あるきメデス

あちこちを歩いて、見たこと、聞いたこと、知ったこと、感じたことなどを…

菅生沼から牛久沼へ33㎞サンサンウオーク(1)

2008-04-21 23:07:09 | ウオーキング
 やまさんのLL(Lake to Lake)ウオーク第3弾・茨城編
の続編が、「菅生沼~牛久沼33㎞サンサンウオーク」と
して4月5~6日に行われた。

 私は2日間ともやまさんに同行できなかったが、別に
歩いたので、その模様を報告する。

=======================

 2008年4月5日(土)
 =水海道駅~菅生沼~守谷駅=


 
 この日は、筑波エクスプレス守谷駅に9時集合、バス
で中沢まで行き、菅生沼をスタートして守谷駅までの
予定だった。

 ところが私は集合時刻を間違え、守谷駅に着いたの
は9時半。すでにバスは出た後だった。

 さてどうするか。タクシーで追いかける気はなく、地図
を見て一考する。距離は伸びるが常総鉄道の水海道
(みつかいどう)駅から菅生沼に向かい、スタート地点近
くからやまさんの後を追うことにした。

 守谷駅9時45分発の常総鉄道で、水海道駅に9時
55分に着いた。駅前のコンビニで水海道から菅生沼
までの地図をコピーして、10時3分に出発する。

 西に少しで栄町の旧道に入り、北に進んで鬼怒川の
左岸近くに出ると、レンガ造りの古い建物がある。

 五木不動産と記され、国の有形文化財になっていた。


 鬼怒川の豊水橋を渡って右岸沿いに進み、砂原集落
を抜ける。家並みのほとんどは改築され、屋敷林など
の樹木は少ない。


 麦の伸びた田んぼの間を進み、浜集落で豊後川の
浜宿橋を渡って南側の宿集落から島集落へ。

 十字路を西に折れたすぐ先に地蔵堂があり、地蔵
さんがたくさん並んでいた。

 そばのソメイヨシノが満開だった。


 畑作地帯をさらに西へ、野口や遠大久保を抜ける。

 キャノンファインテックの工場と住宅地の間の、ソメイ
ヨシノの並木も満開だった。


 松林の続く水海道ゴルフ場の南側を回り、東仁蓮川
を渡る。


 周辺の広葉樹は、まだ枯れ枝のまま。松山周辺の畑
の一角に、レンギョウがたくさん咲いていた。


 大塚戸町の十字路から北に少しの三差路際に、まだ
枯れ枝の大木が立つ。

 常総市天然記念物「大塚戸のムクノキ」で、この場所
は将門(まさかど)街道の一里塚だったようだ。

 西に下る幅広い道路を進み、T字路を北に上がると
一言主(ひとことぬし)神社。

 鳥居の横のソメイヨシノが満開である。

 大同4年(809)に、大和(奈良県)葛城山の一言主神
を祭ったという古社。

 本殿は、長禄3年(1459)に平将門の子孫、守谷
城主相馬弾正胤広の意による再建、拝殿は慶応3年
(1867)の竣工といい、いずれもみごとな造りである。

 広い境内はカシやケヤキ、杉などの古木に囲まれ、
数本のソメイヨシノが彩りを添えていた。

 拝殿前では、花見客が目当てか、植木と花の出店も
出ていた。

 向山集落から西に進み、「あすなろの里」と呼ぶ遊園
地の北を回って、菅生沼を横断する橋のところに出た。

 小さい島を挟んで、あすなろ橋とふれあい橋で対岸
を結んでいる。ふれ合い橋の中間まで行き、沼と湿地
を確認し、今日の予定コースに向かうことにする。


                        (続く) 
 
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カントリーウオーク東鷲宮(埼玉)

2008-04-20 23:41:18 | カントリーウオーク
 2008年4月6日(日)

 埼玉県内を中心にカントリーウオークをしているグループ
の、第152回例会レポートです。

========================


 
 =中川右岸の田園地帯を東へ= 

 快晴で暖かくなるという予報のこの日、JR宇都宮線東鷲
宮駅を10時に出発する。

 駅を出て東へ、桜田3丁目の集合住宅地にある沼井公園
の木々は、芽吹きはじめていた。


 ソメイヨシノの咲く桜田小の東側を回り、境内に樹木の乏
しい妙性寺に寄る。

 田園地帯を進んで東北新幹線の下を東に抜け、八甫新
田の稲荷神社を経て宝性院(ほうしよういん)に入った。

 天和元年(1681)の開山で、新四国埼東八十八か所第
七番札所。境内の小さいお堂に、きれいに着飾った2体の
親子地蔵尊が並んでいた。


 近くの千塚(ちづか)神社は、香取、鹿島、八幡、天神、浅
間神社の合社。社殿の右手にまだ枯れ枝のイチョウが大き
く枝を広げ、若木だが濃いピンクの桜が満開だった。


 東側の民家の庭に2本のソメイヨシノが咲き競い、前の畑
にはナノハナがたくさん咲いていた。


 さらに東へ、県道152号バイパス南側にある新四国埼東
八十八か所第8番札所、宝積院に回る。

 満開のソメイヨシノが3本だけの、開放的な境内。明和8年
(1771)銘の宝篋印塔が目についた。

 東側には、香取大明神と正八幡大神を祭る神社が並んで
いる。

 県道152号バイパスを越えて松石集落へ進み、中川に近
い残光寺に入る。

 本堂の手前に屋根も壁面も朱塗りのお堂があり、若木の
しだれ桜が見頃だった。

 松石集落と高須賀集落の間にある昼食地の高須賀公園に
12時9分に着いた。

 各グループとも間もなく揃い、東屋(あずまや)と周辺の芝
生で昼食をする。

 公園の中心には池があり、何羽かのバンが泳いでいた。
 
 =権現堂堤で花見をして幸手(さって)市街へ=

 ゆっくり休憩して記念撮影後、14時に出発する。


 高須賀集落の北側を進んで東武日光線と、花見の車で渋
滞する国道4号を越え、権現堂堤の西北端に入る。

 1㎞ほど続くソメイヨシノがちょうど見ごろの日曜とあり、どこ
もかしこも花見客で一杯だ。


 桜堤と中川の右岸堤防の間にある田んぼにも、満開のナノ
ハナ畑が広がっていて、ソメイヨシノとナノハナ両方の花見が
楽しめる。

 中川堤防やナノハナの間のあぜ道、桜堤などをゆっくり回っ
て花見を堪能し、桜堤の東南端に出た。

 この後は幸手の市街地にある寺社を巡ることとし、まず北
3丁目の熊野権現社に行く。

 紀州(和歌山県)の熊野権現社の分社で、権現堂村や権
現堂川の名の起こりでもある社。この付近は、江戸から大正
にかけ、権現堂河岸の船着場として栄えたとか。

 社殿内に、明治28年(1895)に奉納された権現堂堤修復
作業の絵馬が奉納されていた。

 国道4号を越えて正福寺へ。江戸時代、学問の研究や子弟
を養成する常法談林(じようほうだんりん)で、徳川家光の代に
は、ご朱印13石を賜っているという。

 境内に「義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)」がある
(上の写真)。天明3年(1783)の浅間山大噴火で関東
一円が大飢饉になった際、幸手の有志が難民の救済を
したことが関東郡代伊奈忠尊の知るところになり、顕彰
碑を建てさせたものだという。

 幸手小の南にある聖福院へ、同院経営の幼稚園側から
入る。大きな本堂とともに、日光街道に面した勅使門が目
についた。

 かつて将軍一行や例幣使(天皇が祭礼に送る使者)が来
たときしか、開くことの無かった門とか。

 この寺は、日光東照宮に参詣した歴代将軍や、東照宮例
祭に臨席した例幣使の休憩場所だったという。

 南側の雷電神社は、幸手で最も古い神社のひとつ。明治
以前は幸手宿の総鎮守で、水との関係が深いところから
農家の人々の信仰を集めたという。

 境内には高さ数mの、御嶽講信仰のミニ御嶽山がある。

 さらに南に進むと幸宮神社。創建から400年以上の古社
で、ここも幸手宿の総鎮守だったようだ。

 現在の本殿は、文久3年(1863)の再建。本殿の周囲に、
獅子、鳳凰、鷹、松、四季農耕などみごとな木彫が施され
ていた。


 広い境内には、幾つかの社殿があり、ケヤキやイチョウの
大木も何本かある。

 権現堂堤で一時散会したメンバーが揃い、ゴールの東武
日光線幸手駅に16時51分に着いた。

(天気 快晴、参加 22人、距離 10㎞、地図(1/2.5万)
 栗橋、久喜、歩行地 鷲宮町、幸手市)
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京都・伏見の社寺を巡る(下)

2008-04-19 22:44:12 | 京都を歩く
 2008年4月1日(月)(続き)



 京阪電車墨染駅の先で、水量豊富な琵琶湖疎水を渡る。

 すぐ先、商店街の一角を入ると、狭い境内が桜に彩られ
た墨染寺(ぼくせんじ)。墨染(すみぞめ)桜寺とも桜寺とも
いわれ、桜の名所である。

 関白藤原基経(836~91)の死を悼んで、平安の歌人
上野峯雄が、「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨
染めに咲け」と詠んだので、ここの桜は薄墨色の花をつける
ようになったという。

 ソメイヨシノの咲き競う一角に、3代目の墨染桜が花を開き
はじめ、門前には、週末の5~6日に開催される「墨染さくら
の市」の案内が張り出されていた。

 ひとつ手前の通りから、南側にある欣浄寺(ごんじようじ)に
も回る。曹洞宗の開祖、道元禅師がこの地で布教し、この寺
を建てたという。やはりソメイヨシノが見ごろである。


 この地は、もともとは深草少将の邸宅跡といわれ、ここから
山科の小野小町のもとへ百夜通った伝説の地。境内には、
深草少将と小野小町の塚や、「墨染井(すみぞめい)」と呼ば
れる井戸がある。


 墨染駅のそばのそば屋で昼食を住ませ、東側の通りを北
に少し進んで、藤森神社に行く。

 平安遷都以前に建立された古社で、「菖蒲の節句」発祥の
神社として知られ、菖蒲が勝負に通じることから「馬と勝運の
社」ともいわれている。

 本殿は、正徳2年(1712)に中御門天皇より賜った賢所
(かしこどころ)の建物といわれているとか。

 本殿背後の八幡宮と大将軍社は室町時代の永禄10年
(1438)の建立で、ともに国重文に指定されている。
 
 絵馬殿には、古い絵馬に混じり、ナリタブライアンやトウカ
イテイオーなどの絵が奉納されていた。

 本殿東には、二つと無いおいしい水という意味の「不二
の水」が湧出していて、名水をくむ人が次々に来ていた。


 さらに北へ、京都健康センターの北から名神高速道をくぐ
り、JR奈良線の東に回ると、深草北陵。後深草天皇、伏見
天皇、後伏見天皇など、12の天皇の墓地である。

 入口横に、宮内庁職員の詰め所があった。来訪者の少な
そうな場所で、ほとんどすることもなく?どんな気持ちで勤務
しているのだろうかと、余計な心配をしたくなる。

 深草北陵の東側には嘉寺が、道路を挟んでさらに東には
真宗院がある。

 嘉寺は、嘉4年(851)、文徳天皇が先帝である仁明
天皇の菩提をともらうために、陵の傍らに清涼殿の建物を移
して寺とし、年号から嘉寺としたという。

 室町時代の応仁、文明の乱で寺は焼失し、その後再興した
が、現在地は旧寺域とは違うよう。

 境内には、「深草聖天」と呼ばれる聖天尊が祭られており、
開運招福祈願の信仰があついという。

 北西に400mほどには、深草山宝塔寺がある。藤原基経
が899年に発願した極楽寺が起こりとか。本堂は慶長13年
(1608)の建立で、国重文である。


 永享11年(1439)以前の建立という多宝塔や、室町
時代中期建立の四脚門(総門)も国重文で、1万坪といわ
れる境内は広く、何れの建物も歴史を感じる重厚たる造り。

 多宝塔付近からは、西側の町並みが見晴らせる。

 西側の総門に向かって幅広い石敷きの参道が緩やかに下り、
両側には、数か寺の子院が並んでいた。

 少しだけ住宅地を北に進み、細道を上がって中国風の山門
をくぐり、石峰寺(せきほうじ)に入る。


 黄檗(おうばく)宗の寺で、宝永年間(1704~11)の創建
と伝えられ、現在の本堂は昭和60年(1985)の再建という。

 本堂背後の竹林に、石像釈迦如来像を中心にして、十大
弟子や五百羅漢などの石仏群がある。顔や体型などははっ
きりしないが、それだけに歴史を感じさせる、静かなたたずま
いを見せる。


 江戸時代の画家・伊藤若冲(じやくちゆう)が、当時の住職
密山とともに制作したものとのことで、境内には、伊藤若冲
の墓と筆塚も立っていた。


 さらに進んで、今日の最終予定地、伏見稲荷大社の境内
に入る。全国に3万社あるという稲荷神社の総本宮。

 奈良時代の和銅4年(711)に創建し、後にこの地に社殿
が造営されたという。

 朝廷からはたびたび勅使が使わされ、庶民からは五穀豊
穣、家業繁栄の神として深い信仰を集めたとか。現在は商
売繁盛の神として知られ、正月には初もうでの参詣者で賑
わうという。

 本殿より上の、千本鳥居の入口付近から入った。ほかの
稲荷神社とは違う、りっぱな鳥居が山上の奥社に向かって
連なっている。


 少し下ったところに、修理中の仮殿らしい小さめの社殿が
ある。


 応仁の乱で焼失した本殿は、明応8年(1499)に再建。
幾度かの修造を重ね、現在は国の重文に指定されている。


 豊臣秀吉が母の病気平癒祈願が成就して寄進したという
豪壮な楼門を出て、16時45分にJR奈良線稲荷駅に着く。

 17時過ぎの電車で京都駅に向かい、17時29分発ひかり
426号東京行きの東海道新幹線で帰途についた。

(天気 晴、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 京都南東部、
 歩行地 京都市伏見区、歩数 21700)

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国際ウオーキングトレイル実踏から帰る

2008-04-18 23:41:31 | 国際ウオーキングトレイル実踏
 4月15日(火)に出かけ、山梨県内の国際ウオーキン
グトレイル設定のための実踏に行き、本日18時過ぎ帰宅
しました。

 詳細は別途とし、実踏初日の4月16日の行程の中から、
ほんの一部をご紹介します。

 今回の参加メンバーは5人でした。初日のスタート地、
山梨県甲州市白州町のカサデモンテ白州付近にて。   


 甲州市横手にあった「本村の関のサクラ」。

 エドヒガンザクラの巨樹です。

 大武川にかかる駒城橋からの鳳凰三山。

 この日は空気が霞んでいて、はっきり山容を見ることが
出来ませんでした。


 武川町の高龍寺はいろいろな花に彩られていました。

 次の実相寺にはたくさんの観光客でしたが、この寺は
ひっそりとした隠れた花の寺です。

 同じ武川町山高の実相寺にある「山高神代ザクラ」。

 樹齢2000年を超すというエドヒガンザクラの古木。

 境内にはほかにソメイヨシノやスイセン、チューリップなどが
たくさん咲いていました。


 午後に回った韮崎市穴山から新府にかけては、桃畑が
広がり、花がちょうど見ごろでした。


 新府城跡から見下ろす桃畑の展望。


 眠気に襲われてきましたので、今日はこの辺で…。

 

 

 


 
 
 
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明日から国際ウオーキングトレイル実踏へ

2008-04-14 23:21:52 | Weblog
 「やまさん」こと山浦正昭さんが、日本海と太平洋を結ぶ
国際ウオーキングトレイルづくりのための実地踏査を、春と
秋に続けていますが、2008年春の踏査を4月16日(水)
から18日(金)まで山梨県内で実施します。

 その踏査に私も参加するため、あす4月15日(火)から
出かけます。

 可能なら宿からモブログで投稿しますが、宿は何れも
市街地から離れているので、携帯電話の通話圏外となる
恐れもあり、詳しくは帰宅後に報告することとします。

 予定は以下のとおり。



 4月15日(火) 14時JR中央線小淵沢駅集合
  小淵沢駅~大滝神社~三峰の丘~神田大イトザクラ~
  白州町竹宇 カサデモンテ白州泊(約10㎞)

 4月16日(水)
  白州町竹宇~山高神代サクラ~穴山駅~韮崎市岸穂坂
  町宮久保 海東ペンション泊(約24㎞)

 4月17日(木)
  穂坂町宮久保~双葉町菖蒲沢~敷島町上条~千代田
  湖~大正池 甲府YH泊(約17㎞)

 4月18日(金)
  大正池~要害温泉~愛宕山~武田神社~善光寺~
  石和温泉駅(約16㎞) 14時頃到着予定 

 4日間当ブログにアクセスできませんので、コメントやパソ
コンへのメールなどは、帰宅後に拝見させていただきます。
 
コメント (4)
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京都・伏見の社寺を巡る(上)

2008-04-13 23:44:11 | 京都を歩く
 2008年4月1日(火)



 京都の社寺巡りの最終日は、京都市の東南部、伏見周辺
を回ることにした。JR奈良線のJR藤森(ふじのもり)駅を9時
35分にスタートする。

 東に1㎞近く進み、携帯電話のアンテナ塔の先の斜面を上
がって、古御香宮(ふるごこう)とも呼ぶ御香宮社に行く。

 文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見築城にあたり、城内の
鬼門除けの神として伏見九郷にあった御香宮をこの地に遷宮
して、社領300石を寄進したという。

 秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、現在の本殿は
その後に建てられたものとか。

 秀吉がここに神社を祭ったのは、隣接する「桓武天皇陵
参考地」を保護する必要とも伝えられているようで、南側
にはそれと思われる林が残っていた。

 車道に戻り、さらに南東に進み、八科峠の交差点際を東
に入って仏国寺へ。

 延宝6年(1678)、中国福清の人で隠元(いんげん)禅師
の招きで来日した、高泉(こうせん)和尚が復興した寺。


 墓地にある高泉和尚銅碑は、正徳元年(1711)に鋳造の
青銅碑で、撰文は高泉和尚の教えを受けた近衛家(いえ
ひろ)によるものという。

 墓地には、江戸初期の代表的作庭家で伏見奉行でもあった
小堀遠州の墓もあるというが見つからず、韓国姓の新しい墓
がたくさん並んでいたのが目についた。

 八科峠に戻ると、民家の傍らに道しるべの標石と、逢坂山
車石という石碑が並んでいた。


 峠の交差点を西に入る。すぐ先の左側一体は伏見北堀公園。
伏見城の北堀跡を自然公園に整備したものらしい。

 堀跡には小さい流れがあり、両側は桜やハクモクレンなど
が咲き競い、散歩やウオーキングの人たちが次々にやって
来た。

  堀跡を隔てた南側にあった高台に上がったら、思いがけ
ず大きな城が見える。
 
 地図で確かめたら何と伏見桃山城。野球のグランドの先に
回って城のそばへ行く。

 周辺のソメイヨシノが見ごろ。城は大きいのと小さいのが
並んでいる。しかし石垣は自然石の感じがせず、砕石して
形を整えたようで最近のものらしい。

 帰宅後調べたら、1964年に伏見城の花畑跡にできた遊園
地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉として建設されたが、
経営母体の近鉄のリストラで閉園、京都市が無償譲渡を受け、
一体を伏見桃山城運動公園として、最近整備したようだ。

 五重六階の大天守と三重四層の小天守、楼門などは史実
には直接関係ないと知り、ちょっと拍子抜け。公園内に、城
の説明が何もなかったことも納得した。

 雲行きが怪しくなりちょっと冷えてきたが、城を一周して
伏見北堀公園の西端に回り、北側の車道に出た。


 藤森小や森林総合研究所の北側を下り、JR奈良線の西を回
って海宝寺に入る。

 海宝寺とその周辺一帯は、仙台藩伊達政宗の伏見上屋敷が
あったところとか。正宗は文禄4年(1595)、豊臣秀吉からこの
屋敷地を与えられ、一時は千人以上も住んでいたという。


 本堂横に正宗手植えという桃山時代の名木、モッコクがある。
手前は枯れたのか布で覆っているが、奥は枝を大きく伸ばし
ていた。

 境内の庭園もよく整えられている。

 国道が90度カーブしている近くには、栄春寺があった。
永禄11年(1568)、京・伏見で最初の曹洞宗寺院として
開創したという。

 現本堂は天保10年(1839)の改築で、本尊は徳川家康
の家臣・酒井重勝が寄進したものという。

 この庭園も、よく手入れされていた。
 

 京阪電鉄墨染駅の横を通過し、水量豊富な琵琶湖疎水を
渡って桜の名所、墨染寺に向かう。

       
                                 (続く)

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関東百駅巡礼歩行 見沼代親水公園駅

2008-04-12 23:19:51 | 関東百駅巡礼歩行
 2008年4月12日(土)



 やまさんの「関東百駅巡礼歩行」の第44回目は東京都
内の駅。

 今回は3月30日に開通したばかりの東京都交通局の
「日暮里・舎人(とねり)ライナー」の終点、見沼代(みぬま
だい)親水公園駅である。

 集合したメンバー10人は、記念撮影をして10時5分に
駅を出た。

 日暮里・舎人ライナーは、JR日暮里駅そばから尾久橋
通りの上を高架で走るモノレール。ほぼ真っ直ぐに北へ
9.7㎞、日暮里駅のほか12の駅があり、見沼代親水公
園駅までは約20分(320円)である。

 この駅自体が東京の最北端の駅だが、駅付近も東京23
区の最北端に近い。北に300mほどの舎人4丁目に回っ
て、最北端の場所を確認する。

 このカーブミラー付近が最北端だと、近くの民家の奥さん
が教えてくれた。小さい流れを隔てた左側は埼玉県草加市
で、武田薬品の大きな建物がある。

 150mほど南を流れる毛長川。

 東側や西側は、この川が都県境なのだが、最北端付近の
600mほどが一つ北の細い流れが都県境になっている。
むかしは、毛長川の流れがこのあたりで蛇行していたもの
と思われる。
 
 駅のそばに戻り、東南に向かう小さい流れに沿って緑陰
の続く、見沼代親水公園に入った。


 公園沿いにあった諏訪神社、覆い屋に保護された本殿
の、周囲を飾る木彫がすばらしい。


 少し先の「すいしゃ池」では、小さい水車が回っていた。


 すいしゃ池で見沼代親水公園を離れ、近くの西門寺へ。
朱塗りの山門の正面に本堂があり、そばのシダレザクラが
見ごろだった。


 本堂前の小さい石の水たまりに、メダカがたくさん泳いで
いた。

 普通のメダカより赤っぽい、ちょっと変わったメダカだ。

 門前を南に進んで車道に出る。

 「赤山道」と呼ばれ、江戸時代の関東郡代伊奈氏の赤山
陣屋(埼玉県川口市)と日光道中の増田橋を結んだ古道だ
ったようで、当時の舎人宿はこの北側になることを記す石碑
が立っていた。


 その通りを越えて南側の古千谷本町2丁目に入り、全学寺
を経て、すぐ東側の常光寺に行く。

 享禄3年(1530)の創建で、開基は古千谷開拓者の一人、
花井肥前守正義といわれているという。
 
 墓地には、珍しい唐破風付の墓が並んでいる。

 開基した花井肥前守正義など、花井家のものらしい。

 ご住職夫人が居られ、3~40年前のこの周辺のことなど
をお聞きした。

 南に400mほどで、足立区最大の公園、23区内でも有
数の広さを持つ舎人公園に正午頃入り、豊富なクローバー
の上で昼食にした。


 昼食後は、3月初めに香港から北京までの約3000㎞を
野宿しながら歩く計画で出かけたが、シンセン郊外の無人の
原っぱで寝ていた深夜に、着衣とシュラフ代わりのシート以
外の身ぐるみ全部を盗難に遭い、やむなく帰国したてんまつ
を、Dさんから聞く。

 外国旅行での注意点の幾つかを知る、貴重な話だった。

 ここで解散となり、Dさんを囲んでもう1度記念撮影をして
散会した。


 公園の中心にある池のそばまで行ったが、今日はイベントが
あるようで園内は大勢の人出で賑わっている。

 いかに広い公園といえども、こんな混雑する人出ではその
先まで回る気にならず、入ってきた北東に戻り、公園を出た。

 その後は、用意してきた地図で見つけた、10数か寺が集ま
った「寺町」ともいうべき伊興4丁目に回って寺を一巡し、東武
伊勢崎線竹の塚駅に15時30分に着いた。

 寺町周辺の様子は、別途紹介することとしたい。


  

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京都御所とその周辺を巡る(下)

2008-04-10 23:16:24 | 京都を歩く
 20008年3月31日(月)続き

 イョウ並木のある寺町通を南に進む。二条通との交差点に、
井原西鶴の「通い路(かよいじ)は 二條寺町 夕詠(ゆうながめ)」
の句碑があった。

 この句は、延宝5年(1677)の「西鶴俳諧大句数」に納められて
おり、当時、このあたりの風情ある町並みの夕景色にみとれつつ、
四条河原の涼み床へ駆け抜けていった粋人たちをうたったものだと
いう。

 鴨川の二條大橋を渡る。2つ下流の三条大橋は、毎年の中山道
ウオークのスタートかゴール地点なので何度か渡ったが、この橋は
初めて。左岸のソメイヨシノはまだ少し早めだった。


 橋より2本東の通りに回って、頂妙寺へ。何か所か点々とし、延宝
元年(1673)にこの地に移ったという。 

 楼門には持国天と多聞天像を安置し、その前に仁王門の拝殿
と呼ばれる祓(はらい)堂があり、門前の通りを「仁王通り」と呼ぶ
のは、この仁王門が起源のようだ。

 再び二條大橋を渡って鴨川の西に戻る。加茂川左岸下流では、
しだれ柳が芽吹き始めていた。


 橋の近くに、2階建て洋館の島津創業記念資料館があった。明治
8年(1875)、島津製作所がこの地で理化学機械製造業を興し、
2代目島津源蔵は蓄電池製造法を発明するなど、わが国科学技術
の発展に尽くした場所。

 資料館として公開されている建物は、国の登録有形文化財に
指定されている。

 すぐ南側は「高瀬川一之船入」と呼ばれ、いったん暗渠(あん
きよ)になった流れが再び姿を現したところ。

 高瀬川は、大量輸送を目的に伏見・二条間をつなぐ水運として
慶長16年(1611)につくられ、京都と大阪を直接水路で結ばれ
ることになり、近世京都の経済発展を支えるもとになった。

 全長約11.1㎞、川幅平均約8mあり、高瀬舟の荷物のあげお
ろしをする船溜まりを船入といい、水路に沿って九か所の船入り
が設置されたという。


 高瀬川一之船入の周辺には、京の昔をしのばせる趣ある家並み
が並んでいた。


 南側の広い通り、御池通に出て、京都市役所横まで進む。市役
所と通を隔てた南側は本能寺である。

 天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に襲撃され、自刃し
たことで知られるが、そのおり30余りの大伽藍は焼失した。

 その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年{1589}に現在
地に移転、現在の本堂は昭和3年(1928)の再建とのこと。

 境内には信長公廟(びよう)があり、武将の魂とされる信長所持
の太刀が納められているという。


 境内にはほかに、本能寺変の戦没者合祀墓、9代将軍家重夫人
の供養塔、後伏見天皇7世皇孫・日承聖人墓などがあった。

 南側の三条通から、いつも修学旅行生や観光客などでなどで賑
わう新京極のアーケードに入る。 

 幾つもの京土産店などをのぞきながら南に進む。

 通りの一角に、平安の女流歌人の代表とされ、才色兼備で知
られる和泉式部の墓所という宝篋印塔(ほうきよういんとう)があ
った。

 謡曲「誓願寺」の舞台にもなっている石塔で、高さ約4m、幅約
2.4mあり、正和2年(1313)に改修建立されたもの。


 そばの誠心院の初代住職が和泉式部だったとか。関白藤原道
長が、娘の上東門院に仕えていた和泉式部のために一庵を与え
たのが、この寺の起こりだという。

 境内は狭いが、和泉式部歌碑や、珍しい二十五菩薩の石像(下)
などがある。

 二十五菩薩は、豊臣秀吉の頃、宇治田原の城主、山口甚助に
より誠心院に寄進、建立されたとか。10体が焼失しているが、
石仏の二十五菩薩は珍しいという。

 京都の繁華街、四条通の1本北になる錦小路通に入る。

 京野菜や漬け物、煮物など、京の台所に欠かせぬ品物の並ぶ
狭い通りを抜け、17時半近く、四条烏丸の宿に戻った。

(天気 晴時々曇にわか雨、距離 11㎞、地図(1/2.5万) 集成図
 京都、歩行地 京都市上京区、中京区、左京区、歩数 23600) 
コメント (2)
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LLウオーク続茨城②へ

2008-04-09 23:11:02 | ウオーキング
 2008年4月9日(水)

 昨日の激しい雨天が去り、雲が多めながらウオーキング日和
となった今日は、茨城県へ出かけました。

 場所は、4月6日(日)の「やまさん」の「LLウオーク続茨城」
の2日目が、カントリーウオークグループの例会とかち合い、
参加出来なかった区間です。

 3月上旬に行われたLLウオーク茨城の全コースを一緒に参
加した、Tさんと歩いてきました。

 コースは、4月5日(土)のゴール地、つくばエクスプレスの
守谷駅から小貝川に出て、途中、樺太の探検をして樺太が
大陸と陸続きでなく島であることを発見した、間宮林蔵の生家
にある間宮林蔵博物館を訪ね、少し北上して牛久沼に回り、
JR常磐線佐貫駅まででした。

 レポートは別途報告することとし、昨日の雨で川幅一杯に
満々と流れる小貝川の様子と、間宮林蔵生家の写真のみと
いたします。

 守谷市市乃代と つくばみらい市狸渕を結ぶ稲豊橋からの
小貝川の流れ


 間宮林蔵生家

 すぐ南側が小貝川です

 間宮林蔵生家の下流、つくばみらい市中平柳付近からの
小貝川
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京都御所とその周辺を巡る(中)

2008-04-08 22:22:50 | 京都を歩く
 2008年3月31日(月)続き

 京都御所を囲む築地塀の外に出て、御所の周囲を囲む
京都御苑を回ることにする。


 北に進んで御苑の西北端付近に行くと、しだれ桜を中心に、
桃や桜などが咲き競っていた。
 
 このあたりは、江戸時代末までの五摂家のひとつで、多くの
人が摂政や関白になった近衛邸跡。

 今も残る池の西側に大きな屋敷があったという。池のほと
りにある何本ものイトザクラ(シダレザクラ)が見ごろだった。

 さらに東に進むと、塀に囲まれた一角は中山邸跡。幕末期
の公家、中山忠能(だだやす)の敷地で、その娘慶子は明治
天皇の生母。敷地内にうぶ屋が残っているという。

 御苑の東に出て、御苑に沿って南に少し進むと、浄土宗
大本山の清浄華院(せいじようけいん)。

 貞観2年(860)、清和天皇の勅願により、慈覚大師が御所
内に造営したのが始まり。この地には天正18年(1590)に
移転したとのこと。

 本堂には、法然上人像や、清和・村上天皇尊像と歴代天皇
の尊牌を安置し、墓地には皇室ゆかりの墓など歴史上著名な
人物の墓があるという。

 すぐ南にあるのが廬山寺(ろざんじ)。現在の本堂は1788年
の天明の大火による炎上以後のものとか。

 境内は紫式部の邸宅跡で、源氏物語執筆地と伝えられ、本堂前
の「源氏の庭」には、「紫式部邸宅址(あと)」の石碑や、歌碑が立っ
ていた。
 
 堂内に上がり、仏像や源氏物語などの古文書、絵画などを拝観
する。松と白砂を中心の落ち着いた庭園も見て、堂内を一巡した。


 塀に沿って北に回ると、慶光天皇廬山寺陵があり、慶光天皇
のほか、内親王や、東山天皇と光格天皇の皇子、皇女など15
人の皇族の墓もあった。


 廬山寺の南側には、幕末の右大臣・三条実萬(さねつむ)と
内大臣三条実美(さねとみ)を祭神とする梨木(なしのき)神社
がある。


 境内には、京都三名水のうち現存する唯一の「染井の井」
があり、数人が、たくさんのポリタンクにくんでいた。

 飲んでみたら、まろやかな味わいだった。

 仙洞御所の南側から、再び京都御苑に入る。御苑の南側
中央部は、近衛家から分かれた五摂家のひとつ、鷹司邸跡
で、広葉樹の大木が豊富な枝を広げていた。


 少し先、御苑の南端は、やはり五摂家のひとつだった九条
邸跡。広大だったという屋敷跡に残る池のほとりに、九条邸
の鎮守だった厳島神社と、茶室・拾翠亭(しゅうすいてい)
のみが残っている。

 厳島神社の石鳥居は破風形鳥居と呼ばれ、当初は平清盛
が兵庫・築島の厳島神社に建てたもので、国重文である。


 池の中央、中の島に渡る橋のそばに、アオサギが羽を
休めていた。


 九条亭の北側にあるのが宗像(むなかた)神社。福岡の宗像
に建てられたことが古事記や日本書紀に記されており、平安京
創立の翌年である延暦14年(795)、桓武天皇の命により、
皇居鎮護の神としてここにも祭られたという。


 京都御苑の南西の角には、閑院宮邸跡が残っている。江戸
時代には200もの宮家や公家の邸宅が並んでいた京都御苑
でただひとつ、当時の建物や庭園の面影を今に伝える場所で
ある。

 歴史的価値が高いことから改修と整備をして、2005年か
ら公開されたが、この日は休館日で門内には入れなかった。

 京都御苑の南西端、烏丸丸太町交差点際で昼食をして、
ひとつ南の竹屋町通りを東進する。

 御苑の東側を南北に走る寺町通りに出て、下御霊(しも
ごりょう)神社に行く。

 不運のうちに亡くなった桓武天皇の皇子、伊予親王とその
母藤原吉子の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建
された。

 当初は、上京区にあったが、天正18年(1590)に豊臣
秀吉の都市整備でこの地に移転したという。

 ここにも、200年前に掘られたが枯れた名水を掘り下げて
1992年に復活したという名水の井戸があり、やはりくみに
来ている人たちがいた。

 上御霊神社の南側は、西国三十三ヶ所観音霊場第19番
札所、革堂(こうどう)と呼ばれる行願寺(ぎょうがんじ)。


 寛弘元年(1004)に行円(ぎょうえん)上人により創建、宝永
5年(1708)の大火後、この地に移されたという。

 現在の建物は、文化12年(1818)に建てられたもの。境内
には、都七福神のひとつになっている寿老人神堂や、愛染堂、
百体地蔵尊堂、加茂大明神塔などがある。       (続く)
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