津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ひい爺様の名前、その他諸々

2008-03-12 16:28:54 | 歴史
 我がひい爺様の名前は又太郎、先祖附には「多津人」とあり、慶應四年に改名したとある。「新熊本市史・地図編」の「68-3熊本所分絵図・高田原之絵図」に見える屋敷跡には「義人」とある。これがよく分からない。「義」という字は、祖父・父の通字と成ってはいるが・・・。1988年度熊本大学・九州大学合同ゼミナール「熊本藩藩校時習館」報告書に、天明三年以降の「時習館居寮生名簿」があり、最末尾に近い処にひい爺様の名前がある。「■■多津人 擬作高百石 御穿鑿役・佐敷御番・御裏方御用人支配」とあって、「東京遊学」ともある。佐敷御番については、間違いではないのかとも思うが、現在ではまったく見当がつかない。先祖附には見えない事実に驚いているいるが、確かに慶應四年には穿鑿役を仰せつかり、「吉田傳太」の仇討ち事件を調べその記録を「吉田傳太復仇一件聞取書」「吉田傳太復仇現聞録」として残した。前者は「又太郎」、後者は「安正」となっている。又太郎安正(初・義人 多津人)が、ひい爺様の正式な名乗りであることが分かった。岳父・上田久兵衛の資料から結婚の年を調べているが、中々難儀である。
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1 コメント

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時習館書写役 (逸見駿河守一族の末裔)
2008-03-12 17:09:05
いつもお世話になります。私家の八代目の弟■■謙助は時習館書写役を永年勤め白銀七枚下し置かれておりますが、「熊本藩藩校時習館」報告書に名前はございますでしょうか。
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