地場・旬・自給

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梢の空

2013-12-17 04:11:45 | 水彩画
梢の空は青い。梢の上の空は絵になるぞと見える。枯れ葉が舞い降りてくる季節は、見上げては空の青さに驚く。竹藪の片づけをしていると井戸の底から空を見上げることになる。実に空は青い。竹の先が示す空は、限りなく奥行きがある。あの空を描いてみたい。しかし、こういう色は描くことなど出来ないだろうと描く前から分っている。山の上の空は、無限に広がる。山のその向こうまで空である。同時に自分の上の空でもある。山のあなたの空遠く、幸いすむと思いきや。山の向こうには鬼が住む。希望というものは、不安ということである。頭の上にある空は、清々として悩みを吹き飛ばす青である。遠くの山の向こうの空は、虚空である。現実を描くのか。希望を描くのか。はたまた何を描くのが絵なのか。梢の空を描いてみたいと、思った自分の気持ちは、実は絵になりそうという邪心で見ている。自分の絵という枠で空を限定して見ている。絵の目は色眼鏡。

梢は自分の位置を示している。梢には、幹があり、根があり、大地に起立している。青い空を指し示すように、梢は指を伸ばしている。梢が指し示す、空はその在り方を明確に示され、限定される。言われて、指示されて初めて自己存在は確認されるということになる。たぶん、岬に指される、海もあるのだろう。海はただあるのでなく、陸が海の下に潜り込みながら、海は陸にかぶさりながら、その境界を示している。これは2つの世界のせめぎ合いを感じさせるものかもしれない。「岸辺の思想」とでも名ずける思いがある。それは中世と近世の出会う時代。時間の岸辺。大きく波が津波のように陸を飲みこむ、激動の時代。海を描きながらそういう、ばかばかしい思いに引きづり込まれている。繰り返す波が時を刻むように、時間を感じさせる。視覚というものは、時間というものの込められた存在の意味を見ようとしてしまう。何者かを見ているという幻想を抱く。

河口は特に引きつけられる。海と大地が出会うことの意味等、ある訳がない。ある訳がないのに、眼が河口に引きつけられるのは、眼が想念の窓だからだろう。川には源流があり、辿る道がある。旅の終わりに海に出会う。真水が海水に混ざりながら、渦を巻く。渦の中に巻き込まれてゆく、葉から落ちた一雫のことを想像してしまう。梢から落ち続ける、枯れ葉のことを連想する。海の塩辛さに驚き、次々に巻き込まれてゆく川の水。時代の区分に、蒸気機関の登場、産業革命という考え方がある。大量生産方式による、資本主義の支配。私の中の、原発事故以前と、以降の時代区分。梢の空の青も変わる。離れてみれば、絵は時代の気分を反映する。それは、人間の目というものが見てしまう世界は、感情に支配されているからだろう。原発事故以降絵が描けなかったということは、理解が出来なかったからだろう。理解が出来ないのだから、絵として見ることが出来ない。見えない以上描くことはできない。

今描いている梢の空は、山のあなたではない。今の自分の位置である。もう少し正直に探れば、インチキの自分のことだ。あの空の青さは私がそうみたい色と考えている青だ。見えているように描くことのできない自分のことだ。見えていないものを作り上げてしまう自分のことだ。絵はできないことに向かうしかないもの。願いの青。紙に水彩絵の具で、素朴にそのことに向かおうとする。水彩人はそう宣言して始まった。同人としての方角が示された。絵はかなわない願い。願いを手繰り寄せる祈りの作業。マチスの絵のたどった道は、マチスがマチスになってゆく道である。中川一政氏は最初に描いた絵に、生涯をかけてたどり着いたと書いている。今日描く絵は、笹村という人間に、少しはたどり着けるのだろうか。絵具の水分濃度の違いによる多様な調子。色の意味と色の量の関係の整理。筆触の方向によって変化する画面構成。そうしたことによって複雑化する、バルールの操作。筆触に自分の精神を込めるために、すべて技法を傾注する。
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北朝鮮の権力闘争

2013-12-16 04:14:27 | Peace Cafe
北朝鮮ではかなり深刻な内部対立が起きているのではないか。そうでなければ後見人と言われた、ナンバー2を処刑するなどということはあり得ない。独裁国家というものが、どれほど、危険で醜悪なものかを見せつけられる。日本の方角がああした方向に進むことだけは避けなければならない。これから北朝鮮で起こることを、そして今までの流れを正確に見て、歴史の反面教師にしなければならない。金正恩のおかれた状況は、かなり危ういところまで来ているのではないか。一番の要は中国との関係のはずである。中国の複雑な外交戦略の中で、支持を得て、生き延びてきたのが北朝鮮である。その要である中国との関係を危機にさらしてまで、張氏の粛清を行わざるえなかった事情が、北朝鮮内部に起きている。経済の問題だと考える。日本の一部にある、北朝鮮の経済困窮説が、そうでもないらしいと私は見てきた。そもそもの北朝鮮の成り立ちと、中国との経済関係を考えてそう推測する。

あれほど軍事偏重で進めば、北朝鮮の経済は崩壊し、国民の疲弊は深刻であろう。と考えたいという気持ちが、日本の北朝鮮判断に反映している。北朝鮮は、韓国とは違い、戦前から鉱物資源が豊かな工業志向国である。明治政府はこの資源を求めたとも考えられる。面積は九州の3倍くらいで、人口は2倍程度の小さな国である。そこに中国の開発援助的支援がある。中国としては、北朝鮮を利用できる衛星国と考えているのだろう。日本の企業が労賃の安い国へ開発援助金を伴い、進出するのと同じことである。中国の経済発展に伴い安い労働力を求めて、北朝鮮に進出する。そこに処刑された張氏の存在がある。この利権に関しての対立が、北朝鮮内部に起きてきたと想像する。当然中国との合弁事情を進めていた、グループ全体が、危機的状況にあるのだろう。現在、金正恩としては自分の権力が及ばない経済領域を手中に収めようとしたのだろう。しかし、経済的論理は北朝鮮の国家的思想を越えて、資本主義的に動き始めていたはずだ。

資本主義的な発想はすでに抑えようもなく、北朝鮮の中国派の行動原理になっているはずだ。中国も結局はそうして、市場経済に巻き込まれて進んだ。共産主義思想が、拝金思想に敗れてゆく姿である。共産主義の考え方が悪いのではなく、人間というものの欲が、理念より勝ってしまう姿に見える。しかも、独裁者はもっとも欲深い姿をさらす。張氏に対する人格批判の悪口は、まさにジョンウン自身に返ってゆくように見えないだろうか。張氏が北朝鮮経済を中国との、関係を基に広げてゆけば、自ずと、国内の従来の権益を保持する保守層とぶつかるはずだ。ジョンウンがそれを掌握できていないため、過去勢力の圧力に屈して、処刑を選択したのではないだろうか。それは経済としては明らかに後退を招くことだから、今後の国家運営はより困難さを増したはずである。その結果、より精神主義が強調される国になる。その強盛大国の背景として、核ミサイル実験がおこなわれるだろう。

北朝鮮に暮らす人間は洗脳されているだろう。朝鮮戦争以来、窮屈な洗脳教育のなかで成長し、ゆがんだ人格を育てている可能性が高いと考える必要がある。張氏のような海外留学組と、国内勢力との意識の違いもあるはずである。北朝鮮は簡単には崩壊しないだろうし、当分その歪みを膨らませてゆくことになるだろう。情報が大きなカギになる。現政権に期待が持てなくなり、また身の危険を感じる人の、国外脱出は当面広がるはずだ。当然、その為の軍事的監視も強化されているはずだ。中国の覇権主義的傾向が、調整役であり、経済権益の窓口を失った。北朝鮮とぶつかることがないのか。中国は経済優先で動くはずだ。北朝鮮が安い労働力の提供先である間は、見返りのある支援を続ける。このバランスを北朝鮮政府が崩すことがないか。核ミサイルは、中国にも向けられている。中韓関係を含めて、来年に正念場が来る。
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農の会の自給祭

2013-12-15 04:41:04 | あしがら農の会

私の書いた看板(ジュンクワさんのブログから拝借)

瀬戸屋敷で、12月14日「自給祭」がおこなわれた。農の会では、以前は毎年収穫祭が行われていた。それがだんだん規模が拡大し500人にまでなってしまった。同時に各生産者やグループごとの収穫祭がおこなわれるようになったこともあり、会全体での収穫祭はなくなっていた。5年ほど前、まごのりさんの植え木のある圃場で、やったのが最後だった。今年は諏訪さんが代表に成り、昔のような収穫祭をやろうという提案をしてくれた。久しぶりでどんなものになるのか、人は集まるのか、色々心配なことではあったが、たぶん最終的には80人くらいの人が集まったのではないだろうか。私は餅つきのお米を準備した。欠ノ上田んぼグループでは、吉田さんの発案で初めて作ったもち米を、その場で搗いて食べてもらおうということになった。玄米モチがいいと思ったのだが、玄米でやる時は、2日は浸しがいるし、蒸かしもかなり強火で長くやらなければならない。なかなか大変なので、今回は3分づきのお餅にした。

3キロづつ2臼だけやった。結果的にはちょうど良い量だった。時間の配分も適当に良かった。10時から始めて、1時30分まで蒸し続けて、ちょうど蒸しあがった。時間がかかり過ぎのようだが、小さなガスコンロなので、このくらい蒸さないと3分づきでは蒸しあがらない、という予測通りだった。餅つき本番では、大瀬さんと岩本さんが熟練者だったので、見事な流れ作業で進んだ。よく搗きあがったお餅のふっくら感まで出た。今回は、大豆の会の黄粉が石臼引きと、ミルサー引きがあった。これが驚くほど味が違った。石臼引きが誰しも美味しいとびっくりするほどで、昔の人の味を感じた。粉の粗さと、熱だろう。もう一つが、相馬さんの大根おろしに我が家の自家製醤油をかけた、からみ餅。いずれのお餅も文句なく最高の味だった。さらに、すべて自給の料理の会のトン汁に、お餅を入れてみた。味付けには、我が家の味噌と、醤油が入っている。これも最高だった。なんだかんだと、生涯最高のお餅を山ほど食べてしまった。

大豆の会では、黄粉、お豆腐、醤油、が出された。黄粉は他では絶対食べることのできない大豆の香りがした。お豆腐はこれ又、昨年同様の濃厚な味のものだった。今年の大豆は出来が心配だったが、十分な出来上がりだった。我が家の醤油もなかなか、評判が良かった。小麦の会では、ニシノカオリで焼いた青沼さんのフモトのパンと、そら豆さんの石窯で焼いたパンを食べさせてもらった。どちらもおいしいのだが、フモトのパンは青沼さんらしく都会的なおしゃれな上品さがある。そら豆さんのパンは、堂々としていて気取っていない百姓パン。同じ小麦を使って、パンというものでこういう表現が出来るということが素晴らしい。本当なら私の、ほうとうも食べてもらいたいものだ。お茶の会の紅茶は楽しみにしていた。味は私の作ったものとほぼ同様のものだった。どういう理由かは分からないのだが、カフェインが不足している。それで紅茶特有のきりっとしたものにならない。想像では、摘み時と葉の状態による。来年は5月の新茶の時にやってみたい。

ごはんの味の比較では、石綿さんのお米で炊いたご飯を出していただいた。それを基準に色々の所を比較して食べてみた。かなり慎重に比較してみたが、欠ノ上も負けていない、いやそれ以上のなかなかのものであったと自画自賛。欠ノ上のお米は、畝どりに近い収量だったので、味の不安が少しあった。それが石綿さんの所にも劣らない味なので、驚いた面と同時に喜びがある。今回着目していた品種による味の違いは、以外に少なく全体に石綿さんのご飯と大差ない高いレベルの味だったと思う。農の会全体の栽培技術の向上が感じられるものだった。今まではなかった音楽と舞踏の参加で盛り上がった。3つのグループが参加してくれた。舟原バンドでは農の会の歌も発表された。フモトの青沼さんが作った歌だ。様子は録画もしていたので、U-チューブにでもアップしてくれるといいのだが。素晴らしい自給祭だった。満月祭が何となく意識にあったのだが、自給祭は農の会らしく、大げさでない、暮らしの自給祭りになっていた。
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石破幹事長の報道抑制発言

2013-12-14 04:28:41 | Peace Cafe
石破氏は11日の記者会見で、漏えいが禁じられる「特定秘密」を報道機関が報じた場合に処罰されることもあり得るとの見解を示し、その後に撤回した。一度は、「処罰される。」と答えたが、後に、「処罰されないが、抑制すべき。」と訂正したということである。前回は秘密保護法反対の絶叫デモはテロと同質だという発言もあった。この人は民主主義の価値を理解していない。デモなぞない方がいいし、報道は独自の判断など持たない方がいい、こう考えている。この人が軍事オタクだからと言って、軍国主義者であるとは思わない。自民党衆議院議員の代表的人物なのだろう。頭のキレる、なかなかのテレビ向きの人だと思う。キャンディーズの追っかけというようなことをテレビで発言するあたりが、なかなか抜け目のない人だという印象もある。自信に満ちたブログを書いている。主張の目立つ次の首相を目指す人なのだろう。何故、自民党が安倍氏、石破氏と、保守色が目立つ人が、あえて発言をするのかである。

日本の経済力が、アジアの近隣諸国に追い上げられていることにある。競争して勝たなければ、日本の存在が危ういという危機意識が、財界を中心とした日本の保守層に芽生えた。貧しいアジア諸国を日本が支えるというようなような、誇りを伴った気持ちが失われた。保守層は民主党政権の決められないねじれ国会では、日本は世界での経済競争に負ける国になる。これは、3、11以降の日本人の受けた、文明的な絶望感とも重なり、屈折した保守思想が回帰してきている。科学技術の発展が、暮らしを豊かにするとは限らないという、進歩信仰の消滅。このままの方角で行けば、さらなる崩壊が待ち受けているのではないか。暗い想念に多くの人が捉えられている。経済の衰退が何をもたらすのかの不安。こうした状況下、頑張ろうニッポンで、ある種の希望と、反動とで、保守的傾向が逆バネとして強まったのだろう。安倍氏も、石破氏も、変わった訳ではない。むしろ以前より本音は押し隠している。

競争に勝つためには、秘密は重要である。企業の技術力は競争の武器である。当然秘密保持を考えるだろう。たぶん稲作技術が先端技術であった、4000年前には、稲作を支える水土技術を確立しているものが、日本国というものを形成したのだろう。江戸時代には、幕藩体制であり、各藩が独立していながら、幕府の支配下にあるという、政治体制がとられる。経済は藩ごとの経営で、その技術力は、藩ごとに技術革新が奨励推進される。技術の秘密保持はいつの時代も存在した。人の移動は禁止されると同時に、百姓は資源として大切にされる。この点日本独自の封建制度を考えてみる必要がある。報徳思想を考えてみているのだが、倫理によって、経済が豊かになる。勤勉、倹約、報恩、であれば、自らが栄えるという思想。しかし、貧しさの根本原因が、藩や国という経済の問題であり、自己努力という範囲では乗り越えられない壁が存在する。国の問題を、個人の倫理の問題にすり替えてしまう危険。この点は改めてもう少し詳しく考えてみたい。

競争に勝つために、格差社会の方が、有効であるという考えが生まれる。機密は国の競争の根幹であるから、勝つためには情報管理は、徹底しなければならない。反政府的な発言は競争に勝つためには、邪魔なものとなる。いわば利敵行為と認識され、統制の方法が意識される。競争社会は、そもそも民主主義社会ではない。本当の民主主義社会とは、競争を越えた共存共栄の社会のはずである。意見の異なるものを認め、互いの存在を大切にする社会。弱者も、少数者も等しく大切にされる社会。これでは国際競争には勝てない社会ということになっているのだろう。アメリカのような能力主義社会が競争に勝つ社会という認識。サムソンの社員になることが人生の目的になるような韓国。何故能力主義になるかと言えば、人間というものを信頼していないということだと思う。建前では、誰もが同じ人権があるとしながらも、実は能力によって、差別されるのはいたしかたないとする社会である。石破氏は有能な自分に黙ってついてきてくれれば、競争に勝てるという考えなのだろう。
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よみがえる小田原城展と木造再建

2013-12-13 04:17:44 | 地域
よみがえる小田原という展示会が、小田原城本丸内で開かれていた。ジュンクワさんが準備をされたということなので、見に行ってみた。小田原城の中に入るのは2度目だと思うのだが、確かに前に来たところだということは、分るのだが、それがいつだったのかがどうしても思い出せなかった。たぶん忘れたい記憶だったのだと思う。お城というものは、私には感覚的に受け入れられないものがある。権威的な場所の空気が嫌いなのだ。武具が並んでいる。刀などもある。国宝の刀を見たこともあるが、鳥肌が立ってしまう。武器というものに対して生理的に合わないのだろう。今も槍の穂先や、刀の白さが目に浮かぶ。北条氏や大久保家の事が色々書かれている展示も、さらにみたくないものだ。いまさら武家の支配の姿など、顕彰してどうなる。封建時代を反面教師にしようとでもいうのならまだわかるが。いつの間にか、お城などには登れなかった百姓の根性になっていた。

小田原には木造の本丸を再建する活動があるらしいが、趣旨が分らない。木造建築はいいのだけれど、何もお城の必要はない。地の者の権威的匂いを、他の者としては感じる。いまさら権威の象徴を再建するなど、昔は良かったという話にならないか。そういう封建社会を乗り越えて、今の社会があるのだから、お城が無くなったことを幸いとして受け入れるべきだ。考え過ぎかもしれないとは思うが、上からの支配体制に視線が行く傾向が気になる。田んぼおよびそれにまつわる、農業遺構を残すことの方が、未来志向で意義がある。田んぼには、何故瑞穂の国が生まれ、何故、それが日本人の信仰や文化にまで及んだのか。将来の日本社会がどこに向かうのかの大切な要素を示している。そういうものを教育的に残してゆくことこそ、庶民の視点であるはずだ。田んぼが当たり前過ぎて、歴史的なものという意識が薄いようだが、無くなるのは時間の問題である。お城を見に行ってこんなことを考えているのだから、変と言えば変。

雨の日の9時から見に行ったから、誰も来ていないと思ったら、中国人の団体客が例の馬鹿騒ぎで見ていた。たぶん箱根観光のルートに入っているのだろう。確かに観光というものが、一つの産業で小田原がそういうものに力を入れるというのはわからないではない。観光というものは、あくまで虚業のようなものだ。利用するのはいいが、依存するものではない。観光という意味では、小田原城も熱海城も同じことだ。木造で再建する小田原城の目的は何か。ホームページによると1、街づくり 2、伝統文化 3、観光、ということのようだ。街づくりとは何か。衰退する商店街を再生することが一般に言われている街づくりである。これについては興味がない。これからの街とは何か。この点人間の暮らしとのかかわりにつて、きちっと把握されずに、昔は良かったというのではつまらない。小田原伝統文化というものがあり、それを継承、再興する。この時に小田原を取り囲む周辺部への意識が抜け落ちる。久野はお城から全く除外されている。

地域というものがどのように形成され、街の単位をどのように考えるべきか。農の会が酒匂川フォーラムから発生した時に良く話し合ったのだが、酒匂川流域を一つの単位として考えるべきだ。水ということで考えれば、上流部の小山町の暮らしは、切っても切れないものである。経済や歴史も深いつながりがある。文化を考える上では、庶民の暮らしの観点が抜け落ちてはならない。その点お城がその拠点に成るという感覚は、理解しがたい。観光ということでは、やればやるだけの効果がある。金沢城でクマが出たというニュースをやっていた。なにしろ私はその中で暮らしていたのだ。クマでなくても誰にも分らなかったほど、大きな森があった。お城の中にある学校という魅力が選択の一つだった。郊外に引き籠った今の金沢大学は、魅力がない。金沢は観光では成功しているが、暮らしのある町の感じがかなり薄れた。
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放射能に対するそれぞれの対応

2013-12-12 04:00:03 | Peace Cafe
福島原発事故以来、久野の農地にも放射能汚染が広がった。当初は食べてはならないと国が示す基準を越えた作物まで出た。現在の作物の放射能はその頃に比べると、その100分の一前後になった。放射能は予想を越えて300キロ離れた足柄地域までも、汚染で出荷停止を国が決めるほどのレベルに達した。そして、この放射能事故汚染の起きたことから、あしがら農の会でも、今までの生き方を考え直し、新しい方向に変えた人も多数存在する。特に、あしがら農の会に集まった人たちは、「地場・旬・自給」をそれぞれに考えてきたのだから、そのことを正面から向かい合う人には、判断できない状況に至ったはずである。たぶん、農の会を始めて以来、100家族以上の人と出会い、又分かれてきたのだろう。それぞれの生き方の転換点というか、再確認の場に農の会はなっているのだと思う。

私の場合放射能については、ぐずぐず、嫌な思いで判断を拒否している、というのが実態である。土壌が汚染されてしまったという現実は認めたくないし、考えたくもないことだ。そしてそのあいまいな態度に対する多数の人の、様々な抗議のような指摘も受けてきた。しかし、生きてゆくにはあるラインを引くしかないというのが私の、訳のわからない中で出した妥協的態度である。そのラインという物も、科学的な根拠に出来る限り基づくべきだが、内部被ばくの影響に関しては、分らないことばかりなのだから、科学的根拠はない。それぞれが、自分の精一杯の知性と、感性でラインを引くほかないということである。私個人であれば、100ベクレル以上のものは、避ける。こういうことである。はからずも、政府は後から、この数値を出した。日本政府も、ラインを引かなければ日本という国が維持できないという判断だと思う。この考えについては、様々な形で批判があるだろう。

放射能で癌になるのかどうかがわからないのは、タバコでの癌の影響と同じである。人によって違うようだ。友人でもあり、尊敬している先輩でもあるMさんは、がんの専門医なのだが、タバコなど全く関係がないと力説している。人間が生きるということは、平均値では計り知れないものだ。それぞれが判断する以外に道はない。では自身では判断できない小さな子供たちについては、どうかと言えば、タバコは法律で未成年は禁止されている。政府は同様の判断をしなくてはならない。癌に対する感受性は大人と較べて、成長期は5倍と言われている。これもどこまでの根拠か。この5倍も人によって異なる意見があるから、10倍の感受性と考えて、10ベクレルを子供の影響範囲としてラインを引いたらいいと、全く個人的な考えとして考えた。それは、農の会の活動には、子供のいる家庭もあるからだ。しかし、この考えには、批判も当然存在する。それなら会の活動を止める法を選ぶのかという問題である。数値を公表し、親に最終的な判断をしてもらうしかないと考えた。

現状では、すでに作物で、10ベクレルを越えるものはなくなっている。2ベクレルでも検出されるものが、ほとんどない。といっても例外的なものとしてはあり得る。また、翌年にはその半分以下になる。最初考えていた土壌汚染からの推定より、減少の速度速い。最近行った久野の自然卵の測定では、1ベクレルでも検出できなかった。だから、一度10ベクレル以下になれば、もう測定する意味はなくなる。全くやらないというのでなく、やるとしても確認の意味だけである。以上の考えから、小田原のみかんが10ベクレル以下であるにもかかわらず、これを拒否した横浜等の教育委員会の判断は間違えだと考える。科学的な根拠がない、拒絶では足柄地域の農業が成り立たないからである。どれほどわずかであれ、存在する以上食べさせるべきではないという考えは、特殊な個人の考えとしては許される。0ベクレルでなければいけないという、考えを持てば足柄地域でというか、世界で生存できない。
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和紙の発色

2013-12-11 05:01:56 | 水彩画
水彩画は何故水彩紙に描くのか。実はこのことには文化の問題にまで及ぶ、民族的傾向まで含んでいる。和紙というものは、中国人から教わり、日本人が磨き上げた一つの文化遺産である。和紙を見て、日本らしいと思うし、和紙と筆と墨から、日本の書画文化が生まれたのだと考える。素晴らしい日本画の伝統は、この和紙というもののレベルの高さに支えられ生まれた。和紙の質の高さというものが絶妙なもので、一言では言い難いものである。多様であり、微妙であり、絶妙。浮世絵から琳派の障壁画まで世界屈指の絵画世界が出現した。制作基盤であり、原因となるのが和紙の存在ある。日本的発色とか、保存性の高さ、筆あたりの良さから、良い筆の出現。日本の書画を奥深く展開できた、一大要素になっている。レンブラントも使ってみたということが、当時のヨーロッパで珍重された和紙ということになっている。当然日本の水彩画を作り出すためには、和紙を使うということを、私も考え実践している。

ところが、2つの理由で、水彩画には、和紙より、フランス、イタリア、イギリス、アメリカ、インドの水彩紙の方が水彩画には勝っている。まず、紙目の問題である。和紙には紙目が無い。それは製造方法から来るものだ。和紙は水槽の中に浮かせたコウゾやミツマタの繊維を、木枠ですくい取り静かにはがして乾かす。この時木枠にある竹の桟が紙に現われる場合はあるが、大きくデコボコになることは好まなかった。和紙が、字を書くことにや、障子に張られて使われるのだから、書きにくいデコボコは要らないし、薄くて丈夫で、光を通すことが大切である。紙の厚さは薄いことを良しとしたために、繊維の折り重なる厚さの効果ということはない。和紙にはにじみの微妙さがある。ところが水彩紙は漉き取ったラグという古綿の繊維を、布で挟みローラーにかけて、水を絞り出し作る。この時に布にある繊維の目が、紙に食い込み紙目を作ることになる。もちろんこの絞る際の布の目は、邪魔になればより細かな布で挟むことが出来た。このことから、ペンで描く目のない紙から、筆で描く場合の紙目の粗いものまで自由にできることになった。

一般に荒い目のものを水彩画では使うことになる。それは色を着色した場合に、紙目の間から、紙が覗いて見えて、その紙の白さが色に輝きを与える効果を生むからである。もう一つは、どうさのかけ方の違いがある。水彩紙は一般にドウサ液に紙ごと浸けこんで、繊維の奥までしみ込ませるため、深く芯までドウサが効いている。つまり、水彩紙で重要なことは、明るい発色が可能なことである。和紙の場合は、刷毛でドウサを塗ることになる。強いドウサを作る場合は重ね塗りである。紙に厚さが無いからである。そのためににじみということが大きな要素になる。水墨などではドウサのない紙で、にじみを生かした筆触が探求される。何故こういう方向に進んだかと言えば、それが日本の自然に培われた、民族的性格だったとしか言えない。ヨーロッパでは、ボタニカルアートで見られるように、より正確な表現が求められる。性格という意味は、機械的、数値化できるような意味での精確さである。一方、日本では幽玄というような、曖昧で心理的な共感で伝えようというような、阿吽の世界となる。これは色に置いても同様で、和紙では正確な色の発色幅は狭い。

和紙と筆触という関係を具体的にいえば、空とか、海とか、雲とか、草原とか、形の自由がきくものが、描きやすい。それは、形に線が引きづられないで済むからだろう。筆跡から、描いた人の人格までたどろうとする、書の文化の影響がある。にじみや筆触に反応する共通理解と、その奥行きの上に、成り立つ日本的な筆触の絵画。日本の油彩画の成立過程でも、西洋絵画とは異なる点はこの点である。筆触の文化に色が出てくれば、色の意味は曖昧になる。しかし、色という世界多様な意味の充実が、絵画の本質でもある。この兼ね合いこそ絵画である。どのように筆触と色とを両立させるか。この時に和紙の持つ含みこむ奥行きが、逆にあいまいな限界を生む気がしている。より深く精緻に思考するということを、和紙が拒んでいる。この部分が水彩画の今後の可能性ではないか。
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HIV血液、輸血

2013-12-10 04:01:53 | Peace Cafe
恐ろしいことがまた起きた。エイズ患者の血液が輸血に使われてしまったのだ。この献血をした人物は、たぶん自分がエイズに感染したのではないかと、不安を持っていたと想像される。それで、2度の献血を行って、感染の検査をしたと思われる。献血をすると血液検査をしてくれるから、エイズもしてくれると考えたのかもしれない。一度目は感染から日がたっていなかった為に、エイズではないとされたらしい。そして、日を空けてもう一度献血をした為に、エイズであると判明した。全く恐ろしい話だ。エイズ感染の不安から、エイズを他人に感染させてしまうという行為に及んだ。わざわざ2度目の献血に出掛けたということは、相当に感染に確信があったということになる。しかも、この人物は性行為に関して虚偽の書き込みをしているというから、確信犯的である。もし、2度目の献血に現われなければ、1回目の献血の血液は、全くわからないまま輸血されたままである。今までも、こういうことがあったのかもわからないが、判明されないということが想像される。

このエイズ汚染献血について、赤十字では検査体制を20人分一括から、1人づつ行う方式に変えるということだ。以前は、50人づつ行っていたものらしい、やはり、輸血からエイズ感染が起きて20人に変更をした。そして一人に変更する予定を早めることにしたらしい。何故前回の事件後、一人検査に出来なかったのかと思う。赤十字の担当者は、赤十字は献血をしてくれる方々の善意を信じて行う体制の為、疑うような組織にはなっていない、と言われていた。赤十字が批判されても困るというような、コメントだった。2人の人が輸血を受けていたのだが、一人の方は不幸にも感染してしまった。もう一人の方は感染していなかったことが確認された。1996年に京都府内で献血し、その献血された血液が感染しており、輸血に回されていた。厚生省の調べによるとエイズの感染を調べるようになって以来、毎年10件から40件程度の感染が報告されている事が分っていた。おそかれ早かれ、又こういう事件が起こるはずだった。

ことし1月から9月に献血の際の検査でエイズウイルスへの感染が確認された人は55人に上ることが分かった。つまり、エイズの不安のある人が、検査目的で献血をしている可能性が高い。そのためもあり、エイズに感染していても知らせないということに、わざわざなっている。感染して1カ月ほどはウイルスの数がまだ少ない為に、検査をすり抜ける。だからエイズ感染者が検査の為に、多数献血に来れば、リスクが高まることになる。この55名は今どうしているのだろう。本当に知らせないのなら、その人の不注意から感染する人も出るだろう。情報を誤解して感染をないと思い込んでいる可能性もある。何故無料の保健所での検査に行かないのかと言えば、隠したいからだろう。同時に自己検査キットは1万円くらいで良く売れているそうだ。保健所に行くことは、かなり嫌なことのようだ。個人情報に不安があるのだろうか。

献血の血液汚染を防ぐ方法がない訳ではない。むしろ献血と同時に、血液検査を徹底して行い、エイズに関しても、献血者に知らせるようにする。もちろんわずかでもエイズ感染があれば、発見できる技術の確立が前提になるのだが、不安な人の場合、もう一度来るようにしたらいい。費用も労力も大変なものになるが、病気予防ということにもなるのだから、全体としての利点も出てくる。この血液検査に関連してだが、町で店舗として、ワンコイン検診というのがあるそうだ。1ヶ月で1万人が検診しているそうだから、営業として成り立っている訳だ。例えば、500円で血糖値が分かる。10分間で結果が出るというところが、画期的である。ここで、エイズ検査も目立たず出来るようにするのもいい。こういう機能を日帰り温泉に備えてほしいと思う。3か月に1回ぐらい、10項目ほど検診を継続してゆく。それを記録し、分析してくれるシステムである。もちろん、私立病院にあってもいいし、よく行く場所で継続することが大切だと思う。自分の身体の情報を知ることは、大切だと思う。
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秘密保護法の教訓

2013-12-09 04:50:14 | Peace Cafe
秘密保護法国会は、今後の国会運営の小手調べだろう。自民党が選挙で多数派になり、国会はねじれが解消された。一方野党の方は、一向に再編の気配がない。ぶつかる前に砕け散っている。選挙の投票に於いて、自民党が圧倒的に勝利した訳ではない。比例代表の得票率27.6%だった。この政党が、国民に圧倒的な支持を受けているような錯覚が起きていないだろうか。小選挙区制と、公明党との連立という、離れ業でかろうじて政権を維持している。もし、野党が連合することが出来ていれば、全く状況は違う。民主党は政権党の時に、政府の運営に失敗をした。官僚をはじめとする行政と、離反が起きた。いずれ政権から追われる政党に、同調する官僚や行政職員が居るわけがない。こうして追われた民主党をはじめとする野党は、分裂し、さらに破裂し、求心力がない。秘密保護法国会に於いては、維新の会やみんなの党は自民党にすり寄り、結局見捨てられた。

へんてこ野党は政権党にすり寄ることが、自党の有利につながると思いきや、圧倒的な世論の傾向は、秘密保護法を否定する方向に進んだ。みんなの党の党分裂は、この世間感覚との認識のずれにある。自民党は餌をばらまいたのだろう。渡辺氏に対して、行政改革について、ずいぶんおべんちゃらを発言していた。行政改革相のポストぐらい匂わせたかもしれない。機を見るに敏な橋本氏は、世論をよく見ていたと思う。いずれ、自民党の寝技は巧みで、野党を上回っている。このままでは野党は統合へは進まない。第2、第3のへばりつく公明党の出現の方が可能性が高い。国会的には、すでにそういう状況に進んだ。自民党は今回の秘密保護法国会の成り行きの観察で、どのように運営すれば、集団自衛権問題を上げられるかを探っている。反政府的な行動を、すべてテロとみますよ。これは、自民党が発信したのろしである。反原発では、若い人たちの多くが、デモに出掛けるようになった。下手をすると、ファションになるかもしれない。

案に、自由な考え方に抑圧をかけたのが、秘密保護法の唐突なやり方だろう。就職差別もあるし、公務員の身上調査もやりますよ。政府としては、デモに出るような人間は採用しません。秘密保護法ではこういう調査もすることになっています。たぶん企業の方にも、情報は横流しします。就職には熱心な大学生に対して、大学が昔のように反政府の拠点になることに、黄色信号を点灯した。安倍政権の本質は戦前の社会の再現を志向している。そういう瑞穂の国を示している。軍隊があり、特高警察のある社会が点滅している。まさか、亡想だろうと思うかもしれないが、そうでなければ日本が国際競争で勝てないと、本気で思いこんでいる人が結構いる。明治の富国強兵時代と何らその点では変わらない。中国、韓国に経済で追い込まれて、国家主義が庶民に再燃してきている。戦前の社会も経済で追い込まれたことが、軍事力競争に向かうことになった。植民地を広げる政策が経済的な困窮を生んだ。

野党の再編以外に日本の政治がまともになる道はない。野党は現状を反省し、建設的に日本の将来を考えるべきだ。自分の権力志向を捨てるべきだ。本当に日本のことを考えるなら、野党としての価値を再認識すべきだ。現在の野党は、何とか自民党にへばりつこうとあがいているとしか見えない。民主党の失敗を踏まえた、成熟した野党の統一以外に、日本の政治は良くならない。現状は自民党が小選挙区制によって、一色になってしまった。異分子の存在できない政党になってしまった。だからいまさら、小泉さんが目立つような状況なのだ。次の選挙で自民党に投票しなければ、あっさりと変わる。消費税が実施され、格差社会はさらに深刻になる。TPPが結ばれ、大企業だけが有利に国際展開し、生き延びることになる。競争社会、能力差別社会。これでは幸福社会は遠のくばかりである。弱者の側に立つのが、野党の役割のはずだ。
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裁判官の悲しみ

2013-12-08 04:50:37 | 水彩画
ジョルジュルオーの「裁判官の悲しみ」という絵を中学生の時に、確か西洋美術館に見に行った記憶がある。その後、影響を受けて、絵の具やたら盛り上げるようになった。当時ルーブル美術館展などというものを見に行っても、自分が真似ることのできるような絵がなかったのである。ルオーを見て、こういうのならやれそうだと思ったに違いない。ずるがしこくて、ろくな中学生ではない。もちろん、ルオーの絵に込められている、深い意味など全くわからなかっただろうと思う。ルオーはその頃自分の絵を燃やしてしまったということで、話題になっていた。それでも燃やさずに残したものが、日本に来た絵だと言われていた。過去の自分の絵を消し去りたいという気持ちは、誰にでもあるのではないだろうか。よくもこれほどひどいものを描いたのか、と驚くことがある。自分の中の自己顕示欲のような、悪の部分があからさまに見えることがあり、ぞっとする訳だ。そうだ、裁判官のことだった。

裁判員制度というものがある。私には絶対にやりたくない仕事だ。人を裁くなどということは、何としても避けたい。ルオーだってそう考えている。籤運が悪い方だから、当たりそうで怖い。間違って当たった時のことを考えると、全く気が重い。法律で決まっている義務だから、当たらない幸運を願うほかない。人間が人間を法によって裁くなどということはできるのだろうか。何度も吉本隆明の書いた、「今に生きる親鸞」を読んでいる。実に分りやすく書いてあるのだが、実に難解である。悪人正機ということがどう現代に生きるのだろうか。誰しも悪人である自覚が必要というような解釈ではない。善人であるとか、悪人であるとか、そういう人間の範囲分けを越えて行く先に、人間が生きる本当の世界があるということらしい。裁判官にお任せするということのどこがいけないのか。病人の治療を医者にお任せする。医師もまた辛い職業だけども、お任せするしかない。ルオーの裁判官は庶民の顔をしている。

絵を描くということは、実現できないことに向かうということである。ルオーが絵を燃やた気持ちは、ダメな絵だと気付いたからであろう。あるいは描いてはいけないことを描いていると感じたからだろう。一度よいと思い込んだ絵ですら、間違っているということがある。人間が生きる根底にある、誰しも行わなければならない仕事の一つに、農業である。誰でも人間は食べる。一次産業というのは、直接的に必要な食べ物を生産する仕事だ。人間にとって必須うの仕事だと考えている。このことから離れて、どのような仕事もないと思っている。しかし、職業ということになれば、農業でも、苦しみ悲しみから離れることはできない。農産物が商品と成り、評価され、判断され価格が付けられる。価値という観点で見れば、能力格差が生まれる。職業というもの、経済というものは、人間暮らしにとって何を意味しているのだろう。絵でいえば、職業という側面で考えれば、私には描く意味がない。

ゴッホが描いている暮れてゆく麦畑は、ゴッホの少年時代からの記憶だろう。麦畑の前で立ち尽くす少年ゴッホがありありと目に浮かんでくる。この麦畑で働き、暮らしている人間というものへの、まなざしがゴッホの絵である。人間が生きるということに伴う悲しみが、ルオーの裁判官以上にリアルである。麦畑の美しさとか、広大な地平とか、ゴッホはそういうものでなく、人間の世界へ入れてもらえない、役立たない自分という存在が、麦畑の前で立ち尽くしている。中央には麦畑に消えてゆく、ゴッホの歩むことのできなかった道が続いている。すべてを突き放したような棒のような筆触で描かれる。カラスも、雲も、麦も、道も。この無機的な感情を殺した筆触の、厳しさと辛さ。麦畑を耕す人にならなかったゴッホ。少年のゴッホの未来に飛び交うカラス。
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秘密保護法が出来てしまった。

2013-12-07 04:58:19 | Peace Cafe
秘密保護法がスピード可決されてしまった。自民党が過半数だから、当然の結果ともいえる。当然ではあるが、もう少し議論して、この法律の良い形の運用法を確認しておくべきだった。この法律は、アメリカから言われて作ったものだ。軍事同盟国としては、当然の不安だろう。国防に秘密が必要なことは当然なことだ。この当然を根拠に、ずいぶん杜撰な法律が出来てしまった。大きな問題点は、国防上の秘密の範囲を誰が決めるかだ。総理大臣が決めることになったのだが、この総理大臣が、独裁志向の人であれば、日本が大変な所に行ってしまう。そこで総理大臣の指定した秘密が適正かどうか、誰かが監視する仕組みが必要になる。この監視組織を、内閣府内に置き、総理大臣が官僚の中ら必要な人材をあてがうことのようだ。これでは論理的に言って監視にはならない。このあたりをどう詰めるかをもっと議論すべきであった。

次の問題は、この法律で民主主義が委縮しないかという不安である。デモによる、アピールの方法を、テロのような一方的な声の暴力だと、自民党幹事長石破氏が決めつけたことだ。政府の本音としては、反政府的な存在はすべて、テロ集団と同等である、という認識を持つ可能性があるということだ。いつ何をやらかすか分からないような、連中であるから、監視の必要があると、監視を強化する。もちろん今も監視はしている、今度は合法化して、デモ集団の徹底的な監視を秘密警察が行うかもしれない。こういう疑心暗鬼が、民主主義の成長を妨げる可能性である。日本には、言論の自由があるとよく言われる。自由というものは実に危ういもので、知らない内に失っているのかもしれない。つまり、デモなどに行くと就職差別されるかもしれない。政府と同じ考えであると、表面的には行動していないと、どこでどういう不利をこうむるかもしれない。こういう、自己保身的な憶測心理が、自由な思想の形成を妨げる可能性が、この法律で高まるだろう。

民主主義の自由を育てる為には、デモをやるような人間を評価する社会を作らなくてはならない。私の居た頃のフランスは、まさにそうだった。デモ隊がかなり過激なことをしたらしく、血だらけの若者二人が、美術学校の前の喫茶店に逃げ込んできた。そのあとをドドット警察官がなだれ込んできた。いつもおとなしい弱虫そうな、喫茶店の店主が警察官の前に立ちふさがり手を広げて、ここに入ることは許さないと、叫んだ。その時、その店にいた全員が、警察官に出ていけとシュプレヒコールで同調した。すると、警察官がすぐ引き下がった。さすがフランス革命を経た国だと、実感した。市民の権利意識の強さがわかった。デモや、ストライキに対して、苦情を言うような人間は許されない空気が存在した。市民的権利を互いに守り育てることを、民主主義の基本としていた。今はどうもフランスでもその点変わってきているということを聞いた。不景気のせいらしい。

情報公開法を早急に作ることだ。秘密国家にならない為にはそれしかない。自民党政権は間違っても作らないだろう。だから、自民党に投票しないことだ。民主党がいくらだめだからといって、自民党に投票するのはさらにだめだ。今回の自民党のやり方は、先ず小手調べである。集団自衛権の拡大解釈。憲法改正の3分の2条項の変更。自民党が考えている国家がどういうものかは、今回の秘密保護法で、かなり見えてきた。有能な政府に任せてもらえば、悪いようにはしないからという感覚である。この独善が、憲法9条の改定にまで及んでゆくだろう。そして、戦争の出来る国家への変貌である。戦前の日本に逆戻りしようとしている。前の小田原選出の河野洋平氏は、今回の自民党の暴挙を批判していた。所が後継と言われていた、牧島氏は読んでいただけば、驚くほど平穏無事である。意見を言わないといことがこの人の信条のようだ。自民党議員の芯(牧島氏の方針だそうだ)を無くしたのは、小選挙区制である。
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特定秘密保護法の問答無用

2013-12-06 04:40:05 | Peace Cafe
特定秘密保護法が不安を残したまま、参議院でも強行採決された。今日にも本会議で決まりそうだ。ねじれ国会時代より、明らかに議論が減少した。この法律の持っている、秘密国家への可能性はぬぐい切れていない。特定秘密に指定する範囲が明確ではない。国防上ということだが、実は範囲を決めようとすると、すべての領域に広がる可能性が法文から読み取れる。石破氏が言うように、テロを取り締まることも重要な国防上の仕事である。そしてテロの範囲というと、反政府デモなどは、テロと本質的に同じではないかと考えているそうだ。ということは、反政府デモをやる人間をどのように取り締まる対策も、特定秘密になる。国がデモの参加者の情報収集するなどは、一切秘密に行われるということになる。いわゆる秘密警察のようなものが出来て、国民の情報収集を行う。もし、こういうことが行われているとして、それを内部告発するような人がいれば、それは犯罪ということになる。まさかと思うが、そのまさかが起こり得る情勢は整いつつある。

そこで必要なことは、情報公開法を同時に作ることが最低の義務だ。国防上必要とするものの範囲と同時に、国民の知る権利の範囲を示すことを明確にしておくことが、民主的な政治運営を行う上で、絶対条件のはずだ。このままでは政府は必要に応じて、特定秘密の拡大解釈が許されることになる。あの大音量のデモは、不愉快だから取り締まれ、そのために個人情報を調査しろ。こういう命令を下すとしても、誰にも分らない。当然、デモ参加者は、その結果から知らない間に差別を受けることになるだろう。当然公務員の就職はできない。税金の徴収などで、特別に厳しくされるなどということもあり得る。疑心暗鬼になるのが警察国家である。だから、政府のやっていることの範囲を情報公開する事は、必要なことになる。そしてどのような特定秘密であっても、20年くらいで公開すべきだ。個人情報は、集めようとすれば、逐一、日々の行動まで把握できる社会が近付いている。コンピューター完全管理社会が待っているのだ。

問答無用で、国会が進められるのは、国民が自民党に投票したことと、ゆがんだ選挙制度の為だ。次に選挙で、自民党と公明党に入れない以外にない。そもそも小選挙区制がダメなのだ。自民党内に異論を芽生えさせない制度になっている。文句を言うやつは、公認しなければいいと考えている。弱い立場のぺいぺい議員は意見など言える雰囲気もない。そもそも自分の考えのあるような人間は、自民党は候補にならなくなっている。そして、すべての方角が経済競争の正義である。景気が良くなるという一点で、自民党を選んだ。というより、民主党では日本経済は破綻すると多くの人が考えた。自民党の方が、悪いことはするかもしれない、官僚支配に又なるのだろうが、まだ、民主党よりはましと判断してしまった。その気分は私にもある。しかし、自民党は経済よりもなによりも、少々危うい方向を示し始めていないか。それが安倍政権を諜報活動して分かった、アメリカの不安だったのだろう。それがアメリカの安全保障なのだろう。

中国は、尖閣に次には上陸をするだろう。その時に何が起こるかである。日本政府はどう対応するか、決めていなければならない。アメリカ副大統領の中国訪問では、領空識別圏について、結果が出せない。中国らしい巧みな戦略に日米がハマりつつある。中国習近平政権は国内的に深刻な問題を抱えている。問題を押し込めるためには、外国との緊張関係を高めることになる。特に日本が標的にされることは目に見えている。そのきっかけの尖閣の扉を石原氏は開いてしまった。中国は北朝鮮とは規模が違う国家である。しかし、その政治体制は、似たようなものと考えねばならない。日本ですら民主主義が危ういのだ。国際緊張が高まる中、秘密保護法が必要なことはわかる。しかし、そのことで国民が暮らしに必要な情報まで、非公開になる社会になれば、民主主義はさらに悪化し、中国や北朝鮮のようになる。情報公開法の制定である。
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沢山絵を描いている。

2013-12-05 04:15:13 | 水彩画

並べてある絵。


正面。


描いている場所から

絵をすごく描いている。どういう訳なのか。自分でもわからないのだが、50枚くらいを一気に描いている。20枚くらいが出来た。筆触と色のことを考えながら試している。同じ場所を色で描いてみたり、色を殺してみたり。筆触だけを考えながら描いてみたり。色々考えていても、絵はやってみなければわからないことばかり出てくる。見ているという感じを、筆触ではどう表すものなのか。目で見ているものには、線のようなものはない。見ている状態を表すのに、ないものを線に置き換えることになる。色だってそうだ。青い空と、青い海を描くのに、青を使い、海の青に近づけてみたところで、見ているようにはまったくならない。空間が違うのだから当然のことだ。それが黒い海と、黒い空にしたとたんに、このように見えていると、感じ始めることがある。あー、まったくそういう訳のわからないことが絵を描いているということだ。絵には限りない面白さがある。

私は、見ている世界を描いている。見ているという自己存在、自分の中の何ものかを描いている。少しややこしいのだが、朝やけを見て、ああ美しいと。余りの美しさに捉えられてしまうと、心や身体が反応する。嬉しくなって、興奮して手から汗が出ていたりする。頭の中で、さらに思い描くとか、反芻するとか、記憶と出会うとか。様々な回路を経ながら、身体がしびれて動けないような興奮にまで至ることがある。それは何故だろうか。美しいということは、絵だから難しいが、火を見て興奮するとか、高いところに立って恐怖にとらわれ足がすくむとか。つまり、目で見ているということは、身体的な反応を呼ぶ。その背景にあるのは、多くは経験と、想像力であろう。本能的なものもあるかもしれない。私が朝日を見て美しいということには、今日も暖かくなるから、鶏が卵を産んでくれるぞ。蒔いた種も芽を出すかもしれない。干してある大豆も今日は乾くだろう。そういうことを含めて、美しいということになる。

この大地、大自然に感謝したくなるような、自然の一員である自覚をしたようなありがたさである。絵を描くということは、そういう自分の全体性を描くということでもある。朝やけの空の色の微妙さに反応するのは、そういう生命の兆しが木の芽の色に宿っている、というような、記憶を確認して、心が動かされていることでもある。私の命があの太陽と同一であるような実感。それらはすべて幻想であり、私の脳が妄想を起こしているのだろう。しかし、それはあたかもすべてが実体験のように、生々しく、現実であり、疑うこともできないように、眼前の世界が輝きを持ち広がっている。こういう、記憶や、想像を含めて、見えているのが今の朝日なのだ。これを描こうとした時に、筆触でこの気持ちを表す必要があるし、作り出してゆく色の組み合わせで、私の頭の中に存在する風景に近づけてゆく以外に、わたしには方法が無い。その時に一番確かなことは、これだと叫んで、指を挿せばいいのだが。それを画面として残してみようとする、無理な行為が絵を描くということになる。

絵を描くということは、視覚的に見えている世界では済まなくなり、その世界に捉えられている自分というものを描いているということになる。だから、そうした行為はその世界に近づくことはあっても、その世界そのものになるということは、あり得ない行為なのだ。そこで、大抵の場合、一応の所で置いておいて、自分の様式の中で解決を見たようなことにして置こうとする。そんなことは空しいことだから、本気で、その内なる世界の真実に迫ってゆくということは、常に絶望と背中合わせの行為と成らざる得ない。絵を描くということはここまでできたというより、出来なかったという、絶望感、あるいは嘘をでっちあげたという、空しさ。こうしたものがいつも伴う行為になる。だから、「私絵画」と言わざる得ない。せめて自分には正直であろう。他人の目を入れないで、出来ないということに向かい合い、個人的に描くことになる。
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続・石破ブログ批判

2013-12-04 04:16:37 | Peace Cafe
石破氏がブログを訂正したというので、読んでみたのだが、何を訂正したのか意味不明である。自分の考えの間違いを認めた訳ではない。デモに対する認識は、本質的には変わっていないと思う。以下のように訂正したのだ。一般の人々に畏怖の念を与え、市民の平穏を妨げるような大音量で自己の主張を述べるような手法は、本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います。デモを嫌っていることが理解できる。これでは民主主義を否定しているのだと思う。私は何度も、肉声ではあるが、大音量で国会あたりで、「原発反対」と叫んだ。「TPP反対」も叫んだ。まさにテロリストと本質的に、変わらないと言われた人間の一人だ。実際の大音量は最近よく待機している、右翼の街宣車の方だ。何故このことを石破氏気付かないのだろう。仲間の大音量は心地良いということか。

現在の、政治の実際では、公聴会や、パブリックコメントなどというものが、通過儀礼になっている。参議院の参考人の意見でも、自民党推薦であろう、瀬谷俊雄・東邦銀行相談役までもが、「国家権力に対して、民間までが処罰の対象になるのは疑問だ」と述べ、法案が民間人を処罰対象としていることに疑問を呈した。その上で「国益の範囲を極力絞って、集中的に適用されたらいいのではないか」と述べ、法案の慎重審議を求めている。先日の福島で行われた、特定秘密防止法の衆議院地方公聴会では、多くの方が、鋭く批判をしていた。にもかかわらず、その翌日には、強行採決である。意見を聞いて検討するという姿勢が全くないのに、形だけは一部の国民の声を聞くというのは、これこそ独裁政治ではないか。私は特定秘密保護法は、情報公開法とセットでやらないと、民主主義が守れないという意見を持っている。こういう意見をデモで大声で主張すると、民主主義と相いれないものとなるというのは間違っている。小さな子供連れも参加しているデモを、テロリストと感じてしまう心理は、腹黒い権力者の不安そのものであろう。

本来あるべき民主主義とはどういうものだろう。インターネットを利用した直接民主主義だろうか。すべての国民に権力が与えられている形なのか。果たして、戦後、民主主義は日本で育っているのだろうか。一番の根幹になる、国会の選挙制度自体が、最高裁で違憲状態と言われているのだ。3権分立が憲法で決められた考え方である。国会が憲法の意義を認識できない状態だ。それがまずいとなると、憲法の方を変えればいいという意見が出てくる。民主主義は憲法に基づき、国の運営をすることを決めて、代議員に政治をお願いしている制度のはずだ。それが憲法を守ろうとしないと、最高裁判所に言われても動こうともしない。こういう時に国民に出来るのは、あらゆる方法での意見の表明以外にない。デモもその一つの方法だ。これを大切にしなければ、あるいは抑え込めば、本当にテロが登場する。デモの参加者もこれで政治がすぐにも変わると思ってはいない。しかし、やむにもやまれぬ思いで忙しい中出かけてゆくのだ。デモは民主主義を守り育てる大切な行為だと考えている。

自民党の中が実におとなしい。民主主義を成立させるデモという基本的権利を、こんなに軽々しく考えている政治家を、幹事長としていただいていることに対して、おかしいと言う意見が出てこない。意見を言えば、出世できないというのが、自民党内の権力構造なのだろう。今の政治家はまるで勤め人のようだ。出世というか、自分の権力欲、自己顕示欲を満足させる為だけに、政治家になっているような人ばかりのようだ。右翼の街宣車の高性能スピーカーを取り締まれないで、市民的デモの声をテロリストと感じるという幹事長を、おかしいと言える自民党員はいないのか。条例で音量は決められているはずだ。それを越えているのは、選挙カーと街宣車の方だ。そっちはテロ集団とは感じないというところに本音が出ている。
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2013年大豆の作業が終わる。

2013-12-03 04:18:26 | 自給

収穫のほぼ終わったところ。


乾燥していた様子。


脱粒しているところ。


最後に干しているところ。

大豆の会では、11月10日に刈り取って収穫をした。それから機械小屋の裏で2週間乾燥し、24日に脱粒。この時にはまだ早いが、出来ることはできるという感じであった。11月30日にとうみ掛けが終わった。まだ湿気がいくらかのこっている。とうみにかけた後の総重量は186キロである。現在は天日干しを2日行い、機械小屋の中に広げてある。さらに選別を12月22日に行う予定だ。150キロぐらい残るだろうか。選別を厳しくすれば、120キロぐらいになってしまうようでもある。(最終的には136キロになった。)反収で210キロくらいになる。国の平均収量が反収180キロくらいだから、始めての畑にしては、まずまずの量採れたと考えてもいい。しかし、今年は私の収穫時期の判断の間違いで、かなり早く収穫してしまった。そのために品質的に問題がある。みかん後の山の畑で初めて7畝作り。来年に向けて反省するところが多いことである。何と言っても収穫が早すぎた点で申し訳なかった。大豆の跡に予定している、例年の小麦の会の日程の予定があった。気分的に早めに日程を組まざる得なくなった。

小麦の播種前に堆肥を入れて十分に耕す必要があり、ついつい、大豆の会の皆さんには無理がかかって申し訳なかった。移動して始めての山の畑ということもあり、収穫時期の判断を間違ってしまった。誠に申し訳ないことである。脱粒機を借りることも2度手間にさせてしまった。今年の様子では来年は収穫を11月3週目に持ってゆきたい。もちろん来年は来年の天候があるので、今から決めつけることはできないのだが。ということは、小麦の播種が11月4週目ということになる。同時に、種まきは6月26日で半分位は直播をしてしまうのはどうだろうか。下の方の畑、半分は大豆の播種機を借りてきて、蒔いてしまう方がいいと思う。今のところ、この畑では鳩の食害は無いようだ。鷹がいつも飛んでいる御蔭だろうか。それでも、テグスは張った方がいいのだろう。大豆の苗作りは、補植用と、実験用にしたらどうだろう。確かに苗を的確に作れば、収量は増える。その意味で、苗作りはもう少し継続はしてみたい。まだ、分らないことばかりだ。

しかし、大豆栽培で、苗を作り植え付ける手間を考えると、すべてを苗で作るということは少し手間が掛かり過ぎる。畑の上の方一部を苗作りにして、そこには堆肥も多めに入れる。追肥料として堆肥も入れてみる。そして生育の違いをもう少し、観察をしてみたい。今年漠然と眺めていた範囲では、確かに実の付き方は、苗の方が平均的には良かった。これも良い苗が出来て、的確に植え付けることが出来た時の話だ。本来であれば、収穫量調査をする予定だったのだが、早く収穫しすぎて、それも出来なかった。土壌は大豆を栽培することになって、だいぶ改善されてきたと思う。小麦の会の種まきの時に、土が昨年とは変わったと皆さん感想を言われていた。やはり畑は使いこんで良くなってゆく。それでもまだ団粒化してきたという感じではなく、さらさらした状態である。みかんの跡地は手ごわい。昨年は、みかんがあったところは麦の生育で分る。

腐植が足りないという印象だ。麦の藁も堆肥化して、畑に戻す必要があるのかもしれない。藁を持ち出すということは、畑の腐食分をそれだけ持ち出しているようなものだろう。腐植を畑に戻す為には、本来であれば麦わらも堆肥にして戻すべきだ。家畜小屋に入れて敷き藁にして、堆肥にする。あるいは、現在大豆をやっているように、堆肥小屋で積み上げて、堆肥にする。そして畑に戻す。麦わらも、大豆の葉や茎も、畑に戻す手段を考えた方が循環して行く土壌作りになるのだろう。江戸時代の農業であれば、麦藁はわら細工に使う。藁屋根にも使う。山梨では、屋根材は麦わらを使っていた。葺き替えの時に出た古い麦藁は、畑に使うという人がいて、すべて持っていかれた。持ち出した分、落ち葉かきもして山から腐植を持ってくる。良い土を作るには必要なことなのだろう。伝統農法を考える上では、堆肥づくりは重要なことになる。堆肥づくりを勉強するということをふくめて、麦藁の堆肥作りを少し本気で考えた方がいいのかもしれない。
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