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エコポイントとエコカー

『不便から生まれるデザイン』 

『今後は、不便が基本になる」

エコポイント

 次男が「自動車免許とるの、気がノラない」と言う。エコエコ言いながら、C02を排出することがわかっている装置を使う気にならないとのことである。息子がバオレの下宿にはテレビがない。なんでエコポイントもらえないんだ」と言う。実家のテレビは生産にも使用にもCO2を排出することがわかっているのにエコポイントがもらえたが、オレはそれ以上にCO2排出削減に寄与しているんだとのことである。

 それでは経済が回らないと答えてみる。回らないと学校の先生や消防署の人の給料はどこから出したら良いんだと問うと、息子は以下のように答えた。「消防署の横で畑してるおばあちゃんがいるよね。そのすぐ横で訓練している消防署のお兄さんのサラリーの一部は、おばあちゃんが育てた息子たちがサラリーマンになり、そのサラリーの一部を出し合ったものだ。そんな遠回しのと、直接大根何本かをお兄さんに渡すのと、お兄さん的にはウレシさ同じではないのか」。フローの可視性という意味では、むしろ後者のほうが嬉しいかも知れない。

エコカー

 『ハイブリッドカーは本当にエコなのか?』を読んだ。エネルギーは変換の度にロスするはずだから、「ガソリン-(内燃)トルク」より「ガソリン-(内燃)→トルク-(発電)→電気-(モータ)→トルク」のほうが燃費が良いとは、工学系の人間には合点がいかぬことである。これに対しては、「効率の一番良い回転数と負荷でエンジンを回していることと回生エネルギー」が「色々な回転数と負荷の元でエンジンを回す非効率」を上回っているそうだ。それでも、燃費が数倍も良いというのは合点のいかぬことである。これに対しては、お受験テクのようなやり方で「とてつもなく良い」数字を出しているだけで、実際はそこまで良くないし、交通事情によってはガソリンエンジンに負ける、しかもドライバの習熟や工夫のしようがないそうだ。しかし、ハイブリッドカーで燃費トライアルキャンペーンというCMを見たことがある。運転方法によって燃費を競っているように見える。本当のところはどうなのか、一度試してみたい。

 自分から見える所だけでエコな気になっているだけという、よく言われる製品ライフサイクル全体を見たときのエコ収支の問題もこの本では指摘されている。電気自動車はCO2を出さなくても、発電やモータの製造・廃棄時に発生するCO2の量や環境負荷についても考慮に入れなければならない。「場を見たことない人が、豚肉がウマイだマズイだの言ってるよ」という感じである。

 不便益的には、ユーザは「買う・買わない」の選択しかできなくて、買ってしまったらそれまで、エコドライブしたくても運転に習熟や工夫をする余地があまり与えられていないというのは、是非とも忌避したい。

 Low TechかRaw Techか エネルギー変換効率という視点からは、ソーラーパネルで発電した電気でお湯を沸かすよりも、太陽光で直接暖めたほうが効率は良いはずである。琵琶湖博物館で滋賀の昔の暮らしを展示していた。風呂を沸かすのに薪が少なくて済むように、朝起きたら水を汲んで軒先に出しておき、太陽光で暖まった水で風呂を沸かしたそうだ。

 ソーラーパネルは使用時にはco。を出さないのでエコだと言われる。しかし製造時や輸送時、廃棄時には子不ルギーや資源の消費、C0。の排出がある。これに対しては、個別に少しずつ排出されるC02の回収は難しいが、工場ではじめにドカンと排出しておけば回収が容易だと言われる。しかし回収したCOjか消滅するわけではない。化石燃料をC0。に変えていることに変わりはない。

 ところで、二〇〇九年五月一五日に京都駅前メルパルクで開催のワークショップで日本政策投資銀行の杉原弘恭さんの話を聞く機会があった。そこで紹介されていたのが、エイモエリー・ロビンズが二九七七年に提出した「ローテク」という言葉である。「バターを切るのにチェインソーは要らない」という標語は「お湯を沸かすのに電気は要らない」という文脈で使われたそうだ。電気は干不ルギー源としては優等で、輸送コストもかからないしさまざまなエネルギーに変換できる。しかし変換効率を考えると、燃料を燃やしていったん電気をおとし、それで湯を沸かすのは無駄である。燃料を燃やして直接的に水を暖めるローテクで良い。そのほうが「使うのに特殊技術は要らない、誰でもメンテできる」という標語も、不便益が求めるものに近い。イメージとしては}ョ(低度)テクというよりもraw (生の、粋な)テクかも知れない、などと考えてみた。
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関係性の科学

『不便から生まれるデザイン』 

 複雑系と呼ばれる分野で、カオスやフラクタル理論を扱う書籍の一つに、『鏡の伝法』がある。その序文によると

 還元主義の究極的な夢は、自然を人知によってコントロールすることです。この夢は、明白な反例に直面しているにもかかわらず、いまも信仰されています。複雑な体系を部分の集合体とみなし、体系から切り離して解析する方法は工学と結びつき、いま世界を支配しています。しかし……オゾン層を元に戻すためにオゾンを人工的につくり出せばよいだろう、という発想です。

 また、本書の第1章では、あえてシステム科学が避けてきたことではあるが、本来は「関係ネットワーク」を果てしなく見渡せる視点が必要である。ネットワークを途中で分断して系(システム)を閉じたものとすると、その先に実は重要な事象があることを見逃す。と述べた。問題意識は共有するが、前者は6・I節で紹介したディープ・エコロジーと同様に「全体性」の重要性を指摘するのに対し、本書は少し日和って「関係性」に着目する。

 近年の設計工学では、単なる局所的な最適化に端を発する社会的諸問題を内省して、「関係性のデザイヤが提唱されている。この考え方は、直面する問題(いかにつくるか)を対症療法的に解決するのではなく、つくったものが社会に投入されたときにほかの人工物・人間・社会・環境とどのように関連しどのように変容させるかをも考慮すべきであると主張する。別の言い方をすれば、とにかくつくれば良いのではなく、なにをつくるべきかをも問うものである。5・1節で紹介した理解社会学で言うところの、目的合理性が問われている。以下に、関係性の科学の標語的文章を抜粋する。

  ●いかに作るかという事と共に、何を作るかが問われる。

  ●与条件から解を導き出すミクロなプロセスだけでなく、与条件を問い直すところから始めて、……。

  ●人工物が生活世界にいかなる帰結をもたらしているかということをフィードバックする回路が基本的に欠落している。

  ●人工物はいつも他の人工物、周囲の自然環境、社会文化環境などと関連づけられており、決して孤立しては存在しない。

 これらの主張は、その内実を知らぬ者の目にはなにも目新しいものには映らないかも知れない。建築屋にとって、新たなシンボルとなる建造物を町に投入したときに、それが人の流れや経済にどのような影響を及ぼすかを想定することは、あえて取り立てるほどでもない通常業務であろう。道具屋にとっても、道具を社会に投入することによって新たなニッチを新規開拓できることは、資本主義の社会においては垂温の対象であり、そのためには「製品が社会に何をもたらすか」は当然のように検討される。

 しかし関係性のデザインは、これらも含めてより広範囲な関係ネットワークにまで考察対象を広げるときの共通の視座を与えてくれる点に、アイデンティティがあると考えられる。たとえば、地球温暖化なども関係ネットワークに含められる。

 考察対象を広げると、議論を尽くしても結論が二音Jに定まらないことが多くなる。たとえば「低燃費」を狭く「環境にやさしい」と考えるか、もう少し広く「逆に大型化の免罪符になっている」と考えるか、どちらを結論とすべきかの絶対的基準はないように思われる。これへの回答こそ今後の関係性のデザイン研究に期待されるものである。本書もその一助となれば幸いである。
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買い換えからメンテに

『不便から生まれるデザイン』より 文化と社会構造

「使う文化に変えていく」

買い換えからメンテに

 「買い換えよりメンテに手間(金)を惜しまぬ物」がもっている特質はなんであろうか。家屋は、何世代にもわたって完成させるものであった。メンテは「修復」だけではなく新たな変化の意味をもつ。祖父が家屋を建て、父がメンテして、人とモノとの歴史であり家族のアイデンティティたる跡を付け、庭を育てあげ、自分がそれを引き継ぐのは誇らしい気もする。人は消えてもモノは世代を超える。

 ところが実際の自分は、昨年、築十年でメンテをした。自分では費用を出すことしかできない。作業はすべて業者任せである。どこがどう直ったかは口頭で説明されたが頭に入っちやいない。見た目も十年前に戻っただけである。この十年の家族の歴史は外からはわからなくなった。この建物は、せいぜい二世代しかもたないそうだ。

 自分でメンテできることに価値を見いだす文化がうらやましい。物を粗末にすると心も荒むとは昔から言われていることでもある。しかし文化や気持ちのもち方だけではないと思われる。使い込んで手に馴染む万年筆がもっている特質はなんであろうか。ューザがメンテして大切に使いたくなるモノを開発する方法論は、研究テーマとしても価値あることだと思う。高価にするという安直な方法ではなく、以下のような特質をもつモノや、それがもたらす方式は注目に値する。

  ●繕いが価値を上げる

  ●年季を重ねる

  ●自分で手を入れて「様になる」

 そのためのキーワードの一つは可視性だと思われる。古くなったソファを粗大ゴミに出した。経費節減のためゴミ処理センターにもち込んだ。慣れ親しんだソファをなんの躊躇もなく目の前で機械が潰した。二〇年前に小遣いをはたいて買った天体望遠鏡を、息子はきれいにパーツごとに分けて箱に収めて保管していた。使えなくなったのでセンターにもち込んだ。躊躇なく箱から出されて潰された。息子を連れてきて見せるべきだったと思う。現場を小学生に見学させることの是非が新聞で議論されていた。見学させるべきだと思う。

 また、不便の益にはューザを「買い換えよりもメンテナンス」に促す性質が多い。不便はューザにタスクヘの積極的介入(手間をかけること)を促し、それが愛着やこだわりといった工学的には取り扱いにくい要因をも取り込んで、ューザの消費スタイルを変容させることも期待している。

 『古くて豊かなイギリスの家、便利で貧しい日本の豹』という本がありました。「古い」と「便利」を対比的に使っているのが少々気になりますが、シンプルでキャッチーな書々ですね。

完全分業制の功罪

 近所の小川をきれいなままにキープして気の向くときに泳ぐことと、小川を汚してまでプールを建設し、それで得た労働賃金でプールの入場料を払うことは、水浴びするなら同じことなのにお金を回すためには後者が良い。GDPを上げることにやっきになっている社会では後者が良いのだろうが、GDPという尺度だけを見るのは、おかしい気がする。

 お金を回すだけなら、国家規模ではなくてローカルなコミュニティ規模のほうが適するのではないだろうか。顔が見えない消費者のための生産より、つながりのある人のための生産のほうが嬉しい。生産の意味もすんなり入ってくる。エJカーをつくることの意味は、近所の人がエコを免罪符にして(歩ける距離でも、電車を使ったほうがエコな距離でも)車を乗り回しているのを目のあたりにしたほうが、わかりやすい。

 お金を回さないで良いなら、自給自足・物々交換・地域通貨などの手がある。ただ、物々交換をしようと大量にできた畑のナスビを市場にもって行くと、ほかの家の畑にも大量にできていて、価値がない。自分だけにつくれる物があれば有利である。分業制への圧がやはり発生す

 育児は機械的な作業ではないことは、皆が頭ではわかっている。手づくりは子育てのスパイスであり、子供心にも嬉しい。数百円で買える子供服は、これを邪魔してはいないだろうか。大量消費に代わる経済の回し方も研究テーマとして価値がある。このとき、定量化にこだわるかもキーとして考えてみたい。’家事や育児の労働対価を金額として定量化してもGDPに加えてはもらえない。定性的なままで皆が価値を共通認識(可視化)できる仕掛けを考えるほうが、挑戦的だし意味があると思う。たとえば、額面のない「砂型地域通筧」とか。手渡された砂粒の数は重要ではない。一つまみなのか、一握りなのか、両手にこんもりか、このような定性的な尺度がそのまま、感謝の気持ちを素直に伝える。できるならば全体不利益が個の不利益として見えるように、全体利益も個の利益として見えるように。数字にあらわれる景気だけが個の不利益(就職難)を煽っているのは、虚構でないことを誰が保証し得るのか。フU円の価値のある台湾元が三円で買えてしまう虚構。
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環境社会のエッセイ 2/2

(つづき)

環境社会のエッセイ

 2030年の姿を県に提案するけど、大きく二つに分かれています。2030年にどんな社会になっているのか。と言っても、大きな世界ではなく、地域社会の姿を描きます。二番には、それを支える個人の姿を描きます。三番目の社会システムは、それらをまとめて、どういうカタチで動いているのか。最後は、そこに持っていくための提案です。これらは全て、今できることではない。

 革命のように、一気に社会の根底を変えることはしないし、できません。どちらかというと、局所的に成功体験を貯めながら、つないでいくというやり方です。どうしても緩やかになります。何しろ、民主主義を変えていくことだから。目的は、若者に夢に持たせるです。これをどこに置くかです。

 8.6.1の日本の活力維持の最後のシーンをどうするかです。日本の活力維持については、少子高齢化で日本は衰退していく。それに対して、国境を越えて、様々なものが流れてきます。問題解決しようとすると、超国家になっていきます。

 そのグローバルの中で、日本は生きていけるか。ギリシャのようになってしまう。新しい発想をして、若者に希望を与えられる仕組みにして、それを逆輸出していくことが必要です。そのために、環境問題を契機にして、社会の構造を変えていくことです。それが日本の活力維持の方法です。

 少子高齢化の一番の問題は世界との関係です。他の国の人口が増えているのに、日本は減っていく。それで活力がなくなることで、グローバルに取り込まれる。ギリシャではないけど、自分たちのローカル性に対して、グローバルに取り囲まれた時に、どのような反応をするかです。

 ギリシャの市民は反発したけど、日本は汲々として、従うでしょう。その時に、どんな国家になるかです。市民が主体になると言っても、モノを買って、他人と差別化している世界では、主体になりえません。

 そこで出てくるのは、使うということです。使い切ることを考えると、シェアとか皆で使うというカタチになっていきます。これは移動手段では当たり前のことです。クルマだけが特殊です。なぜ、所有するのか。都会もコンパクトシティも同様だが、車を使わない、使う必要がない世界を作ろうとしています。そのためには構造を変えないといけない。構造を変えるよりも、意識を変えたほうが柔軟性があります。

 企業の活性化で求められているのは、海外に出て行くことではなく、日本国内での産業のソフト化です。産業のソフト化というのは、モノを作ることではなく、一緒になって使うことです。いい町・いい社会はそれに対応しています。そのためには、行政とタイアップすることです。

 環境問題の解決については、どう考えるかです。個別で考えるのではなく、全体のカタチを作りましょう。それを色々な観点で考えてきました。これを最初に述べます。観点の出発点は、循環とか社会モデルです。それを説明するのは難しい。他の人はこういう考えになれていない。身近なモデルで説明するしかない。

 市民で主体的に考えるために、何をしたらいいのかを、環境塾のグループディスカッションに当てはめてみました。最後に2030年の世界を描いて、そこでの県の役割を示します。そこでは、シェアの世界が中心になります。そうすると、8.7全体が一つのカタチになります。

 チームディスカッションでは、どのようにして、結論するかがハッキリしない。つまり、モデルがハッキリしない。偶々なものから、偶々なものを作るのではダメです。偶々なものから必然的なモノを作って、偶々なものに適用することです。
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環境社会のエッセイ 1/2

未唯へ

 生活をロバニエミ・モードにシフトします。

 哲学しないといけない時代です。哲学は「私は何のために生まれてきたか」から始まります。

 夜は原則として、ホットミルクにしましょう。寝る前のコーヒーは利尿が心配です。

ロバニエミの準備

 ロバニエミには囚われるものは持っていかない。やはり、ポメラはやめます。ICレコーダーだけです。まあ、考え事をしていれば、5日間ぐらいは過ぎるでしょう。全部の人生とは言いませんけど。

 その意味では、2日間しかないけど、ロバニエミで生活します。ここまで生きてきて、ここまで来れて、ここまでの境地に立っていることに感謝している。これがメッセージです。

 本当にロバニエミから帰って来れるかの自信がないです。旅行という意味ではなく、精神的に居残りになりそうです。このまま、精神が向こうに行ってしまう。

環境社会のエッセイ

 グループでの答を出し方を考えた時に、単純に共有することはムリです。夫々が自分たちの接点で答を出します。その中で、共有するだけです。私は私の問題意識と解決方法があります。農業問題では夫々の解決方法があります。それらをどう集めていくかです。

 8.5の環境問題の整理を4つに分けている。エネルギー問題はコネジェも含めて、地産地消していくこと。そのために、地域でのバックボーンがいる。

 環境問題の制約については、CO2削減に縛られて、エネルギー問題がうまくいかないのであれば。制約をなくします。一番重要なのは、有限であるというを認識することです。そのための対策は取ります。

 ごみ問題の解決策については、循環型であると言うこと。そのために静脈系をどう作っていくかです。人間の一生に関しても同じです。人口減少問題は、状況が変わってきているのに、やり方が変わらない、構造が変わらない。状況に合わせて、構造を変えていくことです。

 8.6の環境の動きに関しては、8.5の問題を受けて、今、どのようにして動いているのか。一番は国に任せられないので、地方は自分たちで生き残る姿を作っています。二番の市民と行政については、地域で行うが、市民の意識がついてきていない。主体的になっていないという現実です。

 行政と企業に対しては、企業は自分たち独自で変えるつもりです。他社との差別化したい。変えないとやっていけないという感覚があります。それは社会インフラで考えると無理です。ポイントは企業として、お客様とどうつながるかです。

 政治形態の変化については、大きな国の考え方は破綻している。あまりにも多様性がない。だから、市民主体にしないといけないけど、個人レベルでは対応できません。それらを受けて、環境の問題をどう捉えて、どう解決するかのヒントを考えていきます。

 環境の解決方法を、8.6の環境の動きからヒントを持ってきます。身近な社会モデルについては、環境問題に対する進め方がバラバラで、構造的に考えられていないので、全体像をハッキリさせます。その中で、県がどういう役割をするかをここで考えます。

 チーム「社会」が一番珍しい問題提起です。社会モデルでの4者の関係をどう回していくかを例示します。本当はそのままで理解できればいいけど、具体例で示します。4番は提案するための条件です。県にはやってもらうことではなく、自分たちも含めてどうしていくのかというところです。ただし、行動するのはあなたたちです。

 (つづく)
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