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アメリカにおける市立の無料公共図書館

『ネット時代の図書館』より

万人に無料で--ボストン公共図書館の正面入り口上に記された銘文

一八五二年、ジョシュア・ベイツは世界初の大規模な公共図書館を作ろうとするボストン市の計画に手を貸したいと考えた。ビジネスマンであり、公共心に富む市民であったベイツには、支援にあたっていくつかの条件があった。その図書館は〝市の誇り〟となるべきである。また、一度に一〇〇人から一五〇人が入れる広々とした閲覧室がなければならない。そしてもっとも重要なのは、〝万人が無料で利用できる〟ことである。新設される図書館の理事たちがこれらの条件に応じるならば、本の購入資金として五万ドルを喜んで提供しようとベイツは手紙に書いた。

ベイツやほかの篤志家たちの援助により、ボストン公共図書館(BPL)は、アメリカ合衆国の主要都市の住民なら誰でも本や資料が借りられるはじめての図書館となった。今日では当然に思えるが、一八五二年当時は急進的なアイディアだったのだ。もちろん、図書館そのものは何千年も前から存在していた。たとえば現在のエジプトにあったアレクサンドリア図書館のような初期の図書館は、非常に狭い範囲の利用者たち、たいていは修道院か法曹関係者のものだった。オックスフォード大学のボドリアン図書館は一六〇二年に、学者たちのために開設された。私立図書館--一七三一年にベンジャミン・フランクリンが創設したフィラデルフィア図書館会社や、新しいBPLから通りを少し行ったところにある一八○七年創設のボストン・アシニアムもその一部である--は、裕福な人々がお互いに本を共有することを可能にした。しかし一九世紀なかばになるまで、大都市がそこに住むあらゆる市民のための図書館をオープンさせることはなかったのだ。この新たな図書館の精神をたたえ、さらにはベイツ氏と彼の贈り物への感謝の意を表して、ボストン公共図書館を象徴する本館の正面入り口の上には銘が刻まれた。「万人に無料で」である。

こうして、アメリカにおける市立の無料公共図書館は、ボストンのコプリー・スクエアに誕生し、いたるところに普及していった。ボストン郊外のウォーバーンからニューヨーク州の小さな町まで、たちまち国じゅうに無料公共図書館が出現した。一八九五年には、マンハッタンの中心に巨大なニューヨーク公共図書館を作る計画も生じた。慈善家のアンドリュー・カーネギーはこのアイディアを全国的に取り入れ、いくつかの条件に合えばどんな町にでも、公共図書館建設のための費用を提供すると申し出た。一九六七年までにカーネギーは、アメリガじゅうの一四⑫の町に一六七九の図書館を建てることを約束した。無料で、どこにでもあり、彼自身によく似た人々、すなわち勤勉で野心的で学ぶ意欲にあふれた人々が利用しやすい、そんな図書館の設立をカーネギーは求めたのだ。

今日ではアメリカ合衆国の主要都市すべてに、そして世界じゅうのほとんどの都市に、知識を幅広く入手可能にすることを目的とした公共図書館システムが存在する。ほかの自由主義国もたいてい、大規模な公共図書館システムを備えている。アメリカと同様イギリスでも一九世紀なかば、とくに一八五〇年に公共図書館法が議会で承認されて以降、公共図書館が全国に普及した(ヨーロッパではすでに、ごくわずかだが公共図書館--イギリスのマンチェスターにあるチータムズ図書館、フランスのソーリュー図書館、ポーランドのワルシャワにあるザルスキー図書館など--が設立されており、いくつかの都市はわれこそが最初に公共図書館を設けたのだと主張している)。現在ではどこへ出かけていっても、図書カードがあれば誰でも本や雑誌やDVD--さらにもっと多くのもの--を自由に見ることができるだろう。ほぼすべての地域社会の中心部には図書館があり、子どもたちのためにお話会を開き、新たな住民のために納税申告や有権者登録に必要な書類を置いている。暑い日に涼む場所を求めてやってくる人々をやさしく迎えてくれる司書たちがいる。アメリカに何千とあるこうした図書館がどれも同じに見えるのは、アメリカの小さな町の暮らしに欠かせない癒しの空間であった、カーネギーの図書館に影響を受けているからだ。

しかしデジタルの時代になると、そういう昔ながらの公共図書館はずいぶん時代遅れになってしまった。図書館本来の構想--本や資料をおさめる輝かしい宝庫であり、それを読むための快適な場所--だけでは、もはや充分ではない。いまの人々には知識を得るための選択肢がはるかにたくさんあるからだ。この新しい時代、司書の仕事は足元から変わろうとしている。

ボストン公共図書館も例外ではない。まず手はじめに、図書館の空間を変える必要がある。一九七二年にBPLは、著名な建築家フィリップ・ジョンソン設計の新たな建物を増築した。そのジョンソン・ビルディングは当時、モダンデザインの成功例として歓迎された。だが現在では、ばかでかくて人間味がない、遠い時代の産物--その時代は図書館のデザインが人間の経験に着目したものではなかったらしい--という印象を与えている。もともとのマッキム・ビルディング、歴史的に有名な正面入り口を持つあの建物の崇高で開放的な精神は、ジョンソン・ビルディングからはほとんど伝わってこない。マッキム・ビルディングの正面入り口を通る利用者たちは、畏敬と感嘆の念を呼び起こされる。中に入れば、ジョン・シンガー・サージェントの連作壁画に出迎えられる。三〇年以上を費やして製作されたこの壁画『宗教の勝利』は、まさしく天に向かって描かれているのだ。だが、コプリー・スグエアからではなくボイルトン・ストリートから図書館に入る人々は、ジョンソン・ビルディングの入り口にまったく違う印象を抱くだろう--最大限に寛容な言い方をすれば、実用的なのだ。

二〇一二年、ボストン公共図書館の館長エイミー・ライアンと、同僚のマイケル・コルフォード、ジーナ・ペリル、ペス・プリンドルは、ジョンソン・ビルディングをどうにかしようと決意した。彼らは建物の改修計画に着手し、何を変えるべきだと思うかボストン市民に問いかけた。市民からの回答は、これまで表面に出ていなかった批判的な意見を明らかにした。ジョンソン・ビルディングはとてもわかりにくく、〝読みたい本が見つからない〟という。また、図書館の空間は若者--多くの社会においてそうであるように、ボストンでもっとも図書館を必要とし、利用する可能性が高い層--にとって快適ではないと訴える意見もあった。レイアウトが複雑な上、一貫性に欠けるのだ。利用者が一番使いたい、そしておそらく一番借りたいものが置かれたスペースは、大きな建物のずっと奥の、迷路のように入り組んだ壁の向こうにある。この建物が伝えているメッセージは、ライアンが利用者に受け取ってほしいと願うものとは違っていた。心地よく活気にあふれた場所だとは伝わってこないのだ。こうした明確な意見を無視することはできないと、BPLのリーダーたちは悟った。

ライアンおよび、司書と建築士--この場合はウィリアム・ローン・アソシエイツに所属する人々--のチームは、市民が支援したいと思うほど胸躍る、新しい公共図書館のデザインを考え出した。この新たなデザインは、あたたかみの感じられないジョンソン・ビルディングをもっと魅力的で、しかも周辺の地域社会と結びついた建物にするものだ。床から天井まで届く窓は、かつては倉庫のようだった空間を、歩道を歩く人々が思わず中へ入りたくなるような場所に変えてくれるだろう。新しいBPLには、一〇代の若者たちが本を読んだり宿題をしたりくつろいだり物を作ったりできる、使いやすいデジタルメディア室が求められている。さらに、そこを利用するにはまだ早そうな一〇歳前後の子どもたちのためのスペースも作られるだろう。幼児を対象とするチャイルドセンターには、本や音楽などのほかに、発育に応じたおもちゃも備えられる。大人の利用者たちが閲覧する小説や映画や音楽は、これまでは何もなかった寒々しい入り口の近くに持ってこられる予定だ。そしてコーヒースタンドは、カフェインを必要とする人々を引きつけるに違いない。

市もこの案を支持した。ボストンで長く市長を務めたトーマス・メニーノは、改修に予算をまわすことを確約した。実際、市議会は第一段階の費用として一六○○万ドルを承認している。二〇一四年には、メニーノの次の市長で、やはり強いリーダーシップを発揮しているマーティ・ウォルシュのもと、さらに六〇〇〇万ドルが追加された。新時代に向けてBPLが行う全面的な見直しを、ボストンは市をあげて支援するという賭けに出ているのだ。

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