側のエネルギーはそれだけで相手の主体性を奪う。それに対して相談は、相手の主体性と力のバランスに自覚的になろうとする努力でもある。
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戦間期の外務省 外交と東亜新秩序構想

『ハンドブック 近代日本外交史』より 戦間期の外務省--国際協調主義と現状打破思想の相克

幣原外交

 第一次幣原外交と呼ばれる一九二四年六月から二七年四月までの日本外交は、国際協調主義、対英米協調主義が最も華やいだ時期であった。当該期の外務省は、幣原外相が英米の外交官と個人的な親密関係を築いていたことや、ワシントン会議で成立した九カ国条約を積極的に遵守することで、英米との協調関係をより強固なものへとした。九カ国条約で定められた中国の門戸開放・機会均等は、米国を中心に列国がかねてから主張してきたものであり、幣原外相がその精神を尊重してきたことが協調関係の構築に大きく作用した。

 一九二七年四月に誕生した田中義一内閣では、田中首相が外相を兼任することとなった。田中外交は積極的に中国に干渉するものであったため、よく幣原外交と比較される。しかし田中外相は積極的な大陸権益の保護・拡大を指向しつつも、決して国際協調主義を疎かにはせず、特に英国とは対中政策において歩調を合わせたのである。一九二九年に張作霖爆殺事件の責任をとって辞任した田中首相に変わって誕生した浜口雄幸内閣で、幣原は再び外相に返り咲いた。同年一〇月に世界恐慌が起こり、列国が経済的ナショナリズムに傾倒していく状況下においても、幣原外相は国際協調という外交理念を貫こうとした。その成果が、一九三〇年四月のロンドン海軍軍縮条約の締結である。しかし、一九三一年九月に勃発した満州事変は、幣原外交に大きな打撃を与えた。事変勃発後、すぐさま不拡大方針を決定するも、現地軍の暴走を抑えることができず、同年末に若槻礼次郎内閣は総辞職し、幣原外交は終焉を迎えるのである。

広田外交

 幣原の退陣後、外務省内の主流派となったアジア派外務官僚によって現状打破構想が本格的に追求されるのが、一九三三年九月から三六年四月までの広田弘毅外相、重光外務次官体制下であった。その最初の試みが満州の経済的勢力圏化であった。一九三二年の満州国の建国により、同地域に対して政治的影響力を及ぼす基盤が完成したため、次に経済的優越性を確保すべく、一九三三年九月から満州の経済統制の方針に関する議論が日満産業統制委員会で開始された。翌年三月に「日満経済統制方針要綱」が完成し、満州の重要産業に関する一般的な統制方針が決定されると、日本は順次各種産業の統制に取り掛かったが、その際米国から非難の声が頻繁に上がった。その一例が、石油業の統制過程である。一九三四年二月に「満州石油会社」が設立されると、五ヵ月後の七月に米国から日本に対し、九カ国条約違反を指摘する抗議がなされた。しかし外務省は、統制は満州国の自主的な措置であり、制度上、日本はなんら九カ国条約に抵触していない、という旨の返答を行い、日米間は九カ国条約に関する原則論的対立に終始することとなった。その間に、日本は満州の石油専売制度の実施を断行し、米国系石油会社を満州から撤退を余儀なくさせた。このように、英米との関係を考慮しつつも、半ば強引に経済統制を進めることによって満州を九カ国条約の門戸開放・機会均等主義から引き離すことに成功したのである。

 一方、中国国民党に対しては、広田外相の代名詞ともなった「日中親善外交」を展開し、国民党の親日派との提携を模索していた。一九三三年一〇月の五相会議においても、「日満支三国の提携共助」を実現させることが今後の対中方針として正式に決定していた。一九三五年五月に英米に先駆けて在中公使館を大使館へ昇格させたことは、こうした広田外相の対中親善策の最たる例であろう。しかし、満州問題が足枷となり、日中間の提携は一筋縄には進まなかった。そうした中、満州事変と同様に、現地軍が主導する形で華北分離工作が開始される。広田はこうした軍部の工作を利用し、(1)排日の停止、(2)満州国の承認、(3)共同防共、という所謂「広田三原則」を中国側に要求した。だが、「広田三原則」は日本の要求だけを一方的に中国に押し付けたものであったため、逆に国民党内の親日派の衰退を招くこととなった。また、こうした安易とも言える広田外相の対応は、それまで東アジア秩序及び日米関係の維持のために、日本に譲歩的であった米国務省の対日態度をさらに硬化させる要因ともなった。同年十一月には傀儡政権である翼東防共自治政府が樹立され、日中親善どころかますます両国関係が悪化していく状況の中、一九三六年二月二六日に発生した二・二六事件によって当時の岡田啓介内閣は総辞職し、広田外相、重光次官もそれぞれその任を解かれたのである。

 その後、広田内閣、林銑十郎内閣という二つの短命内閣を挟み、一九三七年六月四日に第二次近衛文麿内閣が組閣され、広田が再び外相を努めることとなった。自身の在任中に戦争は決して起きない、と演説した広田外相であったが、就任からわずか一ヵ月後の七月七日に盧溝橋事件が発生し、戦火は瞬く間に日中の全面戦争へと拡大した。この頃の広田外相には日中提携のため日中戦争を解決しようとする気概は感じられず、近衛首相や軍部の方針に追従するだけであった。

 日中戦争は日本側の当初の予想を超えて長期化し、近衛首相が「国民政府ヲ対手トセズ」という、所謂「近衛声明」を発する等、泥沼化の様相を見せた。そうした状況を打開すべく、一九三八年五月二六日に広田に変わり、元陸軍大臣である宇垣一成を外相に据えた。宇垣外相は、和平の交渉相手を自ら喪失させた「近衛声明」の撤回を条件に入閣したのであるが、彼は日中戦争を解決するには英米の理解を得る必要があるとも認識しており、七月下旬から始まったクレーギー英駐日大使との会談でも、終始譲歩的姿勢を示した。しかし宇垣外相のこうした態度に軍部は反発した。そこで陸軍は宇垣外相による譲歩的な和平工作を妨害すべく、興亜院の設置に乗り出し、対中外交権を宇垣から奪おうとしたのである。結局、宇垣は興亜院設置問題によって外相を辞職してしまう。

東亜新秩序構想         

 宇垣の辞職後、近衛首相は約一ヵ月間外相を兼任した後に有田に外相就任を要請する。この頃には、日本は軍事作戦による日中戦争の解決は断念して、政治工作による解決方法を模索していた。その一つが汪兆銘工作であった。親日派であった汪兆銘に接近し和平の機会を窺おうとしていたのであるが、そのためには近衛自身が「近衛声明」を撤回しなければならなかった。そこで発表されたのが「国民政府と雖も拒否せざる旨の政府声明」、すなわち「東亜新秩序声明」であった。

 日本、満州、中国の連帯を説いた東亜新秩序構想と十一月一八日の有田外相による九カ国条約の否定は、それまで比較的対日譲歩的であった米国をして、経済制裁として日米通商航海条約の廃棄を考慮させるに至った。日本が米国の経済制裁を回避するには、日中戦争の早期解決と、列国の在華権益が保護されることを示す新たなプログラムを提示する必要があった。しかし、当該期の有田外相及び外務省は、そのどちらに関しても具体的な計画は持ち合わせていなかった。そして、英米の理解を得られぬまま列国の在華権益を侵害する占領地政策が続き、ついに一九三九年七月に米国は日米通商航海条約廃棄通告を行ったのである(失効は半年後)。

 この間、外務省は無為に軍部等に追従していたわけではなかった。その端的な例が日独防共協定強化問題である。一九三六年一一月に結んだ日独防共協定を、英仏をも対象とした日独の軍事同盟に昇格させるか否か、という議論が第一次近衛内閣期から存在していた。協定強化に積極的であったのが陸軍と外務省革新派であった。平沼騏一郎内閣期には数十回にわたり五相会議が開かれ、同問題について協議されたのであるが、有田外相は英・仏を含めた列国との関係改善を模索しており、そうした努力を反故にする協定強化には断固として反対した。結局、同問題に関して決着がつかぬままにドイツが一方的にソ連と不可侵条約を締結したため、日本国内でも協定強化問題は立ち消えとなった。

 しかし、一九四〇年になってドイツが電撃的な攻勢を見せると、日本国内では「バスに乗り遅れるな」というスローガンの下、日独提携強化論が再燃する。そして、一九四〇年七月に成立した第二次近衛内閣期となって松岡洋右外相は日独伊三国同盟を締結するのである。また同内閣期の日本軍の南部仏印進駐は、米国による在米日本資産の凍結、石油の対日全面禁輸措置を招き、日米関係は加速度的に悪化することとなった。むろん、外務省は対米関係改善の道を真珠湾攻撃の直前まで決して諦めたわけではなかった。開戦時の外相であった東郷茂徳は、軍部における開戦派を抑えつつ日米交渉によってなんとか対米戦を回避しようとした。しかし、一九四一年一月二六日に米国から届いた所謂「ハル・ノート」は東郷ら非戦派の希望を打ち砕くこととなり、終に一二月八日を迎えるのである。
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年収を上げる読書法

夢って、何だろう

 「夢を引き寄せる」と書いてあるけど、「夢」って、何だろう? 137億9千万年の中の、この一瞬で、夢って何だろう。一日が頭から始まったとして、その時のやりたいこと。それが夢なのか。

 人生という、66年という、小さなスケジュールでは考えられない。感情が一つの関係で生まれるのであれば、私には関係ない。

年収を上げる読書法

 「年収を上げる読書法」。読書とは年収を上げるもの。本をノウハウとみているのでしょう。自分を考えるためではなくて。そうすると、「159」だけの世界。あとの998のジャンルは読書ではないということになる。

 そして、「本を買え」「忘れてしまっては意味がない」だって。「新刊書を買え」とくる。作る方にとっては年収が上がります。最後に、「この本を買っている貴方は正解!」となります。残念ですね。誰が買うか!

 「読書スピードが読んできた本の量に関係する」。本当にそう思っているのかな。わたしのばあい、それを実感したのは1万冊を超えてからです。何しろ、全ジャンル対象だから、時間は掛かります。まあ、「159」だけならば、そう言えるでしょう。同じことし書かれていないから。

 「本でもって、行動する」。そんなアホなことはないです。自分の中の言葉にしなきゃ。「ビジネス書が年収を上げるため」。ではカーネギーを読めば、年収が上がるのか。ということでカーネギー三部作が手元にあったので読んでみた。残ったのは、「トルストイの家出」と時間の非連続性だけだった。カーネギーの比喩は面白かった。ノウハウではなく、元の考え方。カーネギーから感じるのは、その部分です。比喩からは何も得られない。言っていることはたかが知れています。単純なことです。

 「ネット書店よりもリアル書店を選ぶ」と言っているけど。リアル書店もなく、在っても冊数が足りない。プロの人間が選んだ本と言っているけど、豊田市の本屋にそれを期待するのはムリです。

 「読んだ本の内容の説明できるのか」。そんなものはできるはずがない。ノウハウの要約しても意味がない。説明できるような本は読んでもしょうがない。「20%だけを確実に記憶する」パーセントではない。良い本にはDNAがあります。それを受け継げばいい。コピペの本にはDNAはありません。

 「読書会では他の人が読んだ本の内容を説明してもらえると自分が読みたくなる」。何となく、逆になっている。これは、図書館の本を使った、読書バザーにつなげられる。その発想に持って行きましょう。

 「読み終わった本を身近に置いておく」。これは邪魔でしょうがないですね。そのために、本棚があるとさらに邪魔です。積んでおくにはスペースがない。「月に数冊であれば、5千円で済む」。まず、その本代を確保せよ。5千円というのは、すごいお金です。本には当たり外れが激しい。10冊でまともなのは、2冊ぐらいです。

 「300冊読むと、自分なりの読書法ができる」。私の場合は1万冊で初めて、読書体系ができた。「月に3冊」。人生はそんなに永いものではない。

全ての分類

 一番大きいのはジャンルですね。「159」の本ばかりではどうしようもない。数学も哲学も歴史もない。ジャンルを全てにしないと、自分が何を望んでいるのかが分からない。私の場合は最初に7つのジャンルを決めました。

5000年史を書きたい

 「5000年史を書きたい」。この欲望はよくわかります。私の夢は「全てを知りたい」同根です。これは事柄が中心になっている。歴史というのは事柄なのか。ヘーゲルの歴史哲学は画期的です。自由と格差の問題、その拡がり。

 本当に言いたかったのは、拡がりなんでしょうね。ヒッタイトの鉄もムスリムも蒙古も拡がりです。そこから、グローバルの限界と新しい動きがわかれば、今、起こっていること、次に起こることが見えてくるけど、そこには言及していない。これでは全てを知ったことにはなりません。単なる歴史の教科書です。

調べてほしいこと

 例えば、南北戦争で使われたライフル銃がどこへいったのか。それが日本の明治維新に及ぼした影響も調べてほしい。もっと、心の問題もやらないといけない。歴史哲学も先に拡大してもらいたい。

 意思の力が歴史への影響。リーダーシップとかカリスマとの関係、民主主義の果ての姿の全体主義と共産主義がどうなったのか。それをどうまとめようとしているのか。
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