津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■強風域の中にあります

2019-09-22 21:25:30 | 熊本

 夕方5時前突然のように風が吹き始め、ベランダ側のサッシュががたつき始めました。
その後7時ころには強風域に入ったようです。火事の経験はありませんが、地震・水害・台風は大いなる経験をしていますから、心構えは出来ていますが、久しぶりの台風の中に在ることを実感しています。
サッシュにはクレセントをちゃんと掛けているのですが、風でギシギシと音をたてています。
締めまわすとさすがに生暖かいので、クーラーをつけて風が通り過ぎるのを待たねばなりません。あす目が覚めたころには少しは治まっていることでしょう。
熊本は強風域の東の端にあたりますから、コースとしては最悪ですが、平成三年のような被害にはならないとは思いますが・・・
1週間ほど停電に見舞われましたが、もう願い下げです。千葉の皆さんのご苦労のほどがよく理解できます。
ただ被害が出ないことを祈って過ごすことにしましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■元和拾年 萬覚書(26)

2019-09-22 14:53:12 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)十六日

         |   
         |一、十六日 甚左衛門 助二郎 当番 清天
         |               (上田) (河田)   
上リ馬ノ代    |一、井上六右衛門あかり馬ノ儀、忠三郎・八右衛門登城候而、代銀三十めニ相極り候て、売可申ニ相
         |  済事
         |                                         ( 短息 )
井上宗和借銀ノ返 |一、井上宗和登城仕、当町ニ大分ノ借銀御座候、何とも返弁不罷成候間、長崎へ罷下、銀子たんそく
弁方       |  仕候而、返弁可仕候、其内ハ、下人壱人、爰元ニ残置可申候由候、永作へ参候上下九人分、遣銀、

         |  百卅八匁弐分ニ極り候
         |              (加々山可政)(囚)       (興相)
松井友好昇衆へ様 |一、御昇衆、弐人登城候而申候ハ、加主馬召人・牧左馬召人を、今日ためし候条、罷出候而、とりあ
斬ノ立会ヲ求ム  |            (友好)  
忠利差料ノ様ニハ |  つかい仕候へと、松井宇右衛門かたゟよびニ参候、 殿様おこしの物にて御座候ハヽ、何時も可
何時ニテモ出ルモ |  罷出候、下々ノ衆ノハ、罷出候事いかゝニ候、何と可仕哉と申、御奉行衆被申候ハ、何時も、此
家臣ノ分ニハ出ズ |  方ゟ指帋無之には、罷出候儀無用と、被申候事
         |
唐銅の火鉢鋳造ニ |一、佐田五郎左衛門・神西長五郎登城候テ、からかねノ御火鉢ノ儀、五郎右衛門・田兵衛申候ハ、先
赤銅ナシ     |  相待候へ、あかかね今ほと無之候間、採銅所赤かねノせんさくなと仕候而ゟ、可申付と之儀ニ候、
         |  いかゝ可仕哉と、申候ニ付、尤ニ候との事
         |              (辛)
借米ヲ乞ウモ許サ |一、星野少介・野瀬吉右衛門・唐川忠介登城、手前はたと罷成す候まゝ、御米少宛御借候へとの儀ニ
ズ        |  候へ共、中々不成由、被申切候事
         |
薮政三ノ役儀ニツ |一、中津御奉行衆ゟ、此地御奉行衆と民ア殿連状参候、藪三左衛門役儀事、 三斎様へ被得 御意候
キ中津ヨリ書状  |  通、段々被申越候書状之写、御奉行所ニ有之事
         |                               (河井)(渡辺)
中津ヨリ鷹師ノ用 |一、此地御鷹師頭、中津ゟ御用候間、民ア殿へ参候へとの儀、則、権丞・三十郎所へ人を遣候事
         |
古市村百姓與三ノ |一、国東ノ古市村與三左衛門糾明奉行ニ、瀬崎猪右衛門・村上久太夫申付、籠へ参候事
糾明奉行     |
         |   (吉重)
         |一、沢村大学登城、下総ゟ被召上御馬乗ノ者ノ内ニ、地行へ妻子遣度と申候、切手いかゝと被申候、民
         |  ア殿へ被尋可然之由、被申候事
         |

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■小御上様 ≠ 小やゝ?

2019-09-22 12:39:44 | 徒然

 「豊前御おく方」とも記された「小御上様」は元和六年六月十六日に亡くなり、「西光寺法樹栄林」という諡がつけられている。
豊前に西光寺が建立されたが、三齋忠興の肥後八代に入るにあたって西光寺も八代に移され、のち盛光寺と寺号が変わり現在に至っている。
小御上様は「忠興の愛妾・小やゝ」だとされているが、最近「細川右京(内膳)家資料集」を眺めていたら、「明智系系図」に「小也々」が記されていて「天正六年生~寛永十三年 八代没57歳」とあった。

けれが本当だとすると「小御上様」とは誰なのか。「豊前御おく方」(福岡県史 近世史料編・細川小倉藩三)とまで言われたお方である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする