2012年2月11日(土・祝)
スタート以来19年となった、カントリーウオークグループの第190回例会に参加し
た。集合は東武野田線の八木崎(やぎさき)駅。参加者21人は4組に分かれ10時10
分にスタートする。
北口を出て、Kさんの母校、春日部高校の門前を通過する。校舎には、全国大会出場を
祝した運動部など、たくさんの部の表示が並んでいた。
近くにある八幡神社の広い境内へ。元弘年間(1331~4)、この地の武将、春日部
氏により鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請(かんじよう)したものとか。新編武藏風土記稿にも粕
壁宿の鎮守とされているという
。
ご神木の大イチョウが天に高く枝を伸ばす。お七夜詣でのご家族が2組、参拝に来てい
た。社殿前には、願いを記した絵馬がたくさん奉納されている。
豊かな鎮守の森の東側、稲荷神社のそばに「浅間山」と呼ぶ樹木に覆われた高さ8m、
周囲200mに及ぶ富士塚がある。
登ってってみたら東の展望が開け、筑波山が望まれる。
山頂には「不弐大神」と刻まれた石碑が立つ。眺めていたら、足下からズドンと突き上
げられ、すぐにかなりの揺れで地震と分かりビックリ。
北に下って浜川戸一丁目の住宅地を抜け、国道16号を横切り内牧工業団地へ。明治の
工場などが立ち並ぶ広い道路も、休日で車はほとんど通らず安心して歩ける。
工業団地の西に抜け、流れを暗渠(あんきよ)にした古隅田川緑道に出て北西に向かう。
すぐ先の満蔵寺に、背後の墓地から入ろうとしたが、柵があり入れない。少し先に雑草
地に下る踏み段があったので、降りて乾いた雑草地を横切り、西側を回って満蔵寺に入る。
本堂前に、「満蔵寺のお葉付イチョウ」と呼ぶ県の天然記念物の大イチョウが立つ。高
さ27m、根回り10.4mあり、枝が水平に出ること、枝端に葉の群生すること、葉の
くぼみに実を付けるなどの特徴があるという。
門前の南東には、約千年前に京都東白川に住んでいたという、梅若丸にちなむ謡曲「隅
田川」伝説ゆかりの「梅若塚」があり、その由来が記されていた。
大きなケヤキなどの屋敷林に囲まれた農家や、生産野菜を露地販売する農家の前などを
通過する。宮川小の北東の隅に、「はちまんさま」と描かれた小さい社が祭られていた。
学校の南には開放的な境内の香取神社があり、大きなケヤキが枯れ枝を高く伸ばす。
豊春中の北側から西に回り、古隅田川緑道に沿って北に少し回り込むと、「やじま橋」
と呼ぶ石橋が堤防沿いに置かれている。
元文2年(1737)に、春日部市南中曽根とさいたま市岩槻区小溝の間を流れる古隅
田川に架けられたものを、1984年3月の河川改修工事の際にここに移設したとのこと。
埼玉県内で最も古い石橋の一つとされているという。
古墨田堤防に沿って並ぶ新興住宅地の西に回り、桜並木の続く左岸堤防沿いを北に向か
う。堤防がいったん途切れるあたりで堤を離れて田園地帯へ。
暗渠にコンクリートのふたを被せた歩道から、北側の小さい流れに沿ったあぜ道に入り、
岩槻北陵高の南で車道に出て、すぐ先の坂東三十三観音霊場第十二番札所の慈恩寺に入る。
大本堂の前に、天正17年(1589)銘の珍しい南蛮鉄製の灯籠が立つ。境内のロウ
バイが花を見せ、南側には2本の大藤を支える藤棚がある。
西側山門のそばに、かやぶき屋根のこじんまりした民家が残っていた。
岩槻北陵高の前まで戻り、先ほどの流れの延長上から田んぼのあぜ道を横切り、西遊記
で知られる玄奘三蔵(げんじようさんぞう)法師の霊骨塔である十三重塔の立つ園地に入
った。離れてはいるが、ここも慈恩寺のもの。
長く不明だった玄奘三蔵の霊骨が昭和17年(1942)に中国南京で発掘され、日本
に分骨贈与されたものを、この地に昭和25年に塔を建立して奉安したという。
今日の昼食は、この十三重塔を傍らで管理されているHさんが、自作の大きなかまどで
焼いて下さるというピッツァである。
これも原さん手作りという「倭杖林」の看板の掛かった古民家風の建物に入り、太い丸
太が赤々と燃える大きないろりを囲み、1枚ずつ焼き上がってくるおいしいピッツァを、
4枚に切り分け順次いただく。各々が途中で買ってきたアルコールも口にして、賑やかに
語り合いながらゆっくりと過ごす。
食べる合間に外に出て、Hさんがかまどで焼く様子を拝見したり、数々の趣向を凝らし
て建物の造り。やはりHさんがつくられたという、たくさんの教典を背負った玄奘三蔵像
や「元亀」と呼ぶ大きな亀の像、ともちゃん地蔵、今日の担当Aさんの協力で造ったとい
うホタルの飼育池などを見て回る。
3時間前後過ごした後、玄奘三蔵の霊骨が十三重塔に奉安されたいきさつを、Hさんか
ら詳しく説明していただく。塔の前でHさんご夫妻と一緒に記念撮影をして厚く御礼申し
上げ、16時近くに出発した。
開智中と東岩槻小との間の通りを進み、台地に残る樹林の傍らに立つ「花積貝塚」碑の
ところに回る。花積貝塚は、縄文前期から中期にわたる長期に先人が生活したところとか。
昭和43年(1968)の調査で、住居跡や多数の貝殻のほか、ほ乳類の骨なども発見
されたという。
整然と並ぶ住宅地の真ん中にあるSさんのお宅の前を通過して、ゴールの東岩槻駅には、
16時35分に着いた。
(天気 快晴後晴、参加 21人、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、歩行地
春日部市、さいたま市岩槻区、歩数 13,300)
にほんブログ村
スタート以来19年となった、カントリーウオークグループの第190回例会に参加し
た。集合は東武野田線の八木崎(やぎさき)駅。参加者21人は4組に分かれ10時10
分にスタートする。
北口を出て、Kさんの母校、春日部高校の門前を通過する。校舎には、全国大会出場を
祝した運動部など、たくさんの部の表示が並んでいた。
近くにある八幡神社の広い境内へ。元弘年間(1331~4)、この地の武将、春日部
氏により鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請(かんじよう)したものとか。新編武藏風土記稿にも粕
壁宿の鎮守とされているという
。
ご神木の大イチョウが天に高く枝を伸ばす。お七夜詣でのご家族が2組、参拝に来てい
た。社殿前には、願いを記した絵馬がたくさん奉納されている。
豊かな鎮守の森の東側、稲荷神社のそばに「浅間山」と呼ぶ樹木に覆われた高さ8m、
周囲200mに及ぶ富士塚がある。
登ってってみたら東の展望が開け、筑波山が望まれる。
山頂には「不弐大神」と刻まれた石碑が立つ。眺めていたら、足下からズドンと突き上
げられ、すぐにかなりの揺れで地震と分かりビックリ。
北に下って浜川戸一丁目の住宅地を抜け、国道16号を横切り内牧工業団地へ。明治の
工場などが立ち並ぶ広い道路も、休日で車はほとんど通らず安心して歩ける。
工業団地の西に抜け、流れを暗渠(あんきよ)にした古隅田川緑道に出て北西に向かう。
すぐ先の満蔵寺に、背後の墓地から入ろうとしたが、柵があり入れない。少し先に雑草
地に下る踏み段があったので、降りて乾いた雑草地を横切り、西側を回って満蔵寺に入る。
本堂前に、「満蔵寺のお葉付イチョウ」と呼ぶ県の天然記念物の大イチョウが立つ。高
さ27m、根回り10.4mあり、枝が水平に出ること、枝端に葉の群生すること、葉の
くぼみに実を付けるなどの特徴があるという。
門前の南東には、約千年前に京都東白川に住んでいたという、梅若丸にちなむ謡曲「隅
田川」伝説ゆかりの「梅若塚」があり、その由来が記されていた。
大きなケヤキなどの屋敷林に囲まれた農家や、生産野菜を露地販売する農家の前などを
通過する。宮川小の北東の隅に、「はちまんさま」と描かれた小さい社が祭られていた。
学校の南には開放的な境内の香取神社があり、大きなケヤキが枯れ枝を高く伸ばす。
豊春中の北側から西に回り、古隅田川緑道に沿って北に少し回り込むと、「やじま橋」
と呼ぶ石橋が堤防沿いに置かれている。
元文2年(1737)に、春日部市南中曽根とさいたま市岩槻区小溝の間を流れる古隅
田川に架けられたものを、1984年3月の河川改修工事の際にここに移設したとのこと。
埼玉県内で最も古い石橋の一つとされているという。
古墨田堤防に沿って並ぶ新興住宅地の西に回り、桜並木の続く左岸堤防沿いを北に向か
う。堤防がいったん途切れるあたりで堤を離れて田園地帯へ。
暗渠にコンクリートのふたを被せた歩道から、北側の小さい流れに沿ったあぜ道に入り、
岩槻北陵高の南で車道に出て、すぐ先の坂東三十三観音霊場第十二番札所の慈恩寺に入る。
大本堂の前に、天正17年(1589)銘の珍しい南蛮鉄製の灯籠が立つ。境内のロウ
バイが花を見せ、南側には2本の大藤を支える藤棚がある。
西側山門のそばに、かやぶき屋根のこじんまりした民家が残っていた。
岩槻北陵高の前まで戻り、先ほどの流れの延長上から田んぼのあぜ道を横切り、西遊記
で知られる玄奘三蔵(げんじようさんぞう)法師の霊骨塔である十三重塔の立つ園地に入
った。離れてはいるが、ここも慈恩寺のもの。
長く不明だった玄奘三蔵の霊骨が昭和17年(1942)に中国南京で発掘され、日本
に分骨贈与されたものを、この地に昭和25年に塔を建立して奉安したという。
今日の昼食は、この十三重塔を傍らで管理されているHさんが、自作の大きなかまどで
焼いて下さるというピッツァである。
これも原さん手作りという「倭杖林」の看板の掛かった古民家風の建物に入り、太い丸
太が赤々と燃える大きないろりを囲み、1枚ずつ焼き上がってくるおいしいピッツァを、
4枚に切り分け順次いただく。各々が途中で買ってきたアルコールも口にして、賑やかに
語り合いながらゆっくりと過ごす。
食べる合間に外に出て、Hさんがかまどで焼く様子を拝見したり、数々の趣向を凝らし
て建物の造り。やはりHさんがつくられたという、たくさんの教典を背負った玄奘三蔵像
や「元亀」と呼ぶ大きな亀の像、ともちゃん地蔵、今日の担当Aさんの協力で造ったとい
うホタルの飼育池などを見て回る。
3時間前後過ごした後、玄奘三蔵の霊骨が十三重塔に奉安されたいきさつを、Hさんか
ら詳しく説明していただく。塔の前でHさんご夫妻と一緒に記念撮影をして厚く御礼申し
上げ、16時近くに出発した。
開智中と東岩槻小との間の通りを進み、台地に残る樹林の傍らに立つ「花積貝塚」碑の
ところに回る。花積貝塚は、縄文前期から中期にわたる長期に先人が生活したところとか。
昭和43年(1968)の調査で、住居跡や多数の貝殻のほか、ほ乳類の骨なども発見
されたという。
整然と並ぶ住宅地の真ん中にあるSさんのお宅の前を通過して、ゴールの東岩槻駅には、
16時35分に着いた。
(天気 快晴後晴、参加 21人、距離 9㎞、地図(1/2.5万) 岩槻、歩行地
春日部市、さいたま市岩槻区、歩数 13,300)
にほんブログ村
春日部岩槻間の「鎌倉古道」を歩かれたのですね。
特別難しいコメントを入れず、楽しそうに「里山歩き」をされたことに貴会の品位を感じます。なかなか楽しそうなことをしているようです。一度参加したい気がします。
私たちのカントリーウオークは、決められたコースを歩くのではなく、
地形図を見て車の通らないか少なそうな道を選び、古くからの日本の原風景を残すような
ところを選んで歩いています。
この日も、「鎌倉古道」というのは知らずに歩きました。
例えば何年か前のJWAの都内の平日ウオークとか、伊能ウオークなど、
何かのシリーズのウオーキングにに参加されたことはありませんでしょうか?
ご連絡遅くなりまして、ごめんなさ~い。
歩き始めて早20年。ついに、65歳になってしまいました~。JWAには約10年おりました。昔は、ダサいが、味のある「日本歩け協会」と言っておりました~。当時「春日部のアルケハイマー」と自称しておりました。ここでの「東海道五十三次」が、私の人生を「狂わせ」ました~。以来、「街道オヤジ」になってしまいました~。最近は、羽根倉道」等の「裏街道」を少人数で歩いております。今は、「東葛自遊人」と自称しておりま~す。皆さんとどこかでお会いするかも? その時が、楽しみで~す。