津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■おやじと「台湾総督府」

2019-09-07 17:23:04 | 書籍・読書

           ちくま学芸文庫<br> 台湾総督府       

            ちくま学芸文庫 台湾総督府      古写真が語る 台湾 日本統治時代の50年 1895-1945

 77歳になった私だが、1歳数か月で死に別れた父親を想う気持ちは途切れることはない。
早稲田の建築を出て、なぜか台湾総督府の建築技官となっている。
随分以前、インターネットで父親の名前を打ち込んでググってみたら、昭和9年に「總督官房營繕課」に配属されていることを知った。
そして「ル・コルビジエ」に関する論考を発表していることなどを知り驚いたことだった。   

10年には姉が生まれている。そして13年には休職している。この時期病を得て帰国したのか、祖父が小石川の細川侯爵家に勤めていたので、ここに親子三人厄介になった。私は昭和17年ここで生まれた。
台湾にいたのは4年程か、台湾には関わった建物が有ると聞くが、どこに在るのか、何の建物なのか、現在残っているのか、皆目わからない。
そもそも「台湾総督府」なるものが、私の理解の外にある。
本を読んで少々勉強をして、父親に一歩近づいてみたいと思っている。

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■天草切支丹残照、ネコの島「談合島」etc.

2019-09-07 13:03:29 | 歴史

                     Yushima-kumamoto.jpg ウィキペディアから

 天草島原の乱を前にして、有馬勢・天草勢がこの島で談合したことから「談合島」と呼ばれているこの島は、島原湾にぽっかり浮かぶ上天草市大矢野に所属する島で正式には「湯島」と呼ばれる。特段これに関する史跡が残されているようでもないが、熊本県民には「談合島」と親しみを以て呼ばれている。
一方「猫の島」とも呼ばれて、昨今多くの観光客が訪れるらしい。また周辺海域にはイルカが遊泳しており、こちらも観光船などが出て賑わいを見せている。

 益田四郎はその際、天草四郎と名乗ったと言い伝えられている。あちこちの観光施設で見る「天草四郎像」は、まだ元服前の若者の髪の形をしているが、ある資料によると陳佐左衛門の手に懸り落された首は「茶筅髷」であったと伝えられる。
また「鉄漿(かね=おはぐろ)」を引いていたとも伝えられ、いささか印象を異にする。

 有馬勢が松倉氏に反抗して原城に篭ると、天草切支丹は大挙して島原湾を渡り有馬勢に合流する。
有馬勢も旧有馬氏の武士であったものや農民など切支丹が多い中、四郎が渡海して原城に至や、一揆の首領に祭り上げられた。
「鉄漿」は貴人のたしなみの一つだが、四郎の周辺に優れた演出家がいたのであろう。

談合島での会合は、寛永14年10月24日だとする説が有力だが、有馬勢が島原の代官を襲い一揆ののろしが上がったのはその直後である。
島原勢は松倉氏の苛政に反抗したが、天草切支丹の一揆は唐津藩の富岡城城代・三宅藤兵衛を殺し、勢いを得て富岡城を二度にわたり攻めるも落城させるにはい当たらず有馬へ渡海する。
それ以降の悲劇は皆さまご存じのとおりである。談合島にしろ、富岡城や原城跡、島原城など380年余をへて多くの観光客の歓声は、悲惨な歴史を忘れさせている。

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