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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■部分御舊記・軍事部八(7)本丸廿八日頸討捕者共

2021-11-08 06:43:39 | 先祖附

      ■本丸廿八日頸討捕者共

道家左近右ヱ門
一、花房次右衛門
  一、二月廿八日本丸海手之方にて手ニ相突払申候処に鑓ぬけかけ申候を 敵脇より取申候故鑓取はなし申候処ニ敵なけつきの鑓
    はをりニ当り申候を取私鑓ニ取付申候ものを突伏申候 鑓ハ私小姓取申候鑓手負申候 証人国友十左衛門
  一、証人国友十左衛門口上被突伏候ハ慥ニ見申候以上

津田三十郎与
一、井上五左衛門   孫兵衛子
  一、二月廿八日本丸小屋之内にて鑓・刀を持働敵鑓付申候 証人津田三十郎則御郡筒召連打せ申候以上
  一、証人津田三十郎口上如書附

右同与
一、小野権十郎    又兵衛子
  一、二月廿八日本丸へ乗込鑓をなけつきニ仕候 敵一人仕留申候 証人津田三十郎ニ手御座候以上
  一、三十郎口上右之書付のことく

右同与
一、萱嶋兵助     作兵衛子
  一、二月廿八日本丸へ乗込敵一人・刀・脇差をなけつき仕候を鑓付申候 津田三十郎見届被申候以上
  一、証人三十郎口上書付のことく

有吉舎人与
一、宗像吉大夫
  一、二月廿八日本丸へ乗込手ニ合頸を取申候 証人小林半大夫・安井喜平次
  一、証人ノ口上如書付

一、村上清大夫    七左衛門子
  一、二月廿八日本丸之内にて敵七人鑓・長刀にてかゝり申候時臼杵少大夫・同万五郎私三人にて一人ツゝ仕留申候
    残敵共鑓・長刀をつきかけ私甲へ突こミ申候 少手負申候 証人臼杵少大夫・同万五郎
  一、証拠右両人書付のことく以上

丹羽亀丞与
一、武藤長兵衛
  一、二月廿七日本丸にて柵より外へ罷出敵を突倒申候 証人町熊介
  一、証人口上書のことく

杉山権兵衛与
一、門池次郎兵衛
  一、二月廿八日本丸へ御使ニ参 松の木ノ根ニ敵集り候を弐人つきふせ申候 証人鎌田源大夫・志賀安丞・下城長三郎
  一、証人口上書付のことく

西郡要人与
一、臼杵万五郎
  一、二月廿八日二本丸塩倉左脇にて敵一人突留申候 証人村上清大夫以上
  一、証人之口相違無御座候已上

松野左馬助与
一、阿部五大夫    弥一右ヱ門子
  一、二月廿八日本丸にて敵一人討捕申候 証人右馬助内大津九郎兵衛以上
  一、証人口相違無御座候已上

一、臼杵少大夫
  一、二月廿八日二城内塩蔵の前ニ手敵一人仕留申候 証人村上清大夫以上
  一、証人口相違無御座候已上

一、山田次郎助
  一、二月廿八日本丸松の木之根にて敵一人脇差ヲなけ打ニ思想労を仕留申候 証人阿部権十郎・同五大夫
  一、証人口相違無御座候已上

嶋又左衛門与
一、宮部久八
  一、二月廿八日本丸海手之方にて敵一人突たをし申候 証人中根勘兵衛以上
  一、証人口相違無御座候已上

一、近藤新五左衛門
  一、二月廿八日本丸にて敵壱人討捕申候 証人平野八十郎にて御座候
  一、証人口相違無御座候已上

松野左馬助与
一、吉川孫左衛門
  一、二月廿八日ニ本丸松の木之所にて敵一人鑓持参候を突留申候 証人原田十次郎
  一、証人口相違無御座候已上

一、猿木権七
  一、二月廿八日二本丸にて一人突留申候 証人原田十次郎・下城長三郎・町熊之助
  一、証人口相違無御座候已上

一、上津浦太兵衛
  一、二月廿八日二敵一人突留申候 私もつかれ申候 証人野瀬角大夫
  一、証人之口相違無御座候以上

堀江勘兵衛与
一、片岡半丞
  一、二月廿八日本丸ニ乗込敵弐人仕留申候 証人吉富五左衛門・小林半三郎・佐藤少三郎ニ而御座候
  一、証人三人之口相違無御座候已上

一、益田九兵衛
  一、二月廿八日本丸にて首を一ッ取申候 証人志賀安丞
  一、証人志賀安丞口上相違無御座候以上  

 

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■小倉藩葡萄酒奉行・上田太郎右衛門

2021-11-07 14:02:31 | 論考

 九州で唯一の日本ソムリエ協会の名誉ソムリエで、小倉葡萄酒研究会の小川研次様とのご厚誼は2017年に遡る。
私がこのブログで、日本で最初と言われる細川藩の葡萄酒つくりについて取り上げたのは、平成15年(2003:11:08up)に細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーを書いたのが最初で、ちょうど18年になる。
その後、細川小倉藩に於ける「日本最初の葡萄酒作り」についての研究が一気に加速したように思う。
これがお付き合いの足掛かりである。過去にもいろいろ論考をお送りいただき、当ブログでご紹介してきたが、今回は私の高祖母の実方・上田家一族であり、葡萄酒つくりを奉行した上田太郎右衛門を取り上げた論考をお送りいただいた。

 太郎右衛門は、忠利公から「葡萄酒」や「あひん(阿片)」の製造を依頼されたり、長崎から「万力」を取り入れたり、また三齊公の依頼を受けて「黄飯」を作ったり、面白い活躍をしている。
そんな太郎右衛門個人をいろいろお調べいただき、私の全く承知していない知見をこの論考でご提供いただいた。
いつものことながら、ただただ感謝を申し上げるのみである。ここにご紹介申し上げる。


 

  ・・小倉藩葡萄酒奉行・上田太郎右衛門・・
                          小倉葡萄酒研究会・小川研次

 

 寛永三年(一六二六)、門司の大里で浪人だった上田太郎右衛門は小倉藩主細川忠利から召し抱えられた。
前年まで宇佐郡の郡奉行だった実兄上田忠左衛門の推挙もあったことだろう。
太郎右衛門は翌年から葡萄酒造りを行っており、既に醸造技術を有していたとみられる。
いつ、どこで習得したのだろう。まず、上田家の出自を探ってみよう。
時代は下り、享保二年(一八〇二)に天草郡高浜村の庄屋上田宜珍(よしうず)が自身のルーツを調べるために熊本藩士「上田家」を訪ねることから始まる。(「熊本行日記」東昇『十九世紀前期肥後国天草郡高浜村庄屋上田宜珍の家祖調査』)

上田弥兵衛(三百石)、上田十蔵(百五十石)、上田又之丞(二百石)、上田政之進(百石)であるが、初代上田忠左衛門又は実弟の太郎右衛門系であり、六、七代目の子孫にあたる。(「新・肥後細川藩侍帳」『肥後細川藩拾遺』)

太郎右衛門系の政之進によれば、上田四家は小倉藩に仕えた兄弟の子孫であり、元祖は忠右衛門としている。忠右衛門は福島正則の食客として大阪の陣後に細川忠興から千石の召し抱えの話があったが、老年のため息子四人が代わりに仕えた。実は兄弟は七人いて四人は細川家、一人は京都西本願寺、一人は江戸道中筋に居住、そして一人が行方不明となったが、この人物が天草上田家の先祖ではなかろうかと弥兵衛家に伝わっているという。

上田四家から「四人兄弟」としたと思われるが、忠左衛門、太郎右衛門の二家であろう。
父を「忠右衛門」又は「忠左衛門」、細川家に仕えた嫡子を同名「忠左衛門」として子孫の伝承を元に話を進める。

慶長六年(一六〇一)に安芸・備後に入封した福島正則は早速、検地を行った。「慶長六年安芸国佐西郡五日市之内皆賀村検地帳」(広島城所蔵)に牧主馬と「上田忠左衛門」の名が記されていることから、関ヶ原の戦い前後から仕えていたと思われる。
また、この年に正則は豊後国のキリシタン柱石である志賀親次を召抱え(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』) 、家中に多くのキリシタンが生まれることになる。真鍋五郎右衛門貞成(四千石)や大阪の陣後に明石掃部の二男内記やアントニオ石田司祭を匿って処刑された佃又右衛門(二千三百二石余)がいた。(ペドロ・モレホン『続日本殉教録』)

「福島正則家中分限帳」(『続群書類従第七百十四』)に長尾隼人一勝組に与力として「三百六石四斗、上田忠左衛門」とある。他に「上田」姓は六名いるが、兄弟関係は不明である。但し「太郎右衛門」の名はない。この分限帳の成立は慶長十七年(一六一二)から元和二年(一六一六)とされる。(『広島県史』近世資料編II) 

この頃、忠左衛門は五品嶽城(庄原市東城町)の在番衆であった。
大阪の陣は慶長十九年(一六一四)十一月から翌年(一六一五)の五月となるが、小倉藩細川家の「大阪御陣御武具并御人数下しらへ」(『綿考輯録巻二十七』)の「志水主人」組に「上田忠左衛門」が記されている。つまり、慶長十九年十一月以前に(冬の陣として) 忠左衛門は福島家を離れ、細川家に仕えていたことになる。この人物は上述の同一ともみられるが、子孫の伝承に従い嫡子とする。
ちなみに正則重臣の黒田蔵人や高月(上月)文右衛門らが細川家に仕えるのは元和五年(一六一九)の福島家改易後である。

忠左衛門の直系とされる又之丞の「先祖附」によると、忠左衛門は「三斎様(忠興)御代於豊前国被召出、御知行二百石被為拝領、妙解院様(忠利)御部屋住之節、仲津ニ而御奉公仕候」とあり、中津にいた忠利に仕えた。
上田兄弟四人が豊前国に来て、仕えたとあるが、「大阪御陣御人数下しらへ」には忠左衛門以外の上田姓は見られない。太郎右衛門も召し出されたのは寛永三年(一六二六)である。

元和九年(一六二三)四月九日付忠利書状に「上田忠左衛門せかれ忠蔵事、ひらどへ遣し、石なとひき候色々のてだて忠蔵おぢ(叔父)存候由ニ候間、ひらどへ忠蔵を遣し習はせ可申候」(『永青文庫研究創刊号』)とあり、忠左衛門の息子忠蔵を平戸にいる叔父から石などを引く色んな技術を習うように命じている。

天分十九年(一五五〇)、フランシスコ・ザビエルが信仰の種を蒔き、キリシタン聖地となっていた平戸であるが、忠蔵が入った頃の七十年後の風景は一変していた。
昨年一六二二年、二人の宣教師を船に乗せ密入国を企てた平山常陳らが処刑され、この事件を起因とされる五十五人が処刑された「元和の大殉教」が起きていた。また小倉で活動していたこともあるカミロ・コンスタンツォも平戸の田平で処刑された。
忠蔵の入った年はイギリス商館も撤退するという混沌とした様相であった。このような時に忠蔵の「叔父」は何故、平戸にいたのだろう。この謎に「上田家」の真相が潜んでいる。

忠左衛門は上述の通り大阪の陣以前に芸備を離れている。
政之進の伝承によれば大阪の陣以降だが、細川家に仕える四人の兄弟が同時に離国したとなる。(他の兄弟も可能性あり)その時期だが、推測されるのは慶長十八年十二月(一六一四年二月)の幕府の禁教令発布により宣教師を長崎に追放し、教会を閉鎖した時ではなかろうか。

広島にいたイエズス会日本人司祭アントニオ石田だが、一六〇三年に天正遣欧少年使節の伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオの聖パウロ学院で学んでいる。一六〇八年に司祭となった伊東は小倉、中浦は博多、石田は広島の教会に就くことになる。(高瀬弘一郎『キリシタン時代の文化と諸相』) 
一六一四年、石田は国外追放のために長崎に向かうが、翌年、再び広島へ戻り潜伏することになる。この時、明石掃部の二男内記が同行したと思われる。
正則はキリシタンを保護していたが、四人兄弟が離国するのは信仰上の問題だったかも知れない。石田と共に長崎へ向かったのだろうか。
彼らがキリシタンという内外の史料は現在のところ見出さないが、可能性も否定できない。忠左衛門が忠利に仕えたことも必然性を感じる。二人を繋ぐ接点は上述の司祭であるからだ。

   利が忠蔵に平戸行きを命じた翌年には日本人司祭が豊前に入る。
「中浦ジュリアンは当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
「豊前の領主は長岡越中殿(忠興)の子細川越中殿(忠利)で、その父とは大いに違い、宣教師に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。」(同上)
忠利は中浦を匿い、母ガラシャの追悼ミサを挙行していたのである。ミサには「キリストの御血」である葡萄酒が必要だった。
太郎右衛門の葡萄酒造りは一六三二年まで細川家転封直前まで行われていた。しかし、中浦はその年末、天草出身の同宿トマス良寛と共に小倉城下で捕縛される。

寛永二年(一六二五)の細川家惣奉行書状に「忠左衛門尉二番めのせかれ加左衛門と申者、平戸ニ忠左衛門弟居申候ニ養子ニ遣置申候」(『永青文庫研究創刊号』)とあり、忠左衛門の二男が平戸にいる弟の養子になっていたのである。
さらに「拾五六ニ成申せかれも壱人御座候」とあり、十五、六歳の息子がいたが、寛永九年(一六三二)に召し出された久兵衛とみられ(系図では二男とされている)、七代目が上述の又之丞である。
この三男の年齢から父忠左衛門の年齢を推測してみよう。
この年(一六二五)に長男忠蔵を満十八歳、二男加左衛門十六歳、三男十四歳としたら父親が三十八歳ぐらいであろう。つまり一五八七年生まれとなる。関ヶ原の戦いの時は十四歳、大阪冬の陣では二十七歳である。「寛文四年(一六六四) 六月御侍帳」にも名があり、御年七十七歳となるが、十歳若くすれば、十歳の時に長男が生まれたことになるので、ギリギリの線である。太郎右衛門はおよそ十歳程離れた弟とみる。

ここで「叔父」の正体を推考してみよう。
まず考えられるのは南蛮技術を有する太郎右衛門である。しかし、二代目は「弥兵衛」(「真源院様御代御侍名附」)という嫡子がいたので養子を迎えるのは考え難い。
では何故、太郎右衛門は南蛮技術を有していたのか。いつ、どこで誰から学んだのかである。
広島を離れたのが禁教令以降(一六一四年)として、長崎や平戸で宣教師に学ぶことは至難の業である。命の危険に晒されながら潜伏しなければならなかったからである。では、禁教令前としたら、広島時代であり、石田司祭もいたから充分に考えられる。
次は小倉時代である。太郎右衛門が寛永三年(一六二六)に召し抱えられるまでの浪人時代である。その時の司祭は潜伏していた中浦ジュリアンをおいて他にはいない。天正遣欧少年使節としてヨーロッパへ行き、スペイン国王フェリペ二世やローマ教皇と謁見した中浦は本物の「葡萄酒」に触れている。半世紀にも及ぶ信仰生活から得た南蛮文化、学問の知識や技術は日本人としては当代随一である。
太郎右衛門が中浦から学んだとしたら、忠利の指示以外は考えられない。つまり仕官の条件として南蛮技術を身につけたのである。広島説よりも小倉説の方が真実味を帯びる。

では、平戸の「叔父」は誰だろう。
宜珍によれば初代は「助右衛門正信」(一五七五〜一六四七年)とし、大阪の陣の後の元和三年(一六一七)、息子の定正と共に家臣田中清兵衛、清水安左衛門、僧志白を引き連れ、天草郡高浜村へ移住とある。(「正信墓碑」『十九世紀前期肥後国天草郡高浜村庄屋上田宜珍の家祖調査』)
しかし、上述のように忠左衛門の推定出生年は一五八七年である。正信は弟どころか一回り上の兄となる。正信の出生年に信を置くならば別人となり、平戸ではなく天草に直に入ったことになる。

この初代上田正信墓碑は文政元年(一八一八)に宜珍が建立したものである。(同上) 「福島正則」「大阪陣の後」「七人の兄弟」ともあり、上田家子孫の伝承を盛り込んでいることから、正信出生についても不確実である。
出生年が一五八七年以降であれば、忠左衛門弟の可能性がある。
そうすれば、正信を平戸の「叔父」で上田助右衛門正信、息子(養子)が兄忠左衛門の二男加左衛門こと「定正」となる。天草上田家では「勘右衛門定正」としている。(「天草陶石と上田家の歴史」〜天草高浜焼寿芳堂HP)
しかし、ここでまた何故に天草なのかと疑問が起きる。島ごとキリシタンである天草である。

イエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスの「コーロス徴収文書」(一六一七年)に天草下島キリシタン三十四名が代表として署名している。高浜村は崎之津と同じ三名であり、大江村は五名である。(松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』)
この数字は二百年後の文化二年(一八〇五)、崎津村、大江村、今富村、高浜村でキリシタン暴露事件で理解できる。四ヵ村で総数五千名以上という驚異の数である。世に言う「天草崩れ」である。崎津村は約千七百人、大江村は二千百人で村民の約七割がキリシタンであった。今富村は千名で六割だが、高浜村は三百名とおよそ一割だった。
この時、今富村庄屋は上田演五右衛門と高浜村庄屋は実兄上田宜珍であった。(大橋幸泰『潜伏キリシタン』)
高浜村の減少は島原藩から忖度された上田家が転宗させた結果と考えられるが、当時は相応のキリシタンがいたはずである。
このような状況下で上田家がキリシタンと無縁とは考え難い。初代上田正信が天草郡高浜村へ移った理由は平戸での迫害ではなかろうか。

寛永元年(一六二四)には、平戸藩主松浦隆信は三十八人のキリシタンを処刑したとあり(『日本切支丹宗門史』) 、ますます迫害が激化していた。
寛永三年(一六二六)二月九日付けの書状に平戸の「叔父」の養子になった弟加左衛門が小倉に戻っていた。父忠左衛門が惣庄屋と出入り事件を起こし入牢され、裁判があったためである。忠利は「平戸のハ他国之者」だから人に預けてはならないと申し付けている。(『永青文庫研究創刊号』)
つまり、この時点では平戸に養父がいたことになる。
もし、この忠蔵「叔父」父子が天草へ渡ったとしたら、この年かも知れない。

「大矢野の島には、やはり肥後を訪問したフランシスコ・ボルドリーノがいた。この地方の領主は、キリシタンを虐めなかった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
また、イエズス会日本管区長のコーロスが潜伏したのも天草だった。(五野井隆史『島原之乱とキリシタン』) コンフラリア(信徒組織)がしっかりと機能していたことも、「天草崩れ」で理解できよう。
このような状況下で正信・正定父子は高浜村に潜伏したのである。
天草が司祭不在となるのは、寛永十年(一六三三)、日本人司祭斉藤小左衛門が捕縛された時である。(『日本切支丹宗門史』)

平戸藩御用窯である三川内焼の祖とされる朝鮮陶工巨関(こせき)の孫の代にあたる今村正名(弥治兵衛)は寛文二年(一六六二)、天草陶石を発見した。(上田家資料館) この陶石を採掘したのが高浜村の上田家である。その後、天草上田家は二代目定正から代々庄屋を務めることとなる。初代がキリシタンとしても、庄屋の立場から二代目以降に棄教・転宗したことも考えられる。

豊前、平戸、天草に残した上田家の足跡はキリシタンの歴史と重なる。
それは太郎右衛門が小倉藩で葡萄酒を造っていたことが物語っている。

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」 時代(ニ)

2021-11-07 06:49:04 | 先祖附

                  「歌仙幽齋」 時代(ニ)

 一般歴史に關することは省略して、幽齋に因縁ふかき和歌界の状態を述べよう。
 細川幽齋が呱々の聲を擧げた室町末期より、彼が老熟した文禄・慶長の時代に亘つ
て斯界を概觀するに、鎌倉時代からの傳統依然として、師範には堂上歌人等が控へて
ゐた。さうして、彼等は、血統に於いて藤原定家を祖とするが、もしくは歌學に於い
て彼を宗とするが、或はその兩方からあつて、彼と無關係に超然たる人はなかつたと
云つて宜しい。すなはち、三條西實隆・三條西公條・三條西實枝・九條稙通らの人々
は定家の子孫ではなかつたけれども、彼の嫡流なる二條家の歌學を傳へた。冷泉爲和
・同爲益・同爲満らは、定家の血統の人々で、彼の依鉢を傳へた。飛鳥井雅綱・同雅
春・同雅敦らは雅經の後胤であつたけれども、定家を歌聖と尊崇することに於いて冷
泉・三條西の人々と相違はなかつた。「飛鳥井家は準二條家ともいふべきもの」と佐
々木信綱博士著日本歌學史に書かれた如くである。堂上以外に在つて、部門出の専門
歌人として、東常縁の子孫なる常慶・尚胤・常氏などがゐたけれども、この人々も、
二條流の傍流であつた。
 これら師範又は専門家に就いて、武人らは和歌(又は連歌)を學んだことは、戰國
次代の特異なる現象であつた。有名の武將にして文藻を喜ばなかつた者は、むしろ例
外に属する。その中に在つて、幽齋が最も顕れたのであつた。彼は三條西實枝の門に
入つたが、元龜三年及び天正四年の二回に亘つて和歌秘訣を授けられ、爾来斯界に漸
く重きをなし、遂には二條家歌學の權與となつた。堂上歌人にして彼の教を聽く者甚
多く、古今傳授を彼より承けた人さへ數者に及んだ。戰國末期の斯道が武將の幽齋に
依つて維持たされたのは、時代相の現れである。

   當時は又、和歌よりも連歌(付随して發句)の方が一般に流行し、歌人の間に於い
ては勿論、武人の間にも瀰漫した。和歌を詠まざる武將は稀に有つたとしても、連歌
を翫ばぬ武士は殆どなかつたと云つて宜しい。幽齋も亦これを樂しんだ。幽齋の生れ
た時に宗祇・兼載・肖柏・宗長らは既に亡くなつてゐたが、守武・宗鑑・宗二・紹巴   
・昌叱・貞徳らは彼と同時代に生存した。

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■部分御舊記・軍事部八(6)本丸廿七日・八日鑓合候者

2021-11-06 17:10:22 | 史料

     ■本丸廿七日・八日鑓合候者 

一、柏木少九郎 
  一、二月廿七日本丸乗込鑓合敵壱人仕留申候 証人鎌田源大夫
  一、翌日廿八日ニも本丸にて敵壱人突留申候 証人乃生右平太 証人口相違無御座候以上

一、松山兵左衛門
 一、二月廿七日本丸ニ乗込鑓を合仕留申候 証人矢野勘右衛門
 一、其後又壱人仕留申候 証人白木佐太右衛門・同五兵衛 証人口相違無御座候以上

一、寺本久太郎
 一、二月廿七日本丸にて敵壱人なた長刀を持候者仕留申候 証人右衛門様御内山田九大夫
 一、其後壱人仕留鼻をそき申ハ本庄角兵衛与江口弥左衛門見申候 証人口相違無御座候已上

一、上村甚五左衛門
 一、二月廿七日本丸大手ノ門口に参り敵一人鑓合討取申候 証人野瀬吉右ヱ門私手負引吉右ヱ門討死ゆへ内ノ者仁兵衛・十三郎
   証人口相違無御座候以上

一、山添加兵衛
  一、二月廿七日本丸出丸之石垣下ニ而鑓下之頸取申候 証人米田与七郎内松岡権三郎 証人口相違無御座候以上

一、小林半大夫
  一、二月廿七日本丸にて敵一人鑓合討取申候 証人町熊之助 証人口相違無御座候以上

一、下城長三郎
  一、二月廿八日本丸松之木ノ下にて鑓合申候 頸討捨ニ仕候 証人国友十左衛門 証人口相違無御座候已上

一、粟屋猪兵衛
  一、二月廿八日本丸ニ而敵壱人鑓を合仕留申候 証人弓削五郎兵衛 証人口相違無御座候已上

一、寺尾孫丞
  一、二月廿八日敵と鑓合申候 証人藤本猪左衛門・野田左衛門 証人口相違無御座候已上

一、野田源四郎
  一、二月廿八日ニ本丸にて鑓仕討捕申候 証人中根勘兵衛 証人口相違無御座候以上

一、弓削五郎兵衛
  一、二月廿八日夜明ニきりしたんと鑓合頸取申候 証人粟屋猪兵衛・御船頭東兵助見届申候 証人口相違無御座候已上

一、入江伝右衛門
  一、二月廿八日松の木ノ際にて鑓合仕候 証人国友十左衛門 証人口相違無御座候已上

一、矢野吉丞
  一、二月廿七日二ノ丸家に敵七八人篭り居候を私突留申候 証人谷忠兵衛
    翌日廿八日二本丸にて鑓を合敵壱人突留申候 証人頼母佐内葛西摠右衛門 証人口相違無御座候以上

一、佐分利半左衛門
  一、二月廿八日朝鑓合申候 証人桑木浅右衛門・弓削五郎兵衛 証人口相違無御座候已上

一、桑木浅右衛門
  一、二月廿八日朝明ニきりしたんと鑓仕候 佐分利半左衛門・国友十左衛門見届申候 証人口相違無御座候以上

一、原田十次郎
  一、二月廿八日本丸松ノ木ノ下へ鎌田源大夫私兄弟罷出鑓をなけつけ刀・脇差・しゆりけんニ打申もの三人仕留申候
    証人鎌田源大夫・町熊之介 証人口相違無御座候以上

一、佐藤少三郎
  一、二月廿八日敵四人つきふせ申候 其後てき三四人之内壱人私つきたおし申候 証人片岡半丞 証人口相違無御座候以上

一、国友十左衛門
  一、二月廿八日本丸にて鑓合突留申候 証人桑木浅右衛門・花房次右衛門・下条長三郎・佐分利半左衛門
    又其先にて鑓仕候 証人下条長三郎 証人口相違無御座候以上

一、藤本猪左衛門
  一、二月廿八日之朝本丸御昇先にて鑓仕敵壱人討捕申候 二ヶ所手負申候 証人寺尾喜内・同孫丞 証人口相違無御座候以上

一、吉富五左衛門
  一、二月廿八日之朝鑓を合敵弐人討取申候 証人野田左衛門・片岡半丞 証人口相違無御座候已上

一、平野八十郎
  一、二月廿八日本丸屋根なき小屋之内ニ敵居申ニ参会壱人仕留申候 証人近藤新五左衛門 証人相違無之候
    

 

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■万難を排して・・

2021-11-06 10:46:13 | 講演会

 今日は午後から、熊本城・桜の馬場彩苑の多目的交流室で、「熊本四街道連絡協議会」の第11回目のシンポジウムが開催されるので、出かける準備をしている。
史談会の会員であり、前の「法牛石仏を守る会」の会長だった野口氏の講演を聞くためなのだが、私は相変わらず逆流性食道炎が芳しくなく、胸が痛くてしょうがない。
朝昼晩三回、市販の錠剤を一回10錠(一日30錠)飲んでいるが、なかなか痛みが取れない。
もう一週間経つから200錠ほど飲んだことになるが、胃の底か腸の中でとけずにあるのではないかと思ったりする。
そろそろ効き目を発してもらいたいものだ。
コロナ禍の中、一日13~4時間椅子に座りっぱなしの生活をしているし、これも大変よろしくない。
胸の痛みがひどいと歩くのも億劫になるが、散歩もかねて今日は万難を排して出かけねばならぬ。
明日7日は立冬ということもあり少々冷え込んできた感じがする。
朝から天気はどんよりしていて今にも雨が降り出しそうな感じだったが、先ほどから小降りながら雨が降り出してきた。
傘を持って、薬10錠を携帯して出かけることにしましょう。
                             

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■川田順著・細川幽齋「歌仙幽齋」時代(一)

2021-11-06 07:08:46 | 先祖附

    歌仙幽齋

      時代(一)

 細川藤孝、剃髪して幽齋玄旨は、後奈良天皇の天文三年(ニ一九四)に生れ、七十
七歳の長命して、後陽成天皇の慶長十五年(ニニ七〇)に薨去した。すなはち彼は、
應仁亂乃至關原役(廣義の戰國時代)の後半を存命して、足利氏の末路を觀、織田氏
ノ興廢を觀、豐臣氏の興亡を觀、徳川氏の創業を觀たのであつた。戰國時代の英傑多
しといへども、「生ける歴史」とは我が幽齋の謂であらねべならぬ。

 幽齋の遭遇した著明の事件を擧げれば、一歳の時の織田信長誕生、三歳の時の豐臣
秀吉誕生、四歳の時の三條西實隆薨去、五歳の時の國府臺戦、六歳の時の新撰犬筑波
集成立、九歳の時の徳川家康誕生、十歳の時の鐵炮傳來、十三歳の時の川越戰、十六
歳の時の冷泉為和薨去、天主教宣教師ザビエール渡來、守武歿、廿歳の時の宗鑑歿、
廿二歳の時の川中島戰、厳島戰、紹鴎歿、廿五歳の時の光悦誕生、廿六歳の時の狩野
元信歿、廿七歳の時の桶狭間役、廿八歳の時の藤原惺窩誕生、三十歳の時の三條西公
條薨去、三十一歳の時の國府臺戰、三十二歳の時の足利義輝弑虐、三十四歳の時の東
大寺大佛殿焼亡、三十五歳の時の信長入洛、足利義輝將軍拝命、三十七歳の時の姉川
戰、三十八歳の時の信長比叡山延暦寺燒討、三十九歳の時の三方原戰、四十歳の時の
足利將軍家滅亡、四十二歳の時の長篠戰、四十三歳の時の信長安土入城、四十四歳の
時の秀吉中國征伐、四十六歳の時の策彦周良寂、三條西實枝薨去、四十九歳の時の武
田家滅亡、本能寺變、山崎合戰、五十歳の時の賤嶽戰、林羅山誕生、五十一歳の時の
大坂築城著手、小牧長久手役、五十二歳の時の秀吉關白拝命、五十四歳の時の秀吉九
州征伐、五十五歳の時の聚樂第行幸、北野大茶会、五十七歳の時の秀吉小田原征伐、
家康江戸入城、狩野永徳歿、五十八歳の時の利休死、五十九歳の時の文禄朝鮮役、樂
初代長次郎歿朝鮮活版術傳來、六十一歳の時の秀吉吉野觀櫻、伏見築城、六十四歳の
時の第二次朝鮮役、六十五歳の時の醍醐花見、秀吉薨去、六十七歳の時の關原役、六
十九歳の時の紹巴歿、狩野探幽誕生、七十歳の時の家康將軍拝命、七十二歳の時の慶
長千首、七十二歳の時の江戸城竣成、七十五歳の時の狩野光信歿、七十七際の時の長
谷川等伯歿、等々。

 右の如くに、幽齋の一生の背景は素晴らしい。そこには政治あり、戰爭あり、宗教
あり、思想あり、文學あり、藝術あり、さうして、幽齋は終始その中流に棹さして行
つた、文武兩様の櫂を握つていた。

                (続く)

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■水前寺成趣園350年記念講演・シンポジウム

2021-11-05 15:16:50 | 講演会

 水前寺成趣園は、第三代熊本藩主細川綱利公の大規模な作事により1671年に完成し、今年は築庭から350年を迎えます。
これを記念して、長い歴史に育まれた細川文化と、築庭当時の姿を今に残す貴重な大名庭園の魅力を広く国内外に発信する記念祭が開催されます。               
                                                                                                                                    (熊本市HPより引用)

記念公演・シンポジウム~肥後細川家の魅力に迫る~
  開催日:11月27日(土)
  時間:午後1時~4時半
  場所:熊本城ホール メインホール(入場無料)
  観覧方法:要事前申込     申し込みはこちら 水前寺成趣園サイト) 
  内容:
     (1)基調講演「水前寺成趣園・熊本城と細川綱利」  講師:千田嘉博さん(城郭考古学者)
     (2)パネルディスカッション
      テーマ:「肥後細川家の魅力に迫る」
      出演:
        ・千田嘉博さん(基調講演者)  
        ・吉丸良治さん(熊本県文化協会名誉会長)
        ・小林寛子さん(東海大学教授)
        ・牟礼正稔さん(兵庫県赤穂市市長)
      コーディネーター:稲葉継陽さん(熊本大学永青文庫研究センター長)


                                          

                   

 付け足し:熊本史談会では上記シンポジウムにもパネリストとしてご出席の、熊本県文化協会名誉会長の吉丸良治氏を
      講師
にお迎えして例会を11月20日、熊本市民会館6号会議室にて開催します。
      詳細につきましては後日、当サイトまたは熊本日日新聞文化面にてお知らせします。
      多くの皆さんのご参加をお待ちいたします。

 

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■快晴率

2021-11-05 11:27:36 | 熊本

 毎年文化の日の頃は雨が降らないと言われる。快晴率というデータがあり、これにより証明がなされている。
熊本では年間の快晴の日は34日だそうだが、11月4日が一番高く快晴率は83~4%だそうな。

 熊本は今日も良い天気、相変わらずみぞおち辺りが痛くて不愉快極まりないが10時過ぎ散歩に出た。
自衛隊通りのいつもの桜並木の側道を歩きながら、このお天気ならば又桜が咲いているかもしれないと上を見上げて歩いてみた。
前に見た木かそうでないかはしかとしないが、やはり二三の木でまた桜が咲いているのを見かけた。
更に歩いて自衛隊正門の少し手前の、例年一番咲きをする桜の木を見上げたら、これも見事に花をつけていた。
この木は例年、必ずと言っていいほど他の桜よりは半月ほど早く開花する。染井吉野ではあるが、少し花の色が白っぽい。
他の木ともども、あまりの温かさに狂い咲きしている。来年の花の時期は大丈夫ですかと考えてしまう。
明後日から下り坂になり数日雨模様らしい。7日は立冬、気温も下がりいよいよ冬に入る。
桜も震え上がる季節となる。

                

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■部分御舊記・軍事部八(5)本丸働

2021-11-05 08:55:15 | 史料

       ・本丸働

一、藤掛蔵人
  一、二月廿七日本丸へ乗込敵壱人討捕申印西川権四郎ニ申せ申候 証人権四郎口首慥ニ見届申候以上

坂崎清左ヱ門与
一、生嶋平右衛門
  一、二月廿七日本丸之塀ヲ越候処ニ敵かゝり申候を壱人突伏せ申候 証人寺本八左衛門組ノ永富七左衛門ニ此段慥ニ申渡候已上
  一、寺本八左衛門ヲ突申候敵の鑓私取申候 八左衛門ニ此段慥ニ申渡候已上
  一、証人永富七左衛門口相違無御座候 寺本八左ヱ門口上書付のことく

一、松野平兵衛
  一、二月廿七日本丸へ乗込敵壱人討捕申二ヶ所鑓手負申候 印松野右京・小笠原備前ニ見せ申候
  一、証人口相違無御座候以上

沢村宇右ヱ門与
一、富田摠兵衛
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵壱人突たをし申候 証人加賀山太郎兵衛以上
  一、証人之口相違無御座候已上

津田三十郎与
一 、井上新丞   孫兵衛
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵弐人鑓付申候 証人杉武兵衛
  一、証人之口相違無御座候已上 

一、杉 武兵衛 
  一、二月廿七日本丸へ乗込頸壱ッ捕申候 証人井上新丞
  一、証人之口相違無御座候已上

真下喜左ヱ門与
一、志賀安丞
  一、二月廿七日与頭喜左衛門ニ付本丸へ入申候 少之手ニあい申候 証人門池次郎兵衛
  一、門池次郎兵衛口刀打仕無残所働之由以上 

安井太右衛門与
一、多田十右衛門
  一、二月廿七日本丸へ乗込頸壱ッ取申候 証人荒木助左ヱ門
  一、証人之口相違無御座候已上

寺本久太郎与
一、村上太左衛門 
  一、二月廿七日本丸にて敵壱人鑓にて仕留申候 小倉少大夫証人にて御座候
  一、証人之口相違無御座候以上

明石源左衛門与
一、奥村次郎右衛門 
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵鑓持候て参候を突ふせ申候 此段長岡佐渡守内松井新太郎見申候以上
  一、証人新太郎吉相突にて御座候へとも次郎右衛門早く御座候付頸渡し申候

右同与
一、吉岡瀬兵衛
  一、二月廿七日本丸へ乗込鑓にて壱人突申候 此段山本三蔵見申候
  一、証人山本三蔵口鑓にてつき留申所紛無御座候已上

御納戸
一、森 作兵衛
  一、二月廿七日本丸にて敵壱人切殺申候 証人野々村藤大夫 
  一、証人久太郎野々村藤大夫口相違無御座候已上

寺本久太郎与
一、加藤安大夫
  一、二月廿七日本丸へ乗込敵壱人馬上筒にて討留申候 証人早水市郎兵衛ニ而御座候以上

寺内五兵衛与
一、斎藤源丞
  一、二月廿七日ニ先手へ御使ニ被遣 御意之通申候所ニ東角ゟ乗込申ニ付而私も乗込申候 鉄炮にて一人打殺シ申候
    二ノ宮長右衛門見申候已上
  一、証人二ノ宮長右衛門口無相違候以上
寺本久太郎与
一、森田弥五右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣下にて石を打申候敵私半弓にていたて申候 其後本丸ニ乗込敵余多かたまり居申候を半弓にて敵をふせき
    一人射殺し申候 証人後藤権右衛門
  一、後藤権右衛門口上慥ニ見届申候已上

(附紙)軍法破候由ニて賞不被行 後御暇ニて立退松平大和守直矩ニ仕フ)       ・・軍法破りがいかなるものであったのかは不明・・
一、早水忠兵衛 (附紙)御台所衆
  一、二月廿七日本丸ニ乗込半弓にて敵三人いふせ申候 内弐人当座ニたをれ一人は手負申候 此証拠加藤安大夫・森作兵衛・生田又助内
    井口新左ヱ門存候
  一、其後津川四郎右衛門ニあい申候而其後相詰 明ル廿八日迄詰申候 其内ノ働四郎右衛門殿御存知被成候已上
  一、証人加藤安大夫又津川四郎右衛門殿口上如書付

本庄角兵衛与
一、江口弥左衛門
  一、二月廿七日先手へ御使ニ被遣ニ付へいきわゟ弓にて二人いたをし申候 渡辺与左衛門見届申候 城内にて弐人いたをし申候
    証人寺本久太郎・加藤安大夫見届申候已上
  一、渡辺与左衛門口相違無御座候
  一、加藤安大夫口上如書付

寺内五兵衛与
一、上野市左衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ゟ一間程下にて鉄炮敵壱人討取申候 八並少介・野脇久允証人にて御座候 証人口相違無御座候以上

右同与
一、八並少介
  一、二月廿七日本丸石垣際ニ著申鉄炮にて敵一人打ころし申候 証人田中左兵衛ニ而御座候 証人口相違無御座候

寺内五兵衛与
一、野脇久丞
  一、二月廿七日本丸之塀際へ御使ニ参鉄炮にて敵一人討取申候 証人品川六兵衛 証人口相違無御座候

一、塩津与三右衛門
  一、二月廿七日本丸へ乗込塀内ノ敵十四五人居候を鑓を合追くつし申候 証人田原平兵衛ニ而御座候
    証人口相違無御座候已上

一、山本三蔵
  一、二月廿七日本丸ニ乗込敵壱人討取申候 証人加来勘三郎・吉岡新兵衛ニ而御座候 証人口相違無御座候已上

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■川田順著「幽齋大居士」三五、終焉

2021-11-05 06:29:00 | 書籍・読書

      三五、終焉

 慶長十五年八月二十日、七十七歳の幽齋のいのちは、京都三條車屋町の館で、朝露
と共に消えた。八月二十日といへば、定家の正忌に當る。二條流歌學の維持者なりし
幽齋として、これ以上に望ましき最期の日はない。京都と小倉とに分骨して葬つた
ヶ原役後、忠興は豊前四十萬石に封ぜられ、小倉城に移つたが、父幽齋は、或時は彼
地で、或時は洛東吉田の閑居で暮らしたらしい。慶弔十四年秋上京し、翌年夏から病
みついたのであつた。葬典は九州にてとの遺言により、九月十三日、小倉城の東なる
「野がみが原」で、豪勢極まる葬儀が執行された。群書類從所収、末松宗賢の幽齋尊
翁御葬記に委曲しい。「記」は式後六日目に書かれたもので、信用するに十分だか
ら少々抜いて見よう。
 大徳寺、南禪寺、天龍寺、相國寺、建仁寺等から導師七人、その他の僧百五十餘人
が招請された。方八町の式場には垣を結び廻し、境内の北には靈柩を安置すべき龕前
堂を建てた。堂は十二間四方の幕垣で圍み、幕の内部は尺地も餘さず敷物を敷きつ
め、四方に華表を立てた。堂の四隅の柱は青緞子で巻き、軒引の水には、紫空色の絹
布を用ゐ、恰も紫雲の柵曳いたやうだ。辰の一點、彦山の山伏五百人、法螺貝を吹き
立て駈足で式場を通りぬけた。悪魔を拂うためだらう。午の刻、靈柩がついた。故人
秘藏の月毛の駒が、全身白絹で包まれ、四人の舎人に曳かれて來る。次に弓、鑓、長
刀、鋏箱、袋太刀等々。次に位牌は、當年八歳の孫(玄蕃頭興元の子)が侍の肩に乗
りながら、持つてゐた。それから靈柩。これは五色に彩り、箔にて磨き、金のかなも
のを用ゐ、玉の瓔珞を下げ、風鈴を掛けたから、日に輝き、風に和して、美妙の音を
立てた。そのうしろから喪主忠興、侍數百人を連れ、冠を被り、にぶ色の束帯、短き
太刀を佩き、中啓を持ち、草履穿きで從ふ。等々々。
 抜き書すればなほ幾らでもあるが、やめておかう。孫が侍の肩に乗りながら位牌を
持つとは、なんと美しい、可愛らしい光景だ。嚴粛莊重を極めて身動きもならぬやう
な儀禮でありながら、その中心には肩車した小童が居る。他人の我等でさへ微笑まし
くなる。幽齋大居士の靈は、さぞ感悦したであらう。

             上篇「幽齋大居士」了


         次回からは下篇「歌仙幽齋」を取り上げます。     

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■部分御舊記・軍事部八(4)

2021-11-04 13:05:02 | 史料

                     ・本丸塀著者

道家左近右ヱ門与
一、柳瀬茂左衛門
  一、二月廿七日本丸塀ニ著申候所ニ鑓之柄ミも被切申候 其時塀ニ乗可申と仕所ニ矢さまゟたかもゝをつかれ石垣ゟ落申候
    証人小笠原備前内高橋金右ヱ門 証人口相違無御座候已上

一、續 平右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ノ上ニあかり鑓をつき込申候 内より鑓を突出シ申候 殊外石打申ニ付石垣之上ニたまり不申候て
    石垣ニ付居申候 三度石垣の上に上り申候 証人下村五兵衛・竹原少大夫より引可申御意之由ニ付下村五兵衛・竹原少大夫
    同前ニ引申候以上
  一、二月廿八日本丸に參下村五兵衛・津川四郎右ヱ門殿・長谷川仁左衛門一所ニ居申候以上 証人相違無御座候以上

一、下村五兵衛
  一、二月廿七日本丸海手之石垣角より南方ニ付竹原少大夫・續平右衛門言葉をかハし申候 其後石垣ノ上ニ上り敵と二度迄
    鑓仕候 証人相違無御座候以上

一、明石源左衛門
  一、下村五兵衛・竹原少大夫
    一、二月廿七日本丸石垣きわニはやく著申候 証人小崎与次兵衛則塀越ニ鑓にてせり合鑓之柄被切申候 両度乗懸り候へとも

    石にて打被落申候 其後本丸ニ乗り明廿八日二本丸松ノ木のきわにて壱人鑓付うちとり申候 猿木何右衛門・小崎与次兵衛
    本丸にてハ門池次郎兵衛・難波善右衛門慥に見届申候 証人相違無御座候以上

一、樹下右衛門
  一、二月廿七日海手之方塀ニ著申候 鑓にて突被落候処武藤長兵衛見申候 二度目ニ又乗上り申候処ニ又鑓にてつき被落手負申候
    其段柘植源左衛門見申候 証人無紛候以上

一、町 熊ノ介
  一、二月廿七日本丸塀ニ付矢さまゟ鑓にて胸つかれ申候 其鑓を此方ニ取置申候 其後本丸へ乗込廿八日二武藤長兵衛一所ニ居申
    敵つきころし申候 手負申ニ付花房次右衛門一所ニ引取申候 証人相違無御座候

一、鎌田源大夫
  一、二月廿七日本丸石垣ニ乗ならしの石に片膝をかけ鑓を打合申候 竹内次郎大夫見可申候 其處にてハ鑓合セ申ものは私一人にて
    御座候 同廿八日之朝敵二人仕留申候 其段原田十次郎兄弟見申候 証人相違無御座候

一、牧 文四郎
  一、二月廿七日本丸塀下ニ著鑓手負引取申候 弓削五郎兵へにて御座候 証人相違無御座候

一、竹内次郎大夫
  一、二月廿七日本丸石垣ノ根ニはやく著石垣ならしの上犬走江あかり鑓にてかち合申候 鑓にて甲のまひさしつき落申候
    其後あかりに私鑓つき出シ候を敵鑓をとらへ引相申候へとも我等引かち申候 其後本丸へ乗り敵大勢のき申候間私つけて
    參候ヘハ敵鑓にて左の手をつき申手かなひかたく候故引取申候 右之証人松野縫殿助・廣瀬杢・鎌田源大夫にて候
    証人相違無御座候

嶋又左衛門与昇奉行
一、川村猪右衛門   後、戦奉行寺本八左衛門と戦功につき種々口論に及び猪右衛門討かかるも殺害さる   
  一、二月廿七日昇召連北之方塀裏ニ著居申候 賞民高見権右衛門・酒井七郎右ヱ門 証人口相違無御座候已上

松野左馬助与
一、清成八十郎
  一、二月廿七日本丸塀ニ著則塀ニ乗申候所鑓数にて被突落 又塀ニ乗申候を又被突落私之目ノ下を被突申候
    証人丹波友之助・中根半丞・財津少介・上津浦太兵衛 手痛廿八日ニ不罷出候 証人口相違無御座候

加賀山主馬与
一、鯛瀬杢助
  一、二月廿七日本丸石垣際へ著 則同勢續候へと申石垣に上り申候所ニ内より鑓にて被突落候時石垣下にて右之足を味方の鑓に
    て被突申候 証人弓削五郎兵衛・奥村二郎右衛門・菅十兵衛 証人口相違無御座候已上

谷主膳与
一、小林半左衛門                                (尸ニ月=肩か 崎=先)
  一、二月廿七日本丸池上石垣を上り塀ニ著先より敵と突相右之手に鑓疵負申候 其後左ノ■崎ニ而被打引申候
    証人志水新丞 証人口相違無御座候已上

右同与
一、永良孫大夫
  一、二月廿質日本丸海手之角五六間西之方石垣に著申候 石垣を上り候所にてミけんを被突石垣下へ落候
    証人弓削五郎兵衛 証人口相違無御座候已上

小笠原備前与
一、小笠原采女
  一、二月廿七日本丸大手口東之角石垣ニ著 其後塀下ニ著申候 証人米田与太郎・伊丹角助 廿八日ニ本丸にて浅山修理一緒ニ罷
    居申候 証人口相違無御座候已上

長岡佐渡守与
一、志水新丞
  一、二月廿七日本丸石垣へはやく著申候 則石垣へ上り塀へ著申一所に長岡佐渡守内田原清兵衛せかれ田原角十郎鑓にてうでを被
    突候を見申候 又石にて犬はしりゟ被打落引申候 私者共ニ之丸門口にて数多手負・討死又本丸石垣下にても右同前ニ而御座候
    証人口相違無御座候已上

平野九郎右衛門与
一、熊谷忠右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ニ早く着其儘塀ニ上り申候 塀下打払申敵と突合申候 松山兵左衛門・牢人一人一所ニ居申三人共鑓を打お
    り申候 其後左ノ足石にて被打叶不申ニ付而引取申候 証人口相違無御座候已上

一、岡本源次
  一、二月廿七日本丸塀ノ手ニ著鑓疵壱ヶ所長太刀疵壱ヶ所負申候 証人金津五郎助 証人之口紛む御座候

一、岡本四郎太郎
  一、二月廿七日本丸塀裏ニ著敵つき出シ候鑓を奪候とて石垣ゟ落申候 親源次手負申候ニ付引懸ヶのき夫ゟ又石垣きハニ著申候
    証人朽木五右衛門・金津五郎助ニ而御座候 証人口相違無御座候

一、入江八郎兵衛
  一、二月廿七日本丸塀ニ著申候 塀之破よりニ鑓つかれ引取申候 証人佐田長三郎 証人之口紛無御座候

 

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■川田順著「幽齋大居士」三四、不二の高根

2021-11-04 06:52:04 | 書籍・読書

      三四、不二の高根

 久方の空につもれる白雪や明けゆく不二の高嶺なるらむ
 この秀歌は「禁中に富士の山繪にかきたる御屏風奉りし時」と題詞して衆妙集に収
められてゐる。詠富嶽の詩歌おびたゝしき中にも、上代では山部赤人の歌、後世では
石川丈山白扇倒懸東海天などが最も人口に膾炙してゐる。洛北詩仙堂の主人丈山石
川重之は文武兩道の高士として、どこか幽齋に似通つたふしもあるけれども、人間の
規模の大小が懸絶してゐる。白扇倒懸云々、わかり易くもあり、美しくもあつて世俗
には觀迎されるが、日本鎮護の大嶽を掲揚したものとしては小さ過ぎる。幽齋が一首
の崇高に如かざるべし。
 幽齋は常に皇室を尊び奉つた。歴史を貴び傳統を重んじたるがゆゑに、古今傳授を
維持した。彼から秘訣口傳を授かつた人々の中には、桂光院智仁親王のごとき高貴の
お方さへあらせられた。田邊籠城の際、勅命によつて老のいのちを助けていただいた
一事は、いふまでもなく肝に銘じてゐる。歿後、遺集の編纂せられたとき、忝くも、
後水尾院より「衆妙集」といふ名號を賜はつた。泉下の幽齋、感泣したに相違ない。
 老後、皇恩の萬分一に報い奉らんと思案してゐたころ、内裏の御修理が成つたの
で、奉祝の微衷を致さんと、一雙の屏風を獻上することに決めた。當時は山樂
興以
等伯友松などといふ巨匠がゐたので、それらのいづれかに揮毫させたのであら
う。畫題に富嶽を撰んだのは、幽齋の發意にちがひなく、それも、旭光やうやく及ば
んとする暁天の趣を描かせたのであることは、前掲の和歌によつて推定し得る。それ
から、この和歌は畫讃として屏風に書いたかといふに、さうではなからうと愚考す
る。謙虚の幽齋、さやうのことを致すは皇室へ畏れ多しと考へ、又、友松・等伯ら巨
腕の作に蛇足を添へることのおろかしさも承知してゐたにちがひない。
 幽齋は上方育ちだけれども、富士山を知つてゐた。小田原征伐の從軍記を檢する
に、天正十八年三月某日「なほ行々て駿府につきぬ。富士を初てみ侍りて」として、
 なかなかに霞すまぬ不二の高根かな
と發句を誌し、續いて「府中に逗留の中に」とあつて、
 天の原あけがたしらむ雲間より霞みてあまる富士の雪かな
 箱根陣中よりの望嶽はしばしばであつたらうし、又、日記によれば、大磯小磯を經
て「鎌倉見物」もしてゐるゆゑ、到る處の海岸から殘雪浄らかなる高根を望見したで
あらう。獻上の屏風出來して、一旦居館に搬ばれた時、畫中の東海風景に對して幽齋
は、秀吉をおもひ、氏郷をおもひ、戰死した一柳齋をおもひ、好敵手氏規をおもひ、
陣中見舞に來て連歌の興行をした上總の昨夢齋をおもひ、正宗の買ひそくなつた鶉を
おもひ、伊豆の海の渦輪鰹の美味をおもつたに相違ない。

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■部分御舊記・軍事部八(3)

2021-11-03 19:21:55 | 史料

                  ・本丸石垣根ニ著候者

沢村宇右衛門与
一、的場勘平
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著内より敵出申鑓にてからち合申所岡部庄之助一所ニ居申見申候 其後ハ御本陳ニ参候
    證人口相違無之候

右同与
一、岡部庄之助
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著内より敵出申鑓にてからち合申儀ハ的場勘平・入江傳右衛門見申候 證人口相違無之候

津田三十郎与
一、野瀬角大夫    野瀬喜兵衛子
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著さまゟ鑓合申候 津田三十郎・柳瀬牛之助見申候
  一、同廿八日ニ本丸にて鑓合仕留申候 證人野田左右衛門同所にて小屋ニ居申敵を又仕留申候 證人津田三十郎右之證人
    共紛無御座候已上

津田三十郎与
一、柳瀬牛之助
  一、二月廿七日本丸石垣下にてさまゟ鑓合申候 證人野瀬角太夫・矢野山三郎ニ言葉を替シ申候 證人口相違無御座候

一、上田久兵衛
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著上ゟ鑓にて突申候 からち合申候 證人矢野勘右衛門・松山兵左衛門 證人口紛無御座候已上
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著石垣を上り候所に石にて被打落申候 又上り敵と塀越ニ鑓を突合申 證人猿木何右衛門
    證人口相違無御座候已上
 
平野九郎右衛門与
一、木造兵助
  一、二月廿七日本丸透戸口にて敵壱人突伏申候 其後同勢引申ニ付引取御旗本へ參候 證人奥田龍徳にて御座候
    證人口相違無御座候已上

右同与
一、津田六郎左衛門
  一、二月廿七日本丸水手口見付之石垣ニ著一番ニ石垣を乗越透戸構へ著敵壱人突伏申候 証人木造兵介ニ而御座候已上 
    証人口紛無御座候

丹羽亀丞与中小姓
一、樹下九郎太郎
  一、二月廿七日本丸石垣に著則石垣を上り塀越ニきりしたんと鑓突合左之かいなつかれ落申候 其証人横井牛右衛門にて御座候
    証人相違無御座候

一、財津勝助    財津少昨子中小姓
  一、二月廿七日本丸石垣に著則石垣之上にて鑓合右之手を鑓にて被突其鑓を取申候 証人弓削五郎兵衛・上田忠蔵
    証人口相違無御座候以上

一、矢野勘右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣下ニ著松山兵左衛門一所ニ居申候 石垣半分ニ上り鑓にて突合申候 証人口相違無御座候以上

一、小林助大夫
  一、二月廿七日本丸池之上石垣根ニ著矢さまゟ敵と鑓にて相突ニ仕両ノ手ニ鑓疵負申候 石にてつらをうたれ引退申候
    証人志水新丞・佐渡守内松井采女 証人口相違無御座候以上

一、小林半三郎
  一、二月廿七日海手之角拾間程西之石垣ニ著申候 証人上田忠蔵・中根半丞 鑓を入突可申と仕候処ニなた長刀ニ而鑓を二三度伐
    其後長太刀ニ私鑓を縣ヶ引取可申とて引合鑓おれ身ハ城中へ留申候 塀へ著可申と存塀柱之繩ニ取付上り鑓へは繩切落申候
    其後本丸ニ乗込夜ニ引取申候 証人上田忠蔵 証人口相違無御座候已上

一、小崎与次兵衛  
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著塀へ上り候所ニ石にて被打落又上り敵と突合申候 羽織越ニ被突申候 証人丹羽亀丞・猿木何右ヱ門
    にて御座候 証人口相違無御座候已上

一、猿木何右衛門
  一、二月廿七日本丸石垣ニ著上ニ上り申候所ニ石にて二三度打被落申候 働之様子丹羽亀之丞見申候 証人口相違無御座候已上

谷主膳与
一、澤村弥平次
  一、二月廿七日本丸石垣ノ上ニ上り塀内ゟ鑓を突出シ申候を私も鑓にて突ふせき居申候   証人佐藤七左衛門 其後本丸へ乗入候
    証人口相違無御座候已上

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■山田貴司著 ガラシャ: つくられた「戦国のヒロイン」像

2021-11-03 09:08:33 | 書籍・読書

                   

                「ガラシャ・つくられた戦国のヒロイン像」2,200円   


 熊本県立美術館に居られた山田貴司氏は、現在福岡大学・人文学部歴史学科の准教授になられている。
熊本時代の氏のご活躍は周知のことであるが、平成三十年に永青文庫展示室開設十周年記念として熊本県立美術館で行われた展覧会「細川ガラシャ」はその集大成でもあったかと理解している。
ガラシャに関するこれだけの資料が、今後一堂に会することはないのではないかと言われたほどの品々を我々は展観することが出来た。
この時の図録は今では大切なガラシャに関する資料となっている。
その図録に於いてトップを飾る形で、氏の「ガラシャの生涯とそのイメージ展開」なる文章が総論として掲げられている。

この度その氏が10月15日平凡社から「ガラシャ・つくられた戦国のヒロイン像」を出版された。
私は先に、「もうガラシャはいい」といささかの拒否反応を宣言したことがあるが、山田先生の御著であれば前言を翻さなければならないと思ったことである。
ご一読されんことを・・・

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■川田順著「幽齋大居士」三三、近衛殿

2021-11-03 06:44:09 | 書籍・読書

      三三、近衛殿

 松永貞徳戴恩記から種を拾つて、紹介する。
 近衛殿が十五首の和歌を作つて、幽齋のもとに遣はした。幽齋これを見ると、器用
に詠んであるけれども、歌の本道にははづれてゐた。 「恐れあれば、難をば申し難
し。然し悪き所あるを輕薄に褒め申すも道にあらず。」と思案の結果、添削も批評もし
ないで、同題の和歌十五首作り、「御詠に引かれて愚老も斯の如く詠み候。」と返事を
したためた。かう返事したならば、自他の歌を見比べて悟るだらうと考へたのであつ
た。つまり、婉曲に批評したのである。ところが相手は悟りわろく、
「さすがの幽齋も麻呂の歌には感服したと見えて、唱和し來居つたわい。」
 と得意になつた。加之、取巻の連歌師どもに幽齋の返書を見せて、
「いづれの歌が勝ると思ふぞ。」
 といふ始末だ。取巻たちは無論追從を言つて、
「それはもう、ごぜんさまのが數段とすぐれて居られます。」
 と持上げたのだからたまらない。幽齋これを傳聞して、困つたものだと嘆息した。
 戴恩記には單に「近衛殿」とのみあつて、何人だかしかとわかりかねるが、大方
白信尹
のことであらうか。その他に、幽齋の弟子筋になる近衛家の人はちよいと見當
らぬ。信尹はすなはち有名な三貌院で、天下の能筆にして又慶長千首の歌人なるのみ
ならず、秀吉に憚られて一時薩州坊の津に遠流となつた程の苦勞人だから、幽齋の本
意を解し得なかつたといふことはあるまい。それは兎も角、この話の中身はなかなか
面白い。幽齋といふ人が心使ひのこまやかな人間であつたことがわかる。ポンとやつ
ゝけずに、先方が自發的に合點するのを待たうとしたなどは、武人ながら短氣でな
い。
 悟りの悪い人間は、「近衛殿」ならずとも古今無數にある。實はありすぎて困るの
だ。かういふ話も聞いてゐる。昔、何代目か觀世太夫が、弟子をつれて、夜おそく
鴨河の岸を歸つて來た。彼等の數十歩前を、一人の侍が謡ひながら行く。太夫、弟子
をかへりみ、
「あの謡、黙らせて見ようか。」
「大そう得意のやうですから、なかなかやめますまい。」
 觀世太夫はつかつかと武士の背後に歩み近づき、ただ一句發聲した。武士はぴたり
とやめてしまつた。名人の一句に驚いて、引きさがつたのだ。太夫のいふやう、
「あのお侍の謡は、極めて上手なのだ。それだから黙ってしまつたのさ・」
 實に佳い話だと思ふ。この武士は藝の優劣をわきまえてゐる。だから名人の一句に
驚いて引きさがつたのだ。觀世太夫の謡はうが、梅若太夫が謡はうが、自分の下手な
頓馬ごゑを倍々張り上げる人間の多い世の中だ。

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