津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■川田順著「幽齋大居士」三五、終焉

2021-11-05 06:29:00 | 書籍・読書

      三五、終焉

 慶長十五年八月二十日、七十七歳の幽齋のいのちは、京都三條車屋町の館で、朝露
と共に消えた。八月二十日といへば、定家の正忌に當る。二條流歌學の維持者なりし
幽齋として、これ以上に望ましき最期の日はない。京都と小倉とに分骨して葬つた
ヶ原役後、忠興は豊前四十萬石に封ぜられ、小倉城に移つたが、父幽齋は、或時は彼
地で、或時は洛東吉田の閑居で暮らしたらしい。慶弔十四年秋上京し、翌年夏から病
みついたのであつた。葬典は九州にてとの遺言により、九月十三日、小倉城の東なる
「野がみが原」で、豪勢極まる葬儀が執行された。群書類從所収、末松宗賢の幽齋尊
翁御葬記に委曲しい。「記」は式後六日目に書かれたもので、信用するに十分だか
ら少々抜いて見よう。
 大徳寺、南禪寺、天龍寺、相國寺、建仁寺等から導師七人、その他の僧百五十餘人
が招請された。方八町の式場には垣を結び廻し、境内の北には靈柩を安置すべき龕前
堂を建てた。堂は十二間四方の幕垣で圍み、幕の内部は尺地も餘さず敷物を敷きつ
め、四方に華表を立てた。堂の四隅の柱は青緞子で巻き、軒引の水には、紫空色の絹
布を用ゐ、恰も紫雲の柵曳いたやうだ。辰の一點、彦山の山伏五百人、法螺貝を吹き
立て駈足で式場を通りぬけた。悪魔を拂うためだらう。午の刻、靈柩がついた。故人
秘藏の月毛の駒が、全身白絹で包まれ、四人の舎人に曳かれて來る。次に弓、鑓、長
刀、鋏箱、袋太刀等々。次に位牌は、當年八歳の孫(玄蕃頭興元の子)が侍の肩に乗
りながら、持つてゐた。それから靈柩。これは五色に彩り、箔にて磨き、金のかなも
のを用ゐ、玉の瓔珞を下げ、風鈴を掛けたから、日に輝き、風に和して、美妙の音を
立てた。そのうしろから喪主忠興、侍數百人を連れ、冠を被り、にぶ色の束帯、短き
太刀を佩き、中啓を持ち、草履穿きで從ふ。等々々。
 抜き書すればなほ幾らでもあるが、やめておかう。孫が侍の肩に乗りながら位牌を
持つとは、なんと美しい、可愛らしい光景だ。嚴粛莊重を極めて身動きもならぬやう
な儀禮でありながら、その中心には肩車した小童が居る。他人の我等でさへ微笑まし
くなる。幽齋大居士の靈は、さぞ感悦したであらう。

             上篇「幽齋大居士」了


         次回からは下篇「歌仙幽齋」を取り上げます。     

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