今年日下部主水 初の名与助 帰参被仰付 弐千石被下志水と改 主水が父清久入道宗加も是より先帰
参被仰付 是も弐千石被下中津城ニ被差置候
志水家伝曰 清久次男日下部与介元五ハ細川玄蕃興元之家人なり 然るに興元之勘気を蒙り
候故 清久も御暇賜り丹後を罷出 志水九左衛門日下部与介を加藤清正ニ預け 自分ハ法体し
て京都に住す 与介ハ清正に仕へて弐百石を領し 鉄炮頭を勤 朝鮮にて数度高名あり 有吉武
蔵よく見候而其段申上候 慶長五年豊後木付の城を大友せむる時 黒田如水より清正ニ申越
るゝは 松井・有吉纔(わずか)の勢にて籠城及難儀候 後詰可有由ニ而 清正内鉄炮頭日下部
主水・坂川忠兵衛両人に百挺添て遣されしに 大友和睦下城せられしかは帰陳せしむる所に
内牧にて清正宇土城ニむかはれ候と承り 直ニ御船小川へ越し 木原山麓よりせり合場所塩田
口に馳着 塩田口竹束の番を日下部・坂川相勤む 城中より小西か家人内海源之丞と云者弐
百人ニて夜討ニ出しを 与介・忠兵衛追崩し首を取 武隠叢話、一番鑓、日下部与介と有 清正より感状に
梅津の脇差を添て加増三百石給候此脇差ハ幸斎代ニ、光尚君へ差上申候 其書出ニ 今度於
宇土表無比類働神妙候 為其褒美加増之地三百石遣之候 全可令所務抽忠節之状如件 慶長
五年十月廿日 清正 草辺与介殿 此働之事を忠興公聞召 御書を成下さるゝ 其趣云
尚々 去年来付(木付)口ニも使ニ被越候由辛労ニ候
猶期面時候 以上
従斎伊豆使被越候 幸便ニ候間申候 其方事今度於宇
土城手柄被仕由風説聞及 左様ニ可有之と申候処 只
今立本被申越 慥承届満足此事ニ候 無比類儀候 弥見
がゝれ候ハん事肝要ニ候 恐々謹言
正月十八日 越忠興
草辺与介殿
此御礼として豊前へ罷越候所ニ 御懇の御意にて 宇土にての儀弥まし/\て 御脇指を賜て
肥後に帰 此度忠興君より清正江仰入 日下部ハ譜代筋之者ニ候間 申請度と有て御所望被
成候 其後宗加極老に及致仕し 宗加か領をも直ニ主水ニ加へ給り 四千石ニて備頭を相勤候
宗加ハ隠居領三百石被下候 忠利君之御時主水又千石被下候 此時清正浪人庄林・大木・松
下・鎌田・小代・岩越・中村・田中・嘉悦なと伯耆申上候而御家ニ被召出候
(綿考輯録 巻十八 p430)
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そこで私なりに資料を精査してみました。
松井家御給人先祖附によると伯耆、悪兵衛兄弟が興元公の怒りをうけて御暇願い出て、伯耆は和州に立退その後久美浜にて松井家に帰参、悪兵衛は立退はずの処を久美浜にて康之公にめしかかえられている。
以上の資料から
丹後峰山興元公怒りを買い伯耆は天正十八年に和州に立退、その後松井家に帰参したようです。そして関ヶ原のときに再び退き、伯耆は織田秀信に、長男九左衛門と次男日下部与助は加藤清正に、三男雅楽は金吾大納言秀秋に、つかえたようです。*この動きは先生方によると関ヶ原の前、上意により西方の情報か宗家の保身ではないかと推測されてます。
又伯耆が和州に立退していたことにも注目しています。志水九左衛門家と関係深い和州高野山自性院と関係があるのではないかと思われるからです。
志水家に関する過去の当方の書き込みに大変誤りが多く、最近再度の検討をしながら修正をしております。巷間の資料ではなかなか判りにくいことがあり、ご子孫からのご連絡による事柄は大変ありがたい次第です。いろいろご教示たまわれば幸いです。