津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■江嶋家の宛行状三点

2019-09-05 18:07:16 | オークション

 現在ヤフオクに江嶋家の宛行状が三点出品されている。
松本寿三郎氏編の「熊本藩御書出集成」によると、江嶋家の御書出(宛行状)はかなりの数が紹介されている。
今般の三点も興味深いものである。
江嶋家は財津家等と共に、阿蘇に定住し阿蘇組と呼ばれ、御赦免開きが認められ、これによる開地は夫々の知行に加えられた。
江嶋家も多大な開地をもって180石取となり、開地を加えて100石以上になると御番方に加えられて府中に屋敷を構えるようになった。
8代傳左衛門に至っては川尻奉行迄栄進し、役料を含め500石を領することになった。
そんな江嶋家の加増の歴史がうかがえる宛行状三点である。

                                     

           (1)       《細川綱利書状》領知宛行状

 

                                     

             (2)         《細川宣紀書状》領知宛行状



                                     

            (3)       《細川宗孝書状》領知宛行状


             

   ■ 江嶋 傳  (南東42-5)
    1、六右衛門   御留守居衆 百石 (肥後御入国宿割帳)   
          御赦免開による「開結百三十石・正徳四年」
               細川忠利公宛行状
    2、傳之允   御留守居衆・田中左兵衛与 五拾石 (寛文四年六月・御侍帳)
               細川綱利公宛行状
    3、傳四郎   傳允跡目 組外阿蘇谷 五拾石 (御侍帳・元禄五年比カ)
               細川綱利公宛行状 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (1) 
                   江嶋傳四郎知行目録・二件  
                   江嶋傳四郎拝領開地所付目録

    4、傳左衛門
    5、傳左衛門   
    6、源太兵衛    細川治年公宛行状(天明六年)百八十石
    7、貞松(傳四郎) 百八十石
               細川斎樹公宛行状
    8、傳左衛門    百八十石
               天保三年九月~天保五年三月  玉名郡郡代(山鹿郡・山本郡助勤・兼)
                                    山鹿郡郡代(玉名郡より助勤)
                                    山本郡郡代(   同上    )
               天保七年三月~天保七年八月  阿蘇南郷郡郡代
               天保七年四月~天保十年九月  野津原・鶴崎郡郡代
               天保十年六月~天保十年十二月  菊地郡郡代
               天保十年六月~天保十一年二月  合志郡郡代
               天保十一年二月~天保十五年四月 山本・山鹿郡郡代
               天保十五年四月~天保十五年九月 下益城郡郡代
               天保十五年九月~嘉永四年三月 玉名郡郡代
               嘉永四年三月~安政元年三月  飽田詫摩郡郡代・後郡目付
               安政二年十月(郡目付)~安政三年七月(病死)高橋町奉行・川尻町奉行

         江嶋傳左衛門 名は永孚、傳左衛門と称す。細川藩に仕へて獄官となり、後郡代、作事所
                   目附其他の諸役を歴任し川尻町奉行を命ぜられ、禄五百石に至る。
                   安政三年七月二十三日歿す。享年六十一。墓は京町往生院。

               細川斎護公宛行状
    9、藤丞(傳)    百八十石
               細川慶順公宛行状

         以下宛行状等不明分
               正徳六年 細川宣紀公宛行状 江嶋傳四郎宛   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (2)
                享保十九年 細川宗孝公宛行状 江嶋傳左衛門宛 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (3)
                寛延元年 細川重賢公御書出写 江嶋傳四郎宛
                天明六年 細川治年公宛行状 江嶋源右衛門宛
                 不明  江嶋傳四郎開地田畑高積之覚 江嶋傳四郎宛

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■谷主膳という人・細川家と山家藩谷家との因縁

2019-09-05 11:02:10 | 人物

 最近ご紹介している「元和拾年(1624) 萬覚書」に、三月三日の記事を最初として、度々「谷主膳」なる人物の名前が登場している。どうやら奥方に関する慶事らしい。

         一、谷主膳殿御内儀、御よろこび候ハヽ、上方へ御小早可差上候、其時、沢村大学(吉重)方へ可相尋 御意ノ事

この谷主膳については「谷衛則か」と注記がある。この人物は、丹波山家藩の第2代藩主・谷衛政の四男である。
父・衛友は細川幽齋を歌道の師と頼む人物で、心ならずも幽齋の田辺城籠城の際は攻めての一員となっている。
しかしながら「空鉄炮」を放つなどして取り繕い、後に徳川家に対しては細川忠興の取りなしによって、丹波山家藩も安堵された。
この衛政の家督や財産分与については、衛友の遺言にもとづき細川忠興は大いに抵抗している。
しかしこのことは幕府の裁断により、忠興の意図するところには落ち着かなかった。
詳しくはここに触れることはしないが、下記の論考を参考にしていただきたい。
           「細川家史料にみる山家藩谷家御家騒動記」
衛政の家督や財産分与について、細川家は大いに不満を漏らしているものの、その四男・主膳を家臣として召し出しているのも不思議な話ではある。

細川家には、衛政の弟・衛長(谷内蔵之允)も元和九年に召出されており、幽齋室の実家・三渕家の初代重政の妹・幾久が嫁いでいる。
主膳は衛政の四男であるから、衛長とは叔父・甥の間柄であるが、上の「谷主膳殿御内儀、御よろこび」とあるのは出産でもあろうか。
この「御内儀」とはウィキペディアの「谷衛友」には娘と紹介されているが、そうなると甥が叔母を嫁にしたという事になるが・・・

「元和拾年 萬覚書」の編者は推測の意をもって「谷衛則」とされているが、如何であろうか。

又、後年、細川家が熊本入りした後、寛永十年(1633)細川三齋は「女持不申候者」を探している。

これは、三齋付の家老・村上景広の娘の婿を探していたことが判るが、7名の人が忠利によって報告されている。
この中に「谷主膳」の名前が見える。これはどうしたことなのか。元和十年の記事「谷主膳殿御内儀、御よろこび」云々の御内儀が誰なのかは別としても、この時期谷主膳に奥方がいたことは間違いない。そうすると「女持不申候者」の谷主膳は明らかに独り者であるという事からすると、先の奥方は亡くなられたのか・・・
寛永十五年(1638)の天草島原の乱では一手を引き連れて活躍している。
先祖附も残っておらず、絶家したものと思われる。いろいろ詮索したくなるところだが、詳しい資料に出会わない。



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■元和拾年 萬覚書(13)

2019-09-05 07:04:54 | 細川小倉藩

           (元和十年)三月廿六日

         | 一、薩摩平成、拾端帆之御舟申付候遣候、御舟頭ハ中屋吉右衛門
         |              〃〃〃
         |
         | 一、竹屋喜兵衛・有馬角右衛門、中国へ罷越叓
端午ノ帷子    | 一、御普請衆、幷江戸へ端午ノ御帷子持参申候御奉行、上田忠蔵・村田彦市乗上り候船頭江口彦左衛
         |   門、書付候事
         |     〃〃〃
         |
新銭ニツキ談合  | 一、新銭之儀、談合仕候事                           (米田是門) 
安国寺ト玄功寺ト | 一、安国寺と玄功寺との公事之儀、大念寺ゟ申来候ニ付、返事如何様に仕り可然哉と、米與右衛門尉
ノ公事      |   殿被仰候、冣前之返事之ことくニ候而可然よし、相談の上、申候事
佐藤安右衛門誓紙 | 一、左藤安右衛門、誓帋仕上候事
         |

                廿七日
         |
         |   (吉山)
吉山某宮部某ノ公 | 一、福万と宮部権三郎公事之儀、福万ニ、弥右衛門此中申候へ共、合点不参候、今一度聞直可被下之
事        |   由、福万被申候由、竹村弥右衛門被申来候事
新籠古籠ノ鍵ヲ竹 | 一、新籠・古籠ノかぎ、竹村弥右衛門ニ相渡申候事
村弥右へ渡ス   |
犬川鞣奉行ニ鷹師 | 一、犬なめし奉行、山本二介に申付候事
ヲ命ズ      |
豚八十山羊拾ヲ長 | 一、長崎へぶた八拾、幷やキ拾ヲ買二遣申候、御舟頭中屋吉右衛門、銀子ハ平野加右衛門ニ言伝遣申 
崎ニ求メシム   |   候事
忠利ノ革足袋   | 一、上田忠蔵・村田彦市、両人江戸へ被差越候ニ、 御召かわたひ弐十そく・御馬ノはなかわ、又、
         |                           (細川光尚)
馬ノ鼻革ヲ上グ  |   江戸ゟ、速見四郎三郎持下候披露状之文箱弐つ、幷 御六様御書壱つ、持せ遣之、則、晩ニ出舟
         |    (衛則か)
         | 一、谷主膳殿御内儀之儀ニ付、差上候飛脚御小人之九右衛門・新介ニ被成下、三月廿日京吉田ゟノ
         |                        (清脱)                      (沢村吉重)
         |   御書、同廿七日ノ酉上刻ニ下着、致頂戴候、坂崎左衛門尉所ゟノ状も、同日ニ着申候事、大学殿
         |                          (成政)
         |           (飯田)            
         |   へ 御書箱一つ、才兵衛所ゟ、大学殿の状一つ、相渡候事
         | 一、水橋五郎介舟、下着申事
         |

                廿八日

         |                                (島津家久)    (伊勢貞昌)
薩摩へ牧馬牽ニ出 | 一、薩摩へ、まき馬ひかせニ平野加右衛門、今日出船仕候事、諸白樽拾薩摩守殿、弐樽いせ兵部船        |   (ママ)    (ママ)(島津久元)
         |      弐樽ハ  下野へ被遣之
         |
惣構ノ矢倉見分  | 一、惣構の御矢倉見廻りニ罷出候事
         |        

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